観世音菩薩からの警鐘 (2024,2)
生長の家では「観世音菩薩は、あらゆる姿とあらわれて私たちに救いの説法を宣示したまう」と教えていただいている。
それは特別な人だけが“説法”を聴けるのではなく、神想観を通して心の耳を澄ましてさえいれば、誰でもそれを聴くことができるのである。
世界にある真っ当な宗教の「教え」は、その“声なき声”を深く傾聴したところに生まれてきたのであり、そこに各宗教に受け継がれた「行」の実践があり、そこからすべてを生かす愛や智慧が湧出するのである。
元日に石川県で能登半島地震が発生し、翌二日には羽田空港で、日航機と海上保安庁の航空機が衝突して炎上するという大事故が起きた。
自然災害と人的災害と原因を異にしているが、何れも観世音菩薩の“声なき声”としてこれを傾聴することから、私たちが取り組まなければならない課題が見えてくるはずである。
能登半島地震の報道から私が教えられたことは、普段からの①水や食料の備蓄。②近隣の人たちとの心の絆。そして③災害時を想定してのシミュレーションの大切さである。
例えば、「水や食料の備蓄」は、内閣府のガイドラインでは3日分以上が基本とされている。その根拠は、人命救助のデッドラインが72時間(3日間)であることから、発災した当初の行政は救助・救命を最優先するため、自身や家族を守るためには最低でも3日分の食料を備蓄する必要があるのだ。
また、関東大震災級の大規模災害を想定した場合は、「一週間分」以上の備蓄が望ましいとされている。
能登でも、発災後の数日間は行政の支援が行き届かず、電気も水道も止まり困窮に耐えている人たちに、地元の一人の主婦が、ご自宅のガソリンにも事欠く中で「飲料水」を軽トラに積んで明るく配っている姿がニュースで報道されていた。
自然災害は“想定外”なことばかり山積すると思われるが、近隣の人との「心の絆」の大切さが浮き彫りになる光景だった。
神仏に導かれて生きる信仰者には、随所で一隅を照らすことが求められるだろう。大切なのは、どんなに悲惨と見える状況の渦中にあっても、そこに一縷(る)の光明を見出して新価値を湧出させる智慧と、艱難を光明へと転ずる逞(たくま)しい力である。
もし自身が、発災後に難を免れていたのであれば、周りやご縁ある人との絆を築いておけば、機に応じて縦横にお役に立てるのである。
神想観とは神との対話でもある。朝夕の祈りの時間にどんなことでも神に委(ゆだ)ねていれば、ヒラメキや、直感や、ふとした行為となって日々導かれるのだ。
それは自我(ego)中心の意識が、神の子・人間へと次第に目覚めて生長する過程でもある。
その“祈り”を通して経験する心の深い振幅が、やがて魂を豊かに円熟させ、被災時に限らず人生の随所で家族やご縁ある人々を導くのである。
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