2024年2月 1日 (木)

観世音菩薩からの警鐘 (2024,2)

 生長の家では「観世音菩薩は、あらゆる姿とあらわれて私たちに救いの説法を宣示したまう」と教えていただいている。

 それは特別な人だけが“説法”を聴けるのではなく、神想観を通して心の耳を澄ましてさえいれば、誰でもそれを聴くことができるのである。
 世界にある真っ当な宗教の「教え」は、その“声なき声”を深く傾聴したところに生まれてきたのであり、そこに各宗教に受け継がれた「行」の実践があり、そこからすべてを生かす愛や智慧が湧出するのである。

 元日に石川県で能登半島地震が発生し、翌二日には羽田空港で、日航機と海上保安庁の航空機が衝突して炎上するという大事故が起きた。

 自然災害と人的災害と原因を異にしているが、何れも観世音菩薩の“声なき声”としてこれを傾聴することから、私たちが取り組まなければならない課題が見えてくるはずである。

 能登半島地震の報道から私が教えられたことは、普段からの①水や食料の備蓄。②近隣の人たちとの心の絆。そして③災害時を想定してのシミュレーションの大切さである。

 例えば、「水や食料の備蓄」は、内閣府のガイドラインでは3日分以上が基本とされている。その根拠は、人命救助のデッドラインが72時間(3日間)であることから、発災した当初の行政は救助・救命を最優先するため、自身や家族を守るためには最低でも3日分の食料を備蓄する必要があるのだ。

 また、関東大震災級の大規模災害を想定した場合は、「一週間分」以上の備蓄が望ましいとされている。

 能登でも、発災後の数日間は行政の支援が行き届かず、電気も水道も止まり困窮に耐えている人たちに、地元の一人の主婦が、ご自宅のガソリンにも事欠く中で「飲料水」を軽トラに積んで明るく配っている姿がニュースで報道されていた。

 自然災害は“想定外”なことばかり山積すると思われるが、近隣の人との「心の絆」の大切さが浮き彫りになる光景だった。

 神仏に導かれて生きる信仰者には、随所で一隅を照らすことが求められるだろう。大切なのは、どんなに悲惨と見える状況の渦中にあっても、そこに一縷(る)の光明を見出して新価値を湧出させる智慧と、艱難を光明へと転ずる逞(たくま)しい力である。

 もし自身が、発災後に難を免れていたのであれば、周りやご縁ある人との絆を築いておけば、機に応じて縦横にお役に立てるのである。

 神想観とは神との対話でもある。朝夕の祈りの時間にどんなことでも神に委(ゆだ)ねていれば、ヒラメキや、直感や、ふとした行為となって日々導かれるのだ。

 それは自我(ego)中心の意識が、神の子・人間へと次第に目覚めて生長する過程でもある。

 その“祈り”を通して経験する心の深い振幅が、やがて魂を豊かに円熟させ、被災時に限らず人生の随所で家族やご縁ある人々を導くのである。

 

 

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2023年12月28日 (木)

祈りの時間 (2024,1)

 私が神想観の修行を始めたころ、といっても四十年も前のことだが、祈りは、懐かしい音楽を聴くのに似ていることに気がついた。

 それは、「世界平和の祈り」をしているときだったが、ひび割れた地表に降り注ぐ春の雨のように、魂を静かに潤す調べを、私は朝に夕に聴き続けていたのだ。

 その温かく柔かな光りに、ぽっかりと開いた魂の傷が包まれ、今にして思えば、それは観世音菩薩の慈悲に触れていたのである。

 四無量心を行ずる神想観の中に「一切衆生の苦しみを除き、悩みを和らげ」という言葉がある。

 ある講演での質疑応答で、この祈りの言葉について参加者から、「なぜ“苦しみは除き”なのに、悩みの方は消されずに“和らげ”なのでしょうか」と尋ねられたことがあった。これは、そのまま「神はなぜ、病や老いや死を、消し去り給わないのか」という問いにも聴こえてきた。

