ESSAY

2017年8月26日 (土)

久遠の青春を

 西国分寺の史跡通りに咲く桜を見て、教区に赴任してからの日々が脳裏をめぐった。

 振り返れば、この地に来てから多くの皆さんと出会い、雲のようにアイディアが生まれ、会議での語らいの中から、いくつものプランが実現していった。そして、見えないところでどれほど支えられ、活かされ、導いていただいたことだろう。
 それもこの一年という日々があればこそのムスビ(神縁)であり、実りであることを実感している。

 先般、地域で行われた「熟年の集い」に指導に行った折り、参加者から「若さを重ねて、歳を重ねる」という意味の言葉を紹介していただいた。ここでいう「若さ」とは、魂を〝あらわ〟にして生きる、とでもいった意味ではないかと思われた。
 その〝若さ〟とは年齢のことではなく、生きている限り誰の内にも内在している〝いのち〟のことである。

 これを植物にたとえれば、新緑の季節には樹齢何百年の大木でも、その枝の先端の部分まで隈(くま)無く芽吹き、花の季節になれば細かな枝の先々まで、可憐(かれん)な花を咲かせているではないか。
 いのちとは、たとえ数百年、数千年を経ても、常に瑞々(みずみず)しく、柔らかで、豊かな感受性にあふれているのだ。
 私たちは、いのちそのものを包み隠さず〝あらわ〟にして生きるとき、常に若々しく、驚きに満ちて、新たなものとの関わりに興味と悦びを感じることだろう。この生命そのままの相(すがた)を、楽に、自由に、伸び伸びと生きるのが生長の家の人間・神の子の生活である。

 また、「若さを重ねる」とは、新発見の連続ということである。それは、日々訪れるこの世界の不思議から、素直に学び、驚き続けるところに見出す人生の最良の宝物である。
 生長の家の観行、誦行、愛行の中身とは、この神秘の扉をコツコツと叩き続けることにほかならない。これを怠(おこた)るところに倦怠(けんたい)や衰退(すいたい)が感じられるように見えるのであるが、これは魂が〝あらわ〟になっていないだけのことであり、年齢とは無関係である。
 生長の家の教えを生きる者にとっては、日々の当たり前と見えていることの背後に、久遠の青春の源泉がいつも湧出しているのだ。

 私たちは、「歳を重ねる」ほどに、いよいよ神の嬰児(みどりご)として蘇(よみがえ)るのである。
 イエスがベツレヘムの場末の馬小屋にあった飼い葉桶(ばおけ)の馬槽(まぶね)に生まれたように、また聖徳太子が厩(うまや)の前で生まれたという伝説も、それはたとえどのような場所でも、またどんなに劣悪な状況でも、条件を整えてからではなく、いつでもどこでも神の子のいのちは無原罪の相(すがた)で光輝燦然(こうきさんぜん)と誕生する、ということの象徴である。

 み教えは、「常に今が吉日である」と説く。思い立ったときが、ものごとを始める最良のとき。善きことをはじめるのは、常に「今」である。いま起(た)とう、そして善きことを今はじよう。そこから久遠生命の扉が開かれるのである。

    2017年4月25日(火)

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2017年1月30日 (月)

仏心について

「実にこの世においては、怨(うら)みに報(むく)いるに怨みを以(も)てしたならば、ついに怨みのやむことが無い。怨みをすててこそやむ。これは永遠の真理である」(発句経)

 「怨み」とは、私たちの無明(まよい)が掴(つか)んだ「執着」のことである。執着を解き、掴みを放つことから、怨みなき世界があらわれる。

 たとえば、私たちが誰かに対して望んでいることが、祈っても、突ついても、言葉で諭(さと)してもいつまでも動かず叶(かな)わないように見える場合があるのは、誰の責任でもない。それは三界唯心によって、自分の心が認めたものが繰り返し現れているだけに過ぎない。

  これを打開するためには、自分が握(にぎ)っている「都合」を捨て、「執着」を捨て、「我見」を捨て、ただただ実相を拝み感謝し喜ぶことである。

 こちらが無条件になれば、相手も無条件に、実相(ほんとうのすがた)をあらわすのである。

 宇治本山の総務をしておられた藤原敏之先生は、ご著書へのサインに、「唯(ただ)有り難い」「唯嬉しい」「唯楽しい」などの言葉を綴られ〝無条件の感謝〟について提唱して仏心を伝えていた。

