2026年5月31日 (日)

「潜在意識」をあなたの味方に (2026,06)

 生長の家東京第一教区の教化部会館(文京区・大塚)では、この4月から第一日曜日に「実相研鑽会」(教化部長指導)。そして「日曜誌友会」(信徒の体験談)や各種の研修会。そして「ヤンプロ」(生長の家二世三世ゲストによる体験談)などを毎月実施している。

 5月の実相研鑽会は『新版 生活の智慧365章』をテキストに「心の重荷」というテーマで研鑽した。
 同書には、「外界の困難は必ずしもあなたの重荷とならない」が、「内界の『心の重荷』」は「本当の重荷」となってあなたを傷つけると説かれている。

 そして「心の重荷」とは「この世の中に“悪”なるものが存在し、それが必ず自分を傷つけるという信念」であり、その恐怖心が催眠術のように作用して「神の子・無限力」を自縄自縛するという。

 この世界に「悪」の存在を認め、“善と悪”の二つに分けて対立的に捉える考え方を「二分法」という。

 この短絡的な思考は、まるで「常識」のように小説や映画や時代劇などで表現されて人々の心を支配している。この二分法は「人間」を「白人と非白人」に分けて人種差別を生じ、世の中を「敵と味方」や「善玉と悪玉」とに分けて対立の構図を作り、深い根拠もなく「愛国者と非国民」とに分けて差別する。トランプ氏など現代の為政者もこれを巧みに操って世論を動かしているように見える。

「二分法」の考え方は、無意識のうちに心に浸透して私たちの行動を支配する。

 生長の家の「唯心所現」に照らして見れば、この思想の型に振り回されると、自心が生み出した“心のカゲ”にすぎない対象を(敵対者も病気も)必ず何処かに見い出さずにはいられなくなり、無駄な争いを繰り広げて地獄を現出するだろう。

 生長の家の「唯心所現」の教えでは、「すべては心のカゲである」と教えている。

 “すべては吾より出て吾に帰る”のが「心の法則」である。「大調和の神示」に説かれた「汝ら天地一切のものと和解せよ」との教えは、人間の実相(本当のすがた)が「全宇宙を包容するところの実体」であり「宇宙大生命」であることを伝えている。つまり私たちを取り巻く現象の一切(肉体も心も環境も天地の渾て)は、宇宙大生命の内(神の中)にあるのだ。

 私たちが「人間・神の子」という無尽蔵の恵みを豊かに享受する道は、神想観を実修して自心の潜在意識と深く和解して、これを全面的に味方につけることである。その功徳は計り知れない。

 神想観は、念の世界に蓄積されたあらゆる「業」を浄めるのである。多くの方は、病や事故などの諸問題は、現象界に現れた後に対処するものと考えているが、信仰の世界では、霊界も深層意識も含め“不可視の世界”と和解して豊かに交流することで、問題と見えるものが事前に消滅してしまうのである。

 それが日々の神想観がもたらす最良の功徳であり、あなたが一族を代表して生長の家を信仰している由縁である。

 

 

 

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2026年3月25日 (水)

「明るい心」の招くもの (2026.04)

 生長の家は「縦の真理」“唯神実相”と「横の真理」“唯心所現”の教義を通して、み教えの核心部分を伝えている。み教えを学びはじめた頃の私は、多くの講師が「唯心所現」の教えばかりを説いているように見えた。
 唯心所現の教えは、宗教がもたらす功徳を「心の法則」を交えて解りやすく説明できることから、数多の人を導きやすい。

 しかし功徳の教えは、私たちの自我に潜む欲望や煩悩と結びつきやすく“喉元過ぎれば熱さを忘れる”の喩えのように、神への関心が薄くなれば潮が引くようにみ教えから離れていく。

 若かった私は、そんな「功徳」や「おかげ」について説く教えを“浅いもの”と判断していたのだ。その結果「横の真理」の深奥を十分に汲み取ることなく、何十年も遠巻きにしていたように思う。

 コロナ渦中で埼玉と群馬教区の教化部長をしていた2021年ごろ、生前の三好雅則講師にお願いして、教区の皆さんと一緒にZOOMでご指導を頂いたことがあった。
 その折、同氏のビデオ講話『充実した人生を築くために「日時計主義」実践の勧め』を事前に視聴することを課題として頂き、その後で講話を拝聴させていただいたのだが、三好講師の講話を聴いているとき、かつて“森の中のオフィス”(生長の家国際本部)で勤務していた折の、ある光景が蘇ってきたのである。

 当時、幾つもの部署を掛け持ちで預かっていた私は、間断なく押し寄せる見通しの立たない案件ばかりが山積して、それに翻弄される日々を送っていた。
 たまたまオフィスの廊下で、かつて上司だった三好講師とすれ違った瞬間、彼は私の目を見て
「久都間さん、元気にしてますか?」
と挨拶代わりに声を掛けてくださったのだ。
 私は気の置けない先輩への甘えもあって、思わず
「青息吐息ですッ」
との言葉で応えていた。三好講師は、無言で私が置かれている状況を受け止め、遠くを見護るような表情をされていたが、そのときの光景が、まざまざと蘇ってきたのである。

 コトバは運命を作る。それが「三界唯心所現」の横の真理である。
 今なら、彼からの問いかけに対して「お陰さまで充実しています!」「アイディアが押し寄せて活気凜々です」など、冗談交じりにお答えできるのだが、オフィス勤務時代の私は、未だ「唯心所現」について未熟なままだったと言わざるをえない。

 このときの埼玉で頂いたご指導が、生前の三好講師の謦咳(けいがい)に触れる最後の機会となった。同時に、「横の真理」の深奥にまで踏み込んで“み教え”を説くことが、その後の私の使命となった。
 現象は心で作る世界である。環境も運命も、ことごとく吾が心の展開、それが「横の真理」即ち心の法則である。

 三正行と光明思想で心を満たしていれば、嬉しく伸びやかで充実した人生が楽々と展開するのだ。
 その光り溢れる哲学の実践が「日時計主義」の生活であり、「横の真理」の深奥で交差する「縦の真理」の神髄を生きることであり、三好講師から私たちに托された、最期のメッセージだと思っている。


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2026年2月25日 (水)

「願い」を叶えるために (2026.03)

 私たちの生活には「願い」や「希望」が日々尽きることなく湧出している。そして、深く根源的な「願い」と、根の浅い「願い」(欲望や煩悩)などが混在しているように見える。
  生長の家では、本当の「願い」は「既に実相世界に成就」しているから、後からアイディアとして出てくる、と教えていただいている。つまり実相の世界に在る全ての善きものは、絶えず現象世界に湧出しようとしているのである。

 東京第一教区と第二教区では教化部長が各地区を回って「地区先祖供養祭」や「地区講演会」を開催しているが、その折に必ず質疑応答の時間を設けて、皆さんとの対話を楽しみにしている。

 2月も練馬での先祖供養と講演会で総連の皆さんと質疑応答をさせていただいたが、ある誌友から、ご兄弟との心の葛藤についてご質問をいただいた。しばらく傾聴していると、問題と見えるものの背後に、質問した方ご自身の過去が、辛いトラウマとなってカゲを落としていることが見えてきた。問題として現れているのは、過去の無明が消えていく姿である。現れたときが消えたときなのだ。悪現象と見える出来事は、住吉の大神の宇宙浄化の働きであることをお話させていただいた。

 御教えを深く学んでいる方でも、自分の問題となると客観的に見えなくなり、心の法則(唯心所現)を見落としがちである。そのような盲点を顧みるための質疑応答であり、ベテランの方ほど、教えの基本に立ち返る機会となるだろう。

 昨年秋に行われた北多摩地区の講演会で、ある誌友から、
「お隣の大きな庭木が自宅の屋根を覆って困っている。事情をお伝えしても相手にしてもらえず、かれこれ3年ほどモンモンとした日々を送っている。どうしたらよいか?」
と尋ねられた。私は、
「神想観を実修して、神さまに問題の全てを委ねなさい。必ず善い導きがあるから。そのヒラメキが、一見問題と無関係で“やっても無駄!”と思えたとしても、必ず実行してみなさい。次の導きが必ずあるから」
とお答えした。

 10月のある朝、彼女は目覚めると以前お世話になった屋根屋さんの事が脳裏に浮かんできた。すぐ彼に電話して事情をお伝えすると、幾つかの適切な助言を頂いたという。
 それを一つひとつ素直に実行に移していると、事態が意外な展開を見せて、ついにお隣の方が枝の伐採を快く承諾しくれたという。
 後日、彼女からは
「外にでると明るく風通しがよくなり、本当にうれしく信じられませんでした」
との礼状をいただいた。

 盲者を前にしたイエスに弟子たちが、「彼が生まれつき盲目なのは親の罪か彼の罪か」と問うたところ、イエスは「親の罪にも彼の罪にも非ず、神の栄光現れんがためなり」と答えている。
 一見、悪現象にしか見えないものの背後には、必ず「実相」が控えている。そして絶えず現象世界に顕れよう、出現しよう、としている。それは私たちの愛やムスビを通して、この世界の至る所に湧出する機会を待っているのだ。その実相をひらくカギが、三正行の実践である。


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2026年1月23日 (金)

「包容主義」に学ぶ (2026.02)

 コロナ禍後、生長の家東京第一教区と第二教区の教化部長を拝命して三年目を迎えた。
 この度、生長の家本部練成道場主管(代表役員)を拝命させていただくことになった。主管というお役は三好雅則講師が2024年までご担当されていたが、急逝されたことから菅原孝文講師が同年に受け継ぎ、先秋の11月から久都間にバトンが渡され兼務となった次第だ。

 手始めに元旦の講話を担当させていただいた。有り難いことに、関東圏外からも年末年始を利用して真理研鑽に訪れた参加者もいて、私は、皆さんの内に宿る「無限供給の世界」を開くことを目的に『真理の吟唱』を紐解きながら、「新生」「繁栄」「恵み」などをキーワードにお話させていただいた。

 今後の指導予定は、4月から毎月上旬に開催される「短期練成会」と、中旬に開催される「神の子を行ずる練成会」で、短期練成は金曜日の午後から、神の子練成は土曜日の午後から、それぞれ神想観の実修そして講話と質疑応答と、合わせて2時間ほどのプランを考えている。

 さて、総裁谷口雅宣先生の新年のメッセージは「包容主義の勧め」だった。生長の家では立教以来「日時計主義」を提唱しているが、今般お勧めいただいた「包容主義」は古くて新しい考え方である。

 たとえば『万教包容の神示』には、「生命の実相の教えが最も鮮かに顕れたところ」が「世界の中心である」と説かれている。現代は人や物や思想が国際的に交わる情報化社会が出現しているが、そんな状況の中、ある種の人々は「中心」を形の世界(現象)において、自己の属する国や団体だけを優先する利己的なナショナリズムが蔓延しつつある。これは、生長の家の「人間・神の子」の教えからは遙かに遠い思想である。

 「包容主義」は、私たちの無意識が如何に世論やイデオロギーに付和雷同しやすいかを顧みる良い機会となる。偏見や先入観は、すべて「現象」を見て生じた偏面的な見方であり、実相を捉えていない。
 み教えは「人間は神の子であり現象は心のカゲである」と教えている。私たちが偏見から自由になるに従って、無意識の縛りから解放され、無礙自在な「神の子・人間」の世界が開けてくるのだ。