 魂にトゲのように深く突き刺さったように見える病気や、自身では到底解決できないと思われる苦難に見舞われたとき、神想観という「祈りの時間」を経ることで、それが簡単に消されることなく、魂をどん底まで掘り下げる機会となっていのちを錬磨していたことが見渡せて来るのだ。

 神想観を始めるまでの「時間」は、私たちとは無関係に経過していくように見える。でも、「時間」こそが、私たちの魂を包む仏の慈手であり、魂を伸びやかに生長させる神の懐であることが、「祈りの時間」を経ることで観えてくるのである。

 出来損ないのやっかい者としか見えなかった私のような者たちすらも、「祈りの時間」は“業”のすべてを抱擁し、罪や苦しみを溶解して、彼が今生で果たすべき使命へと変容させる。

 その「時間」の深い慈悲と融合するのが信仰であり、生長の家の神想観である。

『人類同胞大調和六章経』の「愛行により超次元に自己拡大する祈り」の冒頭には、「人間は宇宙遍満の普遍的大生命の“生みの子”である」と説かれている。宇宙大生命こそが、あなたの実相である。

 祈りの不思議な働きによって、私たちの苦しみが除かれ、悩みが和らげられるのは、生きとし生けるものに注がれる神の愛や仏の四無量心の光りが、自身(の実相)から発していたことに気付くからである。

 その厳かな事実に触れ、架せられた使命と、実相の大地に立つ安らかさとが、「愛行」となって全てのご縁を豊かに潤すのだ。

“新しい文明”が展開する令和の御代の愛行が「オープン食堂」や「PBS活動」である。これに参加して実践するだけで、五欲に支配された“自我中心の卵の殻”が破られ、宇宙大生命なる神(実相)を中心とした、神の子・人間の生き方へと転換していくのだ。

 気付けば、苦しみがいつの間にか除かれ、病が癒やされ、悩みが和らげられていく。生長の家の修行は“与えれば却って殖える”ムスビの実践である。それが大乗の教えを現代に生きる、生長の家の“楽行道”である。

 

 

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2023年11月30日 (木)

言の葉の森から (2023,12)

 読書は、私のたましいの糧だ。

 通勤電車、自宅やスタバ、眠りにつくまでの寝床。同じ時期にそれぞれの場所に適した本を読んでいる。

 仕事がら、講話のテキストを読む時間とのせめぎ合いになる場合が多い。しかし糧は必要だからギリギリまで読んでいると、双方のテーマが深い所で繋がり合ったりするから“言の葉の森”への逍遥(しょうよう)は尽きない。

 今回は、自宅や寝床で読めそうな本を紹介したい。

 

 先ずは中村桂子著『老いを愛づる』(中公新書ラクレ)。

 中村さんは『いのちの環』七月号にインタビューが掲載された生命誌研究者だ。

 かつて八〇年代、『VOICE(ボイス)』(PHP研究所)誌上で科学と文明を結ぶ切り口で彼女がコラムを連載して以来、私はファンになった。

 そんな中村さんが八十六歳を迎え、「『老いる』ということを生きることの一場面として捉え、年齢を重ねたがゆえに得られたこと」を綴った、というから見逃せない。

「暮らしやすい社会」を実現するためには、

「『人間は生きものであり、自然の一部』という考え方をすれば暮らし方を変え、二酸化炭素の排出を抑えることができる」と語る科学者の眼差しは、人間のみならず地球生命全体に及んでいる。

 

 次の本は養老孟司さん(八十五歳)と下重暁子さん(八十六歳)の対談『老いてはネコに従え』(宝島社新書)。

 共に八十路を越えたお二人は、齢を重ねるにしたがって視野は広がり、逞(たくま)しい着想は現代社会に鋭く切り込む。

 たとえば次の対話は次世代への老婆心がつのり、困難な時代を生き抜く智慧がほとばしる。

養老 このままいくと、アメリカの属国のお次は中国の属国になってしまうかもしれない。だからこそ『それぞれの地域の自立』が大事なんです。支配されたくなければ、地元で自給自足できる社会をつくることですよ。自分たちの周りでしっかりと食べていければ、ほかの国がいくらお金をだそうとも『関係ねえ』って話ですから」。

