2021年12月 6日 (月)

聖使命のこと (2021,12)

 十一月、埼玉・群馬のペア教区で「聖使命研修ネットフォーラム」を開催した。

 生長の家では、人間は神の子であり、その実相(ほんとうのすがた)は円満完全な宇宙大生命で、智慧と愛と生命とに満ちていると教えていただいている。

 聖使命とは“聖なる”使命のことである。それは無限ともいえる神の智慧と愛と生命を生きて、この世界を光明化する使命のことである。

『生命の實相』第一巻の「實相篇」には、「自性円満を自覚すれば大生命の癒力(なおすちから)が働いてメタフィジカル・ヒーリング(神癒)となります」と説かれている。

「自性円満」という言葉には「そのままで円満なこと」との注釈が添えられている。そのままとは「はじめから」ということで、それは、「神の子」に成るために長い時間をかけて精進努力した後にそこに達するのではなく、そのままで自性(実相)は完全円満であり、ハイッとそれを受けて三正行に励んでいれば、本来の実相が顕れてくるのである。

 かれこれ四十年ほど前のこと、宇治練成会で「聖使命」の講話を担当していた講師が、
「皆さん、そのまま円満完全な神の子であり光りですよ! その実相を悦びたくない人は、ぜったいに聖使命会に入ってはいけませんよッ!」

 と、一見冗談か、と思われるような真実を突いた話をされていたが、講話の後、初めて練成に参加したと思われる人たちが続々と聖使命に入会されていたことを思い出すのである。

 今回の聖使命研修では、冒頭で埼玉教区相愛会の冨田敏夫会長が挨拶され、『到彼岸の神示』(谷口雅春著)の一節を引用して、「神さまの教えをひろめるためには“純粋な献身”が要求される」ことを紹介されていた。

 続いて三名の方が体験発表をされたが、彼らに共通していたことは、幼な児の信仰と純粋な献身だった。

 生長の家の運動は数知れぬ先達の“純粋な献身”のおかげで、私たちの元に人間・神の子の“真理の火”が届けられたのである。その光りに照らされて、人生の桎梏(しっこく)と見えていた人間苦、経済苦、病苦から解放されたのだ。

 そこに点ぜられた「火」とは、「自性円満」の真理の自覚であり、そこから生じた喜びが、人類光明化運動・国際平和信仰運動となって地上に溢れているのである。

『新版 真理』悟入篇には、聖使命菩薩について「すべての人を救いとろうと、いとも広大なる救いの手を拡げられた(中略)、観世音菩薩の千本の手の一本一本が衆生済度の聖使命を感得された皆さんであります」と説かれている。

 聖使命に入会するとは、先達の言葉を借りれば、「そのまま円満完全な神の子であり光りですよ!」と、その実相を悦び生きることに他ならないのである。それは同時に、神の無限供給の扉を開くことでもあるのだ。

 それを開く鍵は、はじめから私たちの内にあり、この世に持参して生まれた“如意宝珠”という「いのち」の中に秘められているのである。

「聖使命」とは、神の子の使命である“菩薩行”を随所で行じて、人生を光明化することであり、そのカギが潮干の珠(現象無し)と、潮満の珠(唯神実相)のコトバの力である。

 聖使命菩薩(皆さん)の生きて歩むところ、そこに必ず浄土が湧出するのである。

 (二〇二一・十二)

 

 

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2021年9月25日 (土)

慈愛の言葉は光りのバトン (2021,10)

 私たちが信仰の道を歩むようになった切っ掛けは、普及誌や聖典に書かれた言葉だったかもしれないし、先輩や友人や父母の導きだったかもしれない。

 いずれにしてもそのカギとなるのは「言葉」である。そしてその言葉は、仏の慈悲や神の愛から発したものであったことは、その後それぞれの人生にもたらされた無量無数の出逢い、悦び、恩恵のことを思えば得心がいくことだろう。

 田舎に住む友人が、畑に簡単な作業スペースを作り、地元の人々が気軽に集まる“場”を設ける計画を伝えてくれた。

 そこでは共に野菜を育て、廃材や雑草を利用してクラフトや雑貨を作ったり、野草でお茶を煎(せん)じたり、そんなPBS活動をしながら、ご近所の方たちに声をかけて、普及誌の輪読やメンタルサイエンスの話などをして、『凡庸の唄』のリアルな世界を実践してみるそうである。

 教区の各地区にこのような開かれたコミュニケーションの“場”が屋外に実現したらどんなに楽しいことだろう。

 時々その場所に誌友が集まり、ミニイベントで畑の世話をしたり、スマホで講話ビデオを見たり、愛行や真理の話や雑談に花が咲く。

 いわゆる青空誌友会場である。ときには畑で穫れたサツマイモなどをたき火して頬張り、季節の巡りと連動しながら仲間と共に齢(よわい)を重ねていく。

 そんな“場”が各地にできたら“新しい文明”を形成する光りの拠点として生長の家は着実に伸びていくだろう。

 こんなライフスタイルが、ウィズコロナ(コロナとの共存・共生)時代の運動の一つの姿になるのかもしれない。

 皆さんも自宅の土地があればそこを活用し、なければ畑を借りてそこを“光りの拠点”とすることもできるのだ。

「畑」という新たな光明化運動のフィールドは、自然と人間との“対話の場”であると同時に“ムスビの場”でもある。無農薬で行う野菜作りを通して一人ひとりの工夫が施され、アイディアが花開く。