 包容主義を応用した「オープンダイアローグ」という精神医療が、重い心の病を癒やすグループワークとして同分野で注目を集めている。カギとなるのが「受け容れる」という考え方である。似た表現の「受け入れる」との違いは、後者が堪えたり我慢して「他」との同化に努めるのに対して、前者は「他」と見えるものをいったん(括弧)で括り留保して、そのまま受け「容れる」のである。

 その不安定な状態に耐え、静かに状況を見護り心の耳を澄ませていれば、排斥していた時には見えなかった対象の多様な側面、それは深い悲しみや苦悩、美点や奥行きなどがそのままの姿を現し、入り組んだ問題を解きほぐす道が開けてくるのだ。「包容主義」は、私たちを観世音菩薩の境涯へと導く大切な指標となるのである。



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2025年12月24日 (水)

「一即多」の真理 (2026,01)

 11月の地方講師研修会のテーマは『「光明化運動の中心」は何か』だった。

 後日、講師の間で話題となったのは「一即多の真理」で、これは生長の家の教義の核心部分と思われる。改めて、この内容についてゆっくり考えてみたい。

 「一即多」の"一"とは、「神」のことである。生長の家で信仰する神は、唯一絶対の神、つまり円満完全なる善一元の神と教えていただいている。聖経『天使の言葉』には、『汝らの先ず悟らざるべからざる真理は、「我(われ)」の本体がすべて神なることなり。汝ら億兆の個霊(みたま)も、悉くこれ唯一神霊の反映(うつし)なることを知れ』とある。「唯一神霊」とは、先述したように「唯一絶対の神」のことであり、これを実相ともいう。

 ここで注意したいのは「反映(うつし)」という言葉だ。私たちは目に見える肉体や物質など、五感にふれる相対的な対象を通して「反映(うつし)」についてのイメージを膨らませる。これをイエスは「見ゆという罪は残れり」と説いている。つまり「唯一神霊」とは、相対的な現象(カゲ)のことではないのだ。それは"絶対の世界"の消息である。

 聖経には、『汝らの個霊(みたま)も甲乙相分れ丙丁互いに相異る相(すがた)を現ずるとも悉くこれ唯一神霊の反映(うつし)にしてすべて一つなれば』と説かれている。つまり現象的に多様な姿に現れて見えても、その本質は悉く「唯一神霊」(唯一絶対の神)のいのちそのものである、ということである。

『大調和の神示』に説かれた、「汝ら天地一切のものと和解せよ」そして「天地の万物に感謝せよ」との言葉は、たとえ天地の万物がさまざまな姿に現れて見えていても、その背後に「唯一神霊」(唯一絶対の神)の円満なるいのちが厳存する、その実相を正観して感謝せよ。と説いているのだ。

 この実相哲学を生活化したのが「神の子・人間」を生きる生長の家の「聖使命」である。それは、神の子としての"聖使命"を自覚して悦ぶ生活であり、天地いっぱいに充ち溢れる神のいのちに感謝する生活である。

 「一即多」という言葉の「一と多」とは、「五感」の立場からこれを見れば"物理的な鏡に映った"だけの無機的な関係のようにも見える。
 一方、「実相」の立場から「一即多」の真理を観れば、「唯一絶対の神」のいのちが、そのまま私たちのいのちであり、「宇宙大生命」が、私となって生きている実相(ほんとのすがた)が拝めてくるのだ。「聖使命」とは、その"聖"なる神の子の境涯に"いのちの火"を点ずる画竜点睛の言葉である。

 さらに「一即多」の真理は、人間のみならず生きとし生けるもの、ありとしあらゆるもの、即ち天地一切のものの実相(唯一絶対の神)を拝み、感謝する生活である。私たちが日々実修する神想観は、唯心所現の法則によって、天地一切の人や物や事の悉くに実相世界の華(はな)を咲かせるのである。

 

 

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2025年11月26日 (水)

サクラマス (2025,12)

 生長の家では、三年に一度の役員改選と各組織の編成が行われ、最適な方々が就任されたことに感謝している。

 自ら率先してご使命を拝命された方、周りの空気に押されて受けられた方、さまざまな理由が背後にあると思う。このような時節にいつも心に蘇るのは「吾れ神を選びしに非ず、神吾を選び給いしなり」という言葉である。

 この言葉を初めて耳にしたのは宇治別格本山での「伝道練成会」だった。ご指導くださっていた楠本加美野総務が伝道に赴く皆さんに語っていたのである。私も職員研修の一環として、練成会員と一緒に近隣の伝道に回らせていただいたが、先の言葉を、静かに心で反芻(はんすう)していると、これまで自分の意思で選択して入信した生長の家だと思っていた考えがグラグラと崩れ、すべては神さまのお計らいとお導きの中で生かされて今ここに居たのか、という深い感慨が湧いてきたのである。

 自分が選んだのではなかった、神に選ばれていたからこそ生長の家にご縁を頂き、み教えと出合うことができた。そのことの発見は、私たちがこの世界に生まれてきた理由についても豊かな意味を告げているように思われた。“神吾を選び給う”とは、神さまからの召命を受けていればこそ、今ここに存在している、という事でもあるのだ。

 この言葉と出合っていなかったら、生長の家の往相(おうそう)精進という求道の道を往くこともなかったかもしれないし、慣れ親しんだ宇治別格本山から、未知で知り合いのいない国際本部に転籍することもなかったかもしれない。運命とは不思議なものだ。

 ちょうどその頃、NHK特集で渓流域の自然観察についての映像を放送していた。それはサクラマスの生態だったと記憶しているが、サクラマスの幼体はヤマメである。山深い谷から下って広い海洋を巡り、遙かな旅を経て故郷の川に遡上して“いのちのバトン”を渡すために産卵するのであるが、その最後の場面で、興味深い光景が繰り広げられていたのだ。

 それは大きなサクラマスが受精する際の縄張り争いに、小さなヤマメも参加していたのである。同年齢なのに体格差は数倍以上あり、ヤマメは弾き飛ばされていたのだが、それは谷を下って旅に出ることのなかった貧弱なままの“たましいの姿”を、何者からか見せつけられている思いがした。

 先週二日ほど高熱にうなされ、こんこんと眠りつつ意識が時空を旅したせいで回想的なコラムとなったが、ともあれ新たにお役を拝命された皆さん、そして会員としてみ教えにご縁を頂いた皆さん、いったん立ち止まって静かに先の言葉を見つめていただければと思う。「吾れ神を選びしに非ず、神吾を選び給いしなり」と。

 私がテレビで見たサクラマスの姿は、彼が旅の途上で出逢った豊かなご縁と、そこから生まれた数多(あまた)の悦びの象徴だったのである。それは使命を生きて人生の波濤(はとう)を自在に遊泳するに至った、生長したたましいの姿を現していたのである。

 

 

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2025年10月29日 (水)

観世音菩薩について (2025,11)

 仏教で「観音経」を経典として読誦する宗派では、観世音菩薩への信仰から「南無観世音菩薩」との名号を唱えるという。

 生長の家の「観世音菩薩を称うる祈り」には、「観世音菩薩は尽十方無礙光如来の大慈悲の顕現にてありたまう。それゆえに尽十方に満ちたまうのである」と説かれ、さらに「生長の家の礼拝の本尊は観世音なのである」とまで書かれているから、生長の家と観世音菩薩との関係は尋常でないことが分かる。また、『観世音讃歌』の扉には、総裁先生によって墨書された「南無観世音」のコトバが掲げられている。


 十月のこと、東京第二教区の見真会で「祈り合いの神想観」が行われた折、"祈られる側"の皆さんに大拝殿の前方に並べた椅子に座っていただいた。

 祈ってもらいたいことを順番に発表してもらうと、入院中の友人の代理として来られた方、癌が全身に移転して苦悩している方、余命宣告を告げられた方、病苦に悩む家族に代わって参加された方など、それぞれの切実な"願い"を表明することになった。

 祈り合いの折、黙然の時間に入ると「南無観世音菩薩」のコトバが、導かれるように脳裏に浮かび、お一人おひとりの背後にある"尽十方無礙光如来"の光りを観じていると、祈られる側の皆さんの人生のさまざまなお姿が、鏡に映る己が姿として映ってきた。

 病む相も、語る言葉も、すべては吾が姿であり、この祈りの場に臨ませていただいたのも決して偶然ではなく、観世音菩薩のお導きだったことを了知した。

「大調和の神示」の「汝ら天地一切のものと和解せよ」の言葉、さらに「顧みて和解せよ」との言葉は、天地一切のものが尽十方無礙光如来の大慈悲であり、私たちを実相(自性円満)へと導き給うためにこそ出現していることを示しているのだ。

『常楽への道』を著した吉田國太郎講師は、この霊妙な働きを、親鸞が説いた「弥陀の誓願不思議」として拝まれ、次のように説いている。「誓願とは神のコトバ、不思議とは現象を超えた無限の光。イエス・キリストは、己が生きるは天の命によってあらしめられているのであると云った。これが誓願不思議である」と。

 また谷口雅宣先生は、宇宙大生命の働きを「天照大御神の恩徳を讃嘆する祈り」で次のようにお説きくださっている。「天照大御神は『愛なる神』の別名である。キリストの愛の別名である。自ら与えて代償を求めない『アガペー』の象徴である。また、三十三身に身を変じて衆生を救い給う観世音菩薩の別名である」と。

「南無観世音菩薩」のコトバは、宇宙に満ちる四無量心と"ひとつ"になり、これを己が信仰として生きることである。観世音菩薩が生長の家の礼拝の本尊であるとは、私たち一人ひとりが、宇宙大生命が発した"大慈悲の光"そのものであることを示しているのだ。

 

 

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2025年9月25日 (木)

伝道員について (2025,10)

 八月下旬のある朝、右腕にチカラが入らないことに気がついた。洗面所で顔を洗うのも歯を磨くのも箸を持つのもままならなかったが、神想観だけは左手を添えて実修できた。

 数日ほど様子を見たが回復は遅々たるもので、家内から「きっと四十肩だから整骨院に行ったら」と勧められた。

 この歳になって四十肩もあるまいと思ったが、予約を入れてくれたので足を運んでみると、電気治療の痛さと違和感に辟易(へきえき)してそれきりとなった。

 生長の家では、すべての病や艱難(かんなん)は、過去の無明(まよい)が消えるための“自壊作用”と教えていただいている。症状を素直に受け容れて天地のすべてに感謝して神想観を実修していると、いろいろな事に気付かせていただいた。

 たとえ右手が使えなくても、左手を添えれば食事も歯磨きも着替えも生活万般こなせるではないか。“周りと協力し合う”ことで“ムスビの働き”が動き始めるのだ。

 そんな発見と感謝の日々を送っていたら、神癒(metaphysical healing)が働いたのだろう、二週間ほどで回復した。

 先般、国際本部から「伝道員規定」の改正についての通達が届いた。

「伝道員」とは、近年の生長の家の運動ではなじみのない言葉だが、東京第二教区の白鳩会幹部の方が、「五十年ほど前に母が『伝道員』の任命書を頂いたのを実家で見たことがある」と語っていたから、かつて人類光明化運動の歴史の中で重要な役割を担っていたと思われる。