下重 うん、それこそ人口なんて少なくていいから、小さな独立国を目指す。地元で自給自足できるコミュニティがいっぱい出来るっていいんじゃないの」。

 戦中戦後を見つめてきた者のみが語り得る、美しく豊かに生きぬく智慧が満載だ。

 

 最後は、数年前アフガニスタンで凶弾に倒れた中村哲医師の『わたしは「セロ弾きのゴーシュ」』(NHK出版)。

 かつてハンセン病根絶を目指して現地に赴いた医師が、なぜ空爆後のアフガンに留まり、病気と干ばつに苦しむ農民たちのため井戸を掘り、水路を掘削し、六十五万人もの命をつないだのか。

 中村医師は、「遭遇する全ての状況が――天から人への問いかけである。それに対する応答の連続が、即ち私たちの人生そのものである」と振り返る。

 諍(あらが)いがたい運命を受け入れ、懸命に生きた半生を穏やかに語る彼の眼を通して、天命に従った数多(あまた)の人間たちの真実に向き合わされ、ゴーシュの魂が私たちの内によみがえる。

 

 

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2023年11月14日 (火)

“光明化”について (2023,11)

 都市化と核家族化が進んだ影響で、先祖供養などの伝統的な風習が大きく変化している。

 墓じまいや散骨などについてご相談を頂く場合もあり、そのつど生長の家の教えの光を当ててお答えしているが、先般も大田区で講演した折にも同類の質問をいただいた。

『人生を支配する先祖供養』(谷口雅春著)には、「古神道の一霊四魂(いちれいしこん)の説」が紹介されているが、そこには死後の御霊(みたま)の消息について次のように記している。

「日本の古神道では人間の霊を一霊四魂に分けている。一霊とは実相の霊であり、これを直日霊(なおひのみたま)という。総括総攬(そうかつ そうらん)の純粋霊である。それが奇魂(くしみたま)、和魂(にぎみたま)、幸魂(さちみたま)、荒魂(あらみたま)の四つのはたらきとなって分化する」。

 つまり「直日霊(なおひのみたま)」は、私たちの実相、即ち本体であり、これが次の四つの働きとなって現れているのだ。
 最初の奇魂(くしみたま)は叡智の働き、次の和魂(にぎみたま)は社会や国のために活動する働き、幸魂(さちみたま)は家族を守り導く働き、荒魂(あらみたま)は肉体的な働き。

 そして、私たちの肉体が使命を終えて昇天すると、奇魂(くしみたま)は実相の直日霊(なおひのみたま)に帰り、和魂(にぎみたま)は天界を拠点として活動し、幸魂(さちみたま)は位牌等で家に祀られて家族を守り、荒魂(あらみたま)は墓地に埋葬される。

 かつて宇治別格本山で総務をされていた楠本加美野講師は、「宝蔵神社俸堂(ほうどう)の祝詞」にある「顕幽相携(けんゆうあいたずさ)えて大神の経綸(けいりん)を扶翼(ふよく)する」という言葉に着目して、「霊界の御霊たちと、私たちとが協力して神さまの人類光明化運動を行うこと」と解説されていた。

 先の一霊四魂の説によると、この働きは和魂(にぎみたま)の「天界を拠点として社会国家のために活動する」に該当しそうである。生長の家で宝蔵神社にお祀りした御霊を「霊宮聖使命菩薩」と讃えるのはそのためだろう。

 み教えから四魂の消息を観れば、荒魂は墓地等に葬られて自然界に帰り、幸魂(さちみたま)は家で祀られて家族を守護し、和魂(にぎみたま)は宝蔵神社などの招魂社で祀られて人類救済にあたり、奇魂(くしみたま)は実相そのものとして宇宙全体を生かす。

 一方、私たちの本体、四魂を総括する「実相の霊」である直日霊(なおひのみたま)は、自性円満なる「久遠生き通しの存在」であり、その「実相の霊」が四魂それぞれの聖なる働きとなって神の“光明化”運動を展開しているのだ。