 そんな畑には、昆虫や微生物が集まり、様々な野菜の「種」が交換されるだけでなく、智慧と愛と生命がムスビ合う生命の十字路として豊穣な世界が展開するだろう。

 自然と人間が交わる畑は、神性を開発する新時代の道場となり、種を蒔き育て収穫して祝う“祭りの場”となり、同時に“新価値の創造の場”となるのだ。

 この秋、埼玉・群馬のSNI自転車部の皆さんがイエローフラッグリレーの復路(浦和の教化部から高崎の教化部へ)を予定していたが、コロナ禍が蔓延してリアルな実現が困難になった。

 そこで新たな試みとして、おムスビネットを舞台に「居住地の自然と文化を顕彰するリレー」をそれぞれの地元で実施することになった。

 それは自転車だけでなく、徒歩や公共の交通機関も利用して、それぞれの居住地の文化的史跡や自然に光りを当て、過去の人々と現代を生きる私たちと、次世代の人々とをムスビ、各地の自然や史跡を「おムスビネット」と「PBS各部のサイト」で紹介する。そんな生長の家ならではのイベントである。

 ここでもカギとなるのは「言葉」である。神の愛と仏の慈悲から発したコトバは、ご縁あるすべてのものに“光りのバトン”を手渡すだろう。

  (二〇二一・十)

 

 

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2015年1月26日 (月)

季節が変わるように

 八ヶ岳の“森の中のオフィス”では、毎月「自然を伸ばす活動」という作業が行われている。

 この作業はどのようなものか、というと、オフィスで働く生長の家の職員が、この地での“自然との共生”を実践するもので、森林整備、キノコ狩り、畑作り、雪かきなど、人が自然と係わる活動全般のことである。

 1月の中旬、雪の降る屋外でこの作業が実施され、当日は鹿たちが食い荒らした畑の整備と、農事倉庫前の“氷割り”が行われた。

 私は後者に加わったが、これは溶けた雪が地面に何層にも凍り付いて固まったものを、大きなアイスピックや鉄バールで砕いて除去するという、標高1350メートルの八ヶ岳山麓ならではの作業なのだ。

 小さなスケートリンクのような氷の盤面が広がり、シンプルに氷結した箇所は、かんたんに氷を割って剥(は)がすことができるものの、複雑に入り組んで氷結した箇所はどんなに力を込めて叩いても盤踞して剥がれない。アイスピックを両腕で持ち、腕と腰に力を入れて、リズミカルに繰り返し砕き続けるほかないのである。


 この作業を2時間ほど黙々と続けているとき、東京にいた十数年間に、生長の家講師として相談を受けたさまざまな「個人指導」のことを思い出していた。

  その人の抱えている心の問題が、単純な氷結の仕方をしていれば解決もまた容易である。しかし、溶けては凍結し、その上に積雪したものがまた溶けて、さらに車輪に踏まれて凍結してを繰り返したような心の問題は、複雑に入り組んで凍った氷の盤面と同じで一筋縄では剥がれないし時間もかかる。

 
 しかし、春が来ればすべてが氷解するのだ。

 単純な凍結はもちろん、どんなに複雑に入り組んだ凍結であろうとも、春が来れば跡形もなく消え去るのである。

 心に春を招き入れるためには、まず彼自身が、過去のすべてを打ち捨てることである。

 何もかもを放下することである。

 そして完全円満なる神にすべてを委(ゆだ)ねるのである。これが春の“誘い水”となり、やがて彼の魂の底から、永遠に消えない光が差してくる。

 その光は、どんなに拗(こじ)れた心の凍結をも、春の陽のように溶かさずにはおかないのである。

 イエス・キリストは、燈(ともしび)を升(ます)の下に置いてはいけない、燭台の上に掲げよ、と説いた。

 燈を升の下に隠すことによって心の凍結が生ずるのである。

 それがたとえ、どんなに小さな燈のように見えたとしても、それを燭台に掲げるとき、あなたの内なる光は春の陽のように輝き出して辺りの風景を“薫風の季節”へと一変させる。

 それが宗教的な救いである。

 これは外からもたらされる“救い”ではない。季節が変わるように、内から春の陽が輝き出すのである。


2015年1月26日

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2014年4月16日 (水)

鶴見済氏の『脱資本主義宣言』を読む

  鶴見済氏の『脱資本主義宣言――グローバル経済が蝕む暮らし』を読んだ。

 
 仏教に「抜苦与楽」という言葉がある。

 これは衆生の苦しみを抜き去り、代わりに楽を与えるというもので、鶴見氏のこの著作は、今日の文明史的な「苦しみ」を解決するための、一つの処方箋として書かれたものと言えよう。

  本書の「はじめに」で、鶴見氏は次のように書いている。

 

  それでは、経済の仕組みに代わるモデルとな
  る別の仕組みとは何か? カネでない価値観を
 どこに求めればいいか?
  本書がその一例として取り上げているのが、
 自然界の仕組みや自然界とのつながりだ。

 

「自然界とのつながり」――鶴見氏は、かつて90年代のはじめに『完全自殺マニュアル」などという、物騒な作品を著しているが、人生についての試行錯誤を重ねながら、この世の「生きづらさ」の問題と格闘し、「どうすれば楽に生きられるのか」について探求し続けた痕跡が、行間からじんじん迫るのを真摯な読者は感じることだろう。

  同氏はある時期から、「楽に生きるためにはこの『経済の仕組み』を何とかしないとダメだろう」ということに気がつき、この“仕組み”について一つひとつ細かいデータに当たって調査してみた。すると、「驚きあきれるような事実」を次々と見出すことになる。

