書籍・雑誌

2009年6月24日 (水)

『文明論の概略』を読む

 2週間ほどかけて、福沢諭吉が100年ほど前に著した『文明論の概略』を読んだ。
 
 福沢は、天保5年(1835年)に生まれ、 明治34年(1901年)に66歳の生涯を終えているが、彼の前半生は旧幕藩体制の時代、そして後半生は明治の文明開化の時代という、二つの異なる時代を一身で生きるという希有な体験をしている。

 これについて、最晩年にざっくばらんに生涯の顛末を述べているのが『福翁自伝』だが、『文明論の概略』では、激変した二つの時代を貫く、政治的、思想的立場を越えた福沢の「独立自尊」の一貫した精神が、顕わな形で吐露されている。

 福沢の著したものを読んでいるときに、いつも興味深く感じるのは、彼の精神の根拠となっているものの所在である。

 幕藩体制にも、明治新政府にも、学閥にも財閥にも、科学的技術をもたらした西洋文明にさえもおもねることなく、全ての事象を柔軟に受け入れた上で自身が「正しい」と判断したところのものを身命をなげうってでも、果敢に断行する。そのような英断の連続のような生涯をまっとう出来たところの精神の在処(ありか)、そこに強く引かれ、福沢の福沢たるものを感じるのである。

 彼の思想は、仏教、神道、儒教、キリスト教をといった当時の形骸化した既成の宗教や道徳を「虚誕妄説」と一蹴し、いわゆるオカルティズム(occultism)とも明確に一線を画しているところがまた面白い。

 しかし彼の著作を紐解いて分かることは、彼ほど「徳義」や「良心」の蘊奥について、自身のコトバで生き生きと説き証した学者も、これまた希(まれ)だということである。


「肉体の便利既に饒(ゆたか)にして、一身の私徳既に恥ずることなしと云ふも、尚この有様に止まりて安んずるの理なし。其饒(そのゆたか)と云ひ、恥ずるなしと云ふは、僅(わずか)に今日の文明に於て足れるのみ、未だ其極(そのきわみ)に至らざること明らかなり。人の精神の発達するは限りあることなし、造化の仕掛けには定則あらざるはなし。無限の精神を以て有定の理を窮(きわ)め、遂には有形無形の別なく、天地間の事物を悉皆(しっかい)人の精神の内に包羅して洩らすものなきに至る可し」
(『福沢諭吉選集』第4巻136~137ページ)〈原文は歴史的仮名遣い〉


 下級藩士の家に生まれ、しかも幼くして父親を亡くした福沢は、糊口をしのぐために子供のころから、さまざまな職人から手仕事を学んでは家計を助け、さらに学問の道を志して後は、出会う師匠宅で家事全般をこなしながら、寝食を忘れて勉学に励んだことは、自身の筆による自伝に詳しい。

 万巻の書を読み洋学者として大成した後も、チャンスをみのがすことなく貪欲に渡米、渡欧を繰り返して学び、さらに後進を啓蒙するために『西洋事情』『学問のすすめ』などの著作や翻訳など数多くの書籍を著し、今日へと続く慶應義塾を立ち上げ、「時事通信社」を設立し、日本の独立と文明確立のために生涯にわたって在野から発言し続けた。そんな福沢の生涯をたどってみると、先に引用した、


「人の精神の発達するは限りあることなし、造化の仕掛けには定則あらざるはなし。無限の精神を以て有定の理を窮(きわ)め、遂には有形無形の別なく、天地間の事物を悉皆(しっかい)人の精神の内に包羅して洩らすものなきに至る可し」


 という言葉は、即ち彼の生涯を貫く、無限生長(向上)する彼の精神の運動そのものを物語っていることが理解できる。
 
 自己内在の無限性を信じ、無限生長の権化の如く疾走する福沢にとって、既存の宗教も儒教も、そして科学文明に彩られた西洋のキリスト教ですらも、彼の目には色あせたものとしか映らなかったであろう。
 上記の文章の最後に、彼は次のような言葉で、この章を結んでいる。

「恰(あたか)も人天並立(じんてんへいりつ)の有様なり。天下後世、必ず其日(そのひ)ある可し」と。

 福沢が後世の者に托した精神的遺産、それを私たちは「読む」ことによって継承できるのであるが、その「独立自尊」の精神は、現在におけるあらゆる形骸化への解毒剤であり、無限生長のための指針ともなるのである。 


