2025年10月29日 (水)

観世音菩薩について (2025,11)

 仏教で「観音経」を経典として読誦する宗派では、観世音菩薩への信仰から「南無観世音菩薩」との名号を唱えるという。

 生長の家の「観世音菩薩を称うる祈り」には、「観世音菩薩は尽十方無礙光如来の大慈悲の顕現にてありたまう。それゆえに尽十方に満ちたまうのである」と説かれ、さらに「生長の家の礼拝の本尊は観世音なのである」とまで書かれているから、生長の家と観世音菩薩との関係は尋常でないことが分かる。また、『観世音讃歌』の扉には、総裁先生によって墨書された「南無観世音」のコトバが掲げられている。


 十月のこと、東京第二教区の見真会で「祈り合いの神想観」が行われた折、"祈られる側"の皆さんに大拝殿の前方に並べた椅子に座っていただいた。

 祈ってもらいたいことを順番に発表してもらうと、入院中の友人の代理として来られた方、癌が全身に移転して苦悩している方、余命宣告を告げられた方、病苦に悩む家族に代わって参加された方など、それぞれの切実な"願い"を表明することになった。

 祈り合いの折、黙然の時間に入ると「南無観世音菩薩」のコトバが、導かれるように脳裏に浮かび、お一人おひとりの背後にある"尽十方無礙光如来"の光りを観じていると、祈られる側の皆さんの人生のさまざまなお姿が、鏡に映る己が姿として映ってきた。

 病む相も、語る言葉も、すべては吾が姿であり、この祈りの場に臨ませていただいたのも決して偶然ではなく、観世音菩薩のお導きだったことを了知した。

「大調和の神示」の「汝ら天地一切のものと和解せよ」の言葉、さらに「顧みて和解せよ」との言葉は、天地一切のものが尽十方無礙光如来の大慈悲であり、私たちを実相(自性円満)へと導き給うためにこそ出現していることを示しているのだ。

『常楽への道』を著した吉田國太郎講師は、この霊妙な働きを、親鸞が説いた「弥陀の誓願不思議」として拝まれ、次のように説いている。「誓願とは神のコトバ、不思議とは現象を超えた無限の光。イエス・キリストは、己が生きるは天の命によってあらしめられているのであると云った。これが誓願不思議である」と。

 また谷口雅宣先生は、宇宙大生命の働きを「天照大御神の恩徳を讃嘆する祈り」で次のようにお説きくださっている。「天照大御神は『愛なる神』の別名である。キリストの愛の別名である。自ら与えて代償を求めない『アガペー』の象徴である。また、三十三身に身を変じて衆生を救い給う観世音菩薩の別名である」と。

「南無観世音菩薩」のコトバは、宇宙に満ちる四無量心と"ひとつ"になり、これを己が信仰として生きることである。観世音菩薩が生長の家の礼拝の本尊であるとは、私たち一人ひとりが、宇宙大生命から発した"大慈悲の光"そのものであることを示しているのだ。

 

 

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2025年9月25日 (木)

伝道員について (2025,10)

 八月下旬のある朝、右腕にチカラが入らないことに気がついた。洗面所で顔を洗うのも歯を磨くのも箸を持つのもままならなかったが、神想観だけは左手を添えて実修できた。

 数日ほど様子を見たが回復は遅々たるもので、家内から「きっと四十肩だから整骨院に行ったら」と勧められた。

 この歳になって四十肩もあるまいと思ったが、予約を入れてくれたので足を運んでみると、電気治療の痛さと違和感に辟易(へきえき)してそれきりとなった。

 生長の家では、すべての病や艱難(かんなん)は、過去の無明(まよい)が消えるための“自壊作用”と教えていただいている。症状を素直に受け容れて天地のすべてに感謝して神想観を実修していると、いろいろな事に気付かせていただいた。

 たとえ右手が使えなくても、左手を添えれば食事も歯磨きも着替えも生活万般こなせるではないか。“周りと協力し合う”ことで“ムスビの働き”が動き始めるのだ。

 そんな発見と感謝の日々を送っていたら、神癒(metaphysical healing)が働いたのだろう、二週間ほどで回復した。

 先般、国際本部から「伝道員規定」の改正についての通達が届いた。

「伝道員」とは、近年の生長の家の運動ではなじみのない言葉だが、東京第二教区の白鳩会幹部の方が、「五十年ほど前に母が『伝道員』の任命書を頂いたのを実家で見たことがある」と語っていたから、かつて人類光明化運動の歴史の中で重要な役割を担っていたと思われる。