 なぜ今「伝道員規定」が改正されたのか。それは「“質”を重視した運動」へと移行したことが関係している。現在の講師試験が“狭き門”となっていることは皆さんもご存知のことだろう。そのような状況でも、次世代の講師や幹部を育て、み教えを継承していかなければならない。

 地方講師に合格すれば誌友会などで「講話」の担当はできるが、生長の家の信仰を深く培(つちか)うためには、講話以前に修得しておきたい大切なこともあるのだ。

 それは、生活の中で神想観、聖典・聖経読誦、愛行の「三正行」を実修することである。特に「神想観」は、傍(はた)からは何もしていないように見えるが、これを毎日実修することで、たましいの“質”が培われ、自身や周りの人を導くチカラが養われるのだ。

「伝道員」はこの“質”を育てる大切な時期と私は見ている。ここを疎(おろそ)かにして次に進んでいては、「神の子無限力」や「無限供給」の言葉も、ただの目標やスローガンで終わり、本ものの“おかげ”や”功徳”と出合うことはできない。

「真理は汝を自由ならしめん」というイエスのコトバがある。「汝」というのは肉体人間のことではない。私たちの内なる神の子、すなわち「実相」のことである。お陰信仰に留まっていては肉体人間の境涯を卒業することができない。しかし、三正行を続けることで、人生の随所で、神(宇宙大生命)に導かれて、真の自由(無礙自在、無限供給)を体認して神の子・人間の境涯に入るのである。 

 

 

 

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2025年8月25日 (月)

味読2025“初秋” (2025,9)

 私が子どものころ、来年九十歳になる母は家で食べる野菜の殆どを家庭菜園で作っていた。

 現在はEM菌を混ぜた生ゴミを堆肥にしているが、六十年ほど前は、びろうな話で恐縮だが“肥だめ“から汲み上げたものを利用していた。

 穀倉地帯のウクライナとロシアで戦争が勃発して以来、世界が深刻な小麦不足に見舞われ、食料価格が一気に高騰した。さらに中国が肥料の輸出制限を行ったことで、世界市場での化学肥料の価格も高騰している。

 そんな折、手にしたのが『ウンコノミクス』山口亮子著(インターナショナル新書)である。同書のタイトルは「ウンコ」に経済を意味する「エコノミクス」を合わせた造語だ。

 かつて江戸時代「金糞(きんぷん)」とも呼ばれ、循環型社会の主役を担っていたウンコだが、今ではトイレから下水道へと流され“見えない世界”へと追い遣られてしまった。が、環境問題が深刻さを増す中で、再び脚光を浴び始めている。

 それは肥料危機のみならず、ビルの熱源、「金(キン)」を生む都市鉱山、さらに自動車やロケットの燃料など、「ウンコ」の持つポテンシャルは計り知れない。地中に張り巡らされた下水道の先で、着々と進行する壮大なプロジェクトを追ったのが本書だ。

 意外なスタートとなったが、今回は皆さんの糧になると思われるご本を紹介したい。

 次は『谷口雅春とその時代』小野泰博著(法蔵館文庫)である。同書は九十年代に出版され、最近文庫本として蘇った生長の家の創始者谷口雅春の評伝である。著者の小野泰博氏(図書館情報大学教授)が六十三歳で早世して未完のままだった草稿を、宗教学者の島薗進氏らがまとめ上げたもので、その功績は大きい。

 生長の家が創始されるまでの時代背景や谷口雅春先生の思索の跡をたどりながら、同時代を生きた真摯な思想家らの哲学、谷口輝子先生へのインタビューなどを通して、生長の家の光明思想の背後にある強靱な生命の哲学が浮き彫りになる。

 すでに『聖道へ』や『生命の實相』「自伝篇」を熟読され、み教えの“深み”を探究される諸氏には、ぜひお目通しいただきたい。監修された島薗氏の解説も秀逸である。

 次に紹介するのは『福岡伸一、西田哲学を読む~生命をめぐる思索の旅』池田善昭・福岡伸一著(小学館新書)である。
「動的平衡」の生命論を鍵に、「生命」の定義を明らかにした科学者・福岡伸一氏と、哲学者・池田善昭氏との対話から、科学・哲学・宗教を統合する“ピュシスの世界観”が見えてくる。

 ピュシス(physis)とは古代ギリシャ哲学で「自然そのもの」を意味する言葉だが、丁寧に味読していると、生長の家で説く「天地(あめつち)を貫きて生くる祖神(みおや)の生命(いのち)」とピュシスとが重なり、西田哲学が他人事でなくなる。

 読者が“思索の旅”の道連れとなり、ピュシス即ち「永遠の今」の哲学を感得するに従って、これまで観ていた世界が変容するだろう。そこから、現代文明の陥穽(かんせい)に墜ちない“生命の智慧”が蘇る。

 

 

 

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2025年7月28日 (月)

ゆかりの地を訪ねて (2025,8)

 私が小学校のPTAに携わっていた十年ほど前、青梅市の山間部では、通学区域を越えて市内のどこからでも就学できる「小規模特別認定校制度」を採用した小学校があった。これは、過疎化による児童数の減少に抗うと同時に、不登校の児童を救済するための有効な方策だったと思う。

 昨年の八月、鹿児島の姪(小二)を一週間ほど預ったことがある。勉強をみながら話を聴くと、イジメが原因で学校に行けなくなったという。

 イジメは、核家族化や都市化など様々な要因が考えられるが、人間関係が希薄になった隙間に忍び込む深刻な社会問題である。わが家の末っ子が小学生の時に親しかった級友も、わが家が転勤して三年ほど地元を離れていた時、イジメが原因で自死したことが伝えられた。孤独死は、老人に限らず私たち同世代の課題でもある。

 その後、しばらく姪のことを祈っていると、義妹がネットで「離島留学」という制度を見つけてきた。これは、過疎や少子化の問題を抱える離島などで、小・中学生や高校生を募集して、留学生として受け入れる制度のことで、彼女の母や祖父母の故郷である種子島でも実施していることが分かった。しかも親子で移住した場合は、住宅も無償で提供されるらしい。

 シングルマザーだった義妹は“娘のためならば”と、意を決して仕事を辞め、四月からの離島留学に踏み切った。

 島での彼女たちの新生活は、家族LINEを通してわが家にも配信された。

 わずか全校生徒二十数人の学校では、ほぼ個別指導のように授業が進められ、先生とのマンツーマンに近い授業では落ちこぼれるのも難しそうだ。大自然に抱かれて日が暮れるまで海で泳ぎ、地元の方たちの指導で剣道の稽古に励み「給食が美味しい」と目を輝かせて語る姪は、すっかり日焼けして、島で過ごす日々と共に逞しく成長している。

 七月中旬、私が参加予定だった行事が流れて三日間の余白ができた。家内の発案で、車椅子生活の義母を連れて、彼女の古里である種子島に墓参するプランが生まれた。義母にとっては数十年ぶりの帰郷である。この朗報に義妹も姪も大喜びだった。

 島に着き、海岸に出ると、黒潮に乗って流れ着いた椰子の実が転がり、澄んだ海にアジア各国からの漂着物も散在して、この島が鉄砲伝来をはじめ文明と歴史の要衝にあったことを思い出した。
 折しも台風が発生して連日雨天の予報だったが、私たちが目的地で車を停める度に雨が上がり、夜間は豪雨となるなど、ご先祖の御霊に導かれて日々を過ごした。

 義母も幼馴染みたちとの再会を果たし、かつて両親と住んでいたという場所も訪ね、遙かな過去に思いを馳せた。
 皆さんもこの夏、これまで足を運ぶ機会のなかった、ゆかりの地を訪ねてみてはいかがだろうか。故人の掛け替えのない思い出と共に、内なる聖地が鮮やかに蘇ることだろう。

 

 

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2025年7月 5日 (土)

“聖なる使命”について (2025,7)

「人間は神の子である」というのが生長の家の教えだ。

 この言葉は、私たち人間が担った“聖なる使命”を伝えている。それは、到達するための目標ではなくて、はじめから“神の子”なるものが、この世に誕生して今あなたとなって生きている、という宣言なのである。

 わが家の“実家仕舞い”のことを前回紹介したが、同様に現代は“墓じまい”も他人事で済ますことのできない社会的な問題だ。地方出身で、ご縁あって都会で家を持つようになった方や、田舎のお墓の世話が困難になった方などがこのテーマに直面している。

 長らく故郷を離れて暮らしていた方はご経験あると思うが、生まれ育った郷里も、半世紀の歳月が経てば人や建物がすっかり変わり、もはや誰も知る人のない浦島太郎状態となる。

 一方、目に見えない霊界の方は浮世よりずっと緩慢で、しかも時の経過とともに緻密で鋭敏な連絡網が構築され、打てば響くように私たちが振り向くことを待っているようだ。

 わが家も“実家仕舞い”とセットになって墓じまいの問題が巡ってきた。これを塩漬けにしていたのでは、子や孫の世代に難題を押しつけることにもなりかねない。墓のあった菩提寺は数年前に失火で焼失し、現在は更地になっていた。こんな見通しの立たない、暗中模索の時こそ生長の家の出番と思い、日々の神想観の折りに実家の処分やお墓のことなど、故郷にまつわる一切を神に全托して、諸般の導きを亡父にも請うていたのである。

 先ず実家の売却は、導かれたように買い手が決まった。その家を明け渡すべく片付けていた五月の連休中、近所にお住まいの方が訪ねてきて、その方を通して、寺院の再建の一切を託された方とご縁をいただき、とんとん拍子に話が進み、墓じまいの目処も立ったのである。

 ここに至る半年ほどの間、実家や会社の土地や事務所の売買に当たって、紙面に書き切れないほどの出会いと機会に次々と恵まれた。

 彼らとのご縁、そして遣り取りを通して、目には見えないが不思議な連絡網と亡き父の導きを体感させていただいたのである。

「天網恢々(てんもうかいかい)疎(そ)にして漏(も)らさず」(老子)という言葉がある。

 これは天地に隈無く張り巡らされた不思議な網のことを表現した言葉だが、多くの辞書は、これを因果応報的な天罰の視点から解釈する。しかし生長の家の「日時計主義」では、そのような解釈はとらないで、「天網」を宇宙に満ちる観世音菩薩の救いの御手として拝むのである。

 それは、私たちのどんな憂いも苦悩も悲しみも受容して、すべてを救い給う仏の慈悲喜捨の働きである。

 生長の家が、宇宙に充ちる仏(神)の天網(てんもう)とひとつになって「四無量心を行ずる神想観」を実修させていただくのは、すべての人間が生まれながらにして持つ“聖なる使命”が豊かに地上に顕現して、多くの人の苦しみを除き、楽を与えるためなのである。

 

 

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2025年6月 4日 (水)

永遠に栄えるために (2025,6)

「我事において後悔せず」とは宮本武蔵が語ったとされる言葉だが、今年の3月、私も晴れて停年を迎えた。勤続40数年を振り返れば、後悔せずというよりも、「後悔している暇もゆとりもなかった」というのが率直な感想だ。

 ここまで歩くことができたのも、人生の随所で出会った先達や同僚、そして家族や周りの皆さんに助けていただいたお陰だった。

 半年ほど前、かつての上司から「停年も一つの通過点」との助言をいただいたが、4月からは“お礼奉公”の教化部長である。「奉公」とは、「おおやけに一身をささげて仕えること」という意味であるが、丁稚奉公、滅私奉公、年季奉公など、もはや時代劇やお芝居でしか耳にすることのない言葉だ。しかし言葉の背後には、先人たちの深い智慧が込められている。