  久都間 繁



 

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2009年2月14日 (土)

イエスについて

  新約聖書には、イエスが行ったさまざまな奇蹟が記録されている。死んで数日経ったラザロを蘇らせ、目しいの眼を開き、足萎えを立ち上がらせ、悪鬼を追い出すなど、常人には成しえないような奇蹟を行ったことが紹介されている。

 しかし、現象的に見れば、やがてイエスは十字架上に磔になって殺され、生還したラザロも、目の癒された人も、足が癒えた人も、悪鬼から救われた人も、みんな間違いなく死を迎えているのである。

 聖書に記されていることの本当の値打ちのあるところは、死人が蘇った奇蹟でも、不具や病気が癒された奇蹟でもないのである。イエスが神のみを信じて、その神の御意(みこころ)を生きたところにこそあるのだ。

 神のみを信じて生きた結果として、ラザロが蘇り、目しいの眼が開き、足萎えが立ち上がり、悪鬼が消えたのである。

 現象のイエスは、ラザロの死を見ては嘆き、磔(はりつけ)になる前には「願わくはこの苦き杯をわれより取り去り給え」と神に哀願しているのであるが、そこがありのままに記述されているところが聖書の素晴らしいところである。

 イエスは、私たちと同じ悩み苦しみを抱きながらも、最終的には一切の問題を神のみに委ねているのであるが、そこから、この物語の「聖」なる輝きが生じているのである。

 イエスの復活とは、二千年前に生じた一回限りの事件ではない。キリストは、私たちの内に、はじめから(生まれる以前から)活在しているのだ。

 内なるイエス・キリストと出会ったとき、今・ここから「聖」なる物語が始まるのである。

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2009年2月13日 (金)

赤毛のアンについて

目の前に広がるこの美しい世界。赤い花を赤い花だと認識し、青い空を青い色として体感することの不思議。水があり木々があり、宇宙があることの不思議。「私」という意識があることの不思議。そもそも、この「私」がこの世に生まれてきたということ自体、考えてみると「奇蹟」としか言いようがない。
 そうしてみると「奇蹟」というのは、何も宗教だけの専売特許ではなくて、日常生活のありとあらゆる瞬間に潜んでいるのです。後は、その小さな「奇蹟」に気が付けるかどうかということが、すべての鍵を握っています。

(茂木健一郎著『「赤毛のアン」に学ぶ幸福になる法』239頁より)


 私は「赤毛のアン」の隠れファンである。が、そんなことは家族以外には話したこともなかった。かつて、モンゴメリーの書いたアンのシリーズを夢中になって通読したことがあったが、私の中では、それは心の引き出しの奥深くにしまったままになっていた。
 しかし、7年前にわが家に迷い込んできたメスの子猫に、「アン」と命名していたり、テレビでアン関係の番組があれば予約してチェックし、関連書籍があれば思わず手にとって紐解いている。これも潜在意識のなせるワザであり、それなればこその隠れファンなのであり、要するに表立ってファンであることをあからさまにするのが恥ずかしかっただけのことである。

 茂木健一郎さんの書いた『「赤毛のアン」に学ぶ幸福になる法』も、そんな具合にたまたまアマゾンで発見して購入したものだ。

 一読して、自分がなぜアンをはじめマシュー、マリラ、リンド婦人など、彼女を巡る人々やストーリーそのものに引かれていたのか、その構造がようやく理解できたような思いがした。そして、その構造に気が付くたびに、涙があふれて来た。この物語は「真心」「誠実」「愛」といった原初的なものによって骨格が成り立っていたのである。

 同書で茂木さんは語っている〈その小さな「奇蹟」に気が付けるかどうかということが、すべての鍵を握っています〉と。

 虚心に眺めてみれば、世界そのものが、「奇蹟」そのものだったのだ、再びアンに会いたくなってきた。


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2008年9月 5日 (金)

アンナ・カレーニナ②

トルストイの『アンナ・カレーニナ』の再読を始めて約半月、ようやく遠大な物語が終わろうとしている。

 この物語に登場するさまざまな人物は、目に見えぬ因果律の律動そのままに、大作家の手によって各自が担わされた運命を「心の法則」のままに粛々と実現していくのであるが、彼らの心に浮かぶ一瞬のひらめき、惑い、そして煉獄のような不安、天にも昇るような喜び、その、どのような心の揺れも見逃されることなく、作者に見据えられ、細部に渡って描かれ、最後のレーヴィンの思索に見事に集約されて、物語に永遠の生命が授けられている。