 なぜ今「伝道員規定」が改正されたのか。それは「“質”を重視した運動」へと移行したことが関係している。現在の講師試験が“狭き門”となっていることは皆さんもご存知のことだろう。そのような状況でも、次世代の講師や幹部を育て、み教えを継承していかなければならない。

 地方講師に合格すれば誌友会などで「講話」の担当はできるが、生長の家の信仰を深く培(つちか)うためには、講話以前に修得しておきたい大切なこともあるのだ。

 それは、生活の中で神想観、聖典・聖経読誦、愛行の「三正行」を実修することである。特に「神想観」は、傍(はた)からは何もしていないように見えるが、これを毎日実修することで、たましいの“質”が培われ、自身や周りの人を導くチカラが養われるのだ。

「伝道員」はこの“質”を育てる大切な時期と私は見ている。ここを疎(おろそ)かにして次に進んでいては、「神の子無限力」や「無限供給」の言葉も、ただの目標やスローガンで終わり、本ものの“おかげ”や”功徳”と出合うことはできない。

「真理は汝を自由ならしめん」というイエスのコトバがある。「汝」というのは肉体人間のことではない。私たちの内なる神の子、すなわち「実相」のことである。お陰信仰に留まっていては肉体人間の境涯を卒業することができない。しかし、三正行を続けることで、人生の随所で、神(宇宙大生命)に導かれて、真の自由(無礙自在、無限供給)を体認して神の子・人間の境涯に入るのである。 

 

 

 

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2025年8月25日 (月)

味読2025“初秋” (2025,9)

 私が子どものころ、来年九十歳になる母は家で食べる野菜の殆どを家庭菜園で作っていた。

 現在はEM菌を混ぜた生ゴミを堆肥にしているが、六十年ほど前は、びろうな話で恐縮だが“肥だめ“から汲み上げたものを利用していた。

 穀倉地帯のウクライナとロシアで戦争が勃発して以来、世界が深刻な小麦不足に見舞われ、食料価格が一気に高騰した。さらに中国が肥料の輸出制限を行ったことで、世界市場での化学肥料の価格も高騰している。

 そんな折、手にしたのが『ウンコノミクス』山口亮子著(インターナショナル新書)である。同書のタイトルは「ウンコ」に経済を意味する「エコノミクス」を合わせた造語だ。

 かつて江戸時代「金糞(きんぷん)」とも呼ばれ、循環型社会の主役を担っていたウンコだが、今ではトイレから下水道へと流され“見えない世界”へと追い遣られてしまった。が、環境問題が深刻さを増す中で、再び脚光を浴び始めている。

 それは肥料危機のみならず、ビルの熱源、「金(キン)」を生む都市鉱山、さらに自動車やロケットの燃料など、「ウンコ」の持つポテンシャルは計り知れない。地中に張り巡らされた下水道の先で、着々と進行する壮大なプロジェクトを追ったのが本書だ。

 意外なスタートとなったが、今回は皆さんの糧になると思われるご本を紹介したい。

 次は『谷口雅春とその時代』小野泰博著(法蔵館文庫)である。同書は九十年代に出版され、最近文庫本として蘇った生長の家の創始者谷口雅春の評伝である。著者の小野泰博氏(図書館情報大学教授)が六十三歳で早世して未完のままだった草稿を、宗教学者の島薗進氏らがまとめ上げたもので、その功績は大きい。

 生長の家が創始されるまでの時代背景や谷口雅春先生の思索の跡をたどりながら、同時代を生きた真摯な思想家らの哲学、谷口輝子先生へのインタビューなどを通して、生長の家の光明思想の背後にある強靱な生命の哲学が浮き彫りになる。

 すでに『聖道へ』や『生命の實相』「自伝篇」を熟読され、み教えの“深み”を探究される諸氏には、ぜひお目通しいただきたい。監修された島薗氏の解説も秀逸である。

 次に紹介するのは『福岡伸一、西田哲学を読む~生命をめぐる思索の旅』池田善昭・福岡伸一著(小学館新書)である。
「動的平衡」の生命論を鍵に、「生命」の定義を明らかにした科学者・福岡伸一氏と、哲学者・池田善昭氏との対話から、科学・哲学・宗教を統合する“ピュシスの世界観”が見えてくる。

