2021年3月 1日 (月)

“文明転換”のとき (2021,3)

「建国記念の日祝賀式」では、高崎の群馬県教化部から「式辞」を埼玉と群馬の皆さんに配信させていただいた。

 その帰路、家内と上毛三山のひとつ榛名山(はるなさん)の中腹にある榛名神社に初めてお詣りした。

 参道には奇岩列石が連なり、ゴウゴウと風の鳴る巨木の谷間を歩いていると、自然の中に神を観た古代の人たちの心が、時を超えて語りかけてくるような想いがした。

 そこには、数億年という自然界の途轍(とてつ)もない歳月が、あらわな巨岩のすがたでさらけ出されていた。日常とかけ離れた峨々(がが)たる景観は、この神域が、人類が軽はずみに仕出かすであろう“開発”という名の破壊から、結界によって護られてきたことを伝えていた。

 参拝後、榛名湖まで足を伸ばすと湖面の全域が凍結し、吹く風は地吹雪のように粉雪を舞い上げていた。湖上に榛名富士が聳(そび)える光景を見たとき、五十数年前に初めて父に連れられて来たときの記憶が蘇ってきた。

 当時小学生だった私は、伊香保温泉が榛名湖畔にあって宿泊したと思いこんでいたが、家内と甘酒を飲みに立ち寄った湖畔の茶店のおかみさんに聴くと、「伊香保はここから二〇分ほど離れた場所だ」と教えてくれた。

 十代に満たぬ子どもの脳裏は、山と湖の神秘な景観に圧倒され、意識が驚きに覆い尽くされていたのだろう。

 子どもの柔軟な心は、自然界と容易に溶け合い、響き合うようだ。そんな彼らの意識の深層は、生涯にわたって蓄えられる経験や記憶の豊かな土壌となり、五官六感に触れるあらゆる情報を吸収して精神の基礎を形成する。

 近年は親の意向で習い事や学習塾などを掛け持ちして能力開発に余念がないが、長い目でみれば“自然界”に触れることで、子どもたちの心がどれほど豊かに育まれることだろう。大人になってからの自在で柔軟な発想や意表を突くアイディアも、自然の多様性に学ぶことから生まれるのだ。

 自然と出合った幼い魂は、眼前に広がる魅力的な光景に誘われて、未知なるものや神秘なるものへの探求をスタートするだろう。

 現在は五十五万人もの若者が鬱(うつ)で病んでいるというが、将来ある若い世代が心の病に陥るのは、自然と交わる機会が少なすぎたことも原因の一つであろう。

 朝の陽光や小鳥の囀りに心を傾け、夕焼けの荘厳や微妙な色彩の移ろいを愛で、草木の生長や雨の恵みに季節の変化を感じ、生かされている歓びを豊かに味わう生活を、どこかに置き忘れてきたのが効率を優先した現代文明の歪(いびつ)な姿である。

 多くの人々が目の前の利害損得に振り回されて、人間社会を巧みに生きぬくことのみに躍起になってきたのだ。

 そんなことより、何倍も大切なことがある。その一つは、文明の谷間に忘れられていた自然と深く繋がる生き方を蘇らせることである。

 それは、自然を豊かに味わい、自然と共に生きるための智慧や技術や伝統に光を当て、さらに科学的な新しい知見から新価値を加えて“文明の転換”を図ることである。

 無垢な魂たちの行く先は、文明の袋小路などであってはならない。海や森や大自然の中に帰ることから、人も、文明も、すべてのものが新生するのだ。

  (二〇二一・三)

 

 

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2015年4月15日 (水)

流産して悩んでいる方へ(2)

「流産して悩んでいる方へ」という読者の方との遣り取りを、2013年の秋に当ブログにアップしましたが、過日、これを読まれた方からお礼のコメントをいただきました。

 

近年のインターネットは、FacebookにしてもTwitterにしても、情報がどんどん流れ去って消えてしまうことに大きな違和感を感じていたところに、流れ去らない言葉もあることが分かり、少し安堵した次第です。

