2021年6月 1日 (火)

“学ぶ”ことについて (2021,6)

 コロナ禍は、令和の御代に大きな変化をもたらしている。

 それは人々の生活を変え、社会や組織の仕組みを変え、私たちの運動にも深い影響を与えている。

 そんな渦中、埼玉・群馬の「おムスビネットフォーラム」では、生長の家国際教修会で発表した田中明憲講師を招聘(しょうへい)し『ムスビの概念の普遍性を学ぶ』と題して、同名の書籍をテキストに“ムスビの働き”とユング心理学についてお話しいただいた。

 田中講師は、同心理学における「アニマとアニムス」について解説してくれたが、深層心理学について学びを深めることは、私たちが抱える諸問題を解決するための一助になるだろう。

 聞き慣れない言葉だがアニマとは、男性の無意識の中にある“女性的な面”のこと。

 一方のアニムスは、女性の無意識の中にある“男性的な面”のことであり、私たちは例外なく、それらを内に蔵しているのだ。

 観世音菩薩は“両性具有(りょうせいぐゆう)”といわれている。生長の家でも“人間は神の子”で「自性円満」と説いているように、私たちの内には未開発の彩り豊かな神性が無尽蔵に内在しているのだ。

 つまり男性的な面も女性的な面も具有していればこそ、ある過去生では女性としての人生を経験し、ある生涯では男性としての境涯を生きて、神の子としての全容を宇宙に開花させているのである。

 生長の家と深層心理学との関係は深く、昭和二七年(1952)には、日本教文社から『フロイト選集』が刊行され、昭和三〇年(1955)には『ユング著作集』を刊行。

 しかも前者はフロイトの弟子である古沢平作が、後者は当時のドイツ文学の第一人者である高橋義孝らが翻訳を担当しており、戦後の混乱の中、生長の家が日本の五〇年後、百年後の未来を見据えながら人類光明化運動を展開していたことが、このような事蹟から見えてくるのである。

 半世紀以上を経て、生長の家が再び深層心理学に、そして古事記等に表現された“ムスビの働き”に光を当てていることの深い意味を想うのである。

 さて、田中講師は前掲書の中で、「男性は自分のアニマを外的世界の女性に投影し、一方の女性は、自分のアニムスを外的世界の男性に投影する。(中略)それらのイメージを通して相手を見る」(62頁)と紹介している。

 生長の家でも、私たちを取り巻く人や物や事は、観自在の原理によって現れた「心の影」であると説いているが、心の世界を扱う宗教と心理学とは、コインの裏表のように共通する部分が多いのである。

 アニマやアニムスのことをユング心理学では「原型(archetype)」と呼んでいるが、これは世界各地の神話や昔話など、意識の深層が投影された物語などに共通して現れるという。

 このほか原型には「自己」「老賢者」「グレートマザー」「影」などが挙げられており、これら精神分析の知見は、紛れもない人類救済の一つの現れであり、仏の四無量心の働きに豊かな表現の地平を開くことだろう。

 それは世代や民族を超えて、ともに人間の実相を克明に解き明かしていくことであり、そこに、人類が発見した最新の科学的知見から、私たちに“学ぶ”ことの深い意味があるのだ。

  (二〇二一・六)

 

 

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2015年4月15日 (水)

流産して悩んでいる方へ(2)

「流産して悩んでいる方へ」という読者の方との遣り取りを、2013年の秋に当ブログにアップしましたが、過日、これを読まれた方からお礼のコメントをいただきました。

 

近年のインターネットは、FacebookにしてもTwitterにしても、情報がどんどん流れ去って消えてしまうことに大きな違和感を感じていたところに、流れ去らない言葉もあることが分かり、少し安堵した次第です。

さて、コメントをお寄せいただいた方は、これまで5人の子供を授かったものの、この世で会うことが叶わなかったという辛い思いを抱えていました。

彼女との対話が、同様の問題で悩んでいらっしゃる方の参考になるかもしれませんので、この遣り取りをアップさせていただくことにしました。

以下は、数度にわたって頂いたコメントと、私からの返信となります。

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今までに5人子供を授かりましたが、この世では会えませんでした。

どうこの現実と向き合っていけばよいのか悩んでいるときにこちらのHPにたどり着きました。

今もつながっているのかと思うと、心が温かくなりました。ずっとさみしかったのに。。

心温まるお言葉、本当にありがとうございました。


投稿: サブリナ | 2015年4月10日 (金) 22時11分
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コメントをありがとうございました。

たくさんの子供たちと〝神縁〟をいただきましたね。

現象的には分かれているように見えますが、〝いのちの世界〟では、いまだ一度も離れたことなどないのです。

彼らはあなたとともに生き通しています。神さまにおいて〝ひとつ〟のいのちであり、あなたと久遠に愛し合っていることを観じ、祝福し、大いに(無限大に)喜んであげてください。

それこそが「祈り」(命宣り)であり、実相のみを観ずる生長の家の神想観です。

 

投稿: 久都間 繁 | 2015年4月11日 (土) 17時28分
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心に染み入るお返事、本当にどうもありがとうございました。

人数分の激しい辛さが、その分の喜びになれた気がします。。

現在は高齢ということもあり、もうこの世で会えるのは難しいという認識もあるのですが、これはこれでまた受け入れることがとても辛いのです。

これが私の最後の試練かもしれません。
この世でもう会えないとすれば、今世私に何か原因があると受け止めるべきなのでしょうか。

医学的に問題がないとすれば、スピリチアル的にどのような背景があるのかが受け止められられれば、乗り越えられるかも知れない、と思い恐縮ですが、再度コメントをさせて頂きました。

知識の乏しいわたくしが、とても暖かく慰めて頂いたにも関わらず、このような答えの難しいお問い合わせを突然させて頂いてしまうことを、大変申し訳なく感じております。

が、これも何かのご縁と思い思い切って書かせて頂きました。もし差支えなければご感想をお聞かせください。

どうぞ宜しくお願い申し上げます。

 

投稿: サブリナ | 2015年4月13日 (月) 19時59分
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合掌、ありがとうございます。

辛い積年の思いを、打ち明けてくださり、ありがとうございました。

子供たちとこの世で、目に見え、言葉を交わすような形で会えないことは、お辛いことと思います。

しかし、この世で「もう会えない」ということでは、ないのです。

なぜかと言えば、自分が産んだ子だけが、あなたの子供ではないからです。

神縁というのは、血筋によるものだけではありません。

自分の子供や孫であるか否かということとは無関係に、神縁によって出合った方とは、生と死を越えてより深い絆が結ばれるものです。

たとえば、恩師や師匠と呼ばれる人たちとの出会いは、肉親との縁とは別に、師が亡くなった後もより深く結ばれていることを感じるものです。

私の娘は今年大学4年になり、親元から離れて東京で生活していますが、彼女の絵の師匠(イラストレーター)は今年、喜寿を迎える独身女性の方ですが、自分の子や孫でもないのに、肉親のようにして無償で絵の指導をして、おまけに人生の指南までしてくれています。

また、私自身も亡き恩師との繋がりは、昇天後に十年の歳月が過ぎても、肉親とは異なる次元で、より深い結びつきを感じながら今も生きています。

むしろ、継承したものが私を通して生きている、といった印象で、このようなご質問にお答えさせていただくのもその一環なのです。

あなたのご質問にある、「スピリチアル的にどのような背景があるのか」ということについては、あなたが今どのような仕事をされ、どのようなことに取り組んでいらっしゃるかは存じ上げませんが、現世でお子様に恵まれなかったことは、これはあなたが今生で取り組んでいらっしゃる〝ご使命〟とも関係していることのように思われますが、いかがでしょうか。

つまり、あなたが持っているもの、情熱をこめて取り組んできたこと、生きがいにしてきたことが、もしかしたら、後世を担う若い人々に〝無償で〟伝えるご使命があるのかもしれない、ということです。

あなたが無償で与えたことは、彼らの血となり肉となって、それがまた後世へと続いていくのですが、このような深い繋がりは、誰にでも恵まれているようなものではありません。

それなればこその〝神縁〟であり、これに応えるためには〝無償の愛〟をもってしか応えることができないのです。

その理由はよく分かりませんが、神がそれ(愛そのもの)であることに由来しているのだと思います。

十分な情報がないままでのアドバイスとなりますので、行き届いた答えになっていないかもしれませんが、追加の質問があればお知らせください。

 

投稿: 久都間 繁 | 2015年4月14日 (火) 13時22分
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とても考えさせられるお返事、本当にありがとうございました。

5人の子供とは、私が人生を全うした時に会えるのではないか、、とその時を心から楽しみにしていますし、今回言って下さった「命の世界ではまだ一度も離れたことがない」という言葉には、とてもとても励まされました。
感動して泣きました。

今世で私ができる「無償の愛・・・」

今すぐ何かは正直分からないのですが、あの世の子供達に、あまりにも集中し過ぎていたここ数年の愛情(もしかしたら執着なのでしょうか?)を、これからは少しづつ、縁あって出会った方に向けていってみようかな、と思いました。

