経済・政治・国際

2009年8月 9日 (日)

「世界平和の祈り」について

 80歳代と思われる男性の方から質問の手紙を頂きましたので、以下のような文章を書いて返信させていただきました。差し支えない範囲で紹介させていただきます。

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 合掌、ありがとうございます。

 ご質問をお寄せ下さり、ありがとうございました。

 テレビのニュースや新聞報道などの世相に現れた、経済問題、犯罪の横行、政治問題、国家問題など、さまざまなことに大きな危惧の念を抱かれていることが、頂いた文面から伝わってきました。このようなことに心を留めて日々の生活を送っていたのでは、さぞや気苦労が絶えなかったことでしょう。

 これらの諸問題について、「生長の家ではどう思っておられるのでしょうか?」とのご質問ですが、まず基本に立ち返って、これらの問題について考えてみたいと思います。

 お手紙でもご紹介いただいたように、古くからの信徒であるというあなた様は、生長の家では「現象は心の影である」と教えられていることは、よくご存じのことと思います。これを「心の法則」とも、「三界唯心所現」とも呼んでいることもご承知のことでしょう。

 私たちがニュース報道などの影響から、人生や世相の暗黒面ばかり見ていますと、心の傾向として人生の暗黒面ばかりに注目するようになり、いよいよ不安が充満し、心労を重ねることになります。

 またその心の傾向が、次なる暗黒な現象を作り出す「種」(因)となって、人生にますます暗黒で不完全な現象が現れてまいります。これが「心の法則」です。

 また、これとは逆に、生長の家の原点である「日時計主義」に立ち返り、人生の光明面のみを見て、うれしいこと、楽しいこと、美しいことを心に留め、日々喜んで生活するようになると、人生に次から次へと光明なる世界、つまり健康、繁栄、調和などに満ちた喜ばしい出来事が実現してまいります。これもまた「心の法則」なのです。

 私たちの個人生活を救うためには、このように先ず人生の光明面のみを見て生きる「日時計主義」の生き方に徹した結果として、人生が光明化することはお分かりいただけるのではないかと思います。

 では、ご心配になっているように国家的な、国際的な諸問題については、私たちはどう対処すればいいのでしょうか。

 これについて生長の家の創始者谷口雅春先生は、2年ほど前に日本教文社から再版された新版『善と福との実現』の中で、次のように説かれていますので紹介させていただきます。

吾等が集団祈祷会を催さないと云うことは信心ある人の生活ではないと思う。同志よ、吾等生長の家の家族たちよ、同時一斉に神に対して祈ろうではないか。(中略)
私は日本の全ての問題も此の集団祈祷によって解決すると信ずるものである。ただ戦時中の神社の祈祷のように神官が単に大声でノリトを唱え、参列者は頭を下げて他の事を考えているようなやり方では駄目であるし、他国の犠牲に於いて自国のみが勝とうと云うような利己的な祈りでは駄目である。黙然に心を集中すること。神の前に全然無条件に自己を投げ出して自己が全然なくなり、神の智慧と愛とが自動的に働くそれに委せ切らなくてはならぬのである。(同書、318~319ページ)

 ここで谷口先生は、「私は日本の全ての問題も此の集団祈祷によって解決すると信ずるものである」とお説きくださっていますが、このお言葉を受けて、現在も信徒である私たちが毎朝実修しているのが神想観であり、その中で念ずる「世界平和の祈り」なのです。

 私たちが信仰者として世界の平和、日本の実相顕現を希うならば、まず早朝に神想観を実修し(全国の練成道場では5時10分から実修しています)、実相の完全円満なる大調和の世界を観じるとともに、「世界平和の祈り」を実修して祈念することが、「心の法則」の側面からみても、信仰者たるものの大切な務めになることと思います。

 もちろん、神想観に続いて聖経『甘露の法雨』を読誦していただき、その功徳によって多くの人々の実相が成就することも、合わせて祈念していただければと思います。

 また今日の日本に、まがりなりにも平和が実現し、飢餓や紛争といった非常事態に巻き込まれることなく生活できているのも、天皇陛下をはじめ、神界・霊界・現界からの多くの人々の深い祈りがあればこそ、このような平安を維持できているということも、宗教的な方面から観たひとつの真理なのです。

