「一即多」の真理 (2026,01)
11月の地方講師研修会のテーマは『「光明化運動の中心」は何か』だった。
後日、講師の間で話題となったのは「一即多の真理」で、これは生長の家の教義の核心部分と思われる。改めて、この内容についてゆっくり考えてみたい。
「一即多」の"一"とは、「神」のことである。生長の家で信仰する神は、唯一絶対の神、つまり円満完全なる善一元の神と教えていただいている。聖経『天使の言葉』には、『汝らの先ず悟らざるべからざる真理は、「我(われ)」の本体がすべて神なることなり。汝ら億兆の個霊(みたま)も、悉くこれ唯一神霊の反映(うつし)なることを知れ』とある。「唯一神霊」とは、先述したように「唯一絶対の神」のことであり、これを実相ともいう。
ここで注意したいのは「反映(うつし)」という言葉だ。私たちは目に見える肉体や物質など、五感にふれる相対的な対象を通して「反映(うつし)」についてのイメージを膨らませる。これをイエスは「見ゆという罪は残れり」と説いている。つまり「唯一神霊」とは、相対的な現象(カゲ)のことではないのだ。それは"絶対の世界"の消息である。
聖経には、『汝らの個霊(みたま)も甲乙相分れ丙丁互いに相異る相(すがた)を現ずるとも悉くこれ唯一神霊の反映(うつし)にしてすべて一つなれば』と説かれている。つまり現象的に多様な姿に現れて見えても、その本質は悉く「唯一神霊」(唯一絶対の神)のいのちそのものである、ということである。
『大調和の神示』に説かれた、「汝ら天地一切のものと和解せよ」そして「天地の万物に感謝せよ」との言葉は、たとえ天地の万物がさまざまな姿に現れて見えていても、その背後に「唯一神霊」(唯一絶対の神)の円満なるいのちが厳存する、その実相を正観して感謝せよ。と説いているのだ。
この実相哲学を生活化したのが「神の子・人間」を生きる生長の家の「聖使命」である。それは、神の子としての"聖使命"を自覚して悦ぶ生活であり、天地いっぱいに充ち溢れる神のいのちに感謝する生活である。
「一即多」という言葉の「一と多」とは、「五感」の立場からこれを見れば"物理的な鏡に映った"だけの無機的な関係のようにも見える。
一方、「実相」の立場から「一即多」の真理を観れば、「唯一絶対の神」のいのちが、そのまま私たちのいのちであり、「宇宙大生命」が、私となって生きている実相(ほんとのすがた)が拝めてくるのだ。「聖使命」とは、その"聖"なる神の子の境涯に"いのちの火"を点ずる画竜点睛の言葉である。
さらに「一即多」の真理は、人間のみならず生きとし生けるもの、ありとしあらゆるもの、即ち天地一切のものの実相(唯一絶対の神)を拝み、感謝する生活である。私たちが日々実修する神想観は、唯心所現の法則によって、天地一切の人や物や事の悉くに実相世界の華(はな)を咲かせるのである。
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