最も身近な両親や主人にさえも、切なさで精一杯で心に本当に余裕がなく、気遣う気持ちをここ数年忘れてしまっていた気が今してきました。。

この状態ではお母さんに選ばれなくても仕方なかったかもしれません。

神縁で子供達と、生と死を超えて深く繋がっていると分かっただけで、今回心にゆとりが生まれ、ここまで客観的に色々な事にお蔭様で気付く事ができました。

まずは子供の父親であり、神縁によって出会い、沢山辛い思いと我慢をさせてしまった主人に愛を再度向けないといけないです。

そして、6人目の子供とひょっとしてこの世で会えるかは、神縁に委ねる事に致します。

「血筋だけが神縁ではない」というお言葉に、しばらくは不思議な気持ちと、目から鱗のような気持ちと、壮大なスケールの中で人生をすごしていたのか、、、など本当に考えさせられました。

ずっと止まっていた私の時計の針が、漸く動き出した気がします。

また人生の困難にぶつかった時、改めてご連絡させて頂くかもしれません。

私と同じ思いで、とても辛い経験をされた方が、このやりとりを読まれて私と同じように心が軽くなると良いな、と感じています。

今回相談に乗って頂いて、心の底から感謝しております。今回の心温まるお言葉は私の生きる糧となることでしょう。
ありがとうございました。

そして遠く離れたお嬢様も、これからも沢山の良縁に恵まれますように。。

 

投稿: サブリナ | 2015年4月14日 (火) 20時37分
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ご丁寧な返信をありがとうございます。

>> ずっと止まっていた私の時計の針が、漸く動き出した気がします。

よかったですね。

6人目7人目のお子様は〝神縁〟によって必ず授かりますのでご安心ください。

同じ悩みを抱えていらっしゃる方のために、今回の遣り取りを公開させていただくことにします。

 

>> また人生の困難にぶつかった時、改めてご連絡させて頂くかもしれません。

 

どうぞ遠慮なく。

 

投稿: 久都間 繁 | 2015年4月15日 (水) 10時01分

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2014年7月 1日 (火)

無垢な眼差しを感じて

 自然と人との調和を目指す『いのちの環』という日本教文社刊の雑誌7月号(NO52)に、「脱原発について」というテーマでエッセイを寄稿しました。

同誌には『日本の田舎は宝の山』の著者 曽根原 久司さんのインタービューなども掲載されているので、興味のある方はお求めください。
私の寄稿文を転載します。

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 3年前の冬、豪雪の八甲田山をスキーで滑降したことがある。

 それは山小屋所属のガイドの案内で、ゲレンデ外の自然の森や谷を麓まで滑り抜けるというもので、相部屋で親しくなった方に、目元の涼しい、Tさんという雪焼けした60代の好漢がいた。

 彼は平成11年まで東京・小金井でパン屋を営む傍ら、家族で登山に親しみ、子供が独立したのを機に福島の安達太良山麓に移転。

 地元の食材を使った無添加のパン屋を奥様と開業し、東京にいる孫たちを毎年家に招いて夏は登山、冬はスキーをするのが何よりの楽しみだった。

 2011年3月11日、東日本大震災が発生。続く東京電力の福島第一原発の事故で、終の棲家として選んだ彼のフィールドにも被害が及ぶ。

 以来、心待ちにしていた孫たちとの冒険も、娘の嫁ぎ先の両親から「森が放射能で汚染されているから」という理由で反対され、途絶えていることを残念そうに話してくれた。


汚染された場所に行かなければ安全か?


 環境省の「汚染情報サイト」で「森林の放射性物質の除染」について確認すると、住居、農用地等に隣接する森林の除染は林縁から20メートルの範囲で進められている。

 が、「落ち葉等の堆積有機物の除去を中心に」行う程度である。広大な森林については「調査・研究」を進めるとしているが、実際は放射能の減衰を待つほか打つ手がない状況のようだ。

 京都大学原子炉実験所助教の小出裕章氏は、昨年五月にYouTubeに公開した小沢一郎氏との対談「福島第一原発を抑え込むために」の中で、マスコミに公開されることのない次のような事実を語っている。

 今回の事故で大気中に放出した放射性物質セシウム137の量について、当時の民主党政権がIAEAに提出した報告書には広島原爆の一六八発分と記載され、同原発4号機の使用済み燃料プールには未だ一万発分が眠っており、さらに海洋流出で問題になった汚染水には、すでに大気中に放出された十倍もの放射性物質が含まれていると解説する。

 これに加え、昨年9月の東京オリンピック決定後も、毎日300トンの汚染水(経済産業省の試算)が太平洋に流れ、自然界の動植物が広範囲にわたって被曝している。

 食物連鎖による生命界全体の遺伝子への影響を考えれば、もはや「汚染された場所に行かなければ安全」という段階ではない。

 

あなたは、何をもって応えますか

 

 日本政府は2月25日に発表した国の中長期的な「エネルギー基本計画」に、「原発は重要なベースロード電源」と明記した。

 残念なことだが現政権は、原発再稼働を前提に政策を進めている。

目先の経済的利益によって生じる放射性廃棄物という膨大なツケは、やがて未来世代が途轍もない時間と犠牲とお金を費やして支払うことになるだろう。

 なによりも危惧すべきは、現世代がそのことを「知らない」ように、情報が制御されていることだ。

 釈迦は「知って犯す罪よりも、知らずに犯す罪の方が重い」と説いているが、原発再稼働が後世に与える影響を、そして放射線が遺伝子にもたらす潰滅的な意味を「知らない」こと、そのことが即ち未来世代への「重い罪」を犯す、つまり自分の子や孫の健康すらちゃんと守れないというやっかいな時代に、私たちは生きているのだ。

 それが原発に依存した社会に暮らすことの現実である。

 私たちがそれに気づいたのなら、もう「見て見ぬふり」をしてはならない。

「知らない」ことが重い罪となるならば、気付いただけで何も学ばず、何も為さないことは、絶望的な負の遺産を次世代に押しつけて遁走するようなものだ。

 しかし、因果律という明鏡は、すべての闇を明るみに引き出さずにはおかないだろう。

 最後の審判は遠い未来のことではない。それは、私たちの日々の生き方を掛け値なしに見通す、後世の人々の澄んだ眼差しの中にあるのだ。

 その無垢な光に、あなたは何をもって応えてあげるだろうか。

 

  (2014年4月)

〈普及誌『いのちの環』(日本教文社刊) リレー・エッセイ「脱原発について」掲載〉

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2014年6月13日 (金)

「都市の時間」と「森の時間」が重なるとき

 八ヶ岳山麓にある“森の中のオフィス”に勤務するようになって、早半年が過ぎた。

  標高1300メートルにあるオフィスへの出勤にはバスを利用しているが、帰りは家路までの数十分間から一時間ほどの逍遥(しょうよう)を楽しんでいる。

 

 当初は、スキーの体力作りのため、という目的で始めたが、今ではその目的はどうでもいいものとなり、自然の中を歩くこと、そのこと自体が大きな悦びとなった。

 

 帰路の途上では、その季節、その天候、その時間帯ならではの森での体験が次々と訪れる。

 

 4月に入り――鹿が風のように駆け抜け、ウグイスや小鳥たちの啼き声が森に響き、可憐な花々が地面や樹上で咲き、緑の米粒のような葉が梢で芽吹きはじめた。

 

 それらの光景と出合う度に、一つひとつの印象が心に刻まれる。

 

 都心に通勤していたときには直線的に飛び去っていた時間が、ここでは〝自然〟がもたらす豊かで新鮮な日々の印象となって心に留まる。

 

 9月にこの地に越してこの方、森が黄金色に染まり、やがて落葉し、雪が降り、新緑が芽吹き――そして時間はゆったりと、それは季節の揺るぎないあゆみと同調したようなペースで流れはじめている。

 

 これまで切り離されているように見えていた、「都市生活の時間」と、樹木が茂り花が咲き鳥が歌う「自然の時間」とが、森での逍遥を重ねているうちに、前者の時間が、次第に後者の雄渾ないとなみの中に包摂されてきたようだ。

 そのことが、無上の安らぎを森に棲(す)み始めた私たちにもたらしていることは、意識していないと気がつかないほど、その移行は自然である。

 

 森での生活は、はじめから私たち人間が、大生命の懐(ふところ)に抱かれていたことを、素直に思い出させてくれるのかもしれない。

                     (2014年4月)

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2014年4月22日 (火)

うつ病を克服するために

 20年来のうつ病という、40代と思われる方から相談のメールをいただきました。

 宗教の門を叩くのは、人生で行き詰まった
場合か、この世を超えた崇高な真・善・美を求めての場合か、あるいは美しい生き方(信仰生活)をされている方と出会った場合などさまざまです。が、この方は前者、つまり全てがうまく行かず、悩み苦しんで門を叩いてこられました。