さて、コメントをお寄せいただいた方は、これまで5人の子供を授かったものの、この世で会うことが叶わなかったという辛い思いを抱えていました。

彼女との対話が、同様の問題で悩んでいらっしゃる方の参考になるかもしれませんので、この遣り取りをアップさせていただくことにしました。

以下は、数度にわたって頂いたコメントと、私からの返信となります。

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今までに5人子供を授かりましたが、この世では会えませんでした。

どうこの現実と向き合っていけばよいのか悩んでいるときにこちらのHPにたどり着きました。

今もつながっているのかと思うと、心が温かくなりました。ずっとさみしかったのに。。

心温まるお言葉、本当にありがとうございました。


投稿: サブリナ | 2015年4月10日 (金) 22時11分
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コメントをありがとうございました。

たくさんの子供たちと〝神縁〟をいただきましたね。

現象的には分かれているように見えますが、〝いのちの世界〟では、いまだ一度も離れたことなどないのです。

彼らはあなたとともに生き通しています。神さまにおいて〝ひとつ〟のいのちであり、あなたと久遠に愛し合っていることを観じ、祝福し、大いに(無限大に)喜んであげてください。

それこそが「祈り」(命宣り)であり、実相のみを観ずる生長の家の神想観です。

 

投稿: 久都間 繁 | 2015年4月11日 (土) 17時28分
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心に染み入るお返事、本当にどうもありがとうございました。

人数分の激しい辛さが、その分の喜びになれた気がします。。

現在は高齢ということもあり、もうこの世で会えるのは難しいという認識もあるのですが、これはこれでまた受け入れることがとても辛いのです。

これが私の最後の試練かもしれません。
この世でもう会えないとすれば、今世私に何か原因があると受け止めるべきなのでしょうか。

医学的に問題がないとすれば、スピリチアル的にどのような背景があるのかが受け止められられれば、乗り越えられるかも知れない、と思い恐縮ですが、再度コメントをさせて頂きました。

知識の乏しいわたくしが、とても暖かく慰めて頂いたにも関わらず、このような答えの難しいお問い合わせを突然させて頂いてしまうことを、大変申し訳なく感じております。

が、これも何かのご縁と思い思い切って書かせて頂きました。もし差支えなければご感想をお聞かせください。

どうぞ宜しくお願い申し上げます。

 

投稿: サブリナ | 2015年4月13日 (月) 19時59分
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合掌、ありがとうございます。

辛い積年の思いを、打ち明けてくださり、ありがとうございました。

子供たちとこの世で、目に見え、言葉を交わすような形で会えないことは、お辛いことと思います。

しかし、この世で「もう会えない」ということでは、ないのです。

なぜかと言えば、自分が産んだ子だけが、あなたの子供ではないからです。

神縁というのは、血筋によるものだけではありません。

自分の子供や孫であるか否かということとは無関係に、神縁によって出合った方とは、生と死を越えてより深い絆が結ばれるものです。

たとえば、恩師や師匠と呼ばれる人たちとの出会いは、肉親との縁とは別に、師が亡くなった後もより深く結ばれていることを感じるものです。

私の娘は今年大学4年になり、親元から離れて東京で生活していますが、彼女の絵の師匠(イラストレーター)は今年、喜寿を迎える独身女性の方ですが、自分の子や孫でもないのに、肉親のようにして無償で絵の指導をして、おまけに人生の指南までしてくれています。

また、私自身も亡き恩師との繋がりは、昇天後に十年の歳月が過ぎても、肉親とは異なる次元で、より深い結びつきを感じながら今も生きています。

むしろ、継承したものが私を通して生きている、といった印象で、このようなご質問にお答えさせていただくのもその一環なのです。

あなたのご質問にある、「スピリチアル的にどのような背景があるのか」ということについては、あなたが今どのような仕事をされ、どのようなことに取り組んでいらっしゃるかは存じ上げませんが、現世でお子様に恵まれなかったことは、これはあなたが今生で取り組んでいらっしゃる〝ご使命〟とも関係していることのように思われますが、いかがでしょうか。