 ですから、これまでのご精進に加え、神想観および「世界平和の祈り」を、全国の皆さまと共に実修していただければ幸甚です。


久都間 繁

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2009年6月24日 (水)

『文明論の概略』を読む

 2週間ほどかけて、福沢諭吉が100年ほど前に著した『文明論の概略』を読んだ。
 
 福沢は、天保5年(1835年)に生まれ、 明治34年(1901年)に66歳の生涯を終えているが、彼の前半生は旧幕藩体制の時代、そして後半生は明治の文明開化の時代という、二つの異なる時代を一身で生きるという希有な体験をしている。

 これについて、最晩年にざっくばらんに生涯の顛末を述べているのが『福翁自伝』だが、『文明論の概略』では、激変した二つの時代を貫く、政治的、思想的立場を越えた福沢の「独立自尊」の一貫した精神が、顕わな形で吐露されている。

 福沢の著したものを読んでいるときに、いつも興味深く感じるのは、彼の精神の根拠となっているものの所在である。

 幕藩体制にも、明治新政府にも、学閥にも財閥にも、科学的技術をもたらした西洋文明にさえもおもねることなく、全ての事象を柔軟に受け入れた上で自身が「正しい」と判断したところのものを身命をなげうってでも、果敢に断行する。そのような英断の連続のような生涯をまっとう出来たところの精神の在処(ありか)、そこに強く引かれ、福沢の福沢たるものを感じるのである。

 彼の思想は、仏教、神道、儒教、キリスト教をといった当時の形骸化した既成の宗教や道徳を「虚誕妄説」と一蹴し、いわゆるオカルティズム(occultism)とも明確に一線を画しているところがまた面白い。

 しかし彼の著作を紐解いて分かることは、彼ほど「徳義」や「良心」の蘊奥について、自身のコトバで生き生きと説き証した学者も、これまた希(まれ)だということである。


「肉体の便利既に饒(ゆたか)にして、一身の私徳既に恥ずることなしと云ふも、尚この有様に止まりて安んずるの理なし。其饒(そのゆたか)と云ひ、恥ずるなしと云ふは、僅(わずか)に今日の文明に於て足れるのみ、未だ其極(そのきわみ)に至らざること明らかなり。人の精神の発達するは限りあることなし、造化の仕掛けには定則あらざるはなし。無限の精神を以て有定の理を窮(きわ)め、遂には有形無形の別なく、天地間の事物を悉皆(しっかい)人の精神の内に包羅して洩らすものなきに至る可し」
(『福沢諭吉選集』第4巻136~137ページ)〈原文は歴史的仮名遣い〉


 下級藩士の家に生まれ、しかも幼くして父親を亡くした福沢は、糊口をしのぐために子供のころから、さまざまな職人から手仕事を学んでは家計を助け、さらに学問の道を志して後は、出会う師匠宅で家事全般をこなしながら、寝食を忘れて勉学に励んだことは、自身の筆による自伝に詳しい。

 万巻の書を読み洋学者として大成した後も、チャンスをみのがすことなく貪欲に渡米、渡欧を繰り返して学び、さらに後進を啓蒙するために『西洋事情』『学問のすすめ』などの著作や翻訳など数多くの書籍を著し、今日へと続く慶應義塾を立ち上げ、「時事通信社」を設立し、日本の独立と文明確立のために生涯にわたって在野から発言し続けた。そんな福沢の生涯をたどってみると、先に引用した、


「人の精神の発達するは限りあることなし、造化の仕掛けには定則あらざるはなし。無限の精神を以て有定の理を窮(きわ)め、遂には有形無形の別なく、天地間の事物を悉皆(しっかい)人の精神の内に包羅して洩らすものなきに至る可し」


 という言葉は、即ち彼の生涯を貫く、無限生長(向上)する彼の精神の運動そのものを物語っていることが理解できる。
 
 自己内在の無限性を信じ、無限生長の権化の如く疾走する福沢にとって、既存の宗教も儒教も、そして科学文明に彩られた西洋のキリスト教ですらも、彼の目には色あせたものとしか映らなかったであろう。
 上記の文章の最後に、彼は次のような言葉で、この章を結んでいる。