 生長の家では「心の法則」を教えている。その中に“動・反動の法則”という言葉があるが、これは辞書に当たっても出てこない。壁に向かって強くボールを投げれば、同じ強度で跳ね返ってくるように、世の中に「与えた影響」が、良きにつけ悪しきにつけ、やがて思い掛けないときに返ってくるのだ。諺に「積善の家には余慶あり」というのも、この心の法則を表した言葉で、逆の場合もまた然りである。欲望に駆られて「奪う」生活を続けていれば、時節至れば同じ分だけ「奪われる」だろう。

 停年と同時期、たまたま生まれ育った家(藤枝の“実家仕舞い”をさせていただいた。かつて父が創業した建設会社が吸収合併され、その会社からの借地代で実家の固定資産税を支払っていたが、今年の初め、契約を解除するとの通知を頂いた。これを奇貨として、懸案だった“実家仕舞い”に入ったのが2月のこと。翌3月には、最良の買い手が現れ、5月上旬には“八方善し”の売買が成立した。

  すべてがトントン拍子に運んだが、よくよく観察すれば父が生前に地域に尽くしてきた積善のおかげだったことに気がついた。これも“与えよ、されば与えられん”の父の余慶が続いているのである。

 5月の連休中、実家仕舞いの合間を縫って、幼なじみの友人と来し方を振り返る機会を得た。友人は“滅私奉公”タイプの人間だ。仕事一筋で家族のことは奥様任せだったが、若い頃は子どもの不登校で夫婦共に辛い思いをして相談に訪れた事もあった。5年前に仕事も停年となり、2人の娘も近隣に嫁ぎ、今秋8人目の孫が生まれるという。そんな人生を振り返り、現在の仕事は「お礼奉公」と語り、心から満足した様子が伝わってきた。

 家庭への彼の貢献は、仕事での“稼ぎの側面”しか家族の眼には映らないかもしれない。しかしその背後には、彼が一途に会社や同僚や部下のため、そしてお客さんのために精一杯尽くしてきたことが、今日の幸せとなって現れていることが、朴訥と語る言葉の背後から伝わってきた。真理は遍く天地に満ちており、周りを生かす者は永遠に栄えるのである。

 

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2025年5月14日 (水)

“よろこび”の種子(たね) (2025,5)

 かつて恩師から聴かせていただいた「よろこびは、小さければ小さいほど良い」という言葉を、折に触れて思い出すのである。その不思議な味わいは、歳を重ねるほどに深まるばかりだ。

 大きなよろこびは、誰の記憶にも鮮明に残り、形に残る場合も多いから分かりやすい。今の季節でいえば合格、入学、入社、結婚、出産など人生の節目となる出来事で、これは周りからも祝福される。

 一方で人生は、スタートしてからが本番である。傍(はた)からみれば、そのほとんどは散文的な日々にも見える。しかしみ教えが、「天地の万物(すべてのもの)に感謝せよ」と説いているのは、その冗長な日々にやってくる、すべての人や物や事との“出合い”について語っているのだ。

 つまり「感謝せよ」とは、日々私たちに到来する、一見めんどくさい一つひとつの出来事にこそ、“小さなよろこび(神)”が宿っていて、それを拾い上げて感謝していれば無数の光りを見い出すのである。それらは皆、神から出た如意宝珠である。その一つひとつの味わいは無尽蔵だ。

 さてコロナ禍以降、これまで教区で開催する各種行事を、対面に加えてネットでも配信していたが、四月以降は「浄心行」や「祈り合いの神想観」などの「宗教行」については、「行」そのものを大切に味わっていただくために、対面のみで開催することになった。

 一方、ペア教区合同で開催する「地方講師研修会」や「母親教室出講講師勉強会」そして壮年層を対象にした諸行事や「実相研鑽ネットフォーラム」などは、フラットで双方向な利点を生かして、対面とSNSをますます活用していく。これもコロナ禍での経験を通して見えてきた行事のカタチである。

 さて、冒頭で「よろこびは、小さければ小さいほど良い」という恩師の言葉を紹介したが、私たちは誰しも“心のモノサシ”を持って生きている。そして、その心の尺度ですべての物事の「善し悪し」や「良不良」や「幸不幸」「損得」などを無意識のうちに判断して生きている。そして多くのモノサシは、大きな喜びは評価するが、小さな喜びは“あたりまえ”の事として、その多くを見落としてしまうのである。

 「よろこび」は、それが、たとえどんなに小さくても、そこには“神”が宿っている。“神”には大きいも小さいもないのだ。その浜の真砂(まさご)のような一粒ひとつぶに“絶対”なるもの“渾(すべ)ての渾て”なるもの、即ち如意宝珠が、宇宙的な“質”と中味とをもって顕れている。

「よろこびは、小さければ小さいほど良い」とは、私たちの周囲に現れた神の恵みを“あたりまえ”と軽く見て藻屑(もくず)のように流すことなく、両手で大切に汲みあげて魂の糧とする生き方である。それは“あたりまえ”と見える「小さなこと」の中にこそ、蓮華蔵世界の「実(種子)」が宿り、その仏国土が、やがて人生に花咲き実を結ぶことを伝えているのである。

 

 

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2025年3月27日 (木)

『“わたしたちの運動”をつくろう』を読む (2025,4)

 国際本部から刊行された『“私たちの運動”をつくろう』を読んでみた。これは生長の家の運動を、教区の実状に合わせて三年スパンで実行していくための“手引き書”である。
 冊子には「質的な運動目標一覧」(30頁)という項目がある。“質的”とは、運動方針のカギとなる「“量から質へ”の転換」の「質」に当たるものだ。その「部分目標」には「①講師でない会員は講師となる。また、すでに講師である場合はより上級の講師となる」と掲げられている。

 私の記憶では、最近の講師試験は新規の受験が五年に一回ほど。今年実施される準教務試験に至っては、実に七年ぶりである。この背景にはパンデミックの影響や、時代の変化に伴った試験内容の“質的な”見直しがあったと考えられる。が、教区の立場からすれば、近年実施される試験の難易度に加え、受験対象者も減少していることから、講師の誕生は十年に数人ほどの貴重な機会となるだろう。

 まさに“量から質へ”の転換だが、生長の家の教えは、たとえ講師の数が減少して、たった一人になったとしても、その講師に“真理の火”が灯されてさえいれば、その一人から再び燎原の火のごとく“み教えの灯”を後世へと伝えることができるのだ。だからこそ、今年実施される準教務試験、そして三年以内に実施される新規試験は、み教えで救われた“あなた”の出番なのだ。この機会を“千載一遇のご恩返しのチャンス”と捉えていただきたい。合否は神意によるのだから──。

 さて、運動のもう一つの柱、それは「PBSを含む社会貢献の活動によって生長の家の布教・環境方針を内外に具体的に示す」ということだ。

 先に紹介した「講師の養成」が、徹底した“内部に向けた運動”(求道)であるとすれば、こちらの「社会貢献」は、全信徒を挙げての“対社会に向けた運動”(菩薩行)であり、それは明確に「求道」と「伝道」という、宗教本来の基本的なスタイルへと、運動が大きく回帰したのである。

 具体的な活動は、「生長の家が重点的に行う地球社会貢献活動のリスト」(19頁)にある「食糧支援」「環境・平和活動」「文化・芸術」「教育振興」である。これは一月に教化部で皆さんと語り合ったブレーンストーミングでのテーマでもある。現時点では、皆さんから出てきたアイディアやご意見をベースに、各組織の正・副会長が、教区での具体的な運動方針として練り上げている。

 その核となる信仰は「布教・環境方針」にある、「大自然の恩恵に感謝し、山も川も草も木も鉱物もエネルギーもすべて神の、仏のの現れであると拝み、それらと『共に生かさせていただく』」という教えだ。
 それは、私たちを取り巻くすべてのものは“神のいのちである”という大安心から生まれた、天地一切のものに感謝して、神のいのちの兄弟姉妹として共に生きる信仰である。

 

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2025年2月22日 (土)

“無償の愛”について (2025.3)

 毎月上旬、教化部長を囲んでの「実相研鑽ネットフォーラム」(対面とZOOM)を開催しているが、2月に交わされたテーマは“無償の愛”となった。今回はこれに触れてみたい。

 見返りを求めぬ愛のことを“無償の愛”というが、ある参加者から、「私はゴミ拾いなどの善行をする度に、その功徳を心の片隅で計算している自分を見いだしてしまう。善い動機でしたことでも、そんな心の裏側を透かして見ると〝無償〟とはほど遠いように思えて情けない」といった感想を伺った。

かつて梁(リョウ)の武帝が、自身が積んだ善行の功徳について達磨大師に尋ねると、達磨は間髪を入れず「無功徳!」と一喝したことが、谷口雅春先生のご著書に紹介されている。

 無功徳なのは、善行は意識して行われるものではなく、それは知らないうちに、私たちを通して神や仏によって為されるからである。しかし武帝の場合は、「善因善果」という自力作善の計らいの中に“仏法あり”と誤認して安住し、そこに止まっていたが故に達磨に一喝されたのであろう。

 一方“無償の愛”は、私たちが知らないうちに人や物や事の中にあらわれている。それは、与える(為す)側が無自覚のうちに神や仏によって発揮され、本人が思い出す必要すら感じないのが“無償の愛”の性質であり、これを生長の家では“絶対他力”とも呼んでいる。

 かつてイエスは「右の手のなすことを左の手に知らすな」(マタイ6:3)と戒めているが、自他共に知らずに行う善行の中に、無償の愛があらわれ、神の力が働き給うのだ。

『新約聖書』には、イエスと民衆との遣り取りが記述されているが、神の使いとして現れたイエスの話を聴きに参集した五千人余の空腹が、僅かな食料で満たされたエピソードをはじめ、足萎えが立ち上がり、盲目が癒やされたなどの奇蹟が記録されている。

 それは親鳥が抱卵してヒナを育てるように、イエスが何の見返りも求めず、計らいも駆け引きもなく無条件に相手の罪を赦し、神性(実相)を拝んだ結果であり、そこには「功徳」とか「善行」とか、人為的な計らいは皆無で、ただ真理(キリスト=愛)のコトバを契機に「神癒」が湧出している。

“無償の愛”は至る所に充ちている。それは天体の動きや月や太陽の恵みとなり、近くは人類をはじめ生物の呼吸や血液の環流、さらに植物や菌類の営みに至るまで、その働きは意識されることも記憶されることもなく、無言でこの世界を根底から生かしている。

 イエスは伝道に赴く弟子たちに、次の言葉を授けている。

「如何に何を言はんと思ひ煩ふな、言ふべき事は、その時さづけらるべし。これ言ふものは汝等にあらず、其の中にありて言ひたまふ汝らの父の霊なり」(マタイ10:19―20)。

 神の無償の愛は、絶対他力の“使い”となったものたちを通して、すべてを愛し給うのである。

 

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2025年1月30日 (木)

“神の子・人間”への脱皮

 生長の家総裁・谷口雅宣先生は「新年のあいさつ」で、「今年は心の中で『不安』を飼い育てて、『敵』を作ることをやめましょう」(『生長の家』1月号)とお示しくださった。

