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2025年5月14日 (水)

“よろこび”の種子(たね) (2025,5)

 かつて恩師から聴かせていただいた「よろこびは、小さければ小さいほど良い」という言葉を、折に触れて思い出すのである。その不思議な味わいは、歳を重ねるほどに深まるばかりだ。

 大きなよろこびは、誰の記憶にも鮮明に残り、形に残る場合も多いから分かりやすい。今の季節でいえば合格、入学、入社、結婚、出産など人生の節目となる出来事で、これは周りからも祝福される。

 一方で人生は、スタートしてからが本番である。傍(はた)からみれば、そのほとんどは散文的な日々にも見える。しかしみ教えが、「天地の万物(すべてのもの)に感謝せよ」と説いているのは、その冗長な日々にやってくる、すべての人や物や事との“出合い”について語っているのだ。

 つまり「感謝せよ」とは、日々私たちに到来する、一見めんどくさい一つひとつの出来事にこそ、“小さなよろこび(神)”が宿っていて、それを拾い上げて感謝していれば無数の光りを見い出すのである。それらは皆、神から出た如意宝珠である。その一つひとつの味わいは無尽蔵だ。

 さてコロナ禍以降、これまで教区で開催する各種行事を、対面に加えてネットでも配信していたが、四月以降は「浄心行」や「祈り合いの神想観」などの「宗教行」については、「行」そのものを大切に味わっていただくために、対面のみで開催することになった。

 一方、ペア教区合同で開催する「地方講師研修会」や「母親教室出講講師勉強会」そして壮年層を対象にした諸行事や「実相研鑽ネットフォーラム」などは、フラットで双方向な利点を生かして、対面とSNSをますます活用していく。これもコロナ禍での経験を通して見えてきた行事のカタチである。

 さて、冒頭で「よろこびは、小さければ小さいほど良い」という恩師の言葉を紹介したが、私たちは誰しも“心のモノサシ”を持って生きている。そして、その心の尺度ですべての物事の「善し悪し」や「良不良」や「幸不幸」「損得」などを無意識のうちに判断して生きている。そして多くのモノサシは、大きな喜びは評価するが、小さな喜びは“あたりまえ”の事として、その多くを見落としてしまうのである。

 「よろこび」は、それが、たとえどんなに小さくても、そこには“神”が宿っている。“神”には大きいも小さいもないのだ。その浜の真砂(まさご)のような一粒ひとつぶに“絶対”なるもの“渾(すべ)ての渾て”なるもの、即ち如意宝珠が、宇宙的な“質”と中味とをもって顕れている。

「よろこびは、小さければ小さいほど良い」とは、私たちの周囲に現れた神の恵みを“あたりまえ”と軽く見て藻屑(もくず)のように流すことなく、両手で大切に汲みあげて魂の糧とする生き方である。それは“あたりまえ”と見える「小さなこと」の中にこそ、蓮華蔵世界の「実(種子)」が宿り、その仏国土が、やがて人生に花咲き実を結ぶことを伝えているのである。

 

 

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