祈りの時間 (2024,1)
私が神想観の修行を始めたころ、といっても四十年も前のことだが、祈りは、懐かしい音楽を聴くのに似ていることに気がついた。
それは、「世界平和の祈り」をしているときだったが、ひび割れた地表に降り注ぐ春の雨のように、魂を静かに潤す調べを、私は朝に夕に聴き続けていたのだ。
その温かく柔かな光りに、ぽっかりと開いた魂の傷が包まれ、今にして思えば、それは観世音菩薩の慈悲に触れていたのである。
四無量心を行ずる神想観の中に「一切衆生の苦しみを除き、悩みを和らげ」という言葉がある。
ある講演での質疑応答で、この祈りの言葉について参加者から、「なぜ“苦しみは除き”なのに、悩みの方は消されずに“和らげ”なのでしょうか」と尋ねられたことがあった。これは、そのまま「神はなぜ、病や老いや死を、消し去り給わないのか」という問いにも聴こえてきた。
魂にトゲのように深く突き刺さったように見える病気や、自身では到底解決できないと思われる苦難に見舞われたとき、神想観という「祈りの時間」を経ることで、それが簡単に消されることなく、魂をどん底まで掘り下げる機会となっていのちを錬磨していたことが見渡せて来るのだ。
神想観を始めるまでの「時間」は、私たちとは無関係に経過していくように見える。でも、「時間」こそが、私たちの魂を包む仏の慈手であり、魂を伸びやかに生長させる神の懐であることが、「祈りの時間」を経ることで観えてくるのである。
出来損ないのやっかい者としか見えなかった私のような者たちすらも、「祈りの時間」は“業”のすべてを抱擁し、罪や苦しみを溶解して、彼が今生で果たすべき使命へと変容させる。
その「時間」の深い慈悲と融合するのが信仰であり、生長の家の神想観である。
『人類同胞大調和六章経』の「愛行により超次元に自己拡大する祈り」の冒頭には、「人間は宇宙遍満の普遍的大生命の“生みの子”である」と説かれている。宇宙大生命こそが、あなたの実相である。
祈りの不思議な働きによって、私たちの苦しみが除かれ、悩みが和らげられるのは、生きとし生けるものに注がれる神の愛や仏の四無量心の光りが、自身(の実相)から発していたことに気付くからである。
その厳かな事実に触れ、架せられた使命と、実相の大地に立つ安らかさとが、「愛行」となって全てのご縁を豊かに潤すのだ。
“新しい文明”が展開する令和の御代の愛行が「オープン食堂」や「PBS活動」である。これに参加して実践するだけで、五欲に支配された“自我中心の卵の殻”が破られ、宇宙大生命なる神(実相)を中心とした、神の子・人間の生き方へと転換していくのだ。
気付けば、苦しみがいつの間にか除かれ、病が癒やされ、悩みが和らげられていく。生長の家の修行は“与えれば却って殖える”ムスビの実践である。それが大乗の教えを現代に生きる、生長の家の“楽行道”である。
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