“聖なる使命”について (2025,7)
「人間は神の子である」というのが生長の家の教えだ。
この言葉は、私たち人間が担った“聖なる使命”を伝えている。それは、到達するための目標ではなくて、はじめから“神の子”なるものが、この世に誕生して今あなたとなって生きている、という宣言なのである。
わが家の“実家仕舞い”のことを前回紹介したが、同様に現代は“墓じまい”も他人事で済ますことのできない社会的な問題だ。地方出身で、ご縁あって都会で家を持つようになった方や、田舎のお墓の世話が困難になった方などがこのテーマに直面している。
長らく故郷を離れて暮らしていた方はご経験あると思うが、生まれ育った郷里も、半世紀の歳月が経てば人や建物がすっかり変わり、もはや誰も知る人のない浦島太郎状態となる。
一方、目に見えない霊界の方は浮世よりずっと緩慢で、しかも時の経過とともに緻密で鋭敏な連絡網が構築され、打てば響くように私たちが振り向くことを待っているようだ。
わが家も“実家仕舞い”とセットになって墓じまいの問題が巡ってきた。これを塩漬けにしていたのでは、子や孫の世代に難題を押しつけることにもなりかねない。墓のあった菩提寺は数年前に失火で焼失し、現在は更地になっていた。こんな見通しの立たない、暗中模索の時こそ生長の家の出番と思い、日々の神想観の折りに実家の処分やお墓のことなど、故郷にまつわる一切を神に全托して、諸般の導きを亡父にも請うていたのである。
先ず実家の売却は、導かれたように買い手が決まった。その家を明け渡すべく片付けていた五月の連休中、近所にお住まいの方が訪ねてきて、その方を通して、寺院の再建の一切を託された方とご縁をいただき、とんとん拍子に話が進み、墓じまいの目処も立ったのである。
ここに至る半年ほどの間、実家や会社の土地や事務所の売買に当たって、紙面に書き切れないほどの出会いと機会に次々と恵まれた。
彼らとのご縁、そして遣り取りを通して、目には見えないが不思議な連絡網と亡き父の導きを体感させていただいたのである。
「天網恢々(てんもうかいかい)疎(そ)にして漏(も)らさず」(老子)という言葉がある。
これは天地に隈無く張り巡らされた不思議な網のことを表現した言葉だが、多くの辞書は、これを因果応報的な天罰の視点から解釈する。しかし生長の家の「日時計主義」では、そのような解釈はとらないで、「天網」を宇宙に満ちる観世音菩薩の救いの御手として拝むのである。
それは、私たちのどんな憂いも苦悩も悲しみも受容して、すべてを救い給う仏の慈悲喜捨の働きである。
生長の家が、宇宙に充ちる仏(神)の天網(てんもう)とひとつになって「四無量心を行ずる神想観」を実修させていただくのは、すべての人間が生まれながらにして持つ“聖なる使命”が豊かに地上に顕現して、多くの人の苦しみを除き、楽を与えるためなのである。
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