観世音菩薩について (2025,11)
仏教で「観音経」を経典として読誦する宗派では、観世音菩薩への信仰から「南無観世音菩薩」との名号を唱えるという。
生長の家の「観世音菩薩を称うる祈り」には、「観世音菩薩は尽十方無礙光如来の大慈悲の顕現にてありたまう。それゆえに尽十方に満ちたまうのである」と説かれ、さらに「生長の家の礼拝の本尊は観世音なのである」とまで書かれているから、生長の家と観世音菩薩との関係は尋常でないことが分かる。また、『観世音讃歌』の扉には、総裁先生によって墨書された「南無観世音」のコトバが掲げられている。
十月のこと、東京第二教区の見真会で「祈り合いの神想観」が行われた折、"祈られる側"の皆さんに大拝殿の前方に並べた椅子に座っていただいた。
祈ってもらいたいことを順番に発表してもらうと、入院中の友人の代理として来られた方、癌が全身に移転して苦悩している方、余命宣告を告げられた方、病苦に悩む家族に代わって参加された方など、それぞれの切実な"願い"を表明することになった。
祈り合いの折、黙然の時間に入ると「南無観世音菩薩」のコトバが、導かれるように脳裏に浮かび、お一人おひとりの背後にある"尽十方無礙光如来"の光りを観じていると、祈られる側の皆さんの人生のさまざまなお姿が、鏡に映る己が姿として映ってきた。
病む相も、語る言葉も、すべては吾が姿であり、この祈りの場に臨ませていただいたのも決して偶然ではなく、観世音菩薩のお導きだったことを了知した。
「大調和の神示」の「汝ら天地一切のものと和解せよ」の言葉、さらに「顧みて和解せよ」との言葉は、天地一切のものが尽十方無礙光如来の大慈悲であり、私たちを実相(自性円満)へと導き給うためにこそ出現していることを示しているのだ。
『常楽への道』を著した吉田國太郎講師は、この霊妙な働きを、親鸞が説いた「弥陀の誓願不思議」として拝まれ、次のように説いている。「誓願とは神のコトバ、不思議とは現象を超えた無限の光。イエス・キリストは、己が生きるは天の命によってあらしめられているのであると云った。これが誓願不思議である」と。
また谷口雅宣先生は、宇宙大生命の働きを「天照大御神の恩徳を讃嘆する祈り」で次のようにお説きくださっている。「天照大御神は『愛なる神』の別名である。キリストの愛の別名である。自ら与えて代償を求めない『アガペー』の象徴である。また、三十三身に身を変じて衆生を救い給う観世音菩薩の別名である」と。
「南無観世音菩薩」のコトバは、宇宙に満ちる四無量心と"ひとつ"になり、これを己が信仰として生きることである。観世音菩薩が生長の家の礼拝の本尊であるとは、私たち一人ひとりが、宇宙大生命から発した"大慈悲の光"そのものであることを示しているのだ。


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