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2025年2月22日 (土)

“無償の愛”について (2025.3)

 毎月上旬、教化部長を囲んでの「実相研鑽ネットフォーラム」(対面とZOOM)を開催しているが、2月に交わされたテーマは“無償の愛”となった。今回はこれに触れてみたい。

 見返りを求めぬ愛のことを“無償の愛”というが、ある参加者から、「私はゴミ拾いなどの善行をする度に、その功徳を心の片隅で計算している自分を見いだしてしまう。善い動機でしたことでも、そんな心の裏側を透かして見ると〝無償〟とはほど遠いように思えて情けない」といった感想を伺った。

かつて梁(リョウ)の武帝が、自身が積んだ善行の功徳について達磨大師に尋ねると、達磨は間髪を入れず「無功徳!」と一喝したことが、谷口雅春先生のご著書に紹介されている。

 無功徳なのは、善行は意識して行われるものではなく、それは知らないうちに、私たちを通して神や仏によって為されるからである。しかし武帝の場合は、「善因善果」という自力作善の計らいの中に“仏法あり”と誤認して安住し、そこに止まっていたが故に達磨に一喝されたのであろう。

 一方“無償の愛”は、私たちが知らないうちに人や物や事の中にあらわれている。それは、与える(為す)側が無自覚のうちに神や仏によって発揮され、本人が思い出す必要すら感じないのが“無償の愛”の性質であり、これを生長の家では“絶対他力”とも呼んでいる。

 かつてイエスは「右の手のなすことを左の手に知らすな」(マタイ6:3)と戒めているが、自他共に知らずに行う善行の中に、無償の愛があらわれ、神の力が働き給うのだ。

『新約聖書』には、イエスと民衆との遣り取りが記述されているが、神の使いとして現れたイエスの話を聴きに参集した五千人余の空腹が、僅かな食料で満たされたエピソードをはじめ、足萎えが立ち上がり、盲目が癒やされたなどの奇蹟が記録されている。

 それは親鳥が抱卵してヒナを育てるように、イエスが何の見返りも求めず、計らいも駆け引きもなく無条件に相手の罪を赦し、神性(実相)を拝んだ結果であり、そこには「功徳」とか「善行」とか、人為的な計らいは皆無で、ただ真理(キリスト=愛)のコトバを契機に「神癒」が湧出している。

“無償の愛”は至る所に充ちている。それは天体の動きや月や太陽の恵みとなり、近くは人類をはじめ生物の呼吸や血液の環流、さらに植物や菌類の営みに至るまで、その働きは意識されることも記憶されることもなく、無言でこの世界を根底から生かしている。

 イエスは伝道に赴く弟子たちに、次の言葉を授けている。

「如何に何を言はんと思ひ煩ふな、言ふべき事は、その時さづけらるべし。これ言ふものは汝等にあらず、其の中にありて言ひたまふ汝らの父の霊なり」(マタイ10:19―20)。

 神の無償の愛は、絶対他力の“使い”となったものたちを通して、すべてを愛し給うのである。

 

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