 この“光明化”について『碧巌録(へきがんろく)解釈』後篇(谷口雅春著)には、創世記の「“光あれ”と言い給う“行”によって“光の世界”があらわれた」ように、生長の家では「智慧の“光”をもって」天地の万物の実相を直視するのである。そして人類の意識が「無明の展開」として見ていた現象宇宙を、“神のいのち”の顕れとして根源から「解釈し直す」(絶対感謝する)のである。それが“光明化”の運動であり、日時計主義の生活である。

 したがって日時計主義の生き方は、「外界を感受して善美の世界を創造する」芸術となり、「天地万物を神の実現として聖愛し、礼拝する」宗教となって、神の創り給うた光りの世界を根底から讃えるのだ。

 生長の家が天地一切のものに感謝するのは、「感謝」こそが“光明化”のカギであり、神の真・善・美(実相)を人生の随所で湧出させる聖使命であり、日時計主義の実践だからである。

 

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2023年10月 6日 (金)

「愛」の働きについて (2023,10)

 谷口雅春法話集の中に『愛は刑よりも強し』という一冊がある。かつて友人の勧めと、楠本加美野先生が講話で引用されていたことが切っ掛けで、同書を紐解いたのは四十年以上も前のことだ。

 冒頭にある、スター・デーリーがキリストと出逢い宗教的な改心を遂げた個所は、いつまでも深く印象に残り、煉獄(れんごく)のような罪の意識に駆られた折には、その情景を想い出しては“魂の糧”としたものだ。

 八月のある日、再び同書を紐解くと、生前に父が摘んで、私が栞(しおり)に挟んでいた四つ葉のクローバーが、はらりと出てきた。そして次の言葉が目に飛び込んできた。

「彼は、自分が『愛』を行じさせて頂くために神から與(あた)へられた『愛の対象』であると見るべきであり、その『愛』を行ずる事によって誰が救われるのかと言えば、自分が救われるのである」。

 皆さんの中にも、周りのために無我夢中になって愛行に尽力していたら、気がつけば自分が救われていた、というご経験をお持ちの方も多いと思う。

 み教えに照らしてみれば、「愛」の働きは「神」そのものの働きである。愛を行じることで、ニセモノの我(ego)が消えてゆくのだ。

 それが神の働き給う人類光明化運動であり、私たちが神の手足となることであり、その「愛」が働き給えばこそ苦しみは除かれ、多くの病悩が癒やされるのである。

 同書には、終身刑のライファーという“愛の化身”のような人物が登場する。彼がデーリーを神の道へと導くのだが、読者は同氏の言葉を通して、人を活かす“愛”の働きと出逢うだろう。

 たとえば、宗教的な情熱に駆られていた若き日のデーリーに、ライファーは次のように告げる。

「そんなに人を救おうと力むものではないよ。静かに坐して君が救い得る相手が得られます様に祈るんだよ」。

 深い信仰の世界が優しく開示され、気付けば私たちも、デーリーと共にライファーの言葉に耳を傾けている。

「すべて救いのことは神の手にまかせるのだ。そうすると神が、その適当な時と適当な場所とを定め給うのだ。そしてまた、神は君の口に必要に応じた適当な言葉を与え給うのだ。まず『愛』を第一に、その次には『信頼』だよ」。

 人生で豊かな信仰生活を経験した読者の皆さんは、その深浅に応じて、この言葉の持つ慈愛の深さが魂に響くことだろう。


 谷口雅春先生は同書の「はしがき」の中で意外な告白をしている。
「私は読みながら、その要点を書きとった。それは自分が繰り返し読んで反省するためであって、人に教えるためではなかった」と。

 そして先生は、「多くの宗教の教師は、『自分が他を救う』と高慢になっており、『自分が誰かのためにこんなに働いているのに、感謝されない』などと不平に思ったりし勝ちである」と説いている。

 この書が世に出て五十年。

 改めてここに説かれた真理が、私を含め人生の後半を迎えた世代には、当時の雅春先生と同様に魂の深い糧となるだろう。それは若いときには思い及ばなかった、“無償の愛”という円熟の信仰と出逢う時節でもあるのだ。この秋、お勧めの一冊である。