つまり、あなたが持っているもの、情熱をこめて取り組んできたこと、生きがいにしてきたことが、もしかしたら、後世を担う若い人々に〝無償で〟伝えるご使命があるのかもしれない、ということです。

あなたが無償で与えたことは、彼らの血となり肉となって、それがまた後世へと続いていくのですが、このような深い繋がりは、誰にでも恵まれているようなものではありません。

それなればこその〝神縁〟であり、これに応えるためには〝無償の愛〟をもってしか応えることができないのです。

その理由はよく分かりませんが、神がそれ(愛そのもの)であることに由来しているのだと思います。

十分な情報がないままでのアドバイスとなりますので、行き届いた答えになっていないかもしれませんが、追加の質問があればお知らせください。

 

投稿: 久都間 繁 | 2015年4月14日 (火) 13時22分
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とても考えさせられるお返事、本当にありがとうございました。

5人の子供とは、私が人生を全うした時に会えるのではないか、、とその時を心から楽しみにしていますし、今回言って下さった「命の世界ではまだ一度も離れたことがない」という言葉には、とてもとても励まされました。
感動して泣きました。

今世で私ができる「無償の愛・・・」

今すぐ何かは正直分からないのですが、あの世の子供達に、あまりにも集中し過ぎていたここ数年の愛情(もしかしたら執着なのでしょうか?)を、これからは少しづつ、縁あって出会った方に向けていってみようかな、と思いました。

最も身近な両親や主人にさえも、切なさで精一杯で心に本当に余裕がなく、気遣う気持ちをここ数年忘れてしまっていた気が今してきました。。

この状態ではお母さんに選ばれなくても仕方なかったかもしれません。

神縁で子供達と、生と死を超えて深く繋がっていると分かっただけで、今回心にゆとりが生まれ、ここまで客観的に色々な事にお蔭様で気付く事ができました。

まずは子供の父親であり、神縁によって出会い、沢山辛い思いと我慢をさせてしまった主人に愛を再度向けないといけないです。

そして、6人目の子供とひょっとしてこの世で会えるかは、神縁に委ねる事に致します。

「血筋だけが神縁ではない」というお言葉に、しばらくは不思議な気持ちと、目から鱗のような気持ちと、壮大なスケールの中で人生をすごしていたのか、、、など本当に考えさせられました。

ずっと止まっていた私の時計の針が、漸く動き出した気がします。

また人生の困難にぶつかった時、改めてご連絡させて頂くかもしれません。

私と同じ思いで、とても辛い経験をされた方が、このやりとりを読まれて私と同じように心が軽くなると良いな、と感じています。

今回相談に乗って頂いて、心の底から感謝しております。今回の心温まるお言葉は私の生きる糧となることでしょう。
ありがとうございました。

そして遠く離れたお嬢様も、これからも沢山の良縁に恵まれますように。。

 

投稿: サブリナ | 2015年4月14日 (火) 20時37分
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ご丁寧な返信をありがとうございます。

>> ずっと止まっていた私の時計の針が、漸く動き出した気がします。

よかったですね。

6人目7人目のお子様は〝神縁〟によって必ず授かりますのでご安心ください。

同じ悩みを抱えていらっしゃる方のために、今回の遣り取りを公開させていただくことにします。

 

>> また人生の困難にぶつかった時、改めてご連絡させて頂くかもしれません。

 

どうぞ遠慮なく。

 

投稿: 久都間 繁 | 2015年4月15日 (水) 10時01分

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2015年4月12日 (日)