 20代のころ、解決の目途の立たないどうしようもない不安を抱え、餓(かつ)えるように祈り、『生命の實相』を紐解き、トルストイとドストエフスキーの作品に耽溺した時期があった。
 作品に登場する主人公とともに、彼らがつぶさに経験する地獄と天国とをさまようような激しい振幅のなかを、彼らの内に密む神のような純真さだけを唯一の頼りに、一緒に頸木(くびき)を担い、何週も何カ月も歩調をともにさせてただいたことで、どれだけ魂の煩悶から救われたことだろう。
 ドストエフスキーの『罪と罰』『死の家の記録』『白痴』『悪霊』『未成年』『カラマーゾフの兄弟』、トルストイの『戦争と平和』『復活』、そして『アンナ・カレーニナ』。
 今回、『アンナ・カレーニナ』の再読を通して、いろいろなことが思い出されて来るのであるが、これらの物語に登場する主人公たちは、未だ私の傍らにいて、静かに、これまでずっと、なにごとかを語り続けていたような気がする。

 毒をもって毒を制すという言葉がある。安易な解決法など望むべくもないが、随縁の説法は至る所にあり、真の救いの慈手は、どのような業火に苦しむ魂にも、遍く差しのべられている。ロシアの偉大な作家たちの遺作は、私にとってもう一つの重要な魂の道場になっていたように思う。

 過剰な毒としか見えなかった魂に深く食い込んだ棘(トゲ)が、いつの間にか聖なる「使命」へと転じていることの不思議と、「唯神実相」(実相独在)、「三界唯心」(現象本来無し)という生長の家のみ教えの深さと荘厳とを、あらためて思うのである。 


  久都間 繁

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2008年7月11日 (金)

明日から教修会、テーマはイスラーム

 明日から本部講師(補)対象の「生長の家教修会」が、東京・調布市の本部練成道場で開催される。

 日本で開催されるのは2年ぶりのことだ。

 テキストとなった『イスラームへの誤解を超えて~世界平和と融和のために』(カリード・アブ・エル・ファドル著/日本教文社刊)を読み始めた。

 これまで、イスラーム関係の書籍を何冊か読ませていただいていたが、この書はちょっと趣が違っていた。

 一昨日に買い求め、最初は義務的に読み始めていつの間にか引き込まれ、今朝、第3章まで進んだが、この範囲では日本でイスラーム原理主義と呼ばれている、タリバーンやアルカイーダの思想的基盤となっているワッハーブ派についての記述が興味深かった。

 彼らの、正統的なイスラームの伝統とは異なる、「アラブ民族中心主義」による教義の成立とその歴史、正当なイスラームの教えとの矛盾、イスラーム世界に与えた暴力的な影響などについて、ここまでハッキリと書かれたものに、これまで出会ったことはなかった。

 また、サウジアラビア(カウード家)とワッハーブ派、そしてイギリスの三者連合についての記述から、厳格主義の基盤となったワッハーブ派がどのようにイスラームの正当な伝統を破壊し、なぜ今日まで生きながらえ、そして全世界に影響を与えるにいたったかということも、浮き彫りになっている。

 著者のファドル氏はクウェート出身。UCLAで、イスラーム法のほか移民法、人権法、国際および国際安全保障法などを教える教授であり、イスラーム世界の伝統を担う法学者であると同時に、一人の熱心な信仰者でもある。

 この書を読んでいると、著者がその一身に、過去1400年に及ぶイスラーム世界全体の歴史を担い、やむにやまれぬ思いで筆を執っている、その重責さが伝わってくる。

 同氏は、間違いなくイスラーム世界で、過去・現在・未来を繋ぐ重要な役割を担っている。

 のみならず、今日、全世界に蔓延しているイスラームについての偏見を解き、これからの時代に真の世界平和を実現するための“捨て石”であることに自らを位置づけるような覚悟をした人物であることが、過激派からのテロを承知の上で書かれた本書の言葉から伝わってくる。

 イスラーム研究は、生長の家にとってただの他山の石ではない。

 今日、神を信じて生きる私たちが、さまざまな状況に処してどのような判断をするか、そしていかなる姿勢で生きるのか。第一級の教えを受けた者として、その責任と覚悟が問われている。そんな気がする。