 つまり私たちが住んでいる資本主義社会の背後には、「生きづらさ」の原因となるものがあふれていたのである。読者は読み進むにしたがって“眼からウロコ”が落ちる思いでページをめくることになる。

  本書の内容から、彼が見出したことの一端を挙げてみよう。

 

 カネ儲けを第一の目的にしてしまった社会が
 失ったものは何か? 当然のことながらそれ
 は、「カネ儲けにつながらない価値」だ。この
 社会では人の健康や環境への害も、金額に
 換算しないと文字通り「計算に入らない」よう
 になってきた。ましてや我々の多様 な「幸
 せ」について、この社会が勘定できるわけが
 ない。
  グローバル化する資本主義が、カネのある
 なしにかかわらず、すべてのヒトにもたらす災
 いはこれであ
る。   (同書133~134頁)

 

 これは卑近な例だが、わが家の子供たちがかつて通っていた都心の小学校では、幼い子供を抱えながらもパートで忙しく働いている主婦が何人もいた。これも、ささやかでも家計の足しになればと、家族の幸せを願っての労働である。

 しかし母親が外で働くようになれば、社会的な責任をともなう仕事の都合を、彼女がまじめな方であるほど、家庭の都合より優先することになる。

 ある日〝こんなはずではなかったかも・・・〟とふと気付いてみても、わずかでも月々の収入が、子どもの幸せや夢の実現につながることを思えば、ガマンせざるをえない。
 しかしそのシワヨセは、すべて家族に、ことに幼い子供に寄せられることを、知って(意識して)いるか否かということは、とても重要である。

  もしこれを自覚せずに進めば、子どもたちは最も愛情を必要としている時期に、母親とふれあう時間を、おカネを得るための経済活動に奪われ、愛情の代償として親が買い与えたテレビゲームと向き合うことになる。失われた母親との時間は、永遠に戻ってはこない。

  家族は、日々の、思いやりの言葉の遣り取りを通して結ばれている。が、もし核家族化した親子の間で、これがなし崩し的に“先送り”にされてしまえば、やがて子供は思春期を迎えるとともに、まっすぐに家庭崩壊への道をたどる要因ともなるのである。

 これは、母親の責任でも、誰の責任でもない。私たちは、何の疑いもなく「おカネ」、つまり経済を至上のものとするコマーシャリズム(営利主義)の中に翻弄(ほんろう)されているのだ。

  これが、鶴見氏のいうところの「生きづらさ」ということの一つの側面である。

  家族の幸せを願いつつ、私たちはいつのまにか唯物論的資本主義の巨大なシステムの渦中に巻き込まれ、最も大切なものを見失ってはいないだろうか。日々立ち止まり、子供たちと目線でふれ合い“対話”することを心がけているだろうか――。

  お金に換算できない、私たちの多様な「幸せ」。これを取り戻すための、資本主義を超えた「別の仕組み」を模索したのが、本書の取り組みといえよう。

 果たして同書に書かれた内容が「答え」に至っているか否かは、諸賢に一読を願うところだが、真摯にこの問題に取り組んだ著者に私は賞賛の言葉を惜しまない。
 少なくとも社会主義でも共産主義でもない「資本主義以降」を考えるための〝必読〟の一冊であることは確かである。

 

 久都間 繁



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2014年2月 1日 (土)

“いのち”に授けられた宝物

昨年の12月上旬、インドネシア・ジャカルタの高校で、学生を対象に「生長の家」のお話をさせていただきました。

参加した教師と学生のほとんどがムスリムのため、イスラームの聖典『コーラン』の一節にある、普遍的な真理と思われる教えの“中心部分”を表現したコトバを引用しながら、演題を「“いのち”に授けられた宝物」と題して、私たちの内から切実に湧いてくる「夢」や「願い」は、神様から授けられたものであることについてお話しました。

また、「コーラン」に説かれたアッラー(神)の恩恵を現す「神兆(みしるし)」について紹介した上で、――私たちは神様の愛に取り巻かれており、それは太陽や月や星や雨や海や植物の(など自然からの)恵みとなり、祖父母や父母兄弟の家族や友人や先生方の愛となって、私たちを生かしている――

という話をして、最後に、「皆さんの“夢”は、神様から授けられたのだから決して遠慮してはいけないし、あきらめたらだめだ! それは君たちのためだけではない、皆さんの夢が実現することを大勢の人が待っているのです!」とお話させていただきました。

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 皆さま、こんにちは。

 今日は、皆さんお一人おひとりの“いのち”に授けられた宝物について、お話したいと思います。

 ここにいる皆さんは、きっと将来の「夢」をお持ちだと思います。
 たとえば「大好きな仕事をしたい」とか、「結婚して幸せな家庭を築きたい」とか、「両親に悦ばれたい」といった“夢”や“願い”を持っているのではないでしょうか。

皆さん、いかがでしょう。自分の中にある“夢”や“願い”について、今、眼を閉じて静かに見つめてみましょう――。

 

 いかがですか。それぞれ、思い当たるものがありましたでしょうか。

 ここで、私がお伝えしたいことは、その「願い」や「夢」こそが、実は皆さんお一人おひとりに授けられた最高の宝物だ、ということです。それは要するに、皆さんが人生で幸福な生活を実現するための「幸せの種(たね)」なのです。

 皆さんの内なる「幸せの“種”」を育て、「夢」の実現を手助けすることが、この学校で勉強することであり、先生方がここで教えてくださることの目的です。
ですから先生方は、皆さんの「夢」や「願い」が人生を通して実現することを、いつも願っているのです。