 ピュシス(physis)とは古代ギリシャ哲学で「自然そのもの」を意味する言葉だが、丁寧に味読していると、生長の家で説く「天地(あめつち)を貫きて生くる祖神(みおや)の生命(いのち)」とピュシスとが重なり、西田哲学が他人事でなくなる。

 読者が“思索の旅”の道連れとなり、ピュシス即ち「永遠の今」の哲学を感得するに従って、これまで観ていた世界が変容するだろう。そこから、現代文明の陥穽(かんせい)に墜ちない“生命の智慧”が蘇る。

 

 

 

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2025年7月28日 (月)

ゆかりの地を訪ねて (2025,8)

 私が小学校のPTAに携わっていた十年ほど前、青梅市の山間部では、通学区域を越えて市内のどこからでも就学できる「小規模特別認定校制度」を採用した小学校があった。これは、過疎化による児童数の減少に抗うと同時に、不登校の児童を救済するための有効な方策だったと思う。

 昨年の八月、鹿児島の姪(小二)を一週間ほど預ったことがある。勉強をみながら話を聴くと、イジメが原因で学校に行けなくなったという。

 イジメは、核家族化や都市化など様々な要因が考えられるが、人間関係が希薄になった隙間に忍び込む深刻な社会問題である。わが家の末っ子が小学生の時に親しかった級友も、わが家が転勤して三年ほど地元を離れていた時、イジメが原因で自死したことが伝えられた。孤独死は、老人に限らず私たち同世代の課題でもある。

 その後、しばらく姪のことを祈っていると、義妹がネットで「離島留学」という制度を見つけてきた。これは、過疎や少子化の問題を抱える離島などで、小・中学生や高校生を募集して、留学生として受け入れる制度のことで、彼女の母や祖父母の故郷である種子島でも実施していることが分かった。しかも親子で移住した場合は、住宅も無償で提供されるらしい。

 シングルマザーだった義妹は“娘のためならば”と、意を決して仕事を辞め、四月からの離島留学に踏み切った。

 島での彼女たちの新生活は、家族LINEを通してわが家にも配信された。

 わずか全校生徒二十数人の学校では、ほぼ個別指導のように授業が進められ、先生とのマンツーマンに近い授業では落ちこぼれるのも難しそうだ。大自然に抱かれて日が暮れるまで海で泳ぎ、地元の方たちの指導で剣道の稽古に励み「給食が美味しい」と目を輝かせて語る姪は、すっかり日焼けして、島で過ごす日々と共に逞しく成長している。

 七月中旬、私が参加予定だった行事が流れて三日間の余白ができた。家内の発案で、車椅子生活の義母を連れて、彼女の古里である種子島に墓参するプランが生まれた。義母にとっては数十年ぶりの帰郷である。この朗報に義妹も姪も大喜びだった。

 島に着き、海岸に出ると、黒潮に乗って流れ着いた椰子の実が転がり、澄んだ海にアジア各国からの漂着物も散在して、この島が鉄砲伝来をはじめ文明と歴史の要衝にあったことを思い出した。
 折しも台風が発生して連日雨天の予報だったが、私たちが目的地で車を停める度に雨が上がり、夜間は豪雨となるなど、ご先祖の御霊に導かれて日々を過ごした。

 義母も幼馴染みたちとの再会を果たし、かつて両親と住んでいたという場所も訪ね、遙かな過去に思いを馳せた。
 皆さんもこの夏、これまで足を運ぶ機会のなかった、ゆかりの地を訪ねてみてはいかがだろうか。故人の掛け替えのない思い出と共に、内なる聖地が鮮やかに蘇ることだろう。

 

 

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2025年7月 5日 (土)

“聖なる使命”について (2025,7)

「人間は神の子である」というのが生長の家の教えだ。

 この言葉は、私たち人間が担った“聖なる使命”を伝えている。それは、到達するための目標ではなくて、はじめから“神の子”なるものが、この世に誕生して今あなたとなって生きている、という宣言なのである。

 わが家の“実家仕舞い”のことを前回紹介したが、同様に現代は“墓じまい”も他人事で済ますことのできない社会的な問題だ。地方出身で、ご縁あって都会で家を持つようになった方や、田舎のお墓の世話が困難になった方などがこのテーマに直面している。