 最近、ますますはっきり感じるようになったのは、人生に「行き詰まる」とき、というのは、最も「神さまに近づいている」とき、でもあるようです。

 これをどのように導き、そして彼の「内なる神性・仏性」に取り次ぐことができるか、これは私ども宗教に携わる者に課せられた重要な使命でもあります。

 はたして、それがどこまで果たせているかどうかは分かりませんが、皆さんのご参考までに、お名前を伏せて、質問と私の回答を公開いたします。

 2014年4月22日



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【メールによる相談】


 
 こんばんは、初めてメールさせて頂きます。

 数年前の5月頃、東京・原宿で先生の御講話を拝聴させていただき、後でご指導頂き、先祖供養について教えていただきました。

 その節は親切に熱心にお話下さり、有り難かったです。本当にありがとうございました。

 教えていただいた通り、仏壇がなければ清浄な箱でもいい、とのことで、お札に先祖代々の名前を書き込み、清浄な箱に祀らせいただき、聖経をあげています。生長の家の本は真剣に拝読し始めて五年程です。

 メールでは失礼と思いましたが、宛先がわからす゛先生のブログを拝読し感銘致しまして送らせて頂きました。

 起こった事は全部己のせいですが、色々な事が上手く行かず苦しんでおります。

 ご多忙の中恐縮ですが、おてすきの時がございましたら、再度先生のご指導を賜れませませんでしょうか。

 昨年20年来のうつ病で障害者三級になりました、辛い体をおして派遣でなんとか勤めても、月11~12万ほどの収入で貯金も十数万です。

 生長の家で教えて頂いた、ただ善のみ、ただ豊富のみを唱え頑張っていましたが、収入が決まったサラリーマンがどうやって? 派遣には昇給、ボーナス、退職金がありません。

 四十代を迎え、ダブルワークをする力も、宝くじを買う金もありません

 父は十歳で亡くし、母、兄からはいまのよで言うなら、虐待とされるような事をされてきました。

 断絶され長年会っておらず、居場所も知らされていません。

 助けを求められる人はいません。暗くて鬱陶しい話を申し訳ございません。

 父が四十代でなくなり、自分も子供の頃から四十代で死ぬと思っていました。だから現状がこんなでも、もうじきさよならなんだから…という気持ちもあります。

 周りに引かれてしまいますので、誰にも相談できません。

 どんなに表面上明るく振る舞っても、自分の芯に硬い暗い闇があるようです

 また目、膝、腰の左側の体ばかりが悪くなるのです。

 収入、健康、家族、みなしくじっています。
 どうしても上手くいきません。せっかく生長の家の教えがあるのに、結果がついてきません

 勝手なおねがいで申し訳ございませんが、先生に一言ご指導賜りたくメールさせて頂きました。

 長々失礼致しました。

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【質問への回答】

 合掌、ありがとうございます。

 メールを拝見しました。以前に私が指導したことがあったとのことですが、文面を読んで感じたことをアドバイスします。

 頂いたメールによると、「生長の家で教えて頂いた、ただ善のみ、ただ豊富のみを唱え頑張って」いるとのこと。

 善や豊かさを口に出して唱えていたとしても、現在のあなたのように、「収入が決まったサラリーマンがどうやって?」なんて〝心の底〟でそれを打ち消していたのでは、いつまでも現状を変えることが出来ないのは、「心の法則」によってあなたの「信じた通り」のことが実現しているのです。

 せっかくの「行」が、「信」をともなわない〝空念仏〟に終わるのはもったいないことですが、それはあなたの生きる姿勢が、まだ信仰にまで到っていないのかもしれません。

 生長の家では、迷ったり行き詰まったりしたときには、「第一義のものを第一にする」ことが問題解決の基本であると教えられています。

 第一義のものとは、神のことであり、仏性のことであり、あなたの「実相」のことです。

 迷ったり、行き詰まったりするのは、「第一義のことを第一に」していないことの裏返しでもあります。

 つまり、神よりも、仏性よりも、実相よりも、現象にすぎない肉体の健康やお金のこと、暮らし向きのこと、などの〝取り越し苦労〟を第一にしていれば、三界唯心所現(心の法則)によって、あなたが心に描いた通りの(神ならざる、仏性ならざる)混乱した不完全な状態が現れるのです。

 このような中途半端な心の姿勢では、とても生長の家の信仰とは言えません。

 生長の家の信仰生活は、シンプルに言えば「第一義のものを第一にする」生き方です。

 現象は「心の影」に過ぎません。心の影は、聖経『甘露の法雨』に説かれているように「心」のフィルム(原版)を浄めることによって、いくらでも〝より善きもの〟に変えることがでるのです。

 信仰によって、あなたの人生を改善したいのであれば、これまでの自分の生き方を、「自分中心」から、「神を中心」にした生き方に変えることです。

「人間・神の子」の自覚の深まりも、悦びの人生を実現することも、あなたの生きる姿勢を「神(内なる神性・仏性)を中心に」据えることによって、大きく開けて来るのです。

 以下にアドバイスを書きます。本気で問題を解決したいのであれば、倦(う)まずたゆまず実行してみましょう。


①毎朝夕、必ず神想観を実修すること。

 神想観(祈り)は信仰生活の基本です。人間・神の子の自覚は、神想観を日々実修して、すべてを、どんな悩みも苦しみも何もかも〝神に全托〟して、そのまま円満完全なる実相を静かに観ずることによって深まるのです。
 不完全な現象は無い! 人間ははじめのはじめから円満完全な神の子である! との自覚が深まれば、あなたの人生は着実に好転します。

 実修方法が分からなければ、お住まいの教区や練成道場の練成会に参加して、先達の諸講師から正しい指導を受けることをお勧めします。


②毎日時間を決めて『生命の實相』などの聖典を拝読すること。

 生長の家の悦びの信仰は、「自性円満」(そのままで完全円満であること)に目覚めることから始まります。そのためには、あなたの内なる実相に、直接呼び掛けるコトバを毎日拝読して〝いのちの糧〟としてください。

 その第一歩として、『生命の実相』(日本教文社刊)を1巻から40巻まで順次読み進めてください。全巻そろえるお金がなければ、1巻から順次読み進めることです。読了したら、必ず次の巻を買うお金が揃います。信仰が深まるにしたがって、お金でも物でも協力者でも、すべては必用に応じて必用なものが巡ってきますから、安心して修行に励んでください。

 これと合わせて、御先祖と亡きお父様、すべての諸霊に感謝を込めて、仏壇の前で聖経『甘露の法雨』を読誦しましょう。


③人のお役にたつことを毎日1回以上実行すること。

 近隣のゴミ拾いでも、他人の幸せを祈ることでも、家族やお世話になった方に感謝の手紙を書くことでもよし。派遣先で深切な言葉や感謝の言葉を掛けることでもかまいません。今のあなたに出来ることを、密かに実行しましょう。これを続けてみましょう。

 現在の境遇を克服して「無限供給」を開く道は、あなたの内に在る(無尽蔵の)チカラを〝無償で〟人に与えることから開けてきます。〝与える者が、与えられる〟のです。

 天地のすべてのものは、神と神の現れですから、人生で出合う一つひとつの機会を〝かけがえのないもの〟として感謝して迎え、今のあなたに出来る深切を精一杯なさってください。

 最後に、あなたが無限生長の道を歩むために、勇気を出して地元の誌友会に参加してください。

 身近なところで真理の道を歩む方たちと実相を研鑽し、人生の光明面を見る「日時計主義の生き方」をしっかり修得すれば、「修行」も〝楽行〟となり、あなたが豊かに繁栄するためのたくさんの気づきや、ヒントや、アドバイスをいただけることでしょう。

生長の家本部講師
久都間 繁



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【礼 状】 (平成26年4月22日)

 ご多忙の中、突然の申し出に親切にご指導頂き、誠にありがとうございました。一生懸命やっていたことは、空念仏でした。

 先生にご指導頂いた数々を、良いご報告が出来るよう努力します。
 本当にありがとうございました。

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【礼状への返信】 (4月23日)

ご連絡をありがとうございます。

先ずは、何もかも、神さまに全托することからはじめましょう。

そして、まな板の鯉になって、楽に生かされて生きるようにしましょう。

神の御心のままに導かれますよう、祈っています。

久都間 繁


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2014年3月19日 (水)

祈りと愛行について(子供が授からず悩んでいる方へ ②)

 皆さんは、不思議な偶然が重なったときや、善いアイディアが次々と湧きでてきたとき、ふと、神さまから導かれていることを感じたことがありませんでしょうか。

 
 このような不可視の世界からの導きは、その場や渦中にいて感じることもあれば、ずっと後になって、長い歳月を経たあとで気付かされることもあります。

 ブログも何年か続けていると、このような神秘な導きを感じる機会が何度か訪れるものです。

 今回紹介させていただく礼状にも、そのような内容が記されていますが、礼状を書きたくなること、その動機の中に、すでに次に展開する世界の萌芽がめばえているのではないかと思われます。