 心に生じた「不安」は、真理の光で照らせば消えていく。しかしそれを放置すれば、心は「空白」に耐えきれず、同類の仲間たちを掻き集めて隙間を糊塗(こと)するだろう。
 たとえば『生命の實相』「光明篇」、第四章の冒頭には、「すべての心の不安、恐怖、憂鬱(ゆううつ)、取越し苦労と云うような精神的な苦痛は勿論(もちろん)、現実の病気災難というものも、吾々が神から離れることによって起こるのであります」と説かれている。

 つまり「不安」は、「神から離れること」によって生ずるのだ。逆に「神との一体感」が深まることで、不安が安心に、恐怖が深い慈悲に、憂鬱が悦びに、取越苦労が夢や希望へと一変するだろう。

 神との一体感を深める道はただ一つ、それは人間・神の子を生きることに尽きるのだ。これについてみ教えは観行、誦行、愛行の三正行を教えてくださっている。が、今回は、諸先達から私が学ばせていただいたことの一端を紹介したい。

 その一つは定期的に『生命の實相』(日本教文社刊)全巻を拝読することである。私の手元にある聖典は、かつて宇治で修行した二十代の時「頭注版」で全巻を読み、再読の折に「愛蔵版」を購入して原典ならではの歴史的仮名遣いを味わった書籍だ。

 以来、十年ごとに全巻を最初から熟読玩味することが私の大切な慣習となり魂の巡礼となっている。そして再読する度に新たな境地が開け、内なる生命の実相(久遠を流るるいのち)が蘇り、光の泉が滾々(こんこん)と湧出して家族やご縁ある人を潤している。私はこれを「“生命の實相”体験」と秘かに呼んでいる。

 私たちの生活が春夏秋冬という四季の恵みを通して一年が巡るように、日々の暮らしの中で『生命の實相』が紐解かれることで、家族や周りの人びとの様々な自壊作用に対処でき、「心の法則」と「唯神実相」の教えをカギに問題の背後に潜む意味を読み解き、完全円満なる生命の実相を拝ませていただく。このいとなみは観世音菩薩との対話であり、今年の干支である巳(蛇)が“脱皮を繰り返して生長する”のと同じように、肉体人間から神の子・人間への脱皮でもある。

 聖典の拝読は、二十代には二十代ならではの発見があり、四十代には四十代の、七十代には七十代の、それぞれの心境に達して初めて読めてくる世界がある。

 この巡礼を続けるほどに神と共なる自覚が深まるから、「不安を飼い育て」るような“心の空白”は雲散霧消して、生命の充溢感に満たされるだろう。大切なことは、著者が直接編纂した「日本教文社」版が信頼に足る文献であり、聖典はあなたを着実に「真理の道」へと導くだろう。

 年齢を重ねる程に深まる“円熟の時”を豊かに味わい、不朽の真理を後世に伝えていきましょう。

 

 

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2024年12月28日 (土)

“み教えの光”を灯そう (2025,1)

 皆さんは「ブレーンストーミング」という形式の会議を、ご経験されたことはあるだろうか。

 私が初めてこれを体験したのは30年ほど前の1995年、宇治別格本山にいるときだった。

 阪神淡路大震災が発生し、世紀末感ただよう当時の空気を突き抜けるように、「二十一世紀の生長の家人類光明化運動を考えよう」とのテーマで有志が集い、毎回5時間ほど掛けて徹底的にアイディアを吐き出し、とことん語り合ったのだ。そんな集いを月一のペースで半年ほど開催したことで、参加したメンバーの頭の中は共通のビジョンで満たされていった。

 ブレーンストーミングを紹介してくれたのは、大阪でIT企業を経営する信徒のSさんだった。私たちは、オープンでフラットな会議の進め方に心躍らせ、未だテキスト主体のパソコン通信主流の時代だったが、インターネットが世界にもたらすであろう強烈なインパクトと、その舞台で光明化運動が展開する大きな可能性に着目して、ブレストを通して見えて来たビジョンを可能な限り具体化して、順を追って書き出してみた。

 手始めに、アトリエ・ハッピーという日本語による生長の家の国際的な交流の場を起ち上げた。その数年後、生長の家本部がホームページをスタートしたのを機に、満を持して宇治本山のホームページを起ち上げ、すでに準備していた同本山の歴史、行事、練成会体験集などを、日本語のみならず英語・ポルトガル語などでも提供した。

 やがてメンバーは宇治から巣立ち、私も本部へと転籍したが、ブレストで体感したビジョンの共有と、創造的に運動を進める悦びは、それぞれが進んだ新たな土地や職場で、新しい仲間を得て生長していった。

 こんなエピソードを紹介したのはほかでもない、一月に東京の各教化部で開催する「“新しい文明”の基礎を作るための企画会議」の前置きである。が、この会議には、秘かに「生長の家イノベーションブレーンストーミング」との副題も含まれている。つまり教区での光明化運動を、幹部の皆さんを一堂に会して共に企画して進めるのである。略式ではあるが今回のブレストは、そのための最適な手法の一つと考えている。

 生長の家が展開する“ビジョン面”については既に「運動方針」に縦横に描かれた。

 そのポイントは天地の「万物を神の生命(いのち)、仏の生命(いのち)として拝む生き方」を世界にひろめることだ。それは“天地一切のものに感謝する(実相を拝む)生き方”を実生活に生きることであり、私たちは神から生長の家に託されたこの実相直視のライフスタイルを、教区の実情に合わせて展開する絵図を描いてみるのである。

 会議に参加できない皆さんも、「天地の万物を拝み感謝する生き方」が、唯心所現の心の法則に乗って、人類に確実に与える光りに満ちたインパクトを、祈りの中でイメージしていただきたい。そして、生活の中で「真理の火」を灯して、次の世代へと“み教えの光”を手渡していくのである。

 

 

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2024年12月 2日 (月)

深化する光明化運動 (2024.12)

 11月の生長の家全国代表者会議を経て、運動の形態が大きく変わる。より実相があらわれた”運動のカタチ“が生まれつつある。

 それは、神の子としての豊かな生活を、より多くの人の中に実現していく運動だ。

 そして私たち一人一人が神の子・人間の自覚を深め、会員や聖使命会員や普及誌購読者を育てていくこと。そしてオープン食堂や地域清掃などの愛行や、「俳句」などの神性を伸ばす文化・芸術活動を実践すること。さらに子どもたちへの無料塾などの諸活動を通して、地域社会に貢献して行こうというものだ。

 

 これを受けて、これまでの各対策部の名称や役割や目標設定も、従来の枠組みとは異なる工夫が求められるだろう。そして教区の運動方針も、地域社会のみならず「地球社会」をも視野に入れながら組織基盤を支えていくことになる。

 そのような事から、今後の三年スパンの運動の基礎を作る各教区での「“新しい文明”を創造するための企画会議」には、ぜひ対面やZOOMなどでご参加いただきたい。

 

 さて、11月には「石上げの行」も東京の各地で開催させていただいた。多摩川や教化部や地元の山で、それぞれの願いを祈念して私も三個ほど石を刻ませていただいた。

 刻んだ「石」を前に神想観を実修していると、まるで神から届く鼓動のようにコツコツと川原で石を刻んだときの鮮明なリズムが祈りの中から蘇り、宇宙大生命に種蒔かれた「願い」が伸び伸びと育っていることを感じる。

 宗教的な「行」は、頭脳知では認識できない神秘的ないとなみだ。神想観も「石上げの行」も、合理主義の眼から見れば箸にも棒にも掛からないように見えるかもしれないが、そんな「行」を通してのみ、五感や六感を越えた宇宙大生命と融合する神秘な世界が開かれるのである。

 

 最近『生命の實相』全篇を再読している。同書に説かれた時を越えて光を放つ中心的真理(宗教目玉焼論の黄身の部分)と、時代の影響を受けて説かれた周縁的真理(白身の部分)との違いを味わいながら見極めていると、総裁先生がお示しくださる文献批判的な”読み方“も、多様性が花咲く時代には重要な意味を持っていることが見えてくる。

 それは、生長の家のみ教えを、今日的な課題に応じてアップデートしていくことの重要性だ。それはジェンダー問題などの現代の諸課題に光りを充て、唯神実相の哲学から丁寧に読み解いていく作業でもある。

 

 文明の狭間で諸問題となって現れているのは、紛れもない観世音菩薩からのメッセージである。この一見めんどくさいように見える作業を避けて通っていたのでは、次世代にみ教えを伝える道が閉ざされてしまうだろう。

 人間の実相は「男でもなく女でもなくLGBTQでもなく”自性円満“な宇宙大生命」すなわち神の子であるとの真理を、折に触れて、次世代へと語り伝えていくのだ。

 この”愛行“は、み教えに導かれて救われた、私たち一人ひとりに托されているのである。

 

 

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2024年10月23日 (水)

微生物が醸す”新しい文明” (2024,11)

 このところ「甘酒」作りにはまっている。きっかけは、ある誌友からの助言だった。彼女は5年ほど前から甘酒を作り始め、いつも冷蔵庫にストックして毎日飲んでいるという。「おかげで風邪一つひいたことがない」と豪語していたが、確かにお肌の色艶もよく、快活でご主人もお元気そうだ。

 これに加え、甘酒は「麹(こうじ)菌によって風味が変化し、豊かな味わいがある」と自作の魅力も語ってくれた。吾が家で使っていたヨーグルトメーカーでも簡単に作れることも判った。

  さっそく麹菌を買い求め、レシピに従ってご飯とお湯を容器に入れてかき混ぜ、これに水と麹菌を加えて攪拌(かくはん)した上でヨーグルトメーカーにセット。発酵のための温度も時間も設定されているので、ご飯を炊くように簡単だ。9時間ほど寝かしたら甘酒が完成する。

  最初の一杯、恐る恐るコップに入れて試飲してみると、いのちが直接いのちに流れ入るような自然な美味しさが全身に広がった。

  これまで、寒い季節には市販の甘酒を買ってレンジで温めて飲んでいたが、自宅で発酵させたものは格別で、作り置きして朝食の定番となった。常温でも、冷やしても温めても、ふくよかな香りと工夫と優しい味わいは深まるばかりだ。

 免疫力が向上したおかげか夫婦ともに基礎体温が上がり、日々のお通じに加え、諦めていた手足の冷えまで解消したのは意外な効能だった。誌友の皆さんにもぜひ自宅での「甘酒作り」をお勧めしたい。

  私たちのカラダは、食べ物のおかげで生かされている。発酵食品は微生物を活用した“ムスビの働き”でもあるのだ。

 昨年から自家製のヨーグルトも作り始めたが、その切っ掛けはテレビの報道だった。酪農家が丹精込めて生産した牛乳が、需給のバランスが崩れて生産過剰となったという理由だけで、大量に廃棄されている衝撃的な光景を見たのだ。

 そんな折、ある新聞のコラムで、ヨーグルトメーカーを使えば、自宅で牛乳を発酵させて各種のヨーグルトを(安価に)作れることが分かったのである。

 遅々とはしているが吾が家でも、自家製の発酵食品のレパートリーが徐々に広がりつつある。今冬は、これまで頂く一方だった「味噌造り」にも挑戦する予定だ。

 このような微々たる営みは一見して無力にしか見えないが、身近な微生物や植物を活用した営みが、日々の祈りと共に豊かな生活を育み、そんな基盤に根を下ろしてこそ“新しい文明”は誰も知らないうちに、見えないところから世界の隅々にまで広がるだろう。

 11月は各教区で「自然の恵みフェスタ2024」が開催される。世界を覆い尽くしたように見える旧文明の土壌を、微生物たちのように密かに根底から発酵させて、オープン食堂をはじめ、健康的で充実した日時計主義のオーガニックの料理を、クラフトを、音楽を、芸術を、祈りの中から醸し出して馥郁(ふくいく)たる香りとともに“新しい文明”を開花させていきましょう!