 なぜなら、皆さんのうちにある「幸せの“種”」から芽が出て、やがて花を咲かせ、実を結ばせることこそが、皆さんがこの世界に生まれた目的であり、他の誰とも代わることのできない、皆さん一人ひとりに授けられた大切な使命だからです。

 では、その「願い」や「夢」の“種”は、いったい誰が授けてくれたのでしょう。

 皆さんは、自分で考えて作ったと思いますか。それともご両親が授けてくれたと思われますか。あるいは学校の先生が授けてくれたのでしょうか。

 以上の人たちは、皆さんに降り注ぐ太陽のように、皆さんの「夢」や「願い」が地上に花咲くための手助けをしてくださっていることは間違いありません。しかし、皆さんに「夢」や「願い」を授けたのは、それは慈愛に満ちた創造主である神様(アッラー)が授けてくださったのです。

 ですから、皆さんの「願い」や「夢」がこの世界で花咲き実現することは、神様の御心が実現することでもあるのです。

 また、皆さんが「夢」や「願い」の実現に向って悦び勇んで生きることこそが、神様の悦びなのです。

 もっと言えば、皆さんの「夢」や「願い」が実現することを、実は神様が無限の知恵と愛とチカラを持って、ちょうど大地に降り注ぐ太陽や雨がパパイヤの木やマンゴーを育てるように、ご両親や先生方を通して、全面的に後押ししてくださっているのです。

 

 そこで今日は、みなさんの内に在る「夢」や「願い」について一歩踏み込んで学んでみたいと思います。

 さて、ここではムスリムの方が多くいらっしゃると思いますが、コーランの50章16節には、次の言葉が書かれています。

 

「われ(アッラー)は彼の頸(くび)の血管よりも近くにいる」(50章16節)

 

 この「われ」というのは、アッラーのことです。神様は私たちの「頸(くび)の血管よりも近くにいる」とは、どういうことかと言いますと、神様は私たちの“最も近くにいる”ということです。

 もっとハッキリ言えば、「内に在る」ということです。つまり神様は、私たちの内にあって、私たち一人ひとりとなって生きている、ということです。

 皆さんは、お父さんとお母さんの子供であることはもちろんですが、それと同時に、偉大なるアッラーの子供でもあるのです。

 ですから、どんなに実現できそうもない「夢」や、今の自分とは懸け離れたように見える「願い」であっても大丈夫です。

 豆粒のような“種”が、やがて樹木となり立派な花を咲かせ、たくさんの果実を実らせるように、いつもアッラーと共にあることを喜び感謝していれば、「夢」や「願い」を叶える道が、必ず開けてくるのです。

 たとえば皆さんは、せっかく「夢」や「願い」という「幸せの“種”」を持ちながらも、現在の貧しさや、自分の能力の足りないところだけを見ている人はいませんか。

 たとえば私の家にはお金が無いから「夢」を実現できないとか、私は能力がないからダメだとか、頭が悪いから無理だ、なんて思っている人はいませんか? 

 それは神様を信じているのではなく、ただの心の現れである「現象」を見ているだけなのです。

 私たちが今まで考えてきたこと、思い込んでいたことが、「現象」となって目の前に現れているだけにすぎないのです。

 一粒の種が豊かな実りをもたらすように、皆さんは、神様に授けられた「願い」を、感謝と喜びをもって努力することで、どれだけでも運命を開拓するチカラが湧いてきます。

 より豊かな、より悦びに充ちた、より善き運命を、皆さんの人生に実現する秘訣がここにあります。

 皆さんの内にある「夢」のツバサを、心の限り大きく広げてください。そして皆さんの「願い」が、人生に必ず実現することを伸び伸びと悦んでください。

 そして、今できる一つ一つのことに一所懸命に取り組んでください。それが「夢」や「願い」を叶えるための道です。
 そしてまっすぐに、あなたの「夢」や「願い」や「希望」に向って、黙々と進んでください。

 

 コーランの第51章20-21節には、次のコトバが説かれています。

 

「そして地上には、信仰心の篤い者への御徴(みしるし)が多くある。汝らの中にもある。それでも汝らは見ようとしないのか」(第51章20-21節)

 

 このコトバは、神様は、どこかの遠い彼方にいるのではなく、常に皆さんと共にある、ということを伝えています。

 そして今現に、神様が皆さん一人ひとりの“いのち”となって生きているのです。その神様の御心が、皆さんの内から、絶えず“願い”となり“夢”となって喜びのメッセージを発しています。

「幸せになりたい」「豊かになりたい」「すばらしい相手と結婚したい」「幸福な家庭を築きたい」「夢をかなえたい」これらの明るい、悦びと希望に満ちた“願い”は、すべて皆さまの内なる神様から発しています。

 なぜなら神様は、はじめから満ち足りており、幸福であり、悦びそのものだからです。したがって、神様の子供である皆さんもまた、満ち足りたい、幸福になりたい、悦びたい、という“願い”が自然に湧き起こってくるのは当然のことなのです。

 だから皆さん、心の底から湧いてくる“願い”を遠慮してはいけません! “夢”をあきらめてはだめです! それは自分のためではありません。あなたの“夢”が実現することを、多くの人が待っているのです。

天地に満ちている“神のいのち”を豊かに感じよう

 さて、視野を大きく広げてみれば、神様は皆さんの中にあると同時に、皆さんに光りを降り注ぐ太陽となって現れています。
 また、私たちが住む地球となり、海となり大地となり、私たちを取り巻く空気となり、水となり、火となって現れています。