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2023年9月 1日 (金)

言霊が幸ふ見真道場(ことだまがさきはういのちのゆには) (2023,9)

 生長の家のすべての行事が、祈りで始まり祈りで終わるのは、「コトバの力」を大切にする教えだからである。

「言葉」のことを日本では「コトダマ」とも呼び、万葉集には「言霊(ことだま)の幸(さきは)ふ国と語りつぎ言ひつがひけり」〈万・八九四〉」と、その神秘な働きについて歌われてきた。

 弘法大師が日本に伝えた密教では「真言」という表現を用いて、それは大日如来のコトバ(法身説法)であり、森羅万象はコトバの鳴り響きであることを説いている。

 また『新約聖書』には、「初めにみ言葉があった。み言葉は神とともにあった。み言葉は神であった」(ヨハネ伝)と、「コトバ」が即ち「神」であることを伝えており、生長の家では「コトバの創化力」という表現を用いてコトバの力に着目し、幸福生活の実現にはこれが不可欠であることを強調するのは、私たちが発する明るい感謝のコトバこそが、神のコトダマの噴出口だからである。

 ここで言うコトバとは、音声や文字で表現したものだけではない。それは、仏教で説く「身・口・意の三業」つまり私たちが「身体で表現したこと」「言語であらわしたこと」「心に思ったこと」、これらすべての感謝の行為がコトバとして不可視の世界に刻まれ、宇宙的な力によって現象世界を形成するからである。

 これが「コトバの創化力を駆使する」ことであり、生長の家の信仰の基本が感謝の生活である由縁がここにある。

 聖経『甘露の法雨』には「神の国は汝らの内にあり」と説かれているが、人類の「意識の深層」に拠点をおく世界の教えが、共に生命の源泉ともいうべき神の無限の愛や慈悲喜捨を説いて実践するのは、ここに円満完全な実相の世界があり、この領域に分け入った多くの先達が「説法」や「文書」や「祈り(命宜り)」などの形式を通してコトバの大光明の世界を開いてきたのである。

 生長の家も、コトバで神(究極的実在)や仏性(大日如来)をあらわし、そのコトバ(宇宙大生命)の力で人類のみならず、すべての生命に大調和をもたらすために出現したのだ。

 そんな私たちの運動が、今日のコトバの媒体であるブログ、SNS、フェイスブック、Zoomなどを豊かに駆使して国際平和信仰運動を展開するのは必然の事でもあるのだ。

 たとえば「誌友」という言葉は、真理のコトバを共有する仲間が集う“場”をあらわす生長の家の伝統的な呼び名だが、「七つの光明宣言」にある「あらゆる文化施設を通じて教義を宣布す」という宣言に照らしてみれば、東京の会員の集まりである「SNI TOKYO〈東京ムスビのひろば〉」は、現代の誌友がみ教えを共有する信仰生活の“場”なのである。

 そこでは、日々の神想観の先導に加え、地方講師の悦びの信仰体験や、教化部長の全ての講話、そして見真会や研修会の内容が無償で視聴でき、誌友諸氏の信仰を潤すコトバが豊かに躍動している。

 そこは現代の見真道場(いのちのゆには)であり、すべての行事が「祈りで始まり、祈りで終わる」観世音菩薩が導き給う“言霊の幸ふ場”でもあるのだ。

 

 

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2023年8月 1日 (火)

「救い」について  (2023,8)

 皆さんは、生長の家の人間・神の子の教えに触れて、ご自身のことを「救われた、ありがたい!」と感謝の目で観ているだろうか。

 それとも、「私の救いは、まだほど遠い」と、未だ不完全な姿ばかり見ているだろうか。生長の家を信仰するとき、ここの受け止め方はとても大切で、そこに躓きがあれば、「人間・神の子」のコトバの真意と出逢う機を逸するのである。