「恰(あたか)も人天並立(じんてんへいりつ)の有様なり。天下後世、必ず其日(そのひ)ある可し」と。

 福沢が後世の者に托した精神的遺産、それを私たちは「読む」ことによって継承できるのであるが、その「独立自尊」の精神は、現在におけるあらゆる形骸化への解毒剤であり、無限生長のための指針ともなるのである。 


  久都間 繁



 

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2008年7月 7日 (月)

もう一つのリアルな世界②

 1995年頃、モザイクやネットスケープなどのブラウザの普及とともに、インターネットの世界が私たちの手の届くところへ降りてきた。

 同じ年、当時私が勤務していた生長の家宇治別格本山でも、何人かの同志たちとサイトの立ち上げを目論んだが、「前例がない。本部もやっていないのに時期尚早」と一蹴されてしまった(^^;

 それではと、関西の、ちょっととんがった生長の家のお仲間たちと、「アトリエ・ハッピー」という双方向で情報交換できるサイトを、自主的に立ち上げることにした。95年のことだ(※アトリエ・ハッピーは、現在は歴史的な役目を終えて閉幕しています)

 その主な目的は、到来するインターネットの時代に備えて、「ネット上での伝道方法の研究」「生長の家の世界の十字路になる」「生長の家の皆さんにインターネットの素晴らしさに目覚めていただく」というもので、意気込みと勢いだけで始めた実験だった。

 当時はまだサイト数が少なかったため、検索サイトで「生長の家」と入力すれば、私たちのサイトが必ず登場する時代だった。数カ月ほどすると、日本のみならず、一足先にネット環境が整った北米、カナダ、アラスカなど各地の生長の家の信奉者から、毎日のように掲示板にメッセージが書き込まれるようになった。やがて、インターネットの可能性に目覚めた各教区の人たちも加わり始めた。

 当時主流だったパソコン通信の閉じたコミュニティとは違った、世界に開かれたオープンな場所での画像や音声などを交えたダイナミックな情報の遣り取りは、刺激的で、大きな魅力に富んでいた。

 そのころ、不定期に運営スタッフが集まり、毎回5時間ほどのブレーン・ストーミング(とその後の飲み会(^^;)などを実施して、21世紀における人類光明化運動・国際平和信仰運動について議論を重ね、さまざまな夢を描いていた。

 つい、この間のことだと思っていたが、ふと気がつけば、あれから十数年も経っている。そういえば私も、東京に来てもう8年目の夏だ。

 今年の統計では、携帯電話の加入者数がついに1億人の大台を突破し、ブロードバンド契約世帯が2千5百を超えた。さらに現在はブログやユーチューブなどが隆盛を極めているが、これからもさらに便利ですごい仕組みが登場することだろう。

 インターネットの世界は、われわれ人類の描くあらゆる夢を具現しながら、未来の人類に向けて、果てしなく広大な遺産を築きあげているようにも見える。

 その遺産が、良貨となるか悪貨となるかは、私たちがネットという舞台で、何を演じるかにかかっているのではないだろうか。

 台本を書き、演出し、出演するのは、「今」を生きる私たち一人一人だからである。

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2008年7月 6日 (日)

もう一つのリアルな世界①

 今朝、昼食の弁当を持っていなかったので、通勤途中に新宿駅のドトールでサンドイッチを買い求めたところ、財布にお金が入っていないことに気がついた。ちょっとあわてたが、とっさにレジで「スイカ」のカードを取り出して支払った。

 考えてみれば、私たちはリアルのお金と、デジタルのお金の両方を使う世界に、いつの間にか住んでいたのである。

 そういえば、ネット上のアマゾンのサイトで本を買うようになったのは、いつからだろう。

 まだ7~8年といったところだろうが、その間、私が京都にいたころに本を買っていた「駸々堂書店」や「丸善」などの老舗をはじめ多くの書店が、街から姿を消していった。

 最近は耳にすることはないが、インターネットが出現したころ、パソコン雑誌などでネット上の世界のことを、リアル(現実)空間と対比して、バーチャル(仮想)空間などと呼んでいた時期がある。