 長らく故郷を離れて暮らしていた方はご経験あると思うが、生まれ育った郷里も、半世紀の歳月が経てば人や建物がすっかり変わり、もはや誰も知る人のない浦島太郎状態となる。

 一方、目に見えない霊界の方は浮世よりずっと緩慢で、しかも時の経過とともに緻密で鋭敏な連絡網が構築され、打てば響くように私たちが振り向くことを待っているようだ。

 わが家も“実家仕舞い”とセットになって墓じまいの問題が巡ってきた。これを塩漬けにしていたのでは、子や孫の世代に難題を押しつけることにもなりかねない。墓のあった菩提寺は数年前に失火で焼失し、現在は更地になっていた。こんな見通しの立たない、暗中模索の時こそ生長の家の出番と思い、日々の神想観の折りに実家の処分やお墓のことなど、故郷にまつわる一切を神に全托して、諸般の導きを亡父にも請うていたのである。

 先ず実家の売却は、導かれたように買い手が決まった。その家を明け渡すべく片付けていた五月の連休中、近所にお住まいの方が訪ねてきて、その方を通して、寺院の再建の一切を託された方とご縁をいただき、とんとん拍子に話が進み、墓じまいの目処も立ったのである。

 ここに至る半年ほどの間、実家や会社の土地や事務所の売買に当たって、紙面に書き切れないほどの出会いと機会に次々と恵まれた。

 彼らとのご縁、そして遣り取りを通して、目には見えないが不思議な連絡網と亡き父の導きを体感させていただいたのである。

「天網恢々(てんもうかいかい)疎(そ)にして漏(も)らさず」(老子)という言葉がある。

 これは天地に隈無く張り巡らされた不思議な網のことを表現した言葉だが、多くの辞書は、これを因果応報的な天罰の視点から解釈する。しかし生長の家の「日時計主義」では、そのような解釈はとらないで、「天網」を宇宙に満ちる観世音菩薩の救いの御手として拝むのである。

 それは、私たちのどんな憂いも苦悩も悲しみも受容して、すべてを救い給う仏の慈悲喜捨の働きである。

 生長の家が、宇宙に充ちる仏(神)の天網(てんもう)とひとつになって「四無量心を行ずる神想観」を実修させていただくのは、すべての人間が生まれながらにして持つ“聖なる使命”が豊かに地上に顕現して、多くの人の苦しみを除き、楽を与えるためなのである。

 

 

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2025年6月 4日 (水)

永遠に栄えるために (2025,6)

「我事において後悔せず」とは宮本武蔵が語ったとされる言葉だが、今年の3月、私も晴れて停年を迎えた。勤続40数年を振り返れば、後悔せずというよりも、「後悔している暇もゆとりもなかった」というのが率直な感想だ。

 ここまで歩くことができたのも、人生の随所で出会った先達や同僚、そして家族や周りの皆さんに助けていただいたお陰だった。

 半年ほど前、かつての上司から「停年も一つの通過点」との助言をいただいたが、4月からは“お礼奉公”の教化部長である。「奉公」とは、「おおやけに一身をささげて仕えること」という意味であるが、丁稚奉公、滅私奉公、年季奉公など、もはや時代劇やお芝居でしか耳にすることのない言葉だ。しかし言葉の背後には、先人たちの深い智慧が込められている。

 生長の家では「心の法則」を教えている。その中に“動・反動の法則”という言葉があるが、これは辞書に当たっても出てこない。壁に向かって強くボールを投げれば、同じ強度で跳ね返ってくるように、世の中に「与えた影響」が、良きにつけ悪しきにつけ、やがて思い掛けないときに返ってくるのだ。諺に「積善の家には余慶あり」というのも、この心の法則を表した言葉で、逆の場合もまた然りである。欲望に駆られて「奪う」生活を続けていれば、時節至れば同じ分だけ「奪われる」だろう。

 停年と同時期、たまたま生まれ育った家(藤枝の“実家仕舞い”をさせていただいた。かつて父が創業した建設会社が吸収合併され、その会社からの借地代で実家の固定資産税を支払っていたが、今年の初め、契約を解除するとの通知を頂いた。これを奇貨として、懸案だった“実家仕舞い”に入ったのが2月のこと。翌3月には、最良の買い手が現れ、5月上旬には“八方善し”の売買が成立した。

  すべてがトントン拍子に運んだが、よくよく観察すれば父が生前に地域に尽くしてきた積善のおかげだったことに気がついた。これも“与えよ、されば与えられん”の父の余慶が続いているのである。