 7月始め、対面とZOOMで真理を研さんする「実相研鑽ネットフォーラム」のため教化部に向かっていたとき、「救い」について気付いたことがある。

 救いは、一人一人異なるように見えるが、共通しているのは「楽を与えられる」ことだ。仏教でこれを「抜苦与楽」といい、そこに宗教のお役目がある。

 衣食住が満たされる物質的な救いも大切だ。しかし、霊界の消息などを記録した文献などから推察すると、人間の「たましい」はそれだけでは枯渇したままで、未だ救われていないかもしれないのだ。

 また、生きている者でも私をはじめ何人かの知人は、もし生長の家の教えに出逢わなければ、今生はおろか幾世にも渡って無明の淵に沈み、手に負えない自身の気性や病気を持て余していただろう。

 そんな厄介な「たましい」の面々すらも、み教えと出逢うことで、日々の平安を得たのだ。が、それは「たましい」の枯渇が満たされたからにほかならない。

 そんな、「救われた」ことへの“ご恩返し”を、との思いに長年のあいだ駆られていたが、教化部への途上で、ふと「現象はないのだ!」との思いが湧出し、続いて「渾ては神のいのちで、既に救われ済みではないか!」と判ったとき、肩の重荷がすっと抜けていったのだ。

 それは、私自身が「三正行」の実践へと導かれたように、「天地一切のものや、生長の家の友人や亡き恩師たちの祈りと愛念が、渾ての人の機縁を熟させ、彼らの〝たましい〟を導くのだ。私は、今できることを精一杯やらせていただくだけでいい」との思いに至ったのである。

 家族や後輩を、善き方向に導こうとするとき、そこに“私が”の思いが先行していると、現象の不完全さばかり見えてくるのは、皆さんも経験済みのことだろう。相手(や自分)の悪しく見える現象を責め、それを“良くしよう”と、カゲにすぎない現象に振り回されていれば、彼らの円満な実相を、ますます隠蔽することにもなるのだ。

「救い」は、自身の実相を拝み、相手の実相に無条件に感謝して礼拝することに尽きる。そこから、身心や、物や、お金や、渾てのものが円滑にめぐり始める。それが「人間・神の子」の教えである。私たちの信仰は、天地に満ちる神性・仏性をただただ拝み、感謝する生活にあるのだ。

 聖典『生命の實相』の劈頭に「ヨハネ黙示録」が掲げられている。ヨハネは、久遠のキリストとの出逢いの衝撃を次の言葉で綴る。

「その顔は烈しく照る日のごとし。我これを見しとき其の足下に倒れて死にたる者の如くなれり」と。

 その久遠のキリストは、あなたを取り巻く一人ひとりであり、あなたを含む天地一切のものが、それであることを、聖典全巻のコトバは告げているのである。

 

 

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2023年6月20日 (火)

玉手箱を開いてみると  (2023,7)

「夢」は、不可視の世界からのメッセージを運ぶといわれている。古くは神話や昔話となって、時代を超えて深奥な教えを伝える場合があり、現代の心理学でも、人間の深層心理についての重要な情報を提供している。

  たとえば鎌倉時代の明恵(みょうえ)上人という坊さんは、見た夢を克明に記録して『夢記』という記述を遺しているが、それを読んだ臨床心理学者の河合隼雄氏は、内容に驚嘆して『明恵 夢を生きる』という著作を通して、「とうとう日本人の師を見出したという強い確信をもった」とまで記している。

  梅雨入りしたころ、妙な夢をみた。ドアを開けると、そこは(なぜか)昔お世話になった生長の家の先輩のご自宅だった。

  私は久しぶりに信仰について語り合えることが嬉しかったが、お母様が来客用の夜具の準備を始められたので、もうすでに遅い時刻になっていることが分かった。

  ご迷惑をお掛けしてはいけないので「そろそろ、おいとまさせていただきます」と伝えると、「これをご覧になってください」と、お二人から藍(あい)色の綿糸を織り込んだ柔らかな布地の袋を手渡された。中には数多(あまた)の写真が入っているようで、その確かな手応えを、しっかり感じたところで、目が覚めた。

 そんな六月上旬、「四無量心を行ずる神想観」を教化部で先導していたとき、若いころ建設会社でバイト(肉体労働)をしていた折に出合い、すっかり忘れ果てていた人たちの顔が唐突(とうとつ)に次々と浮かんできた。それは半世紀も前の記憶で、大半の方は鬼籍に入っていると思われるが、厳しかった人、柔和な人、一癖(くせ)も二癖もあった人など、多様な人間と出逢ったが、当時の若かった私が嫌悪していた人ほど、祈りの中での彼らは、浄らかで根源的な輝きを強く放ち、現在の私のいのちを煌(こう)々と照らしていたのだ。


 私たちは「心の法則」を知るほどに、自身の周りに展開したいろいろな現象を見て、その意味をあれこれ詮索し、解釈して、なにか「解った」つもりになっているのである。しかし、観世音菩薩の説き給う真理は、ただ頭で「解った」だけでは、未だ秘められたままである。

 その教えは実に深奥で、それは「祈り」そして「待つ」という時を経て、私たちの感謝の念が極まるに従って開けてくるのだ。かつて出逢った人々の「いのち(実相)」が、感謝の念の中(うち)から顕現し、その燦然(さんぜん)とした“輝き”が顕わになるに従い、暗黒のように見えていた過去を、現在を、そして未来を、隈無(くまな)く照らしはじめる、それが神想観の醍醐味(だいごみ)だ。

 そんな観想を巡らせていたら、夢の中で手渡された玉手箱(布地の袋)のメッセージが次第に解けてきた。

  写真と思われたのは、これまで出逢った人々の「たましい」の姿、そのお一人おひとりは人生の随所で現れた観世音菩薩だったのである。

  どうやら彼らは、今も、久遠に輝き続けて、過去の渾(すべ)てとなって後世の人々を煌(こう)々と照らしている。その実相が、神想観での“無条件感謝”を通して拝めてきたのである。

 

 

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2023年5月30日 (火)

右の手のすること  (2023,6)

 先般亡くなった作曲家の坂本龍一さんの『Playing the Piano12122020』というCDを聴いている。

 その演奏が、天界からの祝福のように初夏のすがすがしい空気と溶け合い、深い慈悲が奏でる音の恵みを、久しぶりに満喫させていただいている。

 日々の生活の中で、私たちは大自然の恵みや、多くの人からのご恩を頂いているが、その恵みに気づかなければ、「それが存在しても『無い』のと同じこと」と、『新版 生活の智慧365章』には説かれている。

 世の中には、「目に見える恵み」と、目には見えないがこの世界を根底で支えている「隠れた恵み」とがある。

 前者は、即物的な恩恵として現れ、これを他に与えれば「ありがたい」と感謝され、善行として称讃もされる。

 一方、見えない恵みは、よほど注意しなければ私たちの意識に上ることは希である。こちらは大自然の恵みとなり、人間を介した場合は「隠れた善行」として施されるが、キリストはこれを「右の手のすることを左の手に知らせてはならない」と、この途轍(とてつ)もなく深い神秘な働きについて語っている。

 前者の恵みは、私たちの現在意識に“利害や損得”という姿で映るから誰でも分かりやすい。しかし、隠れた恵みの方は、利害を超え、損得を超え、その働きは目に見えない不可知の領域から到来するから計量することができない。

 仏教ではこれを「四無量心」と言い、キリスト教ではアガペー(agape=神の無償の愛)と呼び、生長の家の招神歌ではこれを「元津霊(もとつみたま)ゆ幸(さきは)え給え」と唱えている。

 私たちが利害や損得を越えて、無心に神さまの手足となって働くとき、そこに自身の能力や実力を超えた“無限なるもの”が湧出してくる所以(ゆえん)がここにある。

 それは“ムスビの働き”となり、神癒(しんゆ)となり、ここから新価値が湧出する。それは私たちの力ではなく、その背後にある仏の四無量心が、神の愛が、元津霊(もとつみたま)の幸(さきは)えが、私たちを通して滾々(こんこん)と溢れているのだ。それは尽きることのない恵み、世界を根底から支える愛の光りである。