 しかし、今では本の購入のみならず、物品や食料の調達のほか、勉強や仕事のための資料や情報の収集など、私たちの生活の重要な領域をネット上での遣り取りが占め、リアルとネットとの境目がなくなりつつある。それだけ急速に、音もなくネット空間が成長しているということだ。

 この15年ほどの間に、リアル世界とは別の、もう一つのリアルな世界(文化圏・経済圏)がネット上に構築され、さらにそれは加速度的に成長し、いつの間にか私たちは、そこに片足を半分突っ込んで生きている。

 たとえば、この「ブログ」という仕組みも、ネット上に出現したのは4~5年前である。が、企業情報センターの調査結果(国内)によると、昨年の時点で、集計対象としたブログサービス全体の昨年1年間の推定訪問者数は3527万人となり、2006年の2752万人に対して128%の伸張率を示したという。

 たった数年で、個人を主体とした双方向的な世界が、これほど成長したのである。さらにこれにミクシィなどのSNSなどを合わせれば、その数は倍増することだろう。

 2008年の時点で、インターネットがこの世に出現して、わずか15年。これが10年後の2018年には、どんな世界へと成長を遂げているのだろう。また、30年後には、70年後には、200年後は――

 それが事業であれ、運動であれ、私たちがこの世の中に対して何らかの働きかけをする場合、今までのようにリアルな世界にだけ軸足を置いて事業を展開していたのでは、街から姿を消した数々の老舗書店と、ほぼ同じ道をたどることは避けられないだろう。

(つづく)

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2008年5月13日 (火)

万教帰一の哲学と世界平和

 3月の中旬、ドイツのノイシュタットという場所で開催された、「生長の家ヨーロッパ幹部研修会」に出講してきました。

 会場には、開催国のドイツをはじめ、フランス、イギリス、オーストリア、スイスなどから、欧州の幹部の皆さんが参集してくださいました。

 そこでお話させていただいた講話のなかで、ブログで紹介できるような内容のものを選んで公開させていただきます。

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 私は生長の家の本部講師、久都間 繁(くつま・しげる)と申します。
 これから3日間、皆さんと一緒に生長の家の教えを研鑽させていただきます。

 私は20代のころ、日本の京都にある「生長の家宇治別格本山」という生長の家の練成道場で修行していました。

 そこで私は、何人もの素晴らしい本部講師と出会い、生長の家の教えについて研鑽させていただきました。

 当時70歳代で、今は故人となった本部講師で、私が尊敬していた方に小嶋博という講師がいましたが、彼は、生長の家の講話について次のようなことを語っていました。

「生長の家の講話は、講演とは違う。それは講師と聴衆との、命(いのち)と命の遣り取りだ!」と。

 ですから私は皆さんに、この研修会でのお話を通して、ただ単に「知識」だけを伝えるために来たのではありません。

 祈りを通して、信仰を通して、生長の家が伝えようとしている神と、その世界観について、皆さんと一緒に学びながら、お話ししたいと考えていますので、どうぞよろしくお願いいたします。

 先ず、私が生長の家に触れたきっかけについてお話させていただきます。

 私は日本の静岡県というところで生まれました。そこは日本列島のちょうど真ん中あたりに位置する県で、そこには有名な富士山もあります。

 私は生長の家の教えに出合う前は身体がとても弱く、小学校低学年のころから14歳ごろまで、病院への入退院を繰り返すような日々を送っていました。ですから、一つの学期を休まずに通学したことがありませんでした。

 自分の思うようにならない病気の身体をかかえ、医者や薬に頼らなければ生きていけないような弱い体に生まれついたことを、私も両親も嘆いていました。

 そんな生活が何年も続き、しかも入院するたびに、学校の授業の方はどんどん先に進んでいきましたので、私はまるで、自分一人だけこの世から取り残されたような気持ちになっていきました。

