俳句と言葉の力 (2024,4)
3月のある日、行きつけの文具店に万年筆のインクを買いに行った折、街路に馥郁(ふくいく)とした香りが漂っていた。ほのかなにおいに導かれていくと、そこにはお香の老舗(しにせ)が出店した移動販売があった。
お香には侘(わ)び寂(さ)びの“抹香臭い”静的なイメージがあったが、街路での積極的な移動販売は新鮮な驚きで、しかも風が強い日にもかかわらず、香りに惹(ひ)かれたお客さんがひっきりなしに訪れ、店員さんがその応対に追われていたのだ。
聖書には、「人は灯火をともして升(ます)の下におかず灯台の上におく。かくて灯火は家にある凡ての物を照すなり」(マタイ5-15)とあるが、どんな老舗も旧弊(きゅうへい)を捨ててしまえば、街路でも風の日でも良いものは衆目に触れて、隠れていた真価が顕わになるのだ。生長の家オープン食堂も、回を重ねる度にその真価に火が灯り、多くの人々のたましいを明るく照らすだろう。
「神・自然・人間の大調和祈念祭」に参列するため、十年ぶりに原宿「いのちの樹林」に足を運んだ。私は御祭の後でPBSミニイベント「春のスケッチ」を開催する予定で、参加する皆さんにも画材の持参を呼びかけて講話の準備も整えていたのだが、当日の総裁先生のスピーチは、なんと「俳句の勧め」だった!
人生には、計画していた事とはまったく異なる道へと運命が展開し、そこに不思議な必然性が生ずることがしばしば訪れる。が、今回もそんな展開に見舞われた。
総裁先生は、「俳句は私たちの信仰と深く結びついている」ことに触れ、「朝顔や つるべとられて もらひ水」など数句を紹介されて、これらの句には神・自然・人間の一体性が見事に描かれており、皆さんに「観行の補助行として俳句を詠(よ)むことをお勧めする」と語っていた。
このスピーチを受けた私は、「第一回いのちの樹林、句会にようこそ!」と参加者に呼びかけると、原宿の会場はどっと湧いて句会の開催となった。
総裁先生は、日本列島には一万年以上も人々が生活してきた歴史があり、四季の変化が著しいその風土から生まれた俳句には、五千を越える季語があると紹介されていたが、「季語」には、どうやら深い言霊(ことだま)が満ちていて、それは詠むことで、時を超えて「今・ここ」に蘇るようである。
かつて学生時代「現代俳句講座」という授業を受講した折、哲学者で俳人の大峯顕(あきら)氏が「言葉は存在の家である」というハイデガーの言葉を紹介され、「花を詠めば花が出てくる。天狗を詠めば天狗が出てくる」と語っていたことが強く印象に残っている。どうもその道の人には、“言葉が世界を創る”ことは周知の事実なのである。
俳句や和歌などの言葉の結晶を通して古人と出逢い、たましいを磨き鍛錬することは、人生そのものを、如意自在に光りへと変容させる「言葉の創化力」を豊かに覚醒させるようである。季語などの言霊を駆使する俳句を“神想観の助行”とする所以(ゆえん)であろう。
啓蟄の水面(みなも)に満ちる息吹かな 繁(樹林にて)
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