« 2023年12月 | トップページ | 2024年3月 »

2024年2月24日 (土)

“絶対善”の世界 (2024,3)

 本欄をご覧になっている皆さんは、生長の家で「人間・神の子」の教えと出逢い、本当の人間は肉体などではなく、「神さまの完全円満ないのちである」との教えに触れて、無限智、無限愛、無限生命の実相に目覚めた方も多かろうと思う。

 これは聖典に採録されていた話だが、生長の家の教えに感銘したあるご婦人が、「自分だけこれを読んでいるのはもったいない」と、夫や家族に勧めてみたが、全く関心を寄せてくれない。

 そこで谷口雅春先生に、「どうしたら読んでもらえるでしょうか?」とお尋ねしたところ、先生は「ご自分の生活で、生長の家を読ませてあげたらいいですよ」という意味のご回答をされていた。

 どんなに「善い」と確信したことでも、その人が“善き果実”を生活に実らせていなければ相手にされないだろう。しかしその生活に、智慧・愛・生命の光りが輝いていれば、黙っていても、誰もが強い関心を寄せ始める。これに和顔、愛語、讃嘆が加われば鬼に金棒だ。

 生長の家の教えは、「日時計主義」の生き方、感謝の生活、そして日々の神想観と教えていただいている。

 これらの「行」の目的は“絶対善”の神のいのちを生きることである。その「行」から、実相の豊穣な世界が動き出し、あなたの神の子の使命に“真理の火”が灯され、出逢うすべての人に物に事に「神のいのち」が花咲き始めるのだ。

 かつて生長の家では、宗教的な運動の成果を表すための目安として、即物的な「数」に運動を換算して評価する時代が続いていた。しかし、宗教的な救いや、癒やし、慈悲や感謝、といった不可視の神の働きは「数」に置き換えようもなく、無量無数に生まれた新価値は“網の目”からこぼれ落ちていたかもしれない。

 これら評価の歪みを改善するために、「聖使命会員数、普及誌購読者数、組織会員数」を成果として強調する運動を廃止したことが、2月5日付の通達で伝えられた。

 これは、昨年スタートしたオープン食堂など「与えること」に宗教上の重要な意義を認め、より神意に叶った運動を展開するための改革である。

 が、改革の背後に密(ひ)そむ神意を深く凝視すれば、「廃止された」のは「数」を成果として強調する運動であって、「神のいのち」である“真理の火”を伝える運動は、この改革の中から、より鮮やかな姿で誌友・信徒の信仰生活に蘇るだろう。そして四無量心の「行」を実践する随所で、純粋な愛行が春を迎えた野山のように花咲き始めるのだ。

「地方の信者たち互いに団結して祈り合え」とは「懺悔の神示」に説かれた言葉である。祈り合いは、私たちの前に顕れた“神のいのち”に感謝し、拝み合い、慈悲喜捨を行ずることである。

 思えば、天地一切のものに神ならざるものはひとつも無いのであり、その「絶対善」の実相は、あなたが生きる随所で智慧となり、渾てを生かす愛となって“新価値”を創造するのである。

 

 

| | コメント (0)

2024年2月 1日 (木)

観世音菩薩からの警鐘 (2024,2)

 生長の家では「観世音菩薩は、あらゆる姿とあらわれて私たちに救いの説法を宣示したまう」と教えていただいている。

 それは特別な人だけが“説法”を聴けるのではなく、神想観を通して心の耳を澄ましてさえいれば、誰でもそれを聴くことができるのである。
 世界にある真っ当な宗教の「教え」は、その“声なき声”を深く傾聴したところに生まれてきたのであり、そこに各宗教に受け継がれた「行」の実践があり、そこからすべてを生かす愛や智慧が湧出するのである。

 元日に石川県で能登半島地震が発生し、翌二日には羽田空港で、日航機と海上保安庁の航空機が衝突して炎上するという大事故が起きた。

 自然災害と人的災害と原因を異にしているが、何れも観世音菩薩の“声なき声”としてこれを傾聴することから、私たちが取り組まなければならない課題が見えてくるはずである。

 能登半島地震の報道から私が教えられたことは、普段からの①水や食料の備蓄。②近隣の人たちとの心の絆。そして③災害時を想定してのシミュレーションの大切さである。

 例えば、「水や食料の備蓄」は、内閣府のガイドラインでは3日分以上が基本とされている。その根拠は、人命救助のデッドラインが72時間(3日間)であることから、発災した当初の行政は救助・救命を最優先するため、自身や家族を守るためには最低でも3日分の食料を備蓄する必要があるのだ。

 また、関東大震災級の大規模災害を想定した場合は、「一週間分」以上の備蓄が望ましいとされている。

 能登でも、発災後の数日間は行政の支援が行き届かず、電気も水道も止まり困窮に耐えている人たちに、地元の一人の主婦が、ご自宅のガソリンにも事欠く中で「飲料水」を軽トラに積んで明るく配っている姿がニュースで報道されていた。

 自然災害は“想定外”なことばかり山積すると思われるが、近隣の人との「心の絆」の大切さが浮き彫りになる光景だった。

 神仏に導かれて生きる信仰者には、随所で一隅を照らすことが求められるだろう。大切なのは、どんなに悲惨と見える状況の渦中にあっても、そこに一縷(る)の光明を見出して新価値を湧出させる智慧と、艱難を光明へと転ずる逞(たくま)しい力である。

 もし自身が、発災後に難を免れていたのであれば、周りやご縁ある人との絆を築いておけば、機に応じて縦横にお役に立てるのである。

 神想観とは神との対話でもある。朝夕の祈りの時間にどんなことでも神に委(ゆだ)ねていれば、ヒラメキや、直感や、ふとした行為となって日々導かれるのだ。

 それは自我(ego)中心の意識が、神の子・人間へと次第に目覚めて生長する過程でもある。

 その“祈り”を通して経験する心の深い振幅が、やがて魂を豊かに円熟させ、被災時に限らず人生の随所で家族やご縁ある人々を導くのである。

 

 

| | コメント (0)

« 2023年12月 | トップページ | 2024年3月 »