 今回紹介させていただく手紙は、2年ほど前にこのブログに掲載した
「子供が授からずに悩んでいる方へ」で遣り取りした方から頂いたものです。
 


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【礼 状】 (2014年3月13日)

 久都間先生に子宝に恵まれたい件で、相談に乗っていただいてから2年がたちました。ここのブログで掲載されている内容をもう一度読み返して、4月からの自分のあり方を考えようと、久しぶりにのぞかせていただきました。

 すると、私の相談内容と同じ悩みを抱えた方のお話
(流産して悩んでいる方へ)が寄せられていて、とても驚き、見るべくして神様が導いて下さったのかと思いました。

 ご相談に乗っていただいてから、丁度一年後に私は仕事を退職しました。やはり現在の仕事を続けていては、ゆったりと家庭モードになることは難しいと考えたからです。しかし、教育現場から離れることへの寂しさもあり、退職してから2ヶ月後に、半日の仕事ではありますが、再び子ども関係の仕事に就き、現在に至ります。仕事量が断然減り、生長の家のご本を読んだり、聖経をあげたりするなどの余裕もできました。

 しかし、まだまだ悟りの浅い自分ですので、子宝に恵まれたいという焦りがなかなか治まらず、その焦りが主人にも少し移ってしまったようにも思います。「最も良い時期に神様が授けてくださる」と分かっていても、それは、いつ??と思ってしまう情けない状態です(^-^;

 この4月から再び中学校へ戻ろうかと、ある試験を受けましたが、不採用通知が来ました。面接の時には自分なりに手ごたえがあったので、「あれ・・?」と思っていたのですが、もう一通の手紙で、その理由が分かったように思います。

  その手紙は、一年前に別れたある生徒からの手紙でした。私が一生懸命指導していた部活動の部員の子です。自分の高校受験合格の報告をしてくれる手紙でした。そして、手紙の内容には、「先生が退職された理由が知りたい」ともありました。子どもを授かるために退職したとき、生徒たちにはどう説明してよいか分からず、「家の事情」とだけ告げていたのです。

 今回この手紙と不採用通知が同時に来たのは、神様に「何のために仕事をやめたのか思い出しなさい」と言われているような気がしてなりません。

  それでもなお、経済的なことも気になり、別の仕事も探そうか・・・と迷っていたときに、ここのブログに再び出会いました。なんだか肩を押されたような気がします。4月からいったん、仕事はきっぱりやめてみようかなと思います。

 まだまだ、気持ちが落ち着かないところもありますが、生長の家の勉強をしながら、神の子の自覚を深め、素晴らしい神の子さんを授かるよう頑張って生きたいと思います。

 また、不安になった時にはご相談させてください。ここにたどり着けて本当に良かったです。

 ありがとうございました。

 

【返 信】 

 近況をご報告くださり、ありがとうございます。

 かつてあなたが指導していた生徒からの手紙、そして不採用通知が同時に届いたのは、深い摂理に導かれてのこととと思います。

 また2年前、ご縁あってあなたから頂いた質問への回答をこのブログに公開しましたが、それを読んだ方から寄せられた質問にふたたび私が答え、それを今度はあなたがご覧になり、「肩を押されたように感じた」というのも、一連の神さまの導きであったのでしょう。

 この導きにしたがって、なにかアドバイスできることを綴ってみましょう。

 まず思い浮かぶことは「感謝の生活」です。『甘露の法雨』の冒頭に掲載されている「大調和の神示」には、「その感謝の念の中にこそ汝はわが姿を見、わが救いを受けるであろう」と説かれています。

 つまり「感謝の生活」こそが、神さまと心の波長の合う、神の子にふさわしい、また神の子さんを迎え入れるのに最適な生活なのです。
 それは天地一切の人に、物に、事に、ただ感謝、感謝の日々を送ること。

 また『生命の實相』には、いずれの章かは忘れましたが「絶対感謝」というコトバが説かれています。この感謝の意味は、何かを頂いたからありがたい、何かをしてもらったから、ありがたい、といった相対的な感謝も大切ですが、そのような条件に対する感謝ではありません。

 まだ何も与えられていなくても、またはマイナスの状況で、たとえ八方ふさがりの真っ暗闇の中であったとしても、現象の奥にある神(実相)を感じて、その円満完全なる実相の光りを観じ、信じて“無条件”で感謝することです。

 これは相対的な感謝ではありませんので、「絶対感謝」あるいは“無条件感謝”とでもいうべき「感謝」であり、この感謝こそが、生長の家の祈りである神想観で観ずることの“中身”であり、信仰の根源的な悦びもここから湧いてきます。

 これと合わせて、祈りの助行としての「愛行」を実践することをお勧めします。

「愛行」とは、「“愛”が“行”ずる」と書きますが、その文字が意味するように、あなたの内なる「愛」を、深くゆたかに鳴り響かせることが「愛行」です。この「愛行」は、教師をされていたときに、すでに授業や部活などの指導を通して無意識のうちに実践されていたことと思います。が、今度はこれを初めから〝無償で行う〟ということが、お仕事とはちょっと異なるところです。

 その〝無償〟なることのポイントは、神さまの御心を第一にする、ということです。つまりその行為が自分や家計にとって損か得か、収入があるか無いか、といった利害や損得勘定によってものごとを判断する〝左脳的な働き〟をいったんお休みさせて、すべてを円満完全なる大生命にゆだねてみる、ということです。

 円満完全なるもの(神)に全てを委ねることを“全托”といいますが、全托することによって円満完全なるものが現象世界に顕れて、全ての問題は解決し、あらゆる願いは叶えられる、それが生長の家で説くところの「神癒」(meta physical healing)なのです。

 そのためには先ず、ご自宅で祈り(神想観)を実修して、神さまに全托して、あなたの内から、誰かが心から喜んでくれそうなことがヒラメイテきたら、毎日それを素直に一つひとつ実践に移してみましょう。どんな小さなささやかなことでもいいから、やってみてください。

 神想観という祈りが、神なる宇宙大生命との一体感を深める〝静的な工夫〟であるとすれば、“無償の愛”を行ずる「愛行」は、これを体感して実践する〝動的な工夫〟に当たります。〝工夫〟とは、神や仏の御心に専心専念こころを合わせることです。この「祈り」(神想観)と「愛行」を通して、神さまの世界にある無尽蔵の知恵、愛、生命をこの世に具体的に実現させることになります。

  そのためには、生長の家の教えを、多くの先達や仲間とともに学ぶヤングミセスの集いや、母親教室に参加して、ともに真理への道をあゆむ仲間から、善いアドバイスをいただきながら精進されることをお勧めします。

 1人で研鑽する時間も大切ですが、道を求める仲間たちとともに歩むことで、独りの修行では得ることのできなかった、思いがけないほど多くの発見や内的な気づきがあるものです。

  分からないことがあれば、遠慮なくご相談ください。

                        (2014年3月19日)

生長の家本部講師
久都間 繁

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2014年3月 8日 (土)

悪念・悪感情を消す方法

 皆さんは、「心の法則」という言葉をご存じでしょうか。
 
 

「心の法則」とは、仏教では「三界唯心所現」というコトバで言い表しますが、平たく言えば「心に思い描いたことが実現する」というものです。

 私たちが、善い事ばかりを思い描けるようであれば問題ありません。しかし、愛が深い人ほど家族のことを心配したり、思い煩ったり、取り越し苦労をしてしまう場合があるものです。

 しかも、「心の法則」をなまじ心得ていると、心配事をしたら心配したことが実現する、恐れたら恐れたことが実現する、という考えにとらわれて、「心の法則」にがんじがらめになってしまう場合があるものです。

 皆さんは、「こんな馬鹿げたことを思ってはいけない」「こんなヘンな考えを持ってはいけない」と思えば思うほど、その馬鹿げた考えに捉われて、悩み苦しんだ経験はないでしょうか。

 この地獄のような迷宮から抜け出せなくて、どれほど多くの方が、大切な家族や友人を傷つけ、かけがえのない人生の沃野を、荒れ果てた枯れ野にしてしまったことでしょう。

 今回いただいた相談も、その迷宮から抜け出すための光りを求めて寄せられたものです。

 同じような隘路(あいろ)に陥っている方のために、質問と回答を公開させていただきます。



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【質 問】 (2014年1月24日)

 

合掌ありがとうございます。

先日、●●さんからの紹介で、「個人指導内容をメールか手紙でお送りください」と聞き、メールさせていただきます。

よろしくお願いいたします。

私は、時々不安定になる時があります。

最近あったことは、主人と仲良くしている女性が私とも仲良くしたいと近づいてきたときです。

「この二人は好き同志なのか!?」と。

――そんな馬鹿な事を本気で思い、主人やその女性を恨んだりしてしまいます。
主人の事も信じられなくなってしまいます。

 

昔も似たような事があり、不安だと主人にいうと、
(そのときは、プライベートで私の知らない女性と毎週イベントを開催していました)
嫌な顔をされ、信じていない私を嫌がっていました。

 

主人と仲良くしている女性全員にそういう感情がでるわけではありません。

 

主人と出会う前、私には婚約者がいました。

が、婚約者は私が妹のように可愛がっていた女性と半年以上深い関係になっていて、私はその婚約者とは別れました。

 

そのトラウマがあるのかもしれません。

 

主人を信じられない自分が本当に辛いのです。

不安定の時は、主人をすごく疑っている自分が嫌です。

行動が気になったり、スマホを見ていると誰にメールしているのか? とすごく気になります。

 

どうしたらよいのでしょうか?