 

 

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2024年9月26日 (木)

「“神の子”は性別によらず」を読む (2024,10)

 国際本部から一冊の小冊子『“神の子”は性別によらず ~生長の家白鳩会会則改正に伴うジェンダー関連問答集~』が刊行された。同書は、生長の家における「ジェンダー平等」と「性自認」の考え方について、最新の知見を交えてまとめたものだ。

 ジェンダーとは社会的・文化的につくられた性差のことで、これらの考え方は生長の家の運動のみならず、生活のあらゆる方面で倫理的な判断をしていく際の基礎となるだろう。信徒の皆さんはぜひ熟読していただき、男女の「固定的役割分担論」の問題点などを吟味してほしい。

 今回の冊子に関連したエピソードとして、谷口雅春先生が著わした『無門關解釋(むもんかんかいしゃく)』の第十七則に「國師三喚(こくしさんかん)」という公案がある。そこで先生は、戦前の濃厚な男尊女卑の空気の中で、生長の家の二代目の婦人部長をつとめていた宮信子さんの事例を通して“中心帰一”の深い意味を伝えている。

 生長の家の幹部だった宮さんが、良人(おっと)にみ教えを勧めても、なかなか受け入れて貰えず残念に思っていたとき、良人のことを「まだ修養の余地のある不完全者である」と、不如意な現象ばかり見ていた自分に気が付いた。

 そこで、良人の実相のみを観て拝み、み教えを「身体に行ずる」ようにされたところ、家庭に実相が顕れたエピソードを紹介している。

 同書で谷口雅春先生は、宮さんが「良人を自由に動かし得なかった心境と、自由に動かし得るようになった心境とを比較して参究して見らるると得る処が多いであろう」(一四八頁)と述べている。が、我が家でも、長年の家庭生活が事なきを得たのも、この“行間”を夫婦ともに「参究」させていただいたおかげである。ぜひ原本をご参照いただきたい。

 また『維摩經解釋(ゆいまきょうかいしゃく)』には、女人成仏の問題をめぐって、天女と舎利弗(しゃりほつ)との問答がある。そこで雅春先生は、天女に人間・神の子の真意を語らせている。

「人間は『神の子』であるということは、男でもなく女でもないということである。『神は男であるか、女であるか』というと、男でもなく、女でもない。従って神の自己顕現であるところの人間の実相は男でもなく女でもない」(同書三三〇頁)。

 男と女という区分は現象にすぎないのだ。人間は悉(ことごと)く仏であり神の子であるという「自性円満」の真理が、問答の中から浮き彫りになる。


 総裁、谷口雅宣先生は、一九九九年に刊行した『ちょっと私的に考える』の「半身半疑」の中で、生長の家で説かれてきた「魂の半身」という言葉をめぐって深い洞察を述べている。

「『魂の半身』という言葉は、それだけを取り出して考えるのではなく、生長の家の『人間の本質は神の子』という教義との関係の中で理解されなくてはならない。つまり、『人間は一人一人が神のように完全な存在である』という教えと並べて考えてみる必要がある」(同書一九四頁)。

 さて、この度の小冊子『“神の子”は性別によらず』は、これらジェンダー問題を考えるための生長の家の新たな指針であり、次世代に「人間・神の子」の教えを伝えていくための“無の門関”ともなるだろう。

 

 

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2024年8月25日 (日)

時節は今ここに (2024,9)

 恩師の一人である藤原敏之先生のことを、折に触れて思い出すことがある。

 私が静岡で生長の家青年会活動をしていた昭和五十年代、宇治別格本山で総務をされていた藤原先生は、日本教文社から『すべてを癒やす道』『あなたは必ず救われる』『魂のめぐり逢い』などのご著書を、次々と執筆して出版されていた。

 多くの人が藤原先生のご本を通して、み教えの“奥深さ”に触れ、その信仰的な気風を慕い、親しかった先輩たちも「いざとなったら宇治へ」と、身近な信仰の拠り所にしていた。

 私が宇治の門を叩いたのは、そんな昭和五十七年一月の一般練成会だった。前年に研修生の制度が改められ、本部から宇治に転勤していた榎本恵吾先生が指導に当たっていた。

 道元禅師は「時節」という言葉を『正法眼蔵』で用いているが、生涯を変えるような人との出逢いや、人生の転機となる出来事が始まるときなど、この時節が運命の扉を叩き、潮が満ちるように、そこから新たな物語が人生の舞台に溢れてくる。そんな時節があればこそ、私たちは苦海とも見える人生の波濤(はとう)を渡っていけるのだろう。

 藤原先生の場合は、大正末から昭和にかけてこの時節が訪れた。仏教の熱心な信仰者で、社会の底辺で貧民救済に当たっていた清水精一という方に師事したことが、ご著書『魂のめぐり逢い』に記されている。

 かつて清水師は、大学で学んだ後に実業界に入ったが、利潤ばかり追求する経営陣と経営方針を巡って激しい対立を繰り返し、失望して仏門へ。

 比叡山での厳しい修行を経て、さらに深く道を究めるため寺を出て、単身で深山幽谷に分け入り、水と松葉などを糧として修行に励んでいると、猿たちが柿や栗を運び、野生の狼が子犬のように戯れ、争いの絶えぬ人間社会では思いも及ばなかった、生かし合いの世界が、清水師の周りに現れたという。

 藤原先生は、そんな師匠が主催する同朋園で奉仕活動に明け暮れていた折り、一人の女性と出逢う。

 清水師から、結婚するなら家族を養うため園を出て職に就くことを勧められ、師の下を辞した藤原先生は、紆余曲折を経て広島で日本生命に奉職。市内での平穏な暮らしも束の間、三十六歳で戦争に招集され、そのお陰で、疎開した家族は原爆の惨禍から逃れることができた。

 敗戦直後、先生は生長の家の光明思想と出合う。真っ暗だった世界観が一変し、神一元の教えを行じていると、病弱だった妻と娘から次々と難病が消えた。

 地方講師を拝命し、勤めの傍ら、赴任する先々で生長の家を説き始めたという。

 宇治練成で指導に当たっている榎本一子講師(長女)によると、藤原先生にとって生長の家との出会いは決定的だったようだ。

 清水精一という、修行も悟りも社会奉仕も抜群だった師匠に見いだせなかった信仰、それは知識でも経験でも精進努力の量でもなく、「自性円満」の教えが放つ唯神実相の光だった。

 その光は、自我を死に切ったとき、無条件の生かす力となって、すべての人の内に湧出するのである。

 

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2024年7月18日 (木)

俳句と如意宝珠  (2024,8)

 誰でも無料で食事ができる「生長の家オープン食堂」が東京でスタートして二年目に入った。

 新大塚駅にある東京第一教化部、そして西国分寺駅近くの東京第二教化部、それぞれ立地も顔ぶれもメニューもまったく異なるが、運営に当たるメンバー一人ひとりのアイディアが豊かに開花して、多様な果実を実らせている。

「機が熟す」という言葉がある。たとえば、これまで押しても引いてもどうにも動かなかったものが、何かを契機にすらすらと動き始めるときに使われる場合が多い。そんな時は、まるで憑きものが落ちたように速やかに事が運ぶものだが、そこに至るまでには産みの苦しみにも似た困難や、すべてを放り出したくなるような事態を経て、もうだめかと諦めかけたとき、夜明けの燭光がちらちらと見え始め、これまでの歩みが大道へと通じていたことが判明する。

 み教えを通して子育てや育成をご経験された方は、すでに身に染みていらっしゃることだろう。

 長いように見えた冬も、やがて必ず明けて春が来る。暁を見ぬ夜はなく、開かぬ扉は何処にもないのだ。避けて通れぬ“遠回り”のようにしか見えない道のりが未熟な時節には耐え難く感ぜられ、迂回が確実な進一歩だと気づくには随分な時間を要するものだ。

 そんな機微が心の琴線に響き始めたとき、たましいは成熟の機を迎えるのだろう。

 世は、スマホでのSNS全盛の時代だ。そんな渦中、総裁先生は「生長の家ネット俳壇」をスタートしたことをフェイスブック上で紹介されていた。SNSや俳句に共通するのは「言葉」である。言葉は、丁寧に育てれば内部に秘めた無限のポテンシャルを開花させるが、それは不毛の大地に咲くのではない、そこには必ず豊かな土壌があり、種を蒔く人、見守り育てる人、そして果実を稔らせる舞台があるのだ。

 いわばネット俳壇は、現代の叡智の道場であり、「季語」を介して研鑽し新価値を生む自然と人間との“ムスビの場”でもある。

 七月のお題は「夏休」と「夕立」という身近で懐かしい季語が兼題として挙げられた。これを皮切りに、リアルな普及誌の俳句コーナーとコラボして、「言葉の創化力を駆使した」日時計主義の新たな運動が展開するだろう。

 コトバのチカラは俳句を創るだけにとどまらない。どん詰まりだった人生を好転させ、不毛にしか見えなかった境涯に大光明をもたらし、たましいの底に眠っていた仏性の種子、すなわち如意宝珠(いのちのチカラ)を縦横無尽に開花させるのだ。季語のことだまを豊かに生かす俳句が、神想観の補助行となる由縁がここにある。

 ネット俳壇も普及誌もすべてはあなたのために準備された「神の子・人間」を研鑽する舞台にほかならない。投稿のため、珠を磨きあげるように作られた俳句は、あなたの人生を如意自在に光明化する宝珠となって結実するだろう。

 

 

 

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2024年6月25日 (火)

托されたご使命は? (2024,7)

 昨年から、都内の各地で講演会などの諸行事を開催して一年が過ぎた。

 ある会場での質疑応答で、意外なご質問をいただいた。それは「教化部長が家庭で経験してきた夫婦調和の体験について(どう乗り越えたのかその方法を)お話いただきたい」といった意味のお尋ねだった。

 私は「来月、妻が教化部で講話しますから、それとなく訊いてください」とお答えしたのであるが、谷口雅春先生は米国でのある講演会で、病気治しの方法についてのお尋ねに、「no method」とお答えになったという。つまり病気を治すのに「特別な方法などない」というのだ。

 これは夫婦調和の方法についても同様であろう。「方法」は幾らでも語れるかもしれないが、変えなければならないのは「方法」ではなく、隣人や私たちを取り巻く世界を、どう観るか、ということである。

 観世音菩薩は「夫となり妻となり、或いは兄弟姉妹となり小姑ともなり(中略)下役とも同僚ともなりて、常に何かを語り給う」(観世音菩薩を称うる祈り)と、教えていただいている。

 つまり対境は、映し鏡のように私たちのたましいの姿が、そこに見事に現れるのである。しかもそれは、私たちを救い給う仏の「大慈悲である」とまで説かれている。

 生長の家が「天地一切のものに感謝せよ」と説くのは、天地一切のものは神と神の現れであり、人間も、山も川も草も木も、神から出た荘厳な光りであるからである。

 一方「神」の側から見れば、神の光りである天地一切のものは、無条件に神に愛され、生かされ、祝福されていればこそ存在しているのである。

 神が造り給うた実相の世界では、すべてが円満具足し、無条件に生かされていて、そこには駆け引きもなければ、調和するための「方法」などなく、ただそのまま拝み合う感謝の世界だけがあるのだ。


 これも同じ会場で頂いたご質問だが、ある誌友の方が、20年以上も前に録音した私の師匠と思われる方の講話テープを聞いていたそうだ。すると『甘露の法雨』の一説、「罪を犯さんと欲するも罪を犯すこと能わず」「病に罹らんと欲するも病に罹ること能わず」を引用され、次に何か語り始めたところでテープが切れた。続きはどうなったのか、ずっと気になって仕方がない、ぜひお話いただきたい、という。

 さすがは師匠、聴者の心に大疑団が生ずれば、その講話の目的は達したようなものである。が、老婆心豊かな私は次のようにお答えした。

 私たちの実相は「自性円満」である。そのまま円満完全な光りである。罪が近づけば罪が成就して人を導く豊かな智慧が光りを放ち、病が近づけば、やがて必ず健康へと転じて人を癒やす働きとなる。

 だから罪から救われた人、病が癒やされた人、経済や愛憎問題が解決した人、それぞれに神(宇宙大生命)から托されたご使命があるのだ。それが生長の家の“聖使命”である。

 はて、あなたが托されたご使命は、なんでしょうか?

