時節は今ここに (2024,9)
恩師の一人である藤原敏之先生のことを、折に触れて思い出すことがある。
私が静岡で生長の家青年会活動をしていた昭和五十年代、宇治別格本山で総務をされていた藤原先生は、日本教文社から『すべてを癒やす道』『あなたは必ず救われる』『魂のめぐり逢い』などのご著書を、次々と執筆して出版されていた。
多くの人が藤原先生のご本を通して、み教えの“奥深さ”に触れ、その信仰的な気風を慕い、親しかった先輩たちも「いざとなったら宇治へ」と、身近な信仰の拠り所にしていた。
私が宇治の門を叩いたのは、そんな昭和五十七年一月の一般練成会だった。前年に研修生の制度が改められ、本部から宇治に転勤していた榎本恵吾先生が指導に当たっていた。
道元禅師は「時節」という言葉を『正法眼蔵』で用いているが、生涯を変えるような人との出逢いや、人生の転機となる出来事が始まるときなど、この時節が運命の扉を叩き、潮が満ちるように、そこから新たな物語が人生の舞台に溢れてくる。そんな時節があればこそ、私たちは苦海とも見える人生の波濤(はとう)を渡っていけるのだろう。
藤原先生の場合は、大正末から昭和にかけてこの時節が訪れた。仏教の熱心な信仰者で、社会の底辺で貧民救済に当たっていた清水精一という方に師事したことが、ご著書『魂のめぐり逢い』に記されている。
かつて清水師は、大学で学んだ後に実業界に入ったが、利潤ばかり追求する経営陣と経営方針を巡って激しい対立を繰り返し、失望して仏門へ。
比叡山での厳しい修行を経て、さらに深く道を究めるため寺を出て、単身で深山幽谷に分け入り、水と松葉などを糧として修行に励んでいると、猿たちが柿や栗を運び、野生の狼が子犬のように戯れ、争いの絶えぬ人間社会では思いも及ばなかった、生かし合いの世界が、清水師の周りに現れたという。
藤原先生は、そんな師匠が主催する同朋園で奉仕活動に明け暮れていた折り、一人の女性と出逢う。
清水師から、結婚するなら家族を養うため園を出て職に就くことを勧められ、師の下を辞した藤原先生は、紆余曲折を経て広島で日本生命に奉職。市内での平穏な暮らしも束の間、三十六歳で戦争に招集され、そのお陰で、疎開した家族は原爆の惨禍から逃れることができた。
敗戦直後、先生は生長の家の光明思想と出合う。真っ暗だった世界観が一変し、神一元の教えを行じていると、病弱だった妻と娘から次々と難病が消えた。
地方講師を拝命し、勤めの傍ら、赴任する先々で生長の家を説き始めたという。
宇治練成で指導に当たっている榎本一子講師(長女)によると、藤原先生にとって生長の家との出会いは決定的だったようだ。
清水精一という、修行も悟りも社会奉仕も抜群だった師匠に見いだせなかった信仰、それは知識でも経験でも精進努力の量でもなく、「自性円満」の教えが放つ唯神実相の光だった。
その光は、自我を死に切ったとき、無条件の生かす力となって、すべての人の内に湧出するのである。
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