 仏教に「有漏(うろ)の善根(ぜんこん)」と「無漏(むろ)の善根」という言葉がある。「漏(ろ)」とは煩悩のことだ。「有漏(うろ)」とは「右の手のすること」を皆に見せびらかして称讃してもらいたい心や、「心の法則」を利用して“おかげ”や“見返り”を期待しての善行などがこれに該当する。

 一方「無漏(むろ)」の方は、見返りを一切求めない無償の愛の行為である。それは元津霊の恵みであり、仏の慈悲喜捨の発露である。生長の家で説く「愛行」は、「無漏(むろ)の善根」にほかならない。

 この六月から、教化部で「生長の家オープン食堂」が始まる。

 私たちの運動の長い歴史を振り返れば、どこかで「右の手のすること」の“見返り”を求め、運動に「有漏(うろ)」の要素が混在していた時代があったかもしれない。

 しかし今は、宗教本来の使命である“元津霊”の光りを灯して、私たちの愛行が本来の深い慈悲を奏で、天地のすべてを潤す時代が来たのである。

 

 

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2023年4月25日 (火)

ウィズコロナ時代の運動  (2023,5)

 この5月、わが家の長女が結婚式を挙げる。入籍はすでにコロナ禍中に済ませ、両家の顔合わせも出来ていたから親としてはそれで十分と思っていたが、ウィズコロナという多様性に満ちた新しい時代の風を受けて、多くの人に幸(さち)をもたらす船出となることを祈っている。

 コロナ禍が収束するとともに、4月から東京での運動がスタートした。
 気がかりだったのは私が二つの教区を兼務したことで、各教区での滞在時間や皆さんとの対話が減少することへの懸念だった。
 これを補うために、インターネットで公開が可能なあらゆる行事で、双方向で対話ができるzoomを活用している。

 皆さんは、スマホやパソコンやタブレットをネットに繋げるだけで、ほぼ毎日お昼の神想観にリアルタイムでアクセスできるし、4月からスタートした「實相研鑽ネットフォーラム」や「日曜誌友会」、そして毎月いずれかの教区で開催する「祈り合い神想観」や「浄心行」などの“行”に加え、「講師研修会」「母親教室出講講師勉強会」など東京第一と第二の双方で開催する行事に、教区を越えて参加できるのだ。

 これも二つの教区を一人の教化部長が兼務していればこその“新しい運動”のカタチである。これに加え、より身近に真理を研鑽するために、4月から「SNIーTOKYO〈生長の家東京ムスビのひろば〉」という東京第一教区と第二教区の会員の皆さんが一緒に信仰を深め合う“場”を、新たにFacebookに開設した。
 ここでは、私が担当する講話や質疑応答、そして皆さんの体験談などを、いつでもどこでも自宅でも車中でも畑でもFacebookにアクセスさえすれば視聴できるよう一定の期間保存しておく予定だ。スマホをお持ちの方は、ぜひ「SNIーTOKYO〈生長の家東京ムスビのひろば〉」にアクセスしてほしい。

 また、zoomでの講話にお顔を出して参加された皆さんとは、努めて質問や感想などを語り合う時間を設けている。講師の私も、皆さんのお顔を拝見することで、単なる知識や情報伝達を超えた、以心伝心の言霊(ことだま)による“遣り取り”に踏み込んでいきたい。

 さらに新たな対面行事として、東京第一教区では地区ごとの地区先祖供養祭と講話を、第二教区でも総連ごとの講演会を白・相・青合同で開催して、皆さんと直接お会いする機会をつくり、これから両教区を隈なく廻る予定だ。

 そして、満を持してスタートするのが「生長の家オープン食堂」である。
 これは運動方針に掲げられた純粋な社会貢献であり、何の見返りも求めずに“無償の愛”を実践する活動である。それは仏の慈悲喜捨を“食事の提供”を通して現し、神から私たち一人ひとりに授けられた使命の一端を具体化するのである。

 神の愛は、利害損得という人間知を超えて働く救いの光りだ。その光りを黙々と灯し続けることで、私たちに托された世界の一隅を照らすのである。

 

 

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