 

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2024年5月26日 (日)

三好講師からの助言 (2024,6)

 西行法師は「願はくは花の下にて春死なむその如月(きさらぎ)の望月(もちづき)のころ」と歌ったが、古歌をたどるように一人の先達が先般霊界へと旅立った。

 かつて東京第一教区でも教化部長を務められ、本部練成道場と富士河口湖練成道場の主管だった三好雅則講師のことは、『いのちの環』の「悠々味読」連載や、ビデオ講話などでその人柄に接した方も多いと思う。私も、折に触れてご縁をいただいた一人だが、思い出を辿りながら追悼の言葉としたい。


 私は二度ほど、生長の家教修会の発表講師として登壇したことがあった。最初は2004年、万教帰一の考え方に似た「宗教多元主義」というキリスト教神学ついて、世界の宗教や心理学などを織り込んで論文を書かせていただいたが、ある程度原稿がまとまった折、当時の上司だった三好講師に助言を頂くためご覧にいれると、ゆっくり全体に眼を通された後に、ひらめくままに参考文献などを示唆してくださった。

 それは、真理の森を逍遥してきた碩学ならではのアドバイスで、多くの添削者がやるような土足で侵入して文章を切り刻むようなものとは全く異なり、拙い表現の奥にあるアイディアを尊重して、言葉の自然な成熟を見護るような優しいスタンスだった。

 次に発表の機会を得たのは2013年“森の中のオフィス”の落成を記念しての国際教修会だった。三好講師とは部署も変わり、直接ご指導をいただくことはなかったが、私が発表を終えた後の食卓で正面にお座りになり、私が論文に密かに組み込んだ発見をまっすぐに受け止めていて、感慨深く感想を語ってくださっていたことを、昨日のことのように思い出すのである。

 思えば、本部の広報・編集部で初めてご縁をいただいて以来、私の中で三好講師は一人の大切な想定読者となり、私の綴る言葉の真価を確かめる試金石の役割を担ってくださっていたように思うのである。

 2016年、私が八ヶ岳の国際本部から、東京第二教区に教化部長として赴任する折のこと。当時、運動推進部長をされていた三好講師から、ある助言をいただいた。「教化部長になったら『「正法眼蔵」を読む』を、信徒の皆さんに講義したらいいですよ。私も大変に勉強になりましたから」。なんの疑いもなく、素直に「ハイ」と引き受けて以来、東京第二教区、そして兼務となった埼玉教区と群馬教区で計六年ほど、毎月欠かさず講話をさせていただいた。

 講師の皆さんはご存じのように、唯神実相の哲学を「読む」ことと「講義」することの間には、天地の開きがある。

  その広大な空隙には、無尽蔵の発見と、数知れぬ苦悩と、悟りの悦びが満ち溢れ、その体験を語ることで生長の家講師としての使命が生きられ、み教えの“深み”である“久遠を流るるいのち”が後世へと伝えられる。三好講師の助言のおかげで、何よりも私自身が救われたのである。
 
 碩学の大人(うし)を悼む薄暑かな
 百薬(どくだみ)や祐筆の大人(うし)偲ぶ庭

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2024年4月22日 (月)

神と共にありて (2024,5) 

 先般、たまたま家族が集まり、近くの河川敷まで花見に行くことができた。野に出て、咲く花を愛で、蓬(よもぎ)を摘んだ。そんな翌朝のこと、神想観しているとき、ふと「人生で今が最高のときなんだな」ということに気がついた。

 それは、わが家のことだけではない。人と人とが出逢うこと、共に時を過ごすことの掛け替えのなさ、それが独りで迎える一日であったとしても、私たちがいつも神と共に在ることが分かれば、天地のすべてが家族であり、すべての出逢いが最高の時となる。

 人が生きて生活させていただく“あたりまえ”のことのなかに神のいのちが豊かに充ち“奇蹟の時”が、泉のようにあふれ出ているのだ。

「足るを知る」という言葉がある。それは日常の“あたりまえ”と見えていたものが、決してあたりまえに存在していたのではなく、その背後に不思議な神縁と、不可視の世界からの恩寵に包まれていた真実に、心の眼がひらくことを言うのであり、日時計主義の生活がここから始まる。

 幸福を外に求め、条件が満たされることのみに幸せを見いだしている間は永遠にそれに気付くことはできない。

 無一物のまま、すでに一切が与えられている実相に眼を向けて、身近な人や物や出来事に感謝していれば、すべてのものが神に由来した物語りを語り始める。

 イエスは「人はパンだけで生きるのではない。神の口から出るすべての言葉によって生きる」(マタイ四:四)と語っている。

 コトバは、私たちのたましいの糧であり、人生を創造する力である。コトバほど味わい深いものはなく、それは祈りとなり、音楽となり、絵画や文学などの芸術となり、あらゆる宗教や事業や活動となって世を照らすのである。

 アフガニスタンで命を落とした中村哲氏の遺文『希望の一滴 中村哲、アフガン最期の言葉』を読んだ。同氏のことは以前にも紹介させていただいたが、脳神経科の専門医だった中村医師が、専門外のハンセン病患者の救済のため一九九〇年代からアフガニスタンに妻子を連れて赴き、現地に溶け込んで幾つかの診療所を開設していた。

 そんな渦中、米軍による空爆と、気候変動による渇水に見舞われ、疫病と飢餓に苦しむ同地の窮状を見かねて、現地の人々と共に1600本もの井戸を掘り、65万人のいのちを支える用水路を建設するなど、治水事業に携わった。同書にはそれら生きた記録が、所感としてまとめられている。

 かつて、私たちの身近にあった「天与の恵みを疎(おろそ)かにせず、大地と共に生きる生活」が、ページを繰り、読み進むごとに眼前によみがえり、洋の東西を越えた太古の人々のコトバが、同氏の体験を通して読者のいのちにずしんと響いてくる。

 宗教を越え、国境を越えた人と人との繋がりの中から、私たちに授けられた天与の使命について、いつしか、心の眼がひらかれる。そんな天啓の書でもある。

 

 

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2024年3月25日 (月)

俳句と言葉の力 (2024,4)

 3月のある日、行きつけの文具店に万年筆のインクを買いに行った折、街路に馥郁(ふくいく)とした香りが漂っていた。ほのかなにおいに導かれていくと、そこにはお香の老舗(しにせ)が出店した移動販売があった。

 お香には侘(わ)び寂(さ)びの“抹香臭い”静的なイメージがあったが、街路での積極的な移動販売は新鮮な驚きで、しかも風が強い日にもかかわらず、香りに惹(ひ)かれたお客さんがひっきりなしに訪れ、店員さんがその応対に追われていたのだ。

 聖書には、「人は灯火をともして升(ます)の下におかず灯台の上におく。かくて灯火は家にある凡ての物を照すなり」(マタイ5-15)とあるが、どんな老舗も旧弊(きゅうへい)を捨ててしまえば、街路でも風の日でも良いものは衆目に触れて、隠れていた真価が顕わになるのだ。生長の家オープン食堂も、回を重ねる度にその真価に火が灯り、多くの人々のたましいを明るく照らすだろう。

「神・自然・人間の大調和祈念祭」に参列するため、十年ぶりに原宿「いのちの樹林」に足を運んだ。私は御祭の後でPBSミニイベント「春のスケッチ」を開催する予定で、参加する皆さんにも画材の持参を呼びかけて講話の準備も整えていたのだが、当日の総裁先生のスピーチは、なんと「俳句の勧め」だった!

 人生には、計画していた事とはまったく異なる道へと運命が展開し、そこに不思議な必然性が生ずることがしばしば訪れる。が、今回もそんな展開に見舞われた。

 総裁先生は、「俳句は私たちの信仰と深く結びついている」ことに触れ、「朝顔や つるべとられて もらひ水」など数句を紹介されて、これらの句には神・自然・人間の一体性が見事に描かれており、皆さんに「観行の補助行として俳句を詠(よ)むことをお勧めする」と語っていた。

 このスピーチを受けた私は、「第一回いのちの樹林、句会にようこそ!」と参加者に呼びかけると、原宿の会場はどっと湧いて句会の開催となった。

 総裁先生は、日本列島には一万年以上も人々が生活してきた歴史があり、四季の変化が著しいその風土から生まれた俳句には、五千を越える季語があると紹介されていたが、「季語」には、どうやら深い言霊(ことだま)が満ちていて、それは詠むことで、時を超えて「今・ここ」に蘇るようである。

 かつて学生時代「現代俳句講座」という授業を受講した折、哲学者で俳人の大峯顕(あきら)氏が「言葉は存在の家である」というハイデガーの言葉を紹介され、「花を詠めば花が出てくる。天狗を詠めば天狗が出てくる」と語っていたことが強く印象に残っている。どうもその道の人には、“言葉が世界を創る”ことは周知の事実なのである。

 俳句や和歌などの言葉の結晶を通して古人と出逢い、たましいを磨き鍛錬することは、人生そのものを、如意自在に光りへと変容させる「言葉の創化力」を豊かに覚醒させるようである。季語などの言霊を駆使する俳句を“神想観の助行”とする所以(ゆえん)であろう。

 啓蟄の水面(みなも)に満ちる息吹かな 繁(樹林にて)

 

 

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2024年2月24日 (土)

“絶対善”の世界 (2024,3)

 本欄をご覧になっている皆さんは、生長の家で「人間・神の子」の教えと出逢い、本当の人間は肉体などではなく、「神さまの完全円満ないのちである」との教えに触れて、無限智、無限愛、無限生命の実相に目覚めた方も多かろうと思う。

 これは聖典に採録されていた話だが、生長の家の教えに感銘したあるご婦人が、「自分だけこれを読んでいるのはもったいない」と、夫や家族に勧めてみたが、全く関心を寄せてくれない。

 そこで谷口雅春先生に、「どうしたら読んでもらえるでしょうか?」とお尋ねしたところ、先生は「ご自分の生活で、生長の家を読ませてあげたらいいですよ」という意味のご回答をされていた。

 どんなに「善い」と確信したことでも、その人が“善き果実”を生活に実らせていなければ相手にされないだろう。しかしその生活に、智慧・愛・生命の光りが輝いていれば、黙っていても、誰もが強い関心を寄せ始める。これに和顔、愛語、讃嘆が加われば鬼に金棒だ。

 生長の家の教えは、「日時計主義」の生き方、感謝の生活、そして日々の神想観と教えていただいている。

 これらの「行」の目的は“絶対善”の神のいのちを生きることである。その「行」から、実相の豊穣な世界が動き出し、あなたの神の子の使命に“真理の火”が灯され、出逢うすべての人に物に事に「神のいのち」が花咲き始めるのだ。

 かつて生長の家では、宗教的な運動の成果を表すための目安として、即物的な「数」に運動を換算して評価する時代が続いていた。しかし、宗教的な救いや、癒やし、慈悲や感謝、といった不可視の神の働きは「数」に置き換えようもなく、無量無数に生まれた新価値は“網の目”からこぼれ落ちていたかもしれない。

 これら評価の歪みを改善するために、「聖使命会員数、普及誌購読者数、組織会員数」を成果として強調する運動を廃止したことが、2月5日付の通達で伝えられた。

 これは、昨年スタートしたオープン食堂など「与えること」に宗教上の重要な意義を認め、より神意に叶った運動を展開するための改革である。

 が、改革の背後に密(ひ)そむ神意を深く凝視すれば、「廃止された」のは「数」を成果として強調する運動であって、「神のいのち」である“真理の火”を伝える運動は、この改革の中から、より鮮やかな姿で誌友・信徒の信仰生活に蘇るだろう。そして四無量心の「行」を実践する随所で、純粋な愛行が春を迎えた野山のように花咲き始めるのだ。

「地方の信者たち互いに団結して祈り合え」とは「懺悔の神示」に説かれた言葉である。祈り合いは、私たちの前に顕れた“神のいのち”に感謝し、拝み合い、慈悲喜捨を行ずることである。

 思えば、天地一切のものに神ならざるものはひとつも無いのであり、その「絶対善」の実相は、あなたが生きる随所で智慧となり、渾てを生かす愛となって“新価値”を創造するのである。

 

 

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2024年2月 1日 (木)

観世音菩薩からの警鐘 (2024,2)

 生長の家では「観世音菩薩は、あらゆる姿とあらわれて私たちに救いの説法を宣示したまう」と教えていただいている。

 それは特別な人だけが“説法”を聴けるのではなく、神想観を通して心の耳を澄ましてさえいれば、誰でもそれを聴くことができるのである。
 世界にある真っ当な宗教の「教え」は、その“声なき声”を深く傾聴したところに生まれてきたのであり、そこに各宗教に受け継がれた「行」の実践があり、そこからすべてを生かす愛や智慧が湧出するのである。

 元日に石川県で能登半島地震が発生し、翌二日には羽田空港で、日航機と海上保安庁の航空機が衝突して炎上するという大事故が起きた。

 自然災害と人的災害と原因を異にしているが、何れも観世音菩薩の“声なき声”としてこれを傾聴することから、私たちが取り組まなければならない課題が見えてくるはずである。

 能登半島地震の報道から私が教えられたことは、普段からの①水や食料の備蓄。②近隣の人たちとの心の絆。そして③災害時を想定してのシミュレーションの大切さである。

 例えば、「水や食料の備蓄」は、内閣府のガイドラインでは3日分以上が基本とされている。その根拠は、人命救助のデッドラインが72時間(3日間)であることから、発災した当初の行政は救助・救命を最優先するため、自身や家族を守るためには最低でも3日分の食料を備蓄する必要があるのだ。

 また、関東大震災級の大規模災害を想定した場合は、「一週間分」以上の備蓄が望ましいとされている。

 能登でも、発災後の数日間は行政の支援が行き届かず、電気も水道も止まり困窮に耐えている人たちに、地元の一人の主婦が、ご自宅のガソリンにも事欠く中で「飲料水」を軽トラに積んで明るく配っている姿がニュースで報道されていた。

 自然災害は“想定外”なことばかり山積すると思われるが、近隣の人との「心の絆」の大切さが浮き彫りになる光景だった。

 神仏に導かれて生きる信仰者には、随所で一隅を照らすことが求められるだろう。大切なのは、どんなに悲惨と見える状況の渦中にあっても、そこに一縷(る)の光明を見出して新価値を湧出させる智慧と、艱難を光明へと転ずる逞(たくま)しい力である。

 もし自身が、発災後に難を免れていたのであれば、周りやご縁ある人との絆を築いておけば、機に応じて縦横にお役に立てるのである。

 神想観とは神との対話でもある。朝夕の祈りの時間にどんなことでも神に委(ゆだ)ねていれば、ヒラメキや、直感や、ふとした行為となって日々導かれるのだ。

 それは自我(ego)中心の意識が、神の子・人間へと次第に目覚めて生長する過程でもある。

 その“祈り”を通して経験する心の深い振幅が、やがて魂を豊かに円熟させ、被災時に限らず人生の随所で家族やご縁ある人々を導くのである。

 

 

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2023年12月28日 (木)

祈りの時間 (2024,1)

 私が神想観の修行を始めたころ、といっても四十年も前のことだが、祈りは、懐かしい音楽を聴くのに似ていることに気がついた。

 それは、「世界平和の祈り」をしているときだったが、ひび割れた地表に降り注ぐ春の雨のように、魂を静かに潤す調べを、私は朝に夕に聴き続けていたのだ。

 その温かく柔かな光りに、ぽっかりと開いた魂の傷が包まれ、今にして思えば、それは観世音菩薩の慈悲に触れていたのである。

 四無量心を行ずる神想観の中に「一切衆生の苦しみを除き、悩みを和らげ」という言葉がある。

 ある講演での質疑応答で、この祈りの言葉について参加者から、「なぜ“苦しみは除き”なのに、悩みの方は消されずに“和らげ”なのでしょうか」と尋ねられたことがあった。これは、そのまま「神はなぜ、病や老いや死を、消し去り給わないのか」という問いにも聴こえてきた。

 魂にトゲのように深く突き刺さったように見える病気や、自身では到底解決できないと思われる苦難に見舞われたとき、神想観という「祈りの時間」を経ることで、それが簡単に消されることなく、魂をどん底まで掘り下げる機会となっていのちを錬磨していたことが見渡せて来るのだ。

 神想観を始めるまでの「時間」は、私たちとは無関係に経過していくように見える。でも、「時間」こそが、私たちの魂を包む仏の慈手であり、魂を伸びやかに生長させる神の懐であることが、「祈りの時間」を経ることで観えてくるのである。

 出来損ないのやっかい者としか見えなかった私のような者たちすらも、「祈りの時間」は“業”のすべてを抱擁し、罪や苦しみを溶解して、彼が今生で果たすべき使命へと変容させる。

 その「時間」の深い慈悲と融合するのが信仰であり、生長の家の神想観である。

『人類同胞大調和六章経』の「愛行により超次元に自己拡大する祈り」の冒頭には、「人間は宇宙遍満の普遍的大生命の“生みの子”である」と説かれている。宇宙大生命こそが、あなたの実相である。

 祈りの不思議な働きによって、私たちの苦しみが除かれ、悩みが和らげられるのは、生きとし生けるものに注がれる神の愛や仏の四無量心の光りが、自身(の実相)から発していたことに気付くからである。

 その厳かな事実に触れ、架せられた使命と、実相の大地に立つ安らかさとが、「愛行」となって全てのご縁を豊かに潤すのだ。

“新しい文明”が展開する令和の御代の愛行が「オープン食堂」や「PBS活動」である。これに参加して実践するだけで、五欲に支配された“自我中心の卵の殻”が破られ、宇宙大生命なる神(実相)を中心とした、神の子・人間の生き方へと転換していくのだ。

 気付けば、苦しみがいつの間にか除かれ、病が癒やされ、悩みが和らげられていく。生長の家の修行は“与えれば却って殖える”ムスビの実践である。それが大乗の教えを現代に生きる、生長の家の“楽行道”である。

 

 

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2023年11月30日 (木)

言の葉の森から (2023,12)

 読書は、私のたましいの糧だ。

 通勤電車、自宅やスタバ、眠りにつくまでの寝床。同じ時期にそれぞれの場所に適した本を読んでいる。

 仕事がら、講話のテキストを読む時間とのせめぎ合いになる場合が多い。しかし糧は必要だからギリギリまで読んでいると、双方のテーマが深い所で繋がり合ったりするから“言の葉の森”への逍遥(しょうよう)は尽きない。

 今回は、自宅や寝床で読めそうな本を紹介したい。

 

 先ずは中村桂子著『老いを愛づる』(中公新書ラクレ)。

 中村さんは『いのちの環』七月号にインタビューが掲載された生命誌研究者だ。

 かつて八〇年代、『VOICE(ボイス)』(PHP研究所)誌上で科学と文明を結ぶ切り口で彼女がコラムを連載して以来、私はファンになった。

 そんな中村さんが八十六歳を迎え、「『老いる』ということを生きることの一場面として捉え、年齢を重ねたがゆえに得られたこと」を綴った、というから見逃せない。

「暮らしやすい社会」を実現するためには、

「『人間は生きものであり、自然の一部』という考え方をすれば暮らし方を変え、二酸化炭素の排出を抑えることができる」と語る科学者の眼差しは、人間のみならず地球生命全体に及んでいる。

 

 次の本は養老孟司さん(八十五歳)と下重暁子さん(八十六歳)の対談『老いてはネコに従え』(宝島社新書)。

 共に八十路を越えたお二人は、齢を重ねるにしたがって視野は広がり、逞(たくま)しい着想は現代社会に鋭く切り込む。

 たとえば次の対話は次世代への老婆心がつのり、困難な時代を生き抜く智慧がほとばしる。

養老 このままいくと、アメリカの属国のお次は中国の属国になってしまうかもしれない。だからこそ『それぞれの地域の自立』が大事なんです。支配されたくなければ、地元で自給自足できる社会をつくることですよ。自分たちの周りでしっかりと食べていければ、ほかの国がいくらお金をだそうとも『関係ねえ』って話ですから」。

下重 うん、それこそ人口なんて少なくていいから、小さな独立国を目指す。地元で自給自足できるコミュニティがいっぱい出来るっていいんじゃないの」。

 戦中戦後を見つめてきた者のみが語り得る、美しく豊かに生きぬく智慧が満載だ。

 

 最後は、数年前アフガニスタンで凶弾に倒れた中村哲医師の『わたしは「セロ弾きのゴーシュ」』(NHK出版)。

 かつてハンセン病根絶を目指して現地に赴いた医師が、なぜ空爆後のアフガンに留まり、病気と干ばつに苦しむ農民たちのため井戸を掘り、水路を掘削し、六十五万人もの命をつないだのか。

 中村医師は、「遭遇する全ての状況が――天から人への問いかけである。それに対する応答の連続が、即ち私たちの人生そのものである」と振り返る。

 諍(あらが)いがたい運命を受け入れ、懸命に生きた半生を穏やかに語る彼の眼を通して、天命に従った数多(あまた)の人間たちの真実に向き合わされ、ゴーシュの魂が私たちの内によみがえる。

 

 

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