「言葉の力」

青少年の可能性を豊かに伸ばす『日時計24』という日本教文社刊の雑誌No.61(4月号)に、「言葉の力」というテーマで短いエッセイを寄稿しました。

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 コトバは、人の運命を変える不思議な力を持っています。

 長い人生には、ときに夢が砕け散り、挫折し、死にたくなるようなこともあるかもしれません。

  そんなとき、あなたの魂に深く響くコトバを紐解くことを忘れないでください。

  そのコトバはあなたの行く道を照らし、あなたの心の翼を甦らせ、あなたを人生の表舞台へと導くことでしょう。

 そのコトバは、ネットで検索することも、友人から気軽に聴くこともできません。

  なぜなら、運命を一変させる力を持つコトバは、深い祈りと愛を生きた人々から発しているからです。

  それは時代を越え、国境を越え、民族を越えて、まるであなた一人に遺したメッセージのように命に鳴り響き、貴方が何者であるかを示してくれるはずです。

 そのためには深い言葉の海に遊び、偉大な宗教家や思想家と親しく交わる不思議な時間をたっぷり過ごしてください。

  その経験はあなたの糧となり、遙か未来を見通す心の眼を啓き、夢を叶えるチカラを授けることでしょう。

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2015年1月31日 (土)

薪ストーブのある暮らし

201501up_2  

 八ヶ岳で暮らしはじめて二度目の冬を迎え、わが家でも“薪作り”に励んでいる。

「わが家でも」というのは、生長の家本部の移転とともに一緒にこの地に越してきた大泉の寮に住む皆さんも、同様の作業に励んでいるからである。

 この時期に割る薪は、春に使うものも含まれるが、ほとんどは来冬に備えてのものだ。

 昨年は一人で黙々とこの作業をやることが多かったが、最近は二人の息子たちも手伝うようになった。

 わが家での作業は、まず私が薪の原木(クヌギやナラ)をチェーンソーを使って約40センチ単位の長さで玉切りにする。

 それを長男(中3)と次男(小6)が斧で割り、この薪を、私が井桁に組んで塔のように積み上げるという手順で、現在は庭の空きスペースに10~20ほどこの塔らしきものが建立している。

 これらは1年ほど乾燥させて、順番に薪棚やガレージに収めていく予定だ。

 思えば、東京(都会)に住んでいたころは小・中学生の男子が、本気で全力を出して“家の手伝い”をする機会など、ほとんどなかったのである。

 しかし八ヶ岳の田舎では、雪かきに始まり、畑、薪割り、そんな機会は頻繁にある。だから小・中学生が生活の中で“男子”ならではの役割を果たすことができて、家庭での彼らなりのポジションが少し見えてくるようだ。そのおかげか、食卓の空気が清々しい。

 八ヶ岳に越して1年半。周期的に訪れる氷点下10度の朝や、信じ難いほどの積雪の渦中で、わが家に暖をもたらす薪ストーブの“ありがたさ”はひとしおで、最近は料理の煮炊きにも欠かせなくなっている。

 薪割り、薪運び、薪の焚きつけ、料理という一連の作業を通して、「人」と「炎」との原初的な繋がりを、親も子も身をもって体感することができるのは、他にどんなに不便なことがあったとしても、子供たちにとって掛け替えのない経験となるであろう。


 振り上げた一斧のもと、いっきに薪を割る爽快感は、弓道で的を射貫くことや、「居合」で巻藁を一刀両断することにも似ていて、冬ごもりのストレス解消にもなる。

  わが家ではスポーツと化した「薪割り」だが、寒風の中ひたすらチェーンソーで原木を“玉切り”にしてわが家の“男子”たちが割りやすいように積み上げ、さらに彼らが割った薪を、次は黙々と積み重ねて塔作りに励むだけの私は、まるで“賽の河原”にいるような気分になるときがある(^^;

 しかし幸福とは妙なもので、落ち着いてよくよく周りを見渡せば「炊煙春の霞の如く棚引(たなび)」く常楽の世界が、いつの間にかここに実現しているようだ――

 雪どけの春、花咲き鳥歌う夏、山脈が赤く染まる秋、降雪と薪ストーブの冬
 ―― 

 大自然に寄り添い、それがもたらす恵みや艱難と豊かに戯れること、そのことが実は、人間の人間たるものを熟成させて、私たちの内に密(ひそ)む真価値を練成して、来たる春への準備をしているのではないか。降る雪を見つめながらそんな“想い”がめぐっている。