 無条件とは、一切の怨みを捨て、あらゆる執着を捨て、相手を根底から赦(ゆる)す捨徳の実践である。

「現象無し!」と無条件に赦して感謝して喜びお礼を言う心境になれば、住む世界が一変するのだ。

  無条件になるとは、神の前に幼な兒(ご)となることである。現象的な何もかもを脱ぎ捨てることである。

 生長の家の教えは、これから神想観してから、聖経を読誦してから、修行してから「神の子」や「仏の子」になるのではない。私たちは初めから自性円満な神の子なのだ。

 神の前に幼な兒となるとは、外から何かを付け足さなければ完全になれない、というような一切の現象的な条件(無明(まよい))を脱ぎ捨てて、神の前に臨むことである。素っ裸になって神の懐(ふところ)に抱(いだ)かれることである。

  〝無条件〟になれば、天地のすべてが、その実相を顕わにする。
 それは深い眠りから私たちが覚醒するように、蝉(せみ)が旧い殻(から)から脱皮するように、私たちは「自我」という旧我の殻を脱ぎ捨て、いのちの本来の相(すがた)に目覚めるのである。

  幼な兒の心になって天地に願えば、天地の渾(すべ)てをもって応え給うのが仏心である。生長の家の「天地一切のものに感謝せよ」とは、天地一切が〝仏のいのちであり、初めから大調和している〟という教えである。

  仏心に生かされて生きることほど楽で自由なことはない。

 自分が頑張ることを止め、仏の慈悲喜捨に帰一して生かされるのである。

  仏心に生かされるとは、「すべてを仏の家に投げ入れて生かされ」ることだと道元は伝えている。

 仏心とは私たちと離れたところにあるのではなく、私たちは仏心から生まれてきたのであり、仏の四無量心は私たちの〝本念の願い〟なのである。

 故に愛を生きるとき、慈悲を生きるとき、私たちが楽になるのは、それこそが本来の相(すがた)であるからである。  

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2015年4月12日 (日)

「言葉の力」

青少年の可能性を豊かに伸ばす『日時計24』という日本教文社刊の雑誌No.61(4月号)に、「言葉の力」というテーマで短いエッセイを寄稿しました。

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 コトバは、人の運命を変える不思議な力を持っています。

 長い人生には、ときに夢が砕け散り、挫折し、死にたくなるようなこともあるかもしれません。

  そんなとき、あなたの魂に深く響くコトバを紐解くことを忘れないでください。

  そのコトバはあなたの行く道を照らし、あなたの心の翼を甦らせ、あなたを人生の表舞台へと導くことでしょう。

 そのコトバは、ネットで検索することも、友人から気軽に聴くこともできません。

  なぜなら、運命を一変させる力を持つコトバは、深い祈りと愛を生きた人々から発しているからです。

  それは時代を越え、国境を越え、民族を越えて、まるであなた一人に遺したメッセージのように命に鳴り響き、貴方が何者であるかを示してくれるはずです。

 そのためには深い言葉の海に遊び、偉大な宗教家や思想家と親しく交わる不思議な時間をたっぷり過ごしてください。

  その経験はあなたの糧となり、遙か未来を見通す心の眼を啓き、夢を叶えるチカラを授けることでしょう。

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2015年1月31日 (土)

薪ストーブのある暮らし

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 八ヶ岳で暮らしはじめて二度目の冬を迎え、わが家でも“薪作り”に励んでいる。

「わが家でも」というのは、生長の家本部の移転とともに一緒にこの地に越してきた大泉の寮に住む皆さんも、同様の作業に励んでいるからである。

 この時期に割る薪は、春に使うものも含まれるが、ほとんどは来冬に備えてのものだ。

 昨年は一人で黙々とこの作業をやることが多かったが、最近は二人の息子たちも手伝うようになった。

 わが家での作業は、まず私が薪の原木(クヌギやナラ)をチェーンソーを使って約40センチ単位の長さで玉切りにする。

 それを長男(中3)と次男(小6)が斧で割り、この薪を、私が井桁に組んで塔のように積み上げるという手順で、現在は庭の空きスペースに10~20ほどこの塔らしきものが建立している。

 これらは1年ほど乾燥させて、順番に薪棚やガレージに収めていく予定だ。

 思えば、東京(都会)に住んでいたころは小・中学生の男子が、本気で全力を出して“家の手伝い”をする機会など、ほとんどなかったのである。

 しかし八ヶ岳の田舎では、雪かきに始まり、畑、薪割り、そんな機会は頻繁にある。だから小・中学生が生活の中で“男子”ならではの役割を果たすことができて、家庭での彼らなりのポジションが少し見えてくるようだ。そのおかげか、食卓の空気が清々しい。

 八ヶ岳に越して1年半。周期的に訪れる氷点下10度の朝や、信じ難いほどの積雪の渦中で、わが家に暖をもたらす薪ストーブの“ありがたさ”はひとしおで、最近は料理の煮炊きにも欠かせなくなっている。

 薪割り、薪運び、薪の焚きつけ、料理という一連の作業を通して、「人」と「炎」との原初的な繋がりを、親も子も身をもって体感することができるのは、他にどんなに不便なことがあったとしても、子供たちにとって掛け替えのない経験となるであろう。


 振り上げた一斧のもと、いっきに薪を割る爽快感は、弓道で的を射貫くことや、「居合」で巻藁を一刀両断することにも似ていて、冬ごもりのストレス解消にもなる。

  わが家ではスポーツと化した「薪割り」だが、寒風の中ひたすらチェーンソーで原木を“玉切り”にしてわが家の“男子”たちが割りやすいように積み上げ、さらに彼らが割った薪を、次は黙々と積み重ねて塔作りに励むだけの私は、まるで“賽の河原”にいるような気分になるときがある(^^;

 しかし幸福とは妙なもので、落ち着いてよくよく周りを見渡せば「炊煙春の霞の如く棚引(たなび)」く常楽の世界が、いつの間にかここに実現しているようだ――

 雪どけの春、花咲き鳥歌う夏、山脈が赤く染まる秋、降雪と薪ストーブの冬
 ―― 

 大自然に寄り添い、それがもたらす恵みや艱難と豊かに戯れること、そのことが実は、人間の人間たるものを熟成させて、私たちの内に密(ひそ)む真価値を練成して、来たる春への準備をしているのではないか。降る雪を見つめながらそんな“想い”がめぐっている。


2015年1月31日

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2015年1月26日 (月)

季節が変わるように

 八ヶ岳の“森の中のオフィス”では、毎月「自然を伸ばす活動」という作業が行われている。

 この作業はどのようなものか、というと、オフィスで働く生長の家の職員が、この地での“自然との共生”を実践するもので、森林整備、キノコ狩り、畑作り、雪かきなど、人が自然と係わる活動全般のことである。

 1月の中旬、雪の降る屋外でこの作業が実施され、当日は鹿たちが食い荒らした畑の整備と、農事倉庫前の“氷割り”が行われた。

 私は後者に加わったが、これは溶けた雪が地面に何層にも凍り付いて固まったものを、大きなアイスピックや鉄バールで砕いて除去するという、標高1350メートルの八ヶ岳山麓ならではの作業なのだ。

 小さなスケートリンクのような氷の盤面が広がり、シンプルに氷結した箇所は、かんたんに氷を割って剥(は)がすことができるものの、複雑に入り組んで氷結した箇所はどんなに力を込めて叩いても盤踞して剥がれない。アイスピックを両腕で持ち、腕と腰に力を入れて、リズミカルに繰り返し砕き続けるほかないのである。


 この作業を2時間ほど黙々と続けているとき、東京にいた十数年間に、生長の家講師として相談を受けたさまざまな「個人指導」のことを思い出していた。

  その人の抱えている心の問題が、単純な氷結の仕方をしていれば解決もまた容易である。しかし、溶けては凍結し、その上に積雪したものがまた溶けて、さらに車輪に踏まれて凍結してを繰り返したような心の問題は、複雑に入り組んで凍った氷の盤面と同じで一筋縄では剥がれないし時間もかかる。

 
 しかし、春が来ればすべてが氷解するのだ。

 単純な凍結はもちろん、どんなに複雑に入り組んだ凍結であろうとも、春が来れば跡形もなく消え去るのである。

 心に春を招き入れるためには、まず彼自身が、過去のすべてを打ち捨てることである。

 何もかもを放下することである。

 そして完全円満なる神にすべてを委(ゆだ)ねるのである。これが春の“誘い水”となり、やがて彼の魂の底から、永遠に消えない光が差してくる。

 その光は、どんなに拗(こじ)れた心の凍結をも、春の陽のように溶かさずにはおかないのである。

 イエス・キリストは、燈(ともしび)を升(ます)の下に置いてはいけない、燭台の上に掲げよ、と説いた。

 燈を升の下に隠すことによって心の凍結が生ずるのである。

 それがたとえ、どんなに小さな燈のように見えたとしても、それを燭台に掲げるとき、あなたの内なる光は春の陽のように輝き出して辺りの風景を“薫風の季節”へと一変させる。

 それが宗教的な救いである。

 これは外からもたらされる“救い”ではない。季節が変わるように、内から春の陽が輝き出すのである。


2015年1月26日

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2014年7月 1日 (火)

無垢な眼差しを感じて

 自然と人との調和を目指す『いのちの環』という日本教文社刊の雑誌7月号(NO52)に、「脱原発について」というテーマでエッセイを寄稿しました。

同誌には『日本の田舎は宝の山』の著者 曽根原 久司さんのインタービューなども掲載されているので、興味のある方はお求めください。
私の寄稿文を転載します。

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 3年前の冬、豪雪の八甲田山をスキーで滑降したことがある。

 それは山小屋所属のガイドの案内で、ゲレンデ外の自然の森や谷を麓まで滑り抜けるというもので、相部屋で親しくなった方に、目元の涼しい、Tさんという雪焼けした60代の好漢がいた。

 彼は平成11年まで東京・小金井でパン屋を営む傍ら、家族で登山に親しみ、子供が独立したのを機に福島の安達太良山麓に移転。

 地元の食材を使った無添加のパン屋を奥様と開業し、東京にいる孫たちを毎年家に招いて夏は登山、冬はスキーをするのが何よりの楽しみだった。

 2011年3月11日、東日本大震災が発生。続く東京電力の福島第一原発の事故で、終の棲家として選んだ彼のフィールドにも被害が及ぶ。

 以来、心待ちにしていた孫たちとの冒険も、娘の嫁ぎ先の両親から「森が放射能で汚染されているから」という理由で反対され、途絶えていることを残念そうに話してくれた。


汚染された場所に行かなければ安全か?


 環境省の「汚染情報サイト」で「森林の放射性物質の除染」について確認すると、住居、農用地等に隣接する森林の除染は林縁から20メートルの範囲で進められている。

 が、「落ち葉等の堆積有機物の除去を中心に」行う程度である。広大な森林については「調査・研究」を進めるとしているが、実際は放射能の減衰を待つほか打つ手がない状況のようだ。

 京都大学原子炉実験所助教の小出裕章氏は、昨年五月にYouTubeに公開した小沢一郎氏との対談「福島第一原発を抑え込むために」の中で、マスコミに公開されることのない次のような事実を語っている。

 今回の事故で大気中に放出した放射性物質セシウム137の量について、当時の民主党政権がIAEAに提出した報告書には広島原爆の一六八発分と記載され、同原発4号機の使用済み燃料プールには未だ一万発分が眠っており、さらに海洋流出で問題になった汚染水には、すでに大気中に放出された十倍もの放射性物質が含まれていると解説する。

 これに加え、昨年9月の東京オリンピック決定後も、毎日300トンの汚染水(経済産業省の試算)が太平洋に流れ、自然界の動植物が広範囲にわたって被曝している。

 食物連鎖による生命界全体の遺伝子への影響を考えれば、もはや「汚染された場所に行かなければ安全」という段階ではない。

 

あなたは、何をもって応えますか

 

 日本政府は2月25日に発表した国の中長期的な「エネルギー基本計画」に、「原発は重要なベースロード電源」と明記した。

 残念なことだが現政権は、原発再稼働を前提に政策を進めている。

目先の経済的利益によって生じる放射性廃棄物という膨大なツケは、やがて未来世代が途轍もない時間と犠牲とお金を費やして支払うことになるだろう。

 なによりも危惧すべきは、現世代がそのことを「知らない」ように、情報が制御されていることだ。

 釈迦は「知って犯す罪よりも、知らずに犯す罪の方が重い」と説いているが、原発再稼働が後世に与える影響を、そして放射線が遺伝子にもたらす潰滅的な意味を「知らない」こと、そのことが即ち未来世代への「重い罪」を犯す、つまり自分の子や孫の健康すらちゃんと守れないというやっかいな時代に、私たちは生きているのだ。

 それが原発に依存した社会に暮らすことの現実である。

 私たちがそれに気づいたのなら、もう「見て見ぬふり」をしてはならない。

「知らない」ことが重い罪となるならば、気付いただけで何も学ばず、何も為さないことは、絶望的な負の遺産を次世代に押しつけて遁走するようなものだ。

 しかし、因果律という明鏡は、すべての闇を明るみに引き出さずにはおかないだろう。

 最後の審判は遠い未来のことではない。それは、私たちの日々の生き方を掛け値なしに見通す、後世の人々の澄んだ眼差しの中にあるのだ。

 その無垢な光に、あなたは何をもって応えてあげるだろうか。

 

  (2014年4月)

〈普及誌『いのちの環』(日本教文社刊) リレー・エッセイ「脱原発について」掲載〉

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2014年6月13日 (金)

「都市の時間」と「森の時間」が重なるとき

 八ヶ岳山麓にある“森の中のオフィス”に勤務するようになって、早半年が過ぎた。

  標高1300メートルにあるオフィスへの出勤にはバスを利用しているが、帰りは家路までの数十分間から一時間ほどの逍遥(しょうよう)を楽しんでいる。

 

 当初は、スキーの体力作りのため、という目的で始めたが、今ではその目的はどうでもいいものとなり、自然の中を歩くこと、そのこと自体が大きな悦びとなった。

 

 帰路の途上では、その季節、その天候、その時間帯ならではの森での体験が次々と訪れる。

 

 4月に入り――鹿が風のように駆け抜け、ウグイスや小鳥たちの啼き声が森に響き、可憐な花々が地面や樹上で咲き、緑の米粒のような葉が梢で芽吹きはじめた。

 

 それらの光景と出合う度に、一つひとつの印象が心に刻まれる。

 

 都心に通勤していたときには直線的に飛び去っていた時間が、ここでは〝自然〟がもたらす豊かで新鮮な日々の印象となって心に留まる。

 

 9月にこの地に越してこの方、森が黄金色に染まり、やがて落葉し、雪が降り、新緑が芽吹き――そして時間はゆったりと、それは季節の揺るぎないあゆみと同調したようなペースで流れはじめている。

 

 これまで切り離されているように見えていた、「都市生活の時間」と、樹木が茂り花が咲き鳥が歌う「自然の時間」とが、森での逍遥を重ねているうちに、前者の時間が、次第に後者の雄渾ないとなみの中に包摂されてきたようだ。

 そのことが、無上の安らぎを森に棲(す)み始めた私たちにもたらしていることは、意識していないと気がつかないほど、その移行は自然である。

 

 森での生活は、はじめから私たち人間が、大生命の懐(ふところ)に抱かれていたことを、素直に思い出させてくれるのかもしれない。

                     (2014年4月)

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2014年5月31日 (土)

森の中で見えてきたこと

 機関誌『生長の家』の編集部から、リレー・エッセイ「八ヶ岳の暮らし」の寄稿を求められました。

 同誌の6月号に掲載されましたが、これを書いたのが、八ヶ岳ではまだ新緑も芽吹かぬ3月の冬枯れの中だったため、読み返してみると、すでに時機を逸した感がありますが、初めて体験した〝雪どけの季節〟ならではの感想として公開します。

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 八ヶ岳の森で暮らしてから、人生でやり残していたことに、なぜか背を押されて生活するようになった。

 それは私の余命が判明したからではなくて、森に住んだことで、人生で重要なことと、それ以外のことが見えてきたのである。

 森の日々を振り返ると幾つかの印象的な光景が甦ってくる。

 それは、冬に備えて薪の原木を一人で割っているとき─―

 大雪に埋まった道を、寮の仲間と黙々と除雪しているとき─―

 深雪に鎖された森に飢えてさまよう鹿と、目が合ったとき─―

 仕事を終えて、一人月明かりの森を歩いているとき─―

 氷雪が溶けて、やがて春の大地を潤すように、何か大切なことが体感され、都会生活の薫習(くんじゅう)が、次第に剥落(はくらく)していった気がする。

 さて、背を押されていることの一つは読書。

 テレビを見る習慣を止めたことで、森の静けさが部屋の中に充ちてきて、重要な対象が次々と像を結び始めた。

 祈りに導かれつつ、今日の文明史的な課題と聖典の精読に、深夜と早朝に取り組んでいる。

 次に家族との語らい。

 家の中心に薪ストーブが据えられ、夕暮れを過ぎれば真っ暗闇の森に家の灯がともり、周りに住む鹿や狐など動物たちの息遣いを感じながら、火を囲んで、夫婦、親子、時に友人たちと語らいの日々を過ごしている。

 そしてスキー。

 5年前「吾が人生にまだこんなに楽しいものが残されていたのか!」と、驚きとともに数十年ぶりに再開したが、今は電気自動車で25分も走ればゲレンデだ。

 急斜面に飛び込むとき、眠っていた身体の感覚が全面的に覚醒し、斜面を自在に滑降していると、いつしか自然・心・躰が一つになる三昧境。
 冬季に限定されたこの瞑想にも似たスポーツの悦びは、どこまで深まるのだろう。

 そして山登り。

 “森の中のオフィス”周辺の南アルプス山系では、かつて、北岳、間ノ岳、農鳥、甲斐駒、仙丈と登ったが、なぜか未踏のままだった八ヶ岳。

 限られた誌幅にこんなことばかり挙げていても切りがない。が、森に住んだおかげで、当分の間くたばりそうもない。


  (2014年3月)

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2014年4月16日 (水)

鶴見済氏の『脱資本主義宣言』を読む

  鶴見済氏の『脱資本主義宣言――グローバル経済が蝕む暮らし』を読んだ。

 
 仏教に「抜苦与楽」という言葉がある。

 これは衆生の苦しみを抜き去り、代わりに楽を与えるというもので、鶴見氏のこの著作は、今日の文明史的な「苦しみ」を解決するための、一つの処方箋として書かれたものと言えよう。

  本書の「はじめに」で、鶴見氏は次のように書いている。

 

  それでは、経済の仕組みに代わるモデルとな
  る別の仕組みとは何か? カネでない価値観を
 どこに求めればいいか?
  本書がその一例として取り上げているのが、
 自然界の仕組みや自然界とのつながりだ。

 

「自然界とのつながり」――鶴見氏は、かつて90年代のはじめに『完全自殺マニュアル」などという、物騒な作品を著しているが、人生についての試行錯誤を重ねながら、この世の「生きづらさ」の問題と格闘し、「どうすれば楽に生きられるのか」について探求し続けた痕跡が、行間からじんじん迫るのを真摯な読者は感じることだろう。

  同氏はある時期から、「楽に生きるためにはこの『経済の仕組み』を何とかしないとダメだろう」ということに気がつき、この“仕組み”について一つひとつ細かいデータに当たって調査してみた。すると、「驚きあきれるような事実」を次々と見出すことになる。

 つまり私たちが住んでいる資本主義社会の背後には、「生きづらさ」の原因となるものがあふれていたのである。読者は読み進むにしたがって“眼からウロコ”が落ちる思いでページをめくることになる。

  本書の内容から、彼が見出したことの一端を挙げてみよう。

 

 カネ儲けを第一の目的にしてしまった社会が
 失ったものは何か? 当然のことながらそれ
 は、「カネ儲けにつながらない価値」だ。この
 社会では人の健康や環境への害も、金額に
 換算しないと文字通り「計算に入らない」よう
 になってきた。ましてや我々の多様 な「幸
 せ」について、この社会が勘定できるわけが
 ない。
  グローバル化する資本主義が、カネのある
 なしにかかわらず、すべてのヒトにもたらす災
 いはこれであ
る。   (同書133~134頁)

 

 これは卑近な例だが、わが家の子供たちがかつて通っていた都心の小学校では、幼い子供を抱えながらもパートで忙しく働いている主婦が何人もいた。これも、ささやかでも家計の足しになればと、家族の幸せを願っての労働である。

 しかし母親が外で働くようになれば、社会的な責任をともなう仕事の都合を、彼女がまじめな方であるほど、家庭の都合より優先することになる。

 ある日〝こんなはずではなかったかも・・・〟とふと気付いてみても、わずかでも月々の収入が、子どもの幸せや夢の実現につながることを思えば、ガマンせざるをえない。
 しかしそのシワヨセは、すべて家族に、ことに幼い子供に寄せられることを、知って(意識して)いるか否かということは、とても重要である。

  もしこれを自覚せずに進めば、子どもたちは最も愛情を必要としている時期に、母親とふれあう時間を、おカネを得るための経済活動に奪われ、愛情の代償として親が買い与えたテレビゲームと向き合うことになる。失われた母親との時間は、永遠に戻ってはこない。

  家族は、日々の、思いやりの言葉の遣り取りを通して結ばれている。が、もし核家族化した親子の間で、これがなし崩し的に“先送り”にされてしまえば、やがて子供は思春期を迎えるとともに、まっすぐに家庭崩壊への道をたどる要因ともなるのである。

 これは、母親の責任でも、誰の責任でもない。私たちは、何の疑いもなく「おカネ」、つまり経済を至上のものとするコマーシャリズム(営利主義)の中に翻弄(ほんろう)されているのだ。

  これが、鶴見氏のいうところの「生きづらさ」ということの一つの側面である。

  家族の幸せを願いつつ、私たちはいつのまにか唯物論的資本主義の巨大なシステムの渦中に巻き込まれ、最も大切なものを見失ってはいないだろうか。日々立ち止まり、子供たちと目線でふれ合い“対話”することを心がけているだろうか――。

  お金に換算できない、私たちの多様な「幸せ」。これを取り戻すための、資本主義を超えた「別の仕組み」を模索したのが、本書の取り組みといえよう。

 果たして同書に書かれた内容が「答え」に至っているか否かは、諸賢に一読を願うところだが、真摯にこの問題に取り組んだ著者に私は賞賛の言葉を惜しまない。
 少なくとも社会主義でも共産主義でもない「資本主義以降」を考えるための〝必読〟の一冊であることは確かである。

 

 久都間 繁



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2013年1月30日 (水)

内なる光りを解き放つ

 私たちは、生活に豊かな富や幸福の実現を願う思いがある一方で、無意識のうちに、それらの実現を否定する“逆念”を起こしている場合があります。

“逆念”とは、燃えかけようとしている幸福の炎に、「シュン!」と、水を掛けるような働きをします

 炎が燃えたのなら、暖をとり、料理を作り、火の豊かな恵みを感謝して受ければいいのですが、おもしろいことに逆念は、自分の幸福や富が実現することを否定してしまうのです。

 このことを心理学では、「自己処罰」とも表現していますが、その背後には「罪の意識」が作用している場合が多いのです。

 このことから、私たちが人生に幸福を実現する方法は、意外に簡単であることが分かります。

 それは、「自己処罰」の原因である、「罪の意識」をぬぐい去るだけでいいのですから。

 そのための最良の方法は、自己の本質を根源から見つめること。

 自己の本質が「神」であり、「愛」そのものであることを見つめ、それ以外の何ものでもなかったことを心の底から悦ぶことです。

 たったそれだけのことで、私たちの運命の豊かなる展開をさまたげていた一切の帳(とばり)が消え、あなたの内なる無尽蔵の光りが解き放たれるのです。

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