お教えいただきたく存じます。

 

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【相談への回答】 (1月24日)

 

ご相談のメールを拝見しました。

 

振り払っても振り払っても消えないご主人への疑惑が湧いてきて、「このような考えは間違っているかもしれない」と悩まれるお気持ちは、どんなに苦しかったことかと思います。

今回ご相談を私に寄せてくださったのも、なにかのご縁だと思いますので、できる限りアドバイスをさせていただきます。

ご相談の内容から、あなたもすでにお気づきのように、現在の悩み苦しみは過去のトラウマが強い影響を与えていることと思われます。

婚約者と、妹のように親しくしていた友人という最愛の人たちに裏切られたことは、あなたにとって拭いがたいほど、辛い経験だったことでしょう。

このような辛い体験が、現在の自分の意思に反して、今日まで尾を引くのは、仕方のないことでもあるのです。

しかし、ご安心ください。

どのような辛いトラウマでも、それは「現れたときが、消えたとき」なのです。

もうすでにあなたは、生長の家をご存じなので、よく分かることと思いますが、「心の法則」によると、心の奥深くに押し込まれた“想い”は、現れては、消えていくのです。

要は、それを「握り」さえしなければ、二度と再現されないのです。

つまり現れてきた“想い”は、ふたたび「掴(つか)み」さえしなければ、どんどん消えていく一方なのです。

ですからヘンな想いがわいてきたときに、「こんなバカなことを想ってはいけない」と、くよくよと自分のことを否定していたのでは、いつまでも消えずに、過去の迷いが再現されてしまいます。

でも、心配はいりません。

悪念、悪感情が湧き起こってきたら、逆に「しめたものだ!」と、思い直してください。

嫉妬の感情、ご主人への疑惑、馬鹿な考え、そんな悪念・悪感情が出てきたら、

「これで消えた、これですっかり善くなる!」と心から感謝して、いつでも湧いてきた“悪念・悪感情”を見つめ見送るようにしましょう。

なぜなら、過去の迷いは、完全に消え去るとき、意識の表面に浮かび上がってきてから消える、それも心の法則なのです。

この過去の迷いが現れる働きは、実は神さまの広大なる「宇宙浄化の働き」そのものなのです。

つまり、住吉大神が心の奥底まで浄化してくださっているのです。

ですから、馬鹿な想いが湧いてくる、ということは、神さまが過去の迷いを消してくださる「浄めの働き」なのです。

だから、悪想念・悪感情が出てきたら、「これですっかり消えた、これでどんどん良くなる!」と感謝していれば、自然と消えて、現れなくなるのです。


以上がアドバイスですが、その一助として以下のことをお勧めします。

①朝と夕に如意宝珠観などの神想観を実修して家族を祝福すること。合わせて、毎朝ご先祖に『甘露の法雨』を読誦すること。

②毎日時間を決めて、聖典『生命の實相』を第1巻から順次拝読すること。

③生長の家誌友の方が、地元で開催している母親教室や白鳩誌友会に、ぜひご参加ください。

以上が、いただいた内容を拝見した上でのアドバイスです。

さらに確認したいことなどあればご質問ください。遠慮はいりません。

生長の家本部講師
久都間 繁

 

 

 

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【お礼のメール】 (1月26日)

 

久都間先生へ

 

合掌ありがとうございます。

この度はご丁寧にありがとうございます。

「これで消えた」
「これでよくなる」

と唱えています。
アドバイスいただいた「行」もやります。
ありがとうございます。


【私からの追伸と確認】 (3月4日)

合掌、ありがとうございます。

その後、信仰生活は順潮でしょうか。

谷口雅宣先生の『日々の祈り』の172ページに、『「偶然はない」と知る祈り』というご文章があります。

数日前に拝読していた折に、これはあなたにとって、とても参考になるのではないかと思いましたので、折を見て目を通してみてください。何らかの得るところがあり魂の糧となることでしょう。

また、分からないこと、まだ悩まれていることなどあれば、遠慮なくご相談ください。

一つ許可をいただきたいのですが、私は皆さまから寄せられた相談への回答をブログで紹介して、多くの方の問題解決のための参考にしていただいています。

もし差し支えないようであれば、この前の相談内容をブログに載せて、同じ問題で悩んでいる方の参考にしたいと考えています。もちろん、匿名で、地域や問題の背景などは伏せた上で公開しますので、ご心配ないと思いますが、もし不安であれば公開は避けますので、ご連絡ください。


【礼状と新たな質問】 (3月4日)

久都間先生

合掌ありがとうございます。
ご連絡ありがとうございます。感謝致します。

今はもう引っかかりがない。
(全くないわけではありませんが)生活を送らせていただいております。
とても楽です。
ありがとうございます。

ブログへの投稿、問題ありません。同じ悩みの方のお役に立てれば幸いです。

先生、
別件の質問なのですが、
姑とは仲良くする必要ありますか?
絶対仲良くしなければいけないものなのでしょうか?


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【回 答】 
(3月7日)

 

合掌、ありがとうございます。

ご質問いただいたことについて、お答えします。

『生命の實相』第1巻にある實相篇は、すでに拝読されたことと思いますが、生長の家の教えの基本は、「自性円満(そのままで完全円満なこと)を自覚する」ことです。

あなた様が、姑と仲良くしたい、と思うそのことが、あなたの内なる「自性円満」なるものが、すでにはたらき始めているのです。

家族の大調和は、あなたの内なる「自性円満」なる実相に、すべてを委(ゆだ)ねることから実現します。

なぜなら、現象は、過去の想念が現れているだけであり、たとえば現時点で不調和なものが現れているのであれば、それは過去の迷いが消えていく相(すがた)にすぎないのです。

もう、そのような現象にとらわれてはいけません。

現象は「無い!」のです。無い現象は、仲良くしようもなければ、仲を悪くすることもできないのです。なぜなら、初めから「無い!」からです。

そのような現象を相手にするのは、もう止めにしましょう。

現象を相手にする代わりに、久遠の実在である、あなたの内なる自性円満(はじめから円満完全)なる実相のみを静かに観じ、ただただ悦び、ただ感謝していれば、全てのことは大調和の世界へと導かれるのです。それが信仰生活です。

谷口雅春先生の詠まれた和歌に次のコトバがあります。

 ひとすじの道踏み行けば燦然(さんぜん)と
            光り充ち渡る吾が世界来ぬ

どうぞ一筋の光りの道を歩んでください。神想観が、あなたを護り導きます。

生長の家本部講師
久都間 繁


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【礼 状】 (同日付)

合掌ありがとうございます。

お忙しい所ご丁寧にありがとうございます。

私、神想観を真剣に行じます。

ふとした時に、姑から八つ当たりで怒鳴られた事などを思い出してしまって。

でもこれも過去の事ですね。消える為に出てきたものですね。

「無い」物に振り回される事はもうやめます。

久都間先生

ありがとうございました。

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2013年11月16日 (土)

流産して悩んでいる方へ

生長の家本部の“森の中のオフィス”への移転や国際教修会での論文発表などでブログの更新ができませんでしたが、ぼちぼち再開します。

 

 2012年の春、当ブログに掲載した「子供が授からずに悩んでいる方へ」を読んだという首都圏在住の30代の主婦の方から相談をいただきました。

 

 人生の深い問題は、相手の悩み苦しみを感じ取った後は、それを大生命である神にすっかり委ねることによって、相手に必要と思われるアドバイスがひらめいてくる場合が多くあります。

 

 今回もそのような経緯を通して、問題解決の糸口が開けてきました。実名・地名などを伏せて全文を公開しますので、皆さまの問題解決のための参考にしてください。
 
 
 
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【質 問】

 

久都間講師

 

こんばんは。はじめてメールさせていただきます。

 

ココログのコメントが送信できませんでしたので、メールで質問させていただきます。
「子供が授からずに悩んでいる方へ」 の記事についてです。

 

私もこの相談者の方と同様、子供が授かる日を心待ちにしています36歳女性です。

 

仕事を続けるべきか悩んでいます。家に帰っても頭の中は「仕事モード」でいろいろと思い悩むことが多いのが現状です。

 

心を落ち着けるため、また、ご先祖様に対し感謝の気持ちをもって毎晩「甘露の法雨」を読んでいます。お祈りは30分間就寝前に行うようにしています。

 

また、私は初期段階で2度流産の経験をしましたが二人とも名前をつけて、ご先祖様と同じく感謝の気持ちで聖経を読んでいます。

 

ご回答には仕事に関して、
『神さまからあなた様に授けられたご使命のことを、じっくり祈りながら見つめてみましょう』
と書かれてありますが、これは仕事を続けながら『ゆったりした「家庭生活のモード」に心を切り替える』と理解すればよいのでしょうか?