 やがて自分のような不完全な者など、この世に必要ないのだから、「死んでしまいたい」と思うようになりました。

 そうなってみると、「死んだら、どこに行くのか」ということがとても気になりました。

 そのころ中学生になっていた私は、死後の世界について興味を抱くようになり、この分野を科学的に解説した書籍などを何冊も読んだりして研究するようになりました。

 私が中学2年生になったばかりの春休みのこと、14歳ぐらいのときですが、私の父の知り合いで、当時、獣医師をしていた沢口わたるという20代後半の人物を紹介されました。

 父の話では、彼は大学生のころから『生命の實相』という生長の家の本を熱心に読んでいて、神秘的な世界に精通しているらしいとのことでした。

 さっそく私は、自転車で1時間ほどかけて、その方が働いている山の中の牧場に出かけて行きました。

 テーブルをはさんで対面すると、沢口さんは私に、「シゲル君は神様や仏様は、どこにいると思いますか」と問いかけてきました。

 私は、「神様は教会や神社に、仏様はお寺にいるのではないでしょうか」と答えると、彼は、「シゲル君、神様や仏様はね、教会やお寺にだけいるのではないんですよ。」と答えるのです。

 さらに彼は、「神様はね、宇宙に満ちているのです。そしてシゲル君、本当は君も神様なんだよ!」と語っていました。

 私が訪問した目的は、超能力のことや、死後に行くと伝えられる霊界のことについて話をうかがうことでした。

 気がつけば、ここで主題となっているテーマは、より本質的な、哲学でいうところの「存在」や「実在」という領域に踏み込んでいたのです。

 中学生にとっては、とても高度な内容の話にもかかわらず、彼の語る「本当は君も神様なんだよ!」という言葉に、私の魂はぐいぐい引きつけられていきました。

 そして、これまでの私の世界観がガラリっと変わっていくような不思議な感じと、“やっぱりそうなのかもしれない!”といった期待と開放感とが入り交じったような悦びが湧いてくるのでした。

 私は、思いつく限りの、ありとあらゆる疑問を、彼に投げかけてみました。彼からは実に愛情に充ちた、理路整然とした、しかも霊的な刺激に満ちた言葉が返ってくるのでした。

 帰るとき、『白鳩』という、当時は生長の家を創始された谷口雅春先生が中心になって執筆されていた「生長の家」の月刊誌をいただきました。

 ワクワクしながら自転車のペダルを踏んで家に帰り、頂いた『白鳩』誌を一冊持って自宅の裏山に登りました。

 小さな尾根の切り株に座り、谷口雅春先生のご文章を読み進んでいると、私の目に、次の和歌が飛び込んできました。

「ただよへる雲の彼方にまん丸に 澄み切る月ぞ吾が姿なり」

 この和歌の解説として、谷口先生は、おおよそ次のような意味の言葉を書かれていました。

 空がどんなに曇っていたとしても、また雲の下が土砂降りであったとしても、その背後には、いつでもまん丸い月が煌々と照っている。

 それと同じように、現象の貴方がどんなに病気をしていても、経済的に貧乏で生活が苦しかったとしても、また、どんな罪を犯してしまったとしても、そのような不完全な姿は、過ぎ去っていく雲のような仮の姿であって、本当の貴方自身ではありません。

 本当のあなたは、一度も曇ったことも欠けたこともない、完全円満な美しい満月のような存在です。

 未だかつて一度も病気したことも、罪を犯したことも、汚れたこともないもの、それが、神の創られたままの、あなたの本当の姿であり、それがあなたの實相だ!

 この言葉が示している世界を観じたとき、脊髄に百万ボルトの稲妻が落ちたような感動が走り、同時に今まで私のうちで眠っていた本質的な何者かが目を覚ましたようでした。

 ふと眼を上げると、木々の葉が、午後の柔らかな太陽の光を浴びて、何とも言いようのない霊々妙々とした瑞々しい美しい光りを湛えて輝いているのが、私の眼に飛び込んできました。

 まるで、生まれて初めてこの世界に触れたような気がしました。

 感動につつまれながら自宅に帰り、『白鳩』誌に再び目を通しながら裏表紙を見ると、そこには、当時、白鳩会副総裁をされていた谷口恵美子先生がお書きになった新刊で、『光の中をあゆむ』というタイトルのご本が紹介されていました。