 5月の連休中、実家仕舞いの合間を縫って、幼なじみの友人と来し方を振り返る機会を得た。友人は“滅私奉公”タイプの人間だ。仕事一筋で家族のことは奥様任せだったが、若い頃は子どもの不登校で夫婦共に辛い思いをして相談に訪れた事もあった。5年前に仕事も停年となり、2人の娘も近隣に嫁ぎ、今秋8人目の孫が生まれるという。そんな人生を振り返り、現在の仕事は「お礼奉公」と語り、心から満足した様子が伝わってきた。

 家庭への彼の貢献は、仕事での“稼ぎの側面”しか家族の眼には映らないかもしれない。しかしその背後には、彼が一途に会社や同僚や部下のため、そしてお客さんのために精一杯尽くしてきたことが、今日の幸せとなって現れていることが、朴訥と語る言葉の背後から伝わってきた。真理は遍く天地に満ちており、周りを生かす者は永遠に栄えるのである。

 

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2025年5月14日 (水)

“よろこび”の種子(たね) (2025,5)

 かつて恩師から聴かせていただいた「よろこびは、小さければ小さいほど良い」という言葉を、折に触れて思い出すのである。その不思議な味わいは、歳を重ねるほどに深まるばかりだ。

 大きなよろこびは、誰の記憶にも鮮明に残り、形に残る場合も多いから分かりやすい。今の季節でいえば合格、入学、入社、結婚、出産など人生の節目となる出来事で、これは周りからも祝福される。

 一方で人生は、スタートしてからが本番である。傍(はた)からみれば、そのほとんどは散文的な日々にも見える。しかしみ教えが、「天地の万物(すべてのもの)に感謝せよ」と説いているのは、その冗長な日々にやってくる、すべての人や物や事との“出合い”について語っているのだ。

 つまり「感謝せよ」とは、日々私たちに到来する、一見めんどくさい一つひとつの出来事にこそ、“小さなよろこび(神)”が宿っていて、それを拾い上げて感謝していれば無数の光りを見い出すのである。それらは皆、神から出た如意宝珠である。その一つひとつの味わいは無尽蔵だ。

 さてコロナ禍以降、これまで教区で開催する各種行事を、対面に加えてネットでも配信していたが、四月以降は「浄心行」や「祈り合いの神想観」などの「宗教行」については、「行」そのものを大切に味わっていただくために、対面のみで開催することになった。

 一方、ペア教区合同で開催する「地方講師研修会」や「母親教室出講講師勉強会」そして壮年層を対象にした諸行事や「実相研鑽ネットフォーラム」などは、フラットで双方向な利点を生かして、対面とSNSをますます活用していく。これもコロナ禍での経験を通して見えてきた行事のカタチである。

 さて、冒頭で「よろこびは、小さければ小さいほど良い」という恩師の言葉を紹介したが、私たちは誰しも“心のモノサシ”を持って生きている。そして、その心の尺度ですべての物事の「善し悪し」や「良不良」や「幸不幸」「損得」などを無意識のうちに判断して生きている。そして多くのモノサシは、大きな喜びは評価するが、小さな喜びは“あたりまえ”の事として、その多くを見落としてしまうのである。

 「よろこび」は、それが、たとえどんなに小さくても、そこには“神”が宿っている。“神”には大きいも小さいもないのだ。その浜の真砂(まさご)のような一粒ひとつぶに“絶対”なるもの“渾(すべ)ての渾て”なるもの、即ち如意宝珠が、宇宙的な“質”と中味とをもって顕れている。

「よろこびは、小さければ小さいほど良い」とは、私たちの周囲に現れた神の恵みを“あたりまえ”と軽く見て藻屑(もくず)のように流すことなく、両手で大切に汲みあげて魂の糧とする生き方である。それは“あたりまえ”と見える「小さなこと」の中にこそ、蓮華蔵世界の「実(種子)」が宿り、その仏国土が、やがて人生に花咲き実を結ぶことを伝えているのである。

 

 

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2025年3月27日 (木)

『“わたしたちの運動”をつくろう』を読む (2025,4)