 

心身ともに疲れがとれず、なかなかゆったりと「家庭生活のモード」になれずにいます。子供に関しては神様にお任せしていますが、体調が不安定なときもあり、また婦人科の疾患もあるようで仕事を辞めて体を少し休めたいという思いもあります。

 

仕事はしていたいですし、会社側からも続けてもらえると助かると言われ大変ありがたく思っています。

 

健康で完全円満な自分が本当の自分ですから、体の不調和を気にかけないよういつも生長の家の本を読み自分を勇気づけて仕事に出かけていますが(笑)、アドバイスをいただけると嬉しいです。

 

何卒よろしくお願いいたします。

 

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【回 答】

 

この数日間、生長の家本部が移転した八ヶ岳(大泉)への、家族の引っ越しに追われて、返信が遅くなり失礼いたしました。

 

さて、ご相談を拝見しました。まずはご質問いただいた次のことについてお答えします。

 

>>回答には仕事に関して、『神さまからあなた様に授けられたご使命のことを、じっくり祈りながら見つめてみましょう。』と書かれてありますが、これは仕事を続けながら『ゆったりした「家庭生活のモード」に心を切り替える』と理解すればよいのでしょうか?

 

その通りですが、『ゆったりした「家庭生活のモード」に心を切り替える』ことは、仕事を続けながらでは、なかなか難しいことです。

 

ブログに紹介した方は、まだ20代で教師としての強い使命感を持っておられ、しかも定年まで続けたいという願いを抱いておられたので、先のようなアドバイスをさせていただきました。

 

しかし、あなた様の場合はこれとは事情が異なります。
まず、あなた様の年齢のこと、体調のことなどを考慮すると、いったんお仕事を辞めるべき時期に来ていると思われますが、いかがでしょうか。

 

経済のことも大切ですが、子宝のことやご家族の幸せは、それとは比べものにならないほど大切なことなのですから、これから第二の人生が始まるような、すがすがしい開放感に充ちた、楽々とした気持ちになってみてはいかがでしょう。

 

「心のモード」を切り替えるためには、基本的には10日間の練成会に参加されることをお勧めします。そこで、祈りを深めるための心のレッスンをすることです。

 

また、ご夫婦でこれまで行きたいと思っていた国や地域があれば、退職を機に旅行をしてみることもよいし、これまでやりたいと思っていたことをやってみるのも、これまでのモードをより善きリズムに切り替えるためには、とても有効ではないかと思われます。

 

そして、あなた様からの次の情報も、身体が大切なメッセージを発しているように見えます。

 

>>心身ともに疲れがとれず、なかなかゆったりと「家庭生活のモード」になれずにいます。子供に関しては神様にお任せしていますが、体調が不安定なときもありまた婦人科の疾患もあるようで仕事を辞めて体を少し休めたいという思いもあります。

 

私のブログを見て相談をしたくなったのも、すでにあなた様の内る“声なき声”に、導かれてのことではないかと思います。

 

以上が、頂いたメールを拝見した上での助言となりますが、もう少し詳しいあなた様の背景、例えば信仰歴、ご家庭の状況、お悩みなどが分かれば、秘密を厳守した上で、具体的なアドバイスができるかと思います。

 

私からの返信は、仕事の合間をみて書きますので、何か気に掛かることがあれば遠慮なくご連絡ください。

 

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【追加の質問】

 

お忙しい中、ご返信ありがとうございます。

 

またなかなか落ち着いて書ける時間がなくお礼が遅くなりましたこと、お詫びいたします。

 

今回、思い切って相談して良かったです。

 

私は先生のことは存じていませんでした。また全く関係のないことを調べていたときに
先生のブログを見つけ、いろいろな相談者の方のお話、先生のご回答を見て、少し迷いましたが私もメールを送らせていただいた次第です。

 

仕事はやめるべき時期なのですね。
今年で11年目になりますが、辞めたいという思いは前々からありました。素直に自分の気持ちに従ってよかったのですね。辞めるタイミングは何度かありましたが、そのたびに上司の体調が悪くなったり、資金繰りがわるく新しい人材を採用する余裕がなかったりと零細企業の悩みですが、なかなか抜けられない状態でしたので、仕事は続けなさいと言われているような気がしてなりませんでした。

 

実は10月末で正社員としては退職したのですが、決算も近く私は経理を担当しているため週3くらいで会社に行っています。この状態がいつまで続くのだろうと悩んでいました。ですが、先日、新しい人に早く仕事を引き継ぎたいときちんとお願いし、週1ペースで通うことになりました。

 

信仰歴ですが、10年くらいになります。
両親は2人とも山陽地方の出身で、母方の祖母が信仰熱心だったようで10年前私が体調を崩したときに母が『甘露の法雨』を読んでくれたのがはじまりです。

 

そのころ母はまだ生長の家については勉強しはじめで、一方で母のお姉さんは若いころから練成に行っていたようです。実家では母と一緒に『甘露の法雨』を仏壇の前で読んでいました。結婚後も続けています。

 

母は現在は白鳩会会員で、私はずいぶん前に母と一緒に年始の宇治の練成会にも一度参加したことがあります。生長の家講習会には毎年誘われ参加しています。

 

現在は結婚して3年目になりますが、関東地方に住んでいますので、泊まりではないですが母にすすめられ飛田給の練成にも行ったことがあります。ただ直接自分の悩み事を相談したことはありません。

 

主人は私より2つ年上で、穏やかでとても優しく、夫婦調和の大切さを母や本から学んでいたのでとても仲良くやっています。また子供のこともあせる必要はないと言ってくれています。

 

主人には生長の家のことは講習会に行く際に一度話をしました。もちろん生長の家のことは知りませんでしたし、宗教は信じない方なので私の事を少し心配していましたが、私の事を信じているので別に反対はしないよ、と言ってくれました。

 

私はまだ会員ではありませんが、主人には徐々に理解してもらえたらと願っています。

 

両親についてですが、義理の兄夫婦が同じマンションに住んでおり、4歳になる甥もいるため主人の両親もよく遊びにきます。また旅行に一緒に行ったりするなどとてもよい関係です。もちろん私の両親も元気に首都圏で暮らしており、仲良くやっています。実の兄も結婚しており都内に住んでいます。私は本当に幸せな環境に住まわせてもらっています。両親やご先祖様のおかげだと思います。

 

私はスキーや山登り、旅行も好きで仲の良い友人もたくさんおり活発なほうだと思います。
私は何不自由なく大きなケガや病気もせず成長しましたので、結婚して2度の流産を経験したことにとてもショックを受けました。また2度目の流産は子宮外妊娠で入院し、卵管を片方切りました。

 

私の悩みは、今後は気持を新たに過ごしていきたいと思いますが、具体的にはこの出来事ををどのような気持ちで受け止め過ごしていったらよいでしょうか? 頭では理解していてもなかなか気持ちの切り替えができていないのが正直なところです。子供を望む一方で不安がよぎります。

 

母からは、「過去のページは切り捨てて、ただただ感謝の気持ちで明るく過ごしなさい」と言われました。もちろん会えなかった子供に対しても、主人、両親、会社の方たちその他周りの人たちに対して。すべてよい方向に進んでいる、とのことでした。

 

なぜこんなことになったのか? という疑問をもつ必要はないのでしょうか。
不安定な気持ちが体に現れているのでしょうか。

 

スカッと心もからだも晴れる日が早く来てほしいと願うばかりです。
自分はこんなにも弱かったかな、、と考えてしまいます。

 

また現在は病院に通い、薬を飲んでいます。次々といろいろなところを指摘されるためあまり病院には行きたくないのですが、素直に先生の指示に従い受診すればよいのでしょうか。病院や薬との付き合い方もお伺いしたいです。

 

10日間の練成に行きたい気持ちもありますが、主人の仕事は忙しいため、食事作りを優先したいと思っています。自宅では祈りを深める訓練は難しいでしょうか?