2015年1月31日

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2014年4月16日 (水)

鶴見済氏の『脱資本主義宣言』を読む

  鶴見済氏の『脱資本主義宣言――グローバル経済が蝕む暮らし』を読んだ。

 
 仏教に「抜苦与楽」という言葉がある。

 これは衆生の苦しみを抜き去り、代わりに楽を与えるというもので、鶴見氏のこの著作は、今日の文明史的な「苦しみ」を解決するための、一つの処方箋として書かれたものと言えよう。

  本書の「はじめに」で、鶴見氏は次のように書いている。

 

  それでは、経済の仕組みに代わるモデルとな
  る別の仕組みとは何か? カネでない価値観を
 どこに求めればいいか?
  本書がその一例として取り上げているのが、
 自然界の仕組みや自然界とのつながりだ。

 

「自然界とのつながり」――鶴見氏は、かつて90年代のはじめに『完全自殺マニュアル」などという、物騒な作品を著しているが、人生についての試行錯誤を重ねながら、この世の「生きづらさ」の問題と格闘し、「どうすれば楽に生きられるのか」について探求し続けた痕跡が、行間からじんじん迫るのを真摯な読者は感じることだろう。

  同氏はある時期から、「楽に生きるためにはこの『経済の仕組み』を何とかしないとダメだろう」ということに気がつき、この“仕組み”について一つひとつ細かいデータに当たって調査してみた。すると、「驚きあきれるような事実」を次々と見出すことになる。

 つまり私たちが住んでいる資本主義社会の背後には、「生きづらさ」の原因となるものがあふれていたのである。読者は読み進むにしたがって“眼からウロコ”が落ちる思いでページをめくることになる。

  本書の内容から、彼が見出したことの一端を挙げてみよう。

 

 カネ儲けを第一の目的にしてしまった社会が
 失ったものは何か? 当然のことながらそれ
 は、「カネ儲けにつながらない価値」だ。この
 社会では人の健康や環境への害も、金額に
 換算しないと文字通り「計算に入らない」よう
 になってきた。ましてや我々の多様 な「幸
 せ」について、この社会が勘定できるわけが
 ない。
  グローバル化する資本主義が、カネのある
 なしにかかわらず、すべてのヒトにもたらす災
 いはこれであ
る。   (同書133~134頁)

 

 これは卑近な例だが、わが家の子供たちがかつて通っていた都心の小学校では、幼い子供を抱えながらもパートで忙しく働いている主婦が何人もいた。これも、ささやかでも家計の足しになればと、家族の幸せを願っての労働である。

 しかし母親が外で働くようになれば、社会的な責任をともなう仕事の都合を、彼女がまじめな方であるほど、家庭の都合より優先することになる。

 ある日〝こんなはずではなかったかも・・・〟とふと気付いてみても、わずかでも月々の収入が、子どもの幸せや夢の実現につながることを思えば、ガマンせざるをえない。
 しかしそのシワヨセは、すべて家族に、ことに幼い子供に寄せられることを、知って(意識して)いるか否かということは、とても重要である。

  もしこれを自覚せずに進めば、子どもたちは最も愛情を必要としている時期に、母親とふれあう時間を、おカネを得るための経済活動に奪われ、愛情の代償として親が買い与えたテレビゲームと向き合うことになる。失われた母親との時間は、永遠に戻ってはこない。

  家族は、日々の、思いやりの言葉の遣り取りを通して結ばれている。が、もし核家族化した親子の間で、これがなし崩し的に“先送り”にされてしまえば、やがて子供は思春期を迎えるとともに、まっすぐに家庭崩壊への道をたどる要因ともなるのである。

 これは、母親の責任でも、誰の責任でもない。私たちは、何の疑いもなく「おカネ」、つまり経済を至上のものとするコマーシャリズム(営利主義)の中に翻弄(ほんろう)されているのだ。