 また、皆さんのお父さんとなり、お母さんとなり、おじいちゃん、おばあちゃんとなり、兄弟姉妹となり、学校の先生となり、友だちとなって現れています。

 つまり皆さんは、神様の“愛”と“生かす力”に取り巻かれていると同時に、神様は皆さんの内にも満ちているのです。つまりこの世界は神様に満ちあふれている、と言えるのです。

 

 最後にコーランの数節(16章10-13節)を拝読して、今日の話をまとめてみます。

 

彼(神様)こそはお前たちのために天から水を降らせて下さるお方。それが飲み水にもなれば、またそれで樹木が(育って)お前たちの家畜の飼料ともなり、また(神様は)それでお前たちのために穀物やら、オリーヴやら、棕櫚(しゅろ)やら、葡萄(ぶどう)やら、そのほかありとあらゆる果実を育てて下さる。まことにこれこそ、ものを考える人にとっては、まぎれもなく神兆(みしるし)というべきではなかろうか。

またお前たちのために夜と昼、太陽と月を使役して下さった。それから星々もまた御命令によって使役されている。まことにこれこそ、もののわかる人にとっては、まぎれもない神兆というべきではなかろうか。

またお前たちのため地上にたくさん作り出して下さったもの(動物や植物)の種種様々な色どり――まことにこれこそ、注意ぶかい人にとっては、まぎれもなく神兆というべきではなかろうか。 (16章10-13節)

 

 ここには、神様の「神兆(みしるし)」について説かれていますが、ここでとても大切なことは、神様の「神兆(みしるし)」を豊かに感じることのできる人は、「ものを考える人」「もののわかる人」「注意ぶかい人」と説かれていることです。

 つまり、これとは逆に、「ものを考えない人、もののわからない人、注意が散漫な人」は神様を感じることができない、ということです。

 皆さん、動物や植物が生長することの不思議や、夜空に浮かぶ星の美しさ、朝日や夕日など自然現象の美しさを豊かに感じてください。

 そしてお父さんお母さんをはじめ皆さんを見守る人々の愛や思いやりを思い出してください。

 これらの全ては慈愛深き神様の恵みそのものなのです。

 この神様の神兆(みしるし)のひとつ一つを注意深く観察し、心から感謝しましょう。

 私たちを取り巻く神様の恵みを豊かに感じて、神様の恵みの中に生かされている喜びをかみ締めてみましょう。

 それでは、ただ今から紙を配りますので名前を書いてください。これから10分ほど、皆さんを取り巻く神様の恵みを1つ1つ思い出しながら、感謝をこめて書いてみましょう。

 その後で、皆さんの将来の“夢”や“願い”を書いてみましょう。どうぞ始めてください。

 

(このとき、ホワイトボードに次のように明記しました)

 

①私の周りに満ちあふれている神様の恵み

②私の将来の“夢”や“願い”

※書き終えた後で、何人かの人に発表していただきました。また、これを自宅の机の前に貼って神さまに感謝していれば、それぞれの夢が叶うことをお伝えしました。

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2012年11月19日 (月)

祈りによる“救い”について

「祈り」による救済(神癒)について、海外にお住まいの生長の家の方から質問をいただきました。
 
 私からの返信が、生長の家の「国際平和信仰運動」のことや「心の法則」や、「神癒」(自性円満の自覚による神の癒し)などに及び、生長の家をご存知ない方には、ちょっと難解なところがあるかもしれませんが、分からないところがあれば遠慮なくご質問ください。

 また、どのような宗教であれ、日々世界の人々の幸せを祈り、信仰の道に精進されている方には共通するテーマでもあるかと思われますので、皆さまのご参考のために公開することにしました。 


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>>(質問)祈りに合わせて、人助けに興味を持つ高級霊も協力してくださいますか?

 

 とのご質問にお答えします。

 

 生長の家の人類光明化運動や、国際平和信仰運動は、人間界の運動だけではありません。

 

 このような運動は、生長の家に限らず神界・霊界・現界の神々や高級霊という、天使として、あるいは“霊の選使”としての使命をもった人たちに共通の荘厳なる一大運動なのです。

 

 もちろん、この運動は国境や人種の違い、あるいは宗教や宗派などといった“現象”を超えたものであり、空間などの「距離」も越えていますので、どんなに離れていても、「祈り」や「集団祈願」が功を奏するのです。

 

 神癒とは、ご質問にあったような「人助けに興味を持つ高級霊の協力」ということも間接的には影響しているかもしれませんが、根本的には、神は、宇宙に充ち満ちている“無限生命”ですから、この“無限生命”を吾が内に自覚さえすれば、全ての問題が解決し、全ての病は消えるのです。

 

 その本来完全円満なる実相が、現象世界にそのまま顕れるのを邪魔していると考えられているのが、天理教祖が云うところの「心の表面に付いた埃(ほこり)」であり、生長の家で説くところの、「迷いの念(こころ)のフィルム」いわゆる「業(ごう)」なのです。

 

 現象界の問題を解決したいのであれば、まず第一にすべきことは、「神想観」などの祈りと、真理のコトバが書かれた聖典やお経の拝読によって、本人が「自性円満(そのままで円満完全)」なる“実相”を自覚することに尽きるのです。実相を自覚することによって、「迷いの念(こころ)」が消えるのです。

 

 神癒祈願や集団祈願などの「祈り」は、その手助けにはなりますが、根本的な解決は、ご本人が本ものの信仰生活に入るより他はありません。

 

 第三者の祈りによって「迷いの念」が一時的に浄化されても、本人の心が内なる神(大生命)に向かわなければ、「迷いの念(こころ)のフィルム」の投影による不完全な現象は、何度でも再現することは、以上の説明でご理解いただけることと思います。

 

 神は大生命であり同時に大光明ですから、その神に全托すれば、たとえ何千年何万年続いている闇でも消えるのです。

 神の無礙の光にふれて「迷いの念(こころ)」が消えることで、円満完全なる実相世界が、この世(現象世界)にも顕現する、それが、「健康」となり「繁栄」となり「調和」となって現れるのです。

 つまり信仰生活とは、日々の祈りと、真理のコトバが書かれた書籍やお経の拝読、そして神の愛を実践する「愛行」の三正行が、神さまと心の波長を合わせるために、もっとはっきり言えば、「神の子としての円満完全なる人生」をこの世に具現して、多くの人々を幸せにするために、いかに大切であるかということが、お分かりいただけることと思います。

 

 光の子としての、ますますのご活躍を祈念しております。

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2012年5月25日 (金)

自然栽培―ほったらかし農園で実験開始

 4月の連休前のこと、古書店からまとめて仕入れてきた本の中から、『奇跡のリンゴ 』という、リンゴ農家の木村秋則氏の評伝を読んだ。

 木村氏の生き方と農法が、ささやかな「ほったらかし農園」で野菜を育てる私の心の琴線に強く響いてきた。

 さっそく同氏の著した『リンゴが教えてくれたこと 』、『自然栽培ひとすじに 』、『「お役に立つ」生き方 ~10の講演会から~ 』、『あなたの人生に「奇蹟のリンゴ」をつくる本』、『すべては宇宙の采配 』、『奇蹟を起こす 見えないものを見る力』などを、次々とネットで取り寄せて、しっかり通読させていただいた。

『奇蹟のりんご』を生みだした農法のことを、木村氏は、福岡正信氏の「自然農法」からアイディアを得て、これをさらに発展させたものとして、「自然栽培」と名付けている。

「自然栽培」と「自然農法」との違いについて同氏は、無農薬、無肥料の理想を追求するだけではなく、農業として経営をしっかり成り立たせることから、「栽培」と名付けたという。

 また、「有機農法」との違いについては、農薬のみならず牛糞・鶏糞などの有機肥料も一切使用しない栽培方法を確立したところにあると述べている。

 そんな木村氏の思想の根底には、「自然」に寄せる大いなる信頼がある。

 その思想は深く、同時に極めてシンプルである。

 30数年前、ともに畑仕事をしていた奥様が農薬に弱い体質だったことから、不可能といわれていた無農薬でのリンゴ栽培に果敢に挑み、これに人生のすべてを捧げた人間がたどりついた結論でもある。

 かつて、津軽地方で生活破綻者を意味する“かまどけし”(かまどが消える、つまり食べていけない人の意)とまで呼ばれ、行き着くところまで行った者が“いのち”と引き替えに得てきた智慧が、彼の言葉の一言一句から伝わってくる。

 その背後には、欲すると欲せざるとに関わらず、農薬や科学肥料に依存して工業生産のように農作物を作り出すという、現代の主流となっている近代農法とは正反対の道を歩まざるを得なくなったご自身の孤独な宿命が、無農薬10年年目にしてリンゴ栽培を実現させ、次第に人生そのものが花開いていくことから確信した、同氏の「見えないものを見る」チカラが、人と自然と地球環境の未来をも見通しているようにみえる。

 つまり「自然栽培」とは、農業を通した、地球環境保全活動の究極の実践なのである。

 この木村氏の提唱する「自然栽培」は、これまで鶏糞、牛糞などの有機肥料を使用してきた「ほったらかし農園」園主としては、革命的ともいえる発見だった。

 たとえば木村氏によると、雑草や害虫たちは、施肥によって栄養過多となり、いわば過保護となった畑に発生し、彼らは一見、農作物を人間から奪っているように見えるが、実は人体にとって有害となる様々な成分を、雑草や昆虫たちが摂取して浄化している、というのである。

 だから無農薬、無堆肥にして数年経過すると、害虫による被害はどんどん軽減されるそうである。

 そういえば、わが家の「ほったらかし農園」も、かれこれ無農薬での栽培を始めて10年ほど経過したが、忙しさにかまけて堆肥を全く施さなくなってからも、トマトやゴーヤなどは家の二階に達するほど毎年生長し、霜が降りる11月ごろまで花を咲かせ果を実らせていたではないか。つまり、虫の被害よりも、次から次へと元気に果実を実らせる野菜の生命力の方がはるかに勝っているのである。また、冬から春にかけてのノラボウ、キャベツなどの野菜もまた然りである。

 さらに同氏は、無施肥にしても栽培が成り立つ一例として、たとえば大豆などの豆科の植物は、空気中にある窒素を吸収し、余った養分を土中にある根っこに根粒菌として蓄え、それが土に吸収され、他の野菜や果樹の養分になるという。

 これに加え、農薬を使わないために、さまざまな微生物が活発に活動することで畑の土は自然の山野のように肥沃となり、弘前大学農学生命科学部の調査によると、木村氏の畑のリンゴの葉っぱに付着したバクテリアの多様性は、世界遺産の白神山地のそれに酷似しているという。

「ほったらかし農園」でも、さっそく雨が上がった5月5日と13日、家内と、農園助手の中学生と小学生(長男、二男)と一緒に、くまなく大豆(早生枝豆・白鳥系)を蒔いた。

 その大豆とともに、トマト、キュウリ、ゴーヤ、アスパラ、オクラ、パプリカ、大根などの野菜のほか、昨秋からミカンを二本植樹し、柿、サクランボ、ブルーベリーなどの果樹が順調に花を咲かせ、そして今は新緑を輝かせている。

 無農薬10年目にして始めた「ほったらかし農園」の「自然栽培」。

 その後の経過などを、断片的な報告しかできないかもしれないが、ときどき本欄で紹介してみようと思う。

【お勧めの本】

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2010年8月 7日 (土)

初講話をする友へ

 生長の家の講話の要諦は、「自性円満(そのままで完全なこと)」を説くことに尽きるのではないかと私は思っています。

 

「自性円満」とは、生命のそのままの相(すがた)のことです。

 

 それは、これから祈ってから成就するものでもなく、幸せな結婚をしてから成就するものでもなく、豊かな繁栄を実現してから成就するものでもなく、さらに云えば、生長の家にふれてから成就するものでもありません。

 

「自性円満」とは、そのままで完全円満な、人間の生命の実相(ほんとうのすがた)のことであり、それは「天地初発(あめつちのはじめ)の時」から成就しているのです。

 

 はじめから「自性円満」なるものが来たり、はじめから「自性円満」なるものが出合い、はじめから「自性円満」なるものが生き、はじめから「自性円満」なるものが逝く――

 

 来たと見え、出合ったと見え、生きたと見え、逝ったと見えるもの、これら一切は「大光明」なる生命の荘厳なるいとなみです。

 

 はじめから「自性円満」なるもののみが、今も、そして久遠に在り通し、生き通しているのです。

 

 それは無尽蔵の祝福と、無量の光明と、無辺際の喜びが、大光明を放ちつつ光臨を転ずる生命の実相(ほんとうのすがた)にほかなりません。

 

 この実相を解き明かすのが、生長の家の講師のお役目です。

 

 これ(生命の実相)をお伝えできれば現象を超えた救いが、随所に成就するのです。

 

 だから体験談を交えて語るとすれば、体験そのもののありがたさを語るのであれば、それはご利益信心であり、かつて吉田國太郎講師が、「それは饅頭をもらったありがたさだ」と云われたレベルに堕ちることになります。

 

 しかし、体験や経験や功徳といった現象とは「無関係」に、「生命はそのままで自性円満である」ということをお伝えすることができれば、それは生長の家のみ教えを語る講話となることでしょう。

 

 初講話の「初」とは、天地初発の「初」のことです。

 

 つまり、初講話とは、天地初発の講話ということです。
 初発とは、久遠の「今」から鳴り出でた光りのことであり、講話は神が成し給うのです。

 

 だから初めて講話する講師も、講話歴50年のベテラン講師も関係ありません。

 

 初講話の鳴り響くところ、そこが生長の家の真理が語られる“場”となるのです。

 

 

 久都間 繁

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2010年5月 6日 (木)

天地の万物とともに

今朝の神想観では、「大調和の神示」に書かれた「天地一切のものへの感謝」について、あらためて教えていただいた。

 

今さらのことのように聞こえるかもしれないが、

 

「神に感謝しても父母に感謝し得ない者は神の心にかなわぬ」

 

と神示にあるのは、父母をはじめ、周りの人々や、森や川や空など天地一切のものへの感謝こそが、生長の家の生活だからである。

 

生長の家の生活とは、「真理を生きる」こと、にほかならない。

 

「真理を生きる」とは、神の愛を実践することであり、仏の四無量心を実践することである。その実践の中に、神の国が実現し、仏国土が現成するのである。

 

その真理を生きることが人類光明化運動であり、国際平和信仰運動なのであり、そこを外していたのでは生長の家の運動ではないのである。

 

神以外に無い世界であるならば、天地の万物は〝神そのもの〟にほかならないのである。

 

「悪はない、不完全は無い!」 と、天地一切に充つる善一元の実相世界を礼拝するのが生長の家のみ教えである。

 

「天地一切」とは、天地いっぱいの仏であり、天地いっぱいの神である。

 

私たちは一切の時、一切の処において、天地いっぱいの神に護られ、天地いっぱいの仏に導かれているのである。

 

生長の家の運動は、天地一切のものとともに生長し、天地の万物とともに伸展する。

 

山や川や草や木や花や星や空気や風が私たちの同士であり、天と地が父母である。

 

それが天地一切のものに感謝し、天地の万物と大調和した、私たちの国際平和信仰運動の生きて歩む相(すがた)である。

 

久都間 繁

 

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2010年2月14日 (日)

「法施」と「物施」―読者からの質問に答えて

ブログの読者から質問を頂きました。
「信仰生活」をめぐっての質問であり、皆さんの参考になるかもしれませんので、回答を公開させていただきます。

 

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【読者からの質問】

 

初めまして。私はSといいます。ブログを拝見させて頂きメール致しました。
私は生長の家の信者ではないのですが、日々神想観を実修するものです。
神想観は、本当に素晴らしい観法ですね。
神想観実修をさらに実り深いものにしたく、ご質問させて頂きたく存じます。

自身を省みて、神想観を自己救済のみに活用していること、伝える実践を怠っていること、しかし自身の感得したことを一般の方々に伝えることの難しさを感じていることからモヤモヤ感を感じています。
実修により、魂の覚醒めと生活の調和を頂き、誠に感謝であります。