 そのタイトルのコトバが目に入ると、私自身が先ほど味わったばかりの光に包まれた荘厳な世界がふたたび蘇り、ご本の著者が、神の祝福に満ちた光の中をあゆんでいる光景が彷彿として脳裏に浮かんでくるのでした。

 すべての人々が、今そのまま「光の中をあゆんでいる」という、神が創られたままの世界を素直に「観じ」て、天地のすべてのものを拝んでいる谷口恵美子先生の“想い”が、その本のタイトルからメッセージとして伝わってくるのを観じました。

 それは、これから神様の造られたままの「光明に満ちた世界」に入るのではなく、神様の世界は今ここに、はじめのはじめから、完全円満なる神は、そのまま「実在しているのだ」という、大いなる発見と喜びに満ちたものでした。

 これが私と、生長の家との出会いでした。

☆世界の宗教に現れた神と「万教帰一」の哲学

 さて、本日の講話のタイトルである「万教帰一」の哲学についてお話させていただきましょう。

 皆さん、世界にはキリスト教、イスラム教、ヒンドゥー教などさまざまな宗教がありますね。

 また、それぞれの宗教には、その宗教で崇拝するところの目に見えない崇高な存在があり、それは、旧約聖書ではヤハウェという名で表現され、イスラム教ではアッラーと呼んでいます。またインドのヒンドゥ教ではシバやブラフマンとも呼んでいます。

 中国の道教ではタオ(道)などと呼び、日本で広く信仰されている仏教では、仏とも呼び、真如と呼んでいます。

 このように、世界にはさまざまな宗教と、さまざまな神が存在していることがお分かりになると思いますが、ではなぜ、こんなにもたくさんの神がこの世界には現れているのでしょう。
 
 それはちょうど、世界には160以上の国々があり、それ以上の民族、人種が存在していることと、よく似ているのです。

 肌の色ひとつとっても、白い肌の人、黒い肌の人、黄色い肌の人いろいろいますし、髪の毛の色もさまざまですね。

 さらに言語も、この会場だけみても私のように日本語を母国語とする人、ドイツ語の人、ポルトガル語の人、英語圏で生まれ育った人など、地球上には本当に多様な文化的背景を持つ人々が存在しています。同じ、Homo sapiensでありながら、実に多様性に満ちていますね。

 さて、そのその地球上の国々の空を、毎日「太陽」がめぐって照らしています。太陽は一つですが、その同じ「太陽」のことを、160の国々があれば、それぞれの言語や伝統の中で、「太陽」を指し示す〝呼び名〟が、きっとたくさんあることでしょう。

 日本語では「太陽」と呼びますが、英語では「sun」ですね。ドイツ語やポルトガル語では何と呼ぶのでしょうか?

 このように、たとえば1000の言語や伝統があれば、太陽の名前も1000通りの呼び名が出現していることでしょう。

 これと同じように、たとえば神様が一つだったとしても、1000の民族や言語がそれを把握すれば、神様の名前も1000通りの呼び名が現れる。そういうことになりませんか。

 この神様のことを、別のたとえをもって表現してみましょう。皆さんは、自分の母親のことを「お母さん」と呼んでいることと思いますが、その同じ女性が、お父さんから見れば「妻」であり、祖父母からみれば「娘」であり、母のきょうだいから見れば「姉」や「妹」ですね。

 また、友人から見れば誰々さんである、といったように、同じ1人の女性が、見る人の立場が異なるにしたがって、呼び方が変わるのです。

 つまり一つの神、それは「究極的実在」とでも呼ぶべきものが、様々な時代に、さまざまな教祖を通して現れれば、別々の宗教の姿で現れるのです。

 ですからキリスト教やイスラーム、仏教など、世界に出現した偉大な宗教は、「唯一絶対の神」という究極的実在が、それぞれの地域の言葉の違いによって別々の名前で呼ばれ、異なる伝統文化のなかで、それぞれの文化の文脈に織り込まれて信仰されているのです。

 ですから、キリスト教も、イスラム教も、ヒンドゥー教も、それぞれ別の宗教のように見えていますが、実は一つの「究極的実在」が、様々な時代に、様々な民族に現れている姿なのです。