 国際本部から刊行された『“私たちの運動”をつくろう』を読んでみた。これは生長の家の運動を、教区の実状に合わせて三年スパンで実行していくための“手引き書”である。
 冊子には「質的な運動目標一覧」(30頁)という項目がある。“質的”とは、運動方針のカギとなる「“量から質へ”の転換」の「質」に当たるものだ。その「部分目標」には「①講師でない会員は講師となる。また、すでに講師である場合はより上級の講師となる」と掲げられている。

 私の記憶では、最近の講師試験は新規の受験が五年に一回ほど。今年実施される準教務試験に至っては、実に七年ぶりである。この背景にはパンデミックの影響や、時代の変化に伴った試験内容の“質的な”見直しがあったと考えられる。が、教区の立場からすれば、近年実施される試験の難易度に加え、受験対象者も減少していることから、講師の誕生は十年に数人ほどの貴重な機会となるだろう。

 まさに“量から質へ”の転換だが、生長の家の教えは、たとえ講師の数が減少して、たった一人になったとしても、その講師に“真理の火”が灯されてさえいれば、その一人から再び燎原の火のごとく“み教えの灯”を後世へと伝えることができるのだ。だからこそ、今年実施される準教務試験、そして三年以内に実施される新規試験は、み教えで救われた“あなた”の出番なのだ。この機会を“千載一遇のご恩返しのチャンス”と捉えていただきたい。合否は神意によるのだから──。

 さて、運動のもう一つの柱、それは「PBSを含む社会貢献の活動によって生長の家の布教・環境方針を内外に具体的に示す」ということだ。

 先に紹介した「講師の養成」が、徹底した“内部に向けた運動”(求道)であるとすれば、こちらの「社会貢献」は、全信徒を挙げての“対社会に向けた運動”(菩薩行)であり、それは明確に「求道」と「伝道」という、宗教本来の基本的なスタイルへと、運動が大きく回帰したのである。

 具体的な活動は、「生長の家が重点的に行う地球社会貢献活動のリスト」(19頁)にある「食糧支援」「環境・平和活動」「文化・芸術」「教育振興」である。これは一月に教化部で皆さんと語り合ったブレーンストーミングでのテーマでもある。現時点では、皆さんから出てきたアイディアやご意見をベースに、各組織の正・副会長が、教区での具体的な運動方針として練り上げている。

 その核となる信仰は「布教・環境方針」にある、「大自然の恩恵に感謝し、山も川も草も木も鉱物もエネルギーもすべて神の、仏のの現れであると拝み、それらと『共に生かさせていただく』」という教えだ。
 それは、私たちを取り巻くすべてのものは“神のいのちである”という大安心から生まれた、天地一切のものに感謝して、神のいのちの兄弟姉妹として共に生きる信仰である。

 

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2025年2月22日 (土)

“無償の愛”について (2025.3)

 毎月上旬、教化部長を囲んでの「実相研鑽ネットフォーラム」(対面とZOOM)を開催しているが、2月に交わされたテーマは“無償の愛”となった。今回はこれに触れてみたい。

 見返りを求めぬ愛のことを“無償の愛”というが、ある参加者から、「私はゴミ拾いなどの善行をする度に、その功徳を心の片隅で計算している自分を見いだしてしまう。善い動機でしたことでも、そんな心の裏側を透かして見ると〝無償〟とはほど遠いように思えて情けない」といった感想を伺った。

かつて梁(リョウ)の武帝が、自身が積んだ善行の功徳について達磨大師に尋ねると、達磨は間髪を入れず「無功徳!」と一喝したことが、谷口雅春先生のご著書に紹介されている。

 無功徳なのは、善行は意識して行われるものではなく、それは知らないうちに、私たちを通して神や仏によって為されるからである。しかし武帝の場合は、「善因善果」という自力作善の計らいの中に“仏法あり”と誤認して安住し、そこに止まっていたが故に達磨に一喝されたのであろう。

 一方“無償の愛”は、私たちが知らないうちに人や物や事の中にあらわれている。それは、与える(為す)側が無自覚のうちに神や仏によって発揮され、本人が思い出す必要すら感じないのが“無償の愛”の性質であり、これを生長の家では“絶対他力”とも呼んでいる。

 かつてイエスは「右の手のなすことを左の手に知らすな」(マタイ6:3)と戒めているが、自他共に知らずに行う善行の中に、無償の愛があらわれ、神の力が働き給うのだ。

『新約聖書』には、イエスと民衆との遣り取りが記述されているが、神の使いとして現れたイエスの話を聴きに参集した五千人余の空腹が、僅かな食料で満たされたエピソードをはじめ、足萎えが立ち上がり、盲目が癒やされたなどの奇蹟が記録されている。

 それは親鳥が抱卵してヒナを育てるように、イエスが何の見返りも求めず、計らいも駆け引きもなく無条件に相手の罪を赦し、神性(実相)を拝んだ結果であり、そこには「功徳」とか「善行」とか、人為的な計らいは皆無で、ただ真理(キリスト=愛)のコトバを契機に「神癒」が湧出している。

“無償の愛”は至る所に充ちている。それは天体の動きや月や太陽の恵みとなり、近くは人類をはじめ生物の呼吸や血液の環流、さらに植物や菌類の営みに至るまで、その働きは意識されることも記憶されることもなく、無言でこの世界を根底から生かしている。

 イエスは伝道に赴く弟子たちに、次の言葉を授けている。

「如何に何を言はんと思ひ煩ふな、言ふべき事は、その時さづけらるべし。これ言ふものは汝等にあらず、其の中にありて言ひたまふ汝らの父の霊なり」(マタイ10:19―20)。

 神の無償の愛は、絶対他力の“使い”となったものたちを通して、すべてを愛し給うのである。

 

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2025年1月30日 (木)

“神の子・人間”への脱皮

 生長の家総裁・谷口雅宣先生は「新年のあいさつ」で、「今年は心の中で『不安』を飼い育てて、『敵』を作ることをやめましょう」(『生長の家』1月号)とお示しくださった。

 心に生じた「不安」は、真理の光で照らせば消えていく。しかしそれを放置すれば、心は「空白」に耐えきれず、同類の仲間たちを掻き集めて隙間を糊塗(こと)するだろう。
 たとえば『生命の實相』「光明篇」、第四章の冒頭には、「すべての心の不安、恐怖、憂鬱(ゆううつ)、取越し苦労と云うような精神的な苦痛は勿論(もちろん)、現実の病気災難というものも、吾々が神から離れることによって起こるのであります」と説かれている。

 つまり「不安」は、「神から離れること」によって生ずるのだ。逆に「神との一体感」が深まることで、不安が安心に、恐怖が深い慈悲に、憂鬱が悦びに、取越苦労が夢や希望へと一変するだろう。

 神との一体感を深める道はただ一つ、それは人間・神の子を生きることに尽きるのだ。これについてみ教えは観行、誦行、愛行の三正行を教えてくださっている。が、今回は、諸先達から私が学ばせていただいたことの一端を紹介したい。

 その一つは定期的に『生命の實相』(日本教文社刊)全巻を拝読することである。私の手元にある聖典は、かつて宇治で修行した二十代の時「頭注版」で全巻を読み、再読の折に「愛蔵版」を購入して原典ならではの歴史的仮名遣いを味わった書籍だ。

 以来、十年ごとに全巻を最初から熟読玩味することが私の大切な慣習となり魂の巡礼となっている。そして再読する度に新たな境地が開け、内なる生命の実相(久遠を流るるいのち)が蘇り、光の泉が滾々(こんこん)と湧出して家族やご縁ある人を潤している。私はこれを「“生命の實相”体験」と秘かに呼んでいる。

 私たちの生活が春夏秋冬という四季の恵みを通して一年が巡るように、日々の暮らしの中で『生命の實相』が紐解かれることで、家族や周りの人びとの様々な自壊作用に対処でき、「心の法則」と「唯神実相」の教えをカギに問題の背後に潜む意味を読み解き、完全円満なる生命の実相を拝ませていただく。このいとなみは観世音菩薩との対話であり、今年の干支である巳(蛇)が“脱皮を繰り返して生長する”のと同じように、肉体人間から神の子・人間への脱皮でもある。

 聖典の拝読は、二十代には二十代ならではの発見があり、四十代には四十代の、七十代には七十代の、それぞれの心境に達して初めて読めてくる世界がある。

 この巡礼を続けるほどに神と共なる自覚が深まるから、「不安を飼い育て」るような“心の空白”は雲散霧消して、生命の充溢感に満たされるだろう。大切なことは、著者が直接編纂した「日本教文社」版が信頼に足る文献であり、聖典はあなたを着実に「真理の道」へと導くだろう。

 年齢を重ねる程に深まる“円熟の時”を豊かに味わい、不朽の真理を後世に伝えていきましょう。

 

 

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