 

それとも主人に事情を話し、機会を作って練成に参加したほうがよいでしょうか? 通うという方法もありますが。

 

長文になりまとまらず大変申し訳ございません。
再度アドバイスをいただけましたら幸いです。

 

何卒よろしくお願いいたします。

 

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【回 答】

 

合掌、ありがとうございます。

 

さて、頂いたご質問――

 

>>私の悩みは、今後は気持を新たに過ごしていきたいと思いますが、具体的にはこの出来事をどのような気持ちで受け止め過ごしていったらよいでしょうか?頭では理解していてもなかなか気持ちの切り替えができていないのが正直なところです。子供を望む一方で不安がよぎります。

 

これについてお答えします。

 

お母様がおっしゃった、「ただただ感謝の気持ちで明るく過ごしなさい」ということは、とても大切なことです。しかし、あなた様の過去のページについては、もっと根源的な見方をしなければなりません。

 

生長の家で説く、「人間・神の子」とは、人間は、生と死を越えてそのまま円満であり完全であるという教えです。つまり、現象の背後にある、実在(ほんとうに在るもの=神)のみを直視する教えです。

 

これまで、2人の神の子さんがお腹に宿ったとのこと。

 

これは、どんなに荘厳な光りと祝福とに満たされた、喜ばしい出来事だったかということに、あなた様は気がつかなければいけません。

 

人間・神の子とは、流産するしないを越えて、円満なる“愛”そのものであり、“光り”であり、そのまま救われているのです。つまり、安らぎに充ちた光りの子が、神縁あってあなた様のお腹に宿られたのです。まずその聖なる事実を認め、祝福し、感謝することが大切です。

 

そして母体に宿り、流産して亡くなったように現象的には見えますが、現象は“現れているだけ”にすぎません!

 

宿った子どもたちは、はじめから生き通しであり、円満な光りであり、愛そのものであり、今も生き通しの実相生命として大宇宙を照らし続けているのです。

 

その事実(実相)をしっかり見つめて祝福し、久遠の繋がりをもった我が子として、慈しみ、感謝し、祝福し、母胎に宿った荘厳なる神縁を悦んであげましょう!

 

そして、あなた様ご自身も、はじめのはじめから円満完全なる神の子であり、“愛そのもの”であった事実(実相)をしっかり見つめ、心から感謝し、祝福して日々大いに悦ぶことにしましょう。

 

このように、実相を直視して悦ぶことが、神想観であり、生長の家の供養です。

 

お子様たちと、あなた様との関係は、実相から観れば永遠に「光り」と「光り」の関係であり、これまで一度も流産したこともなければ離れたこともない、神によって結ばれた永遠の関係であることを、もっともっと悦ぶこと。その実相を見つめて悦ぶことこそが、生長の家の喜びの信仰です。

 

>>現在は病院に通い、薬を飲んでいます。次々といろいろなところを指摘されるためあまり病院には行きたくないのですが、素直に先生の指示に従い受診すればよいのでしょうか。病院や薬との付き合い方もお伺いしたいです。

 

病院は、身体の悪いと思われる箇所を、親切にあれこれ探して指示してくれますが、病そのものを完全に癒やすのは、あなた様に内在する大生命にほかなりません。これについては『生命の実相』の1巻、2巻(實相篇)をしっかりお読みいただき、理論的にも納得した上で、今後の生き方を決められるとよろしいでしょう。

 

泊まりがけの練成会については、時期が来たら自然に行くことができますので、無理をせずに、地元の教区やお母様がいる教区で開催されている練成会に日帰りで参加されるとよろしいでしょう。

 

また、この機会に、聖典『生命の實相』を1巻から順を追って全巻拝読することをお勧めします。

 

『生命の實相』を読むことは、私たちが生活の中で四季(春、夏、秋、冬)を体験することとよく似ています。『生命の實相』の行間を味わいながら、朝夕の神想観・聖経読誦とともに一日一日を迎えることで、真理への理解が一段と深まることでしょう。

 

また、分からないことがあれば遠慮無くご連絡ください。

 

再拝

 

生長の家“森の中のオフィス”より

 

生長の家本部講師
久都間 繁

 

 

 

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【礼 状】

 

合掌、ご返信ありがとうございます。

 

とてもわかりやすく説明していただきありがとうございます。
“神縁あって私のお腹に宿ったという、この聖なる事実を認め、祝福し、心から感謝”したいと思います。

 

先に「頭では理解していても」と書きましたが、、結局流産という現象にとらわれていたにすぎず、“根源的な見方”ができておらず間違っていました。

 

いつも感謝の気持ちで聖経を読み、お祈りしていましたが、恥ずかしながらこれでは「感謝」とは言えません。また、ふと不安や沈んだ気持ちが沸き起こる理由も自分で自分に納得ができます。

 

反省の気持ちと同時にまた、
>>その事実(実相)をしっかり見つめて祝福し、久遠の繋がりをもった我が子として、慈し  み、感謝し、祝福し、母胎に宿った荘厳なる神縁を悦んであげましょう!

 

>>そして、あなた様ご自身も、はじめのはじめから円満完全なる神の子であり、“愛そのもの”であった事実(実相)をしっかり見つめ、心から感謝し、祝福して日々大いに悦ぶことにしましょう。

 

と聞いて、スーッと気持ちが晴れていくような悦びの感じを味わいました。

 

この気持ちを継続させるためにも正しく真理を理解し、生命の實相を読み、もっと理解を深め悦びの毎日を過ごしていきたいと思います。

 

感謝の気持ちでいっぱいです。
ご指導いただき、本当にありがとうございました。

 

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【返 信】

 

合掌、ありがとうございます。

 

あなたが人間・神の子の自性円満の実相を悦んでいるだけで、思いも掛けなかったような楽しい黄金の日々が開けてきます。

 

どうぞ、この真理への一筋の道を歩んでください。

 

また、今回の質疑の遣り取りは、あなた様のように神縁ある人々の魂に光明を灯すことになると思われますので、個人名などを伏せて、ブログで公開させていただきます。
ご了承ください。

 

生長の家本部講師
久都間 繁

 

 

 

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【返信】

 

久都間 先生へ

 

合掌、ありがとうございます。

 

ブログでの公開の件、承知いたしました。

 

悩める女性が一人でも多くこの真理に気づけますことをお祈りいたします。

 

お役に立てて光栄です。

 

また土地の名称もあわせて伏せていただけますでしょうか。

 

申し訳ございませんが、何卒よろしくお願いいたします。

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2012年5月 1日 (火)

親子の愛と捨徳について

 ご高齢のお母様が熱心な生長の家の信徒で、クスリを一切飲まないので困っている、という相談のメールを、息子さんからいただきました。

 愛には大きく分けて二種類あるといわれています。
  一つは「執着の愛」、もう一つは「放つ愛」。

 同じ愛でも、似て非なる結果を人生にもたらすこの「愛」について、仏の四無量心の教えは、明確な智慧をもって私たちを導いています。

 以下、質疑の遣り取りを紹介します。


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【質 問】

 

 突然のメール申し訳ございません。

 

 母親は生長の家の熱心な信者です。
熱心すぎるゆえ、病院のクスリは一切飲もうとしません。

 

 本人はかなりの高血圧で病院の診断では、下げないといけないと何度も言われています。
(合併症の心臓肥大も軽度ですがはじまっているとのことです)

 そのたびに家族が説得するたび薬は飲むといって、気づくとこっそり服用をやめております。

 そんないたちごっこを2年続けて来ましたが、ついに開き直り、

「生長の家には病院通いだった若いころ、信仰を始めたとたん病気が無くなったから信じている、クスリも飲まない」

と言い始めました。

 

 信仰で高血圧が下がるなら文句は誰も言いません。

 下がってないのに信仰にすがっていることに困っています。

 CTでは既に動脈硬化も進んで細くなっています。

 家族としてはどうしたらよろしいですか?

 

 神に護られているとか、そういう、宗教的な考えは求め居ていません。

 一般常識として血圧180以上ある母の健康を願うのは当然だと思います。

 生長の家の見解をお聞かせください。

 

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【回 答】

 

 ご質問の件については、本部講師の久都間がお答えさせていただきます。

 

  お母様が薬を一切お飲みにならないとのこと、熱心な信仰姿勢に頭が下がる思いがいたします。

 しかしながら、お母様を愛する息子さんとしては、さぞご心配のこととお察し申し上げます。

 

 医者や薬は、病気を治す働きをするためにこの世に存在していますが、生長の家では魂を悩み苦しみから救うことが本来のお役目であり、病気を治すところではありません。

 

 また、魂が自縄自縛から解放された結果として、病気が消える場合もございますが、生長の家ではそのようなことは、心が肉体に及ぼす随伴的な影響として認めるのみで、積極的に肯定も否定もいたしません。

 

 ですから生長の家では、医者や薬を否定するものではありません。

 

 このメールをお母様にご覧に入れても構いませんので、

「素直に息子さんのご意見に従うようにと、生長の家の本部講師がすすめていた」

と、お伝えいただければ幸甚です。

 

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【追加質問】

 

 先日はお返事くださいまして誠にありがとうございます。

 頂戴いたしましたメールには、さまざまなご配慮をくださいまして本当に感謝しています。

 あのお返事なら母の心に届くものと信じておりましたが、結果から申し上げますと良いご報告は出来る状況には至りませんでした。

 

 いまの私ではどうすれば母の心に届くものかまったくわからない状況となっております。

 誠に恐れ入りますが、何卒ご教授いただければ幸いに存じます。

 

 先日のお返事をみせた後のやりとりをですが、私としましては、クスリを飲んでもらう事は、血圧が高いことを再確認したうえでの必要な措置とおもっているので、現状の血圧を測って欲しい旨を話しました。

 しかし、母は、「クスリを飲むことは基より、血圧を測ること事態が病気を認めることになる。そんなことはしない。なぜ今健康に動いているのにそんなことをさせるのか?」の返答。


 母にとって生長の家の教えは、病気はない(心の影とでもいうのでしょうか?)病気の存在を認めないということのようです。

 また、『生命の実相』を私に渡して「読め」というので、途中まで読みました(7巻です)。たしかに病気を認めるなという趣旨の文言がありました。きっとそういうことが言いたいのでしょう。

 

※下記、久都間先生気を悪くされたら申し訳ございません。
私には、あの内容は医療が現代のように発達してない時期に、心の開放・魂の開放・明るい生活に導くためのひとつの表現であって現代医療が発達したいまの時代とはずれたもの、また解釈も当時の生長の家といまの生長の家では違う教えとなっているのでは? とも正直思っています。(私見です)

 

 先日は、母から、「勉強していないあなたに何がわかる?」と言われました。その延長で7巻を少し読んだのですが。。。

 今では、「死んでも私(母)の人生だからそれでいい。それが寿命」だからと…

 父と私の3人家族ですが、家族がなにを言ってもわずらわしく感じているだけでしょう。

「放っておく愛もおぼえなさい」だとか、何度話しても何も進展しません。

 

 私や父は高血圧を、脳や心臓などへの合併症の怖さ、高血圧はあまり自覚のない病気として認識しています。

 母にとって病気は、認めてはいけないもの、クスリは愚か、血圧を測ることも病気と認定してしまうから受け入れない。

これが完全に家族同士の主張の平行線を生んでいます。

 

 死んでもいいと言っている母に生きる楽しさを提供できていない自分が悪いのだろうか?

 いろいろ考えてしまいますが、なにかお互いが納得できる方法はないでしょうか。。。

 

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【回 答】

 

 あなた様はとても親孝行な方ですね。

 

 また、お母様の信仰姿勢も見上げたものだと感心しております。

 

 さて、仏教の教えの中で、最も重要なものとして、仏の「四無量心」という教えがあります。

 

「無量」とは、無限という言葉と置き換えることができます。

 

 それは、仏の慈、悲、喜、捨の教えと言われており、「慈・悲」は人の悲しみを感じ、その人を慈しみ、慰め、苦しみから救い取ろうとする深い愛の心のことです。

 

 また、「喜」は、苦しみから解放された人や、願いが成就した人の悦ぶ姿を見て、それを吾が事のように、ともに悦ぶ心のことです。

 

 そして、「捨」は、捨徳といって、相手やものへの執着を絶ち、その人やものを、どこどこまでも自由にしてあげる「放つ心」のことです。

 

 お母様が、「放っておく愛もおぼえなさい」とおっしゃったことには、とても深い意味があります。

 

「放っておく」とは、ただ単にほったらかしにしておく、ということではありません。

 

「捨徳」は、本当に愛していればこそ、相手を自由にしてあげる「愛」のことです。

 これは、相手を決して縛ることなく、その人が生きたいように生きさせ、行きたいところに行かせて、好きなように自由にさせてあげる、つまり相手やものを完全に解き放つ深い愛の心なのです。

 

 この「捨徳」の教えは、仏教でも最も深い教えの一つであると言われています。

 

 すべての人間関係の拗(もつ)れ、悩み、苦しみは、相手を自分の尺度で、雁字搦めに縛るところから生じてきます。

 

 その苦しみから私たちを解放するのが、仏の四無量心の一つである捨徳の教えであり、神の無限の愛の働きなのです。

 

 そのことをお母様は、あなた様にお伝えしたかったのではないでしょうか。

 

とても清々しい、素晴らしいお母様ですね。

 

お母様に、宜しくお伝えください。

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2012年4月25日 (水)

自分を責めている方のために

「自分を責めて責めて死んでしまいたい」という女性の方から相談を預かりました。

自分を責めてしまうのは、“こんな姿は本当の私ではない!”ということを、心の奥底にある本当の自分(実相)が知っているからです。

人間は、なりたい自分へと、自由に変わることができるのです。

ただし、目の前に現れている自分を見ていると、そんなことがとても信じられず、理想の自分とのあまりの落差に、自暴自棄になったり、死にたくなったします。

精神分析で「錯綜(complex)」と言い、仏教で「業(karma)」と呼んでいるところの迷いの観念に、心が雁字搦(がんじがら)めに縛られ、そこから抜け出す道が分からずに藻掻き苦しんでいる、そんな魂の純粋な叫びが、このような悩みの背後から聞こえて来るようです。

この錯綜した観念(業)から、実相(内なる神・仏)を自由に解き放つのが、洋の東西を問わず宗教の大切な役割でもあり、その教えの真価が問われるところでもあります。

 

 

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【質 問】

私は30代の女子です。中学のころから生きるのが苦痛に感じ、学校へ行かなくなり、すべてのことが厭世的に映り、暗い人生を送っておりました。

大学へ行こうと努力したり、バイトもしようとしましたがうまくいかず、30歳手前まで家でじっと過ごすしかありませんでした。

数年前から暗い気分のままなんとか生きなければと、昔習っていた日舞の資格を得て、今はカルチャーセンターなどで細々と教えています。

仕事もしなくてはと、郵便局で受付のバイトを半年間がんばりましたが、最後には心身ともにぼろぼろになり、自分の今までのやってこれなかった悔しさと、精神力の弱さに、とても傷ついております。

頭がうまく回らず死にたいと、厭世的な気分はなかなか治りません。

また、年齢的に結婚のことも気になるのですが、仕事をした中でも、男性からダメなやつとみられる始末で、人間関係にとても敏感になっております。

最近、宇治の練成会にいって参りました。
「今できることをがんばりなさい、あなたなら大丈夫だ」と、楠本先生から個人指導を受けました。

しかし、なかなかこの自責感がとれません。

精神科で抗不安薬と睡眠薬をもらっています。自分を責めて責めて死んでしまいたいという不安感に苛まれます。

誰に言ってもダメな人としか受け取ってもらえず、毎日がつらいです。こんなわたしでも未来はあるのでしょうか。

 

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【回 答】

 

  宇治の練成会を受けられて、楠本先生から、

「今できることをがんばりないさい、あなたなら大丈夫だ」

と言っていただけたとのこと。

 あなた様の人生にとって、とても大きな節目となりましたね。

 

 さて、自分を責めてしまうのは、意外なことに聞こえるかもしれませんが、「自分がある」と思っているからです。

 本当は、「自分がある」のではなく、神が今ここに生きている、それが実相なのです。

「自分が生きている」のであれば、いろいろと思い煩ったり、気をもんだり、先のことを心配したりしなければなりませんが、私たちは「自分で生きている」のではなく、円満完全なる大生命に「生かされている!」それが実相(本当のすがた)なのです。

 

 厭世的な気分がいつまでも消えないのは、神の子の完全円満なる生命を、そのまま悦ぶことを忘れているからです。

 そして現象世界に現れた、ただの心の影にすぎない「自分」が生きていると、勘違いをしているからです。

 

 神の子は、先ず神の子らしく生きることが、なによりも大切です。

 そのためには、楠本先生のおっしゃった、「今できることをがんばりなさい」というコトバを素直に実行することです。

 そうしたら、円満完全で、「だいじょうぶ」な“あなた”が現れるのです。

 

 具体的には、日々の生活の中で意識して以下のことに励みなさい。

①周りの人のお役にたつこと。(気が付いた善いことは、積極的になんでも実行すること)

②人に愛を与えること。(神は愛です。あなたの内なる愛を、思い切って表現すること)

③今できることを、一所懸命にさせていただくこと。

 

 このようなことに、はじめは意識して努めることで、次第にあなたの内にある円満なる大光明が、自然と輝きはじめるのです。

 なぜなら、あなたは、はじめから完全円満なる神の子だからです。

 神の子は、神の子らしく生きること。

 まず、上記のことを始めてみること。そこから天地が開け、大道が開けてきます。

 

 分からないことがあれば、なんでもご質問ください。

 

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【礼 状】

 

 先日は、お返事をいただき、ありがとうございました。

 宇治の練成会を受け、楠本先生からも励ましの言葉を頂き、生長の家の教えを受けたにもかかわらず、苦痛が解けず、悩んでおりました。

 そして、もがき苦しんでおりましたが、その中で自分の人生をしっかり受けとめようと、また決心していたところでありました。

 そこで久都間先生からのお手紙を受け取り、また練成会を受けたことが心に深くよみがえり、より神の子として、どんなことがあろうと現象に捉われず、自分を見つめ、どんな人生も引き受けようと覚悟を新たにいたしました。

 自分が完全円満な神の子であることを自覚するために、人生は一人でありますが、楠本先生、久都間先生、生長の家で祈ってくださる方々が、このように愛念を掛けてくださることが、とても有り難く、心強く思います。

 私は、自分がどんな人生であろうとかまいません。もう「現象は無い」とはっきり分かったのですから、私の心の中に幸せがきっとあるはずです。
 ありがとうございました。

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