 キリスト教もその本質は「唯一絶対の神」の現れであり、イスラームもその本質は「唯一絶対の神」の現れであり、ヒンドゥー教の本質も「唯一絶対の神」の現れなのです。

 ただし、それぞれの時代に出現し、それぞれの伝統の文脈に織り込まれているうちに、その本質から離れ、迷いの要素が混入した教えもたくさんあります。

 迷いの度合いが深まった結果が、今日の宗教的な対立や紛争となって現れているのです。

 全人類が、迷いを去って「唯一絶対の神」に目覚め、それぞれの伝統的な宗教を通して「唯一絶対の神」を信仰するようになれば、対立や紛争はなくなり、世界に平和が実現するのです。

 このように全ての宗教の本質を明らかにして、その本質を礼拝するのが、生長の家の「万教帰一」の教えです。

 そして、「唯一絶対の神」を、現代において歪みなく正確にお伝えする運動が、生長の家の国際平和信仰運動なのです。

 では、この「唯一絶対の神」とはどのような存在なのかということが気になりますね。この「唯一絶対の神」とは、世界の偉大な宗教を生み出した本源のことです。いわゆる人格神ではありません。

 日本の生長の家では、拠点や道場などに「実相」と書いた額などを掲げ、神想観を実修する際に礼拝していますが、この「実相」とは、「実相世界」の象徴です。

「唯一絶対の神」とは、「実相世界」と言い換えることができます。

 この「実相世界」について、生長の家の聖典である『生命の實相』第21巻(教典篇 27ページ~28ページ)には、次のように書かれています。

「この実相の無限荘厳世界は大調和の極の極の世界であって、神の無限の智慧、無限の愛、無限の生命によって出来上がった秩序整然たる世界が厳存するのであります。この実相を知ることが肝腎なのであります。(中略)

この世界を神霊の実現せる「光の世界」だと知りますと、光明無量の美しき世界が現実にあらわれてくるのであります。」

 生長の家では、実相は完全円満であり、無限の智慧であり、無限の愛であり、無限の生命であると説きます。

 この実相のことを、仏教では「尽十方無碍光如来」とも呼んでいますが、その意味するところは、究極的実在は宇宙に充ち満ちている光である、ということです。

 この光とは、実在する智慧・愛・生命の象徴です。そして、実在宇宙には善きもののみが充満しており、不完全な現象は一切無い。そして私たち人間の本当のすがたも、実在の光そのものである、というのが生長の家で説いている「人間・神の子」の教えです。

 ですから、道場や誌友会場などで「実相」という額の前で神想観を実修しますが、それは自分の外にあるものを拝んでいるのではありません。

「実相」は、私たち一人一人の内にあるのです。私たちの内にあり同時に宇宙に充ち満ちている。その「実相世界」と一体であるとの自覚を深める行事、それが神想観なのです。

 私たちは、この「実相世界」を観じて、神の智慧・愛・生命と一体となることによって、この地上にも「実相世界」の大調和した状態を実現することができるのです。

 イエス・キリストも語っていますね。

「御意(みこころ)の天に成るが如く 地にも成らせ給え」(マタイ伝)と。

 神様の御心は、すでに天に(つまり実相世界)に成就しているのです。

 だから私たちは、その既に成就している世界を深々と観じ、喜ぶことで、地(つまり現象界)にも、神の国の完全円満な状態を実現することができるのです。

 これが生長の家の信仰生活の基本です。

 日本の大乗仏教の宗祖の一人である親鸞上人は、次のような言葉を残しています。

 信心よろこぶその人を 如来と等しと説き給う
         大信心は仏性なり 仏性すなわち如来なり
 
 この歌の意味するところは、神様を観じて喜ぶその人は、実は神様そのものなのです。喜びのなかにすでに神様の世界が実現しているのです。その信仰の喜びが神であり、実在の光なのです。といった意味になるかと思います。

 皆さんは、最初から神の子なのです。それは実相世界に、すでに久遠の昔から、光と喜びに満ちて成就しているのです。その実相を観じて喜ぶことが、生長の家の信仰生活であり、地上に天国を実現する道なのです。

 ご静聴ありがとうございました。

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