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2026年8月21日 (金)

“すなどられる”とは (2026,09)

 今から半世紀ほど前、私が宇治別格本山で修行を始めて二年目のときだった。正月に父母が訪ねてきたことがある。宇治で私がお世話になっていた榎本恵吾先生と、私の将来について話し合うためだった。

   私は父が経営する建設会社の跡取りだったが、家業がまったく肌に合わず、「三年間だけ宇治本山で修行させてほしい」との約束で修行を許していただいたのだ。

 父は、そんな私の“想い”を斟酌(しんしゃく)しつつも、社長としての立場から“今が潮時”と判断したのだろう。榎本先生ご夫妻に、
「私は息子に生長の家をやるな、と言っているのではない。事業に当たりながら信仰を深める道も、信仰者としての立派な生き方ではないか」
との正論を、筋を立てて語っていたのである。

 榎本先生ご夫妻も良識を尊重する方なので、感心してこの話に耳を傾けていたから、私は「宇治での修行もこれまでか・・・」と半ば観念していた。すると、榎本先生が突然、
「私は久都間くんとは心中する覚悟です!」
と語り始めた。また奥さまも、
「このお顔が、建設のお仕事に向いていると想われますか」
と、影から援護してくださったのである。父は驚いてこの意外な言葉を聴いていたが、
「確かに、この顔はな・・」と、息子のたましいあゆみを静かに顧みて、腹落ちした面持ちで帰路に就いたのである。

 今年の七月、恩師の墓参をした後、このときの光景が蘇って来たのだ。

 マタイ伝によると、イエスは宣教をはじめたとき神に導かれてガリラヤ湖畔を歩いていると、漁師をしていたペトロとアンデレと出会い、彼らに
「これからは魚ではなく人をすなどる仕事をしなさい」
と呼びかけた。すると、二人が素直に従ったことが記されている。
 イエスの言葉によって次々と使徒たちが神に“すなどられ”たことで、やがてキリスト教を世に広める礎(いしずえ)となったのである。

 私たちは、生長の家の会員になったとか、辞めたとか、また復活したとか、そんなことを語るときがある。
 人間がこしらえた組織の場合はそれで済ますことができる。が、こと「神」との関係においてだけは、“すなどられる”か否かである。自分で選ぶことができないのだ。
 かつて楠本加美野先生が
「吾れ神を選びしに非ず、神吾れを選び給いしなり」
と語っておられたが、楠本先生もたましいを、神に“すなどられた”とのご自覚があればこそ、この言葉を繰り返し語らざるをえなかったのだろう。
 私も、恩師の一言によって、神に“すなどられた”ことが、歳月を経てようやく傍観できるのである。

 私たちが「誰か」を、信仰にお導きする場合も同様だ。
 私が、彼を導くのではない。神が“すなどり”給うのだ。一切は神が為すのである。
 私たちは“使い”として神意(中心)に帰一して素直に従うだけである。誰かをお導きするとき
「神さま、どうぞ私を御心のままにお使いください」
 との祈りのコトバが、神意を地上に実現するための重要なカギとなるのだ。

 神の導きは、過去を振り返ったとき初めて見えてくる。そして“すなどられる”とは、実は「救われる」と、同義語だった事が分かるのである。

 

 

 

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