 奥付では、発売日は7月20日。アマゾンで検索しても、まだ出てこない。が、まもなく販売される予定だ。生長の家の幹部の皆さんには、ぜひ目を通していただきたいと思う。

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2008年7月 9日 (水)

『すべては音楽から始まる』について

 明日の7月10日から、「東京国際ブックフェア」が始まる。
 私は仕事柄、毎年参加しているが、今年は、初日の基調講演が茂木健一郎さんとのことなので、楽しみにしている。

 茂木さんといえば、最近『すべては音楽から生まれる (PHP新書)』という著書を読んだ。この本との出会いは、アマゾンの「なか見!検索」で立ち読みして、その内容に惹かれて購入したものだ。

 今、手元に同書がないので詳しい説明はできないが、この本を読んでいると「音楽」あるいは「音」におけるクオリアというものがよく理解できる。

 彼はこの書の、たしか冒頭で、シノーポリの指揮した『未完成』を聴いた時のシューベルト体験を克明に語っているが、クラッシックが好きな方は(そうではない方も)、この書をひもとけば、ご自身の内に眠っていたさまざまな“音楽体験”が、そのとき鳴り響いていた音となって、鮮やかによみがえるのではないだろうか。

 また、人生に音楽が織り込まれることで、どんなに美しい調べを奏で出すかということも、この書の通奏低音として響いている。生きることの奥にある深い核のような部分が、どれほど音楽的な体験と重なっているのかが伝わってきて、思わず釈然として、読んでいて愉しくなる本である。活字なのに、音楽好きには堪(こた)えられないところがまた面白い。

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2008年7月 8日 (火)

『フューチャリスト宣言』を読む

フューチャリスト宣言 (ちくま新書)』(梅田望夫/茂木健一郎共著)を読んだ。
 同書の「あとがき」で、梅田氏は、茂木氏のことを次のように評している。

 茂木は自ら描いた未来像を、自分が何を目指すべきで、いまどう生きるべきなのかという切実な問題に落とし、さらにそれを自らの生活として実践している。ここに茂木の真骨頂がある。フューチャリスト・茂木健一郎が人生を賭けてイメージした自らの専門領域をめぐる未来像は、彼の生活を規定するようになったのである。
 脳科学を専門としない私たちが茂木から学ぶべき本質はここにしかない。彼が語る「脳についての知見」を学ぶことより、彼の生き方からその本質を改めて読み直していただければ、新たな発見もあるのではないかと思う。(同書、「おわりに」より)

 梅田氏の、「改めて読み直していただければ、新たな発見もある」という言葉に、かつて小林秀雄が晩年の著作『本居宣長』の最後の部分で、同じような表現をしていたことを思い出した。

 そういえば梅田氏は、齋藤孝との共著『私塾のすすめ』の中で、ベストセラー『ウェブ進化論』のロールモデルになったのは小林秀雄の『近代絵画』だとも語っていたが、これも意外だった。

 さて、『フューチャリスト宣言』は、読んでいて胸の広がるような書である。

 どのページを開いてみても、梅田、茂木両氏が世の人々に対して、ことに若い世代に寄せる深い愛情と、先駆者としての勇気ある生き方とが伝わってくる。そのような意味で、『フューチャリスト宣言』は善意にあふれた書でもある。

 梅田氏の言葉に従って、もう一度読み返してみたが、一言一句を疎かにしない両氏の誠意あふれるスリリングな対話に、あらためて深い感銘を受けた。

 彼らは、人生を賭けるものをもっている。それが彼らの魅力である。

 それは、ソクラテス以来人類に受け継がれてきた、「智を愛し、善く生きる」という生き方の系譜に属しているもののようにも思われる。

 人生を賭けるとは、何らかの理想なり目的なりに殉じる、ということである。それが愛や善に対してである場合、かつてイエス・キリストが、「己が十字架を負いて我に従え」と語った、ゴルゴダへの道へと通じている。しかしそれは、死への道程ではなく、生死を超えた生、つまり“永遠の生”を生きることでもあるのだ。

 真のフューチャリストとは、未だ目に見えざるものを見、聞こえざる音を聞く、夢や理想に殉じる者たちのことなのだろう。

 現代のネット社会において、「善く生きる」とは如何なることであるのか、そのヒントが、この書から読み取ることができるのではないだろうか。

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