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2025年6月 4日 (水)

永遠に栄えるために (2025,6)

「我事において後悔せず」とは宮本武蔵が語ったとされる言葉だが、今年の3月、私も晴れて停年を迎えた。勤続40数年を振り返れば、後悔せずというよりも、「後悔している暇もゆとりもなかった」というのが率直な感想だ。

 ここまで歩くことができたのも、人生の随所で出会った先達や同僚、そして家族や周りの皆さんに助けていただいたお陰だった。

 半年ほど前、かつての上司から「停年も一つの通過点」との助言をいただいたが、4月からは“お礼奉公”の教化部長である。「奉公」とは、「おおやけに一身をささげて仕えること」という意味であるが、丁稚奉公、滅私奉公、年季奉公など、もはや時代劇やお芝居でしか耳にすることのない言葉だ。しかし言葉の背後には、先人たちの深い智慧が込められている。

 生長の家では「心の法則」を教えている。その中に“動・反動の法則”という言葉があるが、これは辞書に当たっても出てこない。壁に向かって強くボールを投げれば、同じ強度で跳ね返ってくるように、世の中に「与えた影響」が、良きにつけ悪しきにつけ、やがて思い掛けないときに返ってくるのだ。諺に「積善の家には余慶あり」というのも、この心の法則を表した言葉で、逆の場合もまた然りである。欲望に駆られて「奪う」生活を続けていれば、時節至れば同じ分だけ「奪われる」だろう。

 停年と同時期、たまたま生まれ育った家(藤枝の“実家仕舞い”をさせていただいた。かつて父が創業した建設会社が吸収合併され、その会社からの借地代で実家の固定資産税を支払っていたが、今年の初め、契約を解除するとの通知を頂いた。これを奇貨として、懸案だった“実家仕舞い”に入ったのが2月のこと。翌3月には、最良の買い手が現れ、5月上旬には“八方善し”の売買が成立した。

  すべてがトントン拍子に運んだが、よくよく観察すれば父が生前に地域に尽くしてきた積善のおかげだったことに気がついた。これも“与えよ、されば与えられん”の父の余慶が続いているのである。

 5月の連休中、実家仕舞いの合間を縫って、幼なじみの友人と来し方を振り返る機会を得た。友人は“滅私奉公”タイプの人間だ。仕事一筋で家族のことは奥様任せだったが、若い頃は子どもの不登校で夫婦共に辛い思いをして相談に訪れた事もあった。5年前に仕事も停年となり、2人の娘も近隣に嫁ぎ、今秋8人目の孫が生まれるという。そんな人生を振り返り、現在の仕事は「お礼奉公」と語り、心から満足した様子が伝わってきた。

 家庭への彼の貢献は、仕事での“稼ぎの側面”しか家族の眼には映らないかもしれない。しかしその背後には、彼が一途に会社や同僚や部下のため、そしてお客さんのために精一杯尽くしてきたことが、今日の幸せとなって現れていることが、朴訥と語る言葉の背後から伝わってきた。真理は遍く天地に満ちており、周りを生かす者は永遠に栄えるのである。

 

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