神と共にありて (2024,5)
先般、たまたま家族が集まり、近くの河川敷まで花見に行くことができた。野に出て、咲く花を愛で、蓬(よもぎ)を摘んだ。そんな翌朝のこと、神想観しているとき、ふと「人生で今が最高のときなんだな」ということに気がついた。
それは、わが家のことだけではない。人と人とが出逢うこと、共に時を過ごすことの掛け替えのなさ、それが独りで迎える一日であったとしても、私たちがいつも神と共に在ることが分かれば、天地のすべてが家族であり、すべての出逢いが最高の時となる。
人が生きて生活させていただく“あたりまえ”のことのなかに神のいのちが豊かに充ち“奇蹟の時”が、泉のようにあふれ出ているのだ。
「足るを知る」という言葉がある。それは日常の“あたりまえ”と見えていたものが、決してあたりまえに存在していたのではなく、その背後に不思議な神縁と、不可視の世界からの恩寵に包まれていた真実に、心の眼がひらくことを言うのであり、日時計主義の生活がここから始まる。
幸福を外に求め、条件が満たされることのみに幸せを見いだしている間は永遠にそれに気付くことはできない。
無一物のまま、すでに一切が与えられている実相に眼を向けて、身近な人や物や出来事に感謝していれば、すべてのものが神に由来した物語りを語り始める。
イエスは「人はパンだけで生きるのではない。神の口から出るすべての言葉によって生きる」(マタイ四:四)と語っている。
コトバは、私たちのたましいの糧であり、人生を創造する力である。コトバほど味わい深いものはなく、それは祈りとなり、音楽となり、絵画や文学などの芸術となり、あらゆる宗教や事業や活動となって世を照らすのである。
アフガニスタンで命を落とした中村哲氏の遺文『希望の一滴 中村哲、アフガン最期の言葉』を読んだ。同氏のことは以前にも紹介させていただいたが、脳神経科の専門医だった中村医師が、専門外のハンセン病患者の救済のため一九九〇年代からアフガニスタンに妻子を連れて赴き、現地に溶け込んで幾つかの診療所を開設していた。
そんな渦中、米軍による空爆と、気候変動による渇水に見舞われ、疫病と飢餓に苦しむ同地の窮状を見かねて、現地の人々と共に1600本もの井戸を掘り、65万人のいのちを支える用水路を建設するなど、治水事業に携わった。同書にはそれら生きた記録が、所感としてまとめられている。
かつて、私たちの身近にあった「天与の恵みを疎(おろそ)かにせず、大地と共に生きる生活」が、ページを繰り、読み進むごとに眼前によみがえり、洋の東西を越えた太古の人々のコトバが、同氏の体験を通して読者のいのちにずしんと響いてくる。
宗教を越え、国境を越えた人と人との繋がりの中から、私たちに授けられた天与の使命について、いつしか、心の眼がひらかれる。そんな天啓の書でもある。
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