 

ただ、現象界は幻の世界とはいえ、たいへん不自由な世界であり、私自身も皆様と同様魂の磨きのために課題が与えられています。そして一般の方々の求むるところは、禅定修行による智慧・解放ということではなく(もちろん魂は求めていると思うのですが )、もっと現実的・物質的に生活がすぐに楽になれる方法があれば知りたい、といったところではないかと思われます。これらの方々に単に「現象は無い!」と言って果たして伝わるであろうか、というと難しいと感じるところです。

 

私は谷口雅春先生をたいへんご尊敬申し上げておりますし、御教えである光明思想は本当に素晴らしい教えであると思っているのですが、上記の点により、残念ながら救済力にやや限界があるのでは・・・とも感じております。(むろんこれは批判ではありません。)

どうか、私の神想観実修の境地がさらに深まりますと共に、一般の方々に如何にして真理を伝えていけば良いのか、ご指導を賜りたく存じます。
どうぞ宜しくお願い致します。
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【質問への回答】

 

ご質問ありがとうございます。神想観を実修して、魂が目覚め、生活に調和した世界が実現しているとのこと、素晴らしいことですね。
さて、ご質問ですが、

 

① 一般の方々の求むるところは、禅定修行による智慧・解放ということではなく、もっと現実的・物質的に生活がすぐに楽になれる方法ではないか
②これらの方々に単に「現象は無い!」と言って果たして伝わるであろうか、というと難しい――残念ながら(生長の家の)救済力にやや限界があるのでは

 

以上のことでよろしいでしょうか。

 

 まず、あなた様のご質問の中で、

 

「自身を省みて、神想観を自己救済のみに活用していること、伝える実践を怠っていること、しかし自身の感得したことを一般の方々に伝えることの難しさを感じていることからモヤモヤ感を感じています」

 

ということですが、ある時期までは「自己救済」ということが神想観の重要なテーマとなりますので、このような「モヤモヤ感」を感じておられるということは、あなたのいのちが、次なる段階へと生長される時期を迎えているのだと思います。

 

 すでにあなた様は「(神想観によって)魂の覚醒めと生活の調和を頂き」というご経験をされていますので、モヤモヤ感の寄って来る原因というのは、「神想観を自己救済のみに活用していること」から生じていることは、おっしゃる通りだと思います。
 
 祈りの世界というのは、自と他との障壁を超えた世界(実相世界)との融合であり、自他一体の世界に入り、天地万物を無条件に愛する(感謝する)、という対称性の領域(大調和の世界)にまで達しますから、祈りと実生活との間に矛盾が生じている場合、それがモヤモヤ感となって現れるものです。

 

例えば、わが家には子供が何人もおりますが、成長とともに服や靴が窮屈になり、乳歯が抜けて永久歯へと生え替わるという「肉体的・モヤモヤ感」を度々訴えています。が、あなた様の場合は、言ってみれば魂の生長がもたらした「霊的・モヤモヤ感」とでも表現できるのではないかと思います(^^;

 

ですから、あなた様のおっしゃるように「一般の方々に如何にして真理を伝えていけば良いのか」というご質問は、あなた様の内に宿る、神性(仏性)からのメッセージにほかなりません。

 

さて、一般の方々が「現実的・物質的に」救われる方法ですが、物質的にどんなに救われたように見えたとしても、「諸行無常」はこの世(現象世界)の理(ことわり)なので、その現象的な次元(段階)に価値をおいて生活している間は、得たかと思えばまた失い、成就したかと思えばまた次の課題が現れ、次の壁が立ちふさがり、次の不安が、と次々と人生に見舞ってきます。

 

 つまり、現象の「結果の側」に住み、「結果としての(現象的な)救い」のみを目的にしていたのでは、未来永劫、「心の影(現象)」に振り回されることになります。

 

生長の家では、この世は「心の作る世界」(三界は唯心の所現)であると説いていることは、あなた様はすでによくご存じのことでしょう。

 

谷口雅春先生は「済んだことの中に生活せず、今の中に生活せよ。今は常に輝いている」という意味のコトバをどこかでお説きくださっていましたが、「済んだこと」とは現象のことです。「今」とは生命のことです。

 

「済んだこと」の中で生活していたのでは、永遠に「楽になる」ことはありません。
「今」の中に生活すること。つまり、あなた様のように神想観(祈り)を生活の中心に据え、内部神性にもよおされて、自他を愛することを素直に実践することこそが、人生に光明生活を実現するための秘訣なのです。

 

 一時的な楽、一時的な救い、一時的な満足、そのような「救い」は、ただ諸行無常を流転しているだけであり、本当の「救い」ではありません。

 

 したがって、あなた様のおっしゃる「現実的・物質的に生活がすぐに楽になれる方法」とは、「焼け石に水」ではありますが、新しい方々を導くための方便(物施)としては有効な場合もあります。

 

 しかし、根本(心)が変わらない限り、たちまちその方法は行き詰まることでしょう。そこから先の道は、「現象は無い!」など、その人の気根に応じた一転語(法施)によって、「今」を生きる祈りの生活へと、時間を掛けて(ひたすら祈りながら)しっかりとお導きすることが大切なのです。それが生長の家の講師活動が「菩薩行」である所以(ゆえん)です。

 

 それが愛の道であり、彼が他のもの(物質、お金、教祖、本尊などの現象)に頼ることなく救われる、根本的な救いの道なのです。

 

久都間 繁

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