  これが、鶴見氏のいうところの「生きづらさ」ということの一つの側面である。

  家族の幸せを願いつつ、私たちはいつのまにか唯物論的資本主義の巨大なシステムの渦中に巻き込まれ、最も大切なものを見失ってはいないだろうか。日々立ち止まり、子供たちと目線でふれ合い“対話”することを心がけているだろうか――。

  お金に換算できない、私たちの多様な「幸せ」。これを取り戻すための、資本主義を超えた「別の仕組み」を模索したのが、本書の取り組みといえよう。

 果たして同書に書かれた内容が「答え」に至っているか否かは、諸賢に一読を願うところだが、真摯にこの問題に取り組んだ著者に私は賞賛の言葉を惜しまない。
 少なくとも社会主義でも共産主義でもない「資本主義以降」を考えるための〝必読〟の一冊であることは確かである。

 

 久都間 繁



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2014年3月19日 (水)

祈りと愛行について(子供が授からず悩んでいる方へ ②)

 皆さんは、不思議な偶然が重なったときや、善いアイディアが次々と湧きでてきたとき、ふと、神さまから導かれていることを感じたことがありませんでしょうか。

 
 このような不可視の世界からの導きは、その場や渦中にいて感じることもあれば、ずっと後になって、長い歳月を経たあとで気付かされることもあります。

 ブログも何年か続けていると、このような神秘な導きを感じる機会が何度か訪れるものです。

 今回紹介させていただく礼状にも、そのような内容が記されていますが、礼状を書きたくなること、その動機の中に、すでに次に展開する世界の萌芽がめばえているのではないかと思われます。

 今回紹介させていただく手紙は、2年ほど前にこのブログに掲載した
「子供が授からずに悩んでいる方へ」で遣り取りした方から頂いたものです。
 


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【礼 状】 (2014年3月13日)

 久都間先生に子宝に恵まれたい件で、相談に乗っていただいてから2年がたちました。ここのブログで掲載されている内容をもう一度読み返して、4月からの自分のあり方を考えようと、久しぶりにのぞかせていただきました。

 すると、私の相談内容と同じ悩みを抱えた方のお話
(流産して悩んでいる方へ)が寄せられていて、とても驚き、見るべくして神様が導いて下さったのかと思いました。

 ご相談に乗っていただいてから、丁度一年後に私は仕事を退職しました。やはり現在の仕事を続けていては、ゆったりと家庭モードになることは難しいと考えたからです。しかし、教育現場から離れることへの寂しさもあり、退職してから2ヶ月後に、半日の仕事ではありますが、再び子ども関係の仕事に就き、現在に至ります。仕事量が断然減り、生長の家のご本を読んだり、聖経をあげたりするなどの余裕もできました。

 しかし、まだまだ悟りの浅い自分ですので、子宝に恵まれたいという焦りがなかなか治まらず、その焦りが主人にも少し移ってしまったようにも思います。「最も良い時期に神様が授けてくださる」と分かっていても、それは、いつ??と思ってしまう情けない状態です(^-^;

 この4月から再び中学校へ戻ろうかと、ある試験を受けましたが、不採用通知が来ました。面接の時には自分なりに手ごたえがあったので、「あれ・・?」と思っていたのですが、もう一通の手紙で、その理由が分かったように思います。

  その手紙は、一年前に別れたある生徒からの手紙でした。私が一生懸命指導していた部活動の部員の子です。自分の高校受験合格の報告をしてくれる手紙でした。そして、手紙の内容には、「先生が退職された理由が知りたい」ともありました。子どもを授かるために退職したとき、生徒たちにはどう説明してよいか分からず、「家の事情」とだけ告げていたのです。

 今回この手紙と不採用通知が同時に来たのは、神様に「何のために仕事をやめたのか思い出しなさい」と言われているような気がしてなりません。

  それでもなお、経済的なことも気になり、別の仕事も探そうか・・・と迷っていたときに、ここのブログに再び出会いました。なんだか肩を押されたような気がします。4月からいったん、仕事はきっぱりやめてみようかなと思います。

 まだまだ、気持ちが落ち着かないところもありますが、生長の家の勉強をしながら、神の子の自覚を深め、素晴らしい神の子さんを授かるよう頑張って生きたいと思います。

 また、不安になった時にはご相談させてください。ここにたどり着けて本当に良かったです。

 ありがとうございました。

 

【返 信】 

 近況をご報告くださり、ありがとうございます。

 かつてあなたが指導していた生徒からの手紙、そして不採用通知が同時に届いたのは、深い摂理に導かれてのこととと思います。

 また2年前、ご縁あってあなたから頂いた質問への回答をこのブログに公開しましたが、それを読んだ方から寄せられた質問にふたたび私が答え、それを今度はあなたがご覧になり、「肩を押されたように感じた」というのも、一連の神さまの導きであったのでしょう。

 この導きにしたがって、なにかアドバイスできることを綴ってみましょう。

 まず思い浮かぶことは「感謝の生活」です。『甘露の法雨』の冒頭に掲載されている「大調和の神示」には、「その感謝の念の中にこそ汝はわが姿を見、わが救いを受けるであろう」と説かれています。

 つまり「感謝の生活」こそが、神さまと心の波長の合う、神の子にふさわしい、また神の子さんを迎え入れるのに最適な生活なのです。
 それは天地一切の人に、物に、事に、ただ感謝、感謝の日々を送ること。

 また『生命の實相』には、いずれの章かは忘れましたが「絶対感謝」というコトバが説かれています。この感謝の意味は、何かを頂いたからありがたい、何かをしてもらったから、ありがたい、といった相対的な感謝も大切ですが、そのような条件に対する感謝ではありません。

 まだ何も与えられていなくても、またはマイナスの状況で、たとえ八方ふさがりの真っ暗闇の中であったとしても、現象の奥にある神(実相)を感じて、その円満完全なる実相の光りを観じ、信じて“無条件”で感謝することです。

 これは相対的な感謝ではありませんので、「絶対感謝」あるいは“無条件感謝”とでもいうべき「感謝」であり、この感謝こそが、生長の家の祈りである神想観で観ずることの“中身”であり、信仰の根源的な悦びもここから湧いてきます。

 これと合わせて、祈りの助行としての「愛行」を実践することをお勧めします。

「愛行」とは、「“愛”が“行”ずる」と書きますが、その文字が意味するように、あなたの内なる「愛」を、深くゆたかに鳴り響かせることが「愛行」です。この「愛行」は、教師をされていたときに、すでに授業や部活などの指導を通して無意識のうちに実践されていたことと思います。が、今度はこれを初めから〝無償で行う〟ということが、お仕事とはちょっと異なるところです。

 その〝無償〟なることのポイントは、神さまの御心を第一にする、ということです。つまりその行為が自分や家計にとって損か得か、収入があるか無いか、といった利害や損得勘定によってものごとを判断する〝左脳的な働き〟をいったんお休みさせて、すべてを円満完全なる大生命にゆだねてみる、ということです。

 円満完全なるもの(神)に全てを委ねることを“全托”といいますが、全托することによって円満完全なるものが現象世界に顕れて、全ての問題は解決し、あらゆる願いは叶えられる、それが生長の家で説くところの「神癒」(meta physical healing)なのです。

 そのためには先ず、ご自宅で祈り(神想観)を実修して、神さまに全托して、あなたの内から、誰かが心から喜んでくれそうなことがヒラメイテきたら、毎日それを素直に一つひとつ実践に移してみましょう。どんな小さなささやかなことでもいいから、やってみてください。

 神想観という祈りが、神なる宇宙大生命との一体感を深める〝静的な工夫〟であるとすれば、“無償の愛”を行ずる「愛行」は、これを体感して実践する〝動的な工夫〟に当たります。〝工夫〟とは、神や仏の御心に専心専念こころを合わせることです。この「祈り」(神想観)と「愛行」を通して、神さまの世界にある無尽蔵の知恵、愛、生命をこの世に具体的に実現させることになります。

  そのためには、生長の家の教えを、多くの先達や仲間とともに学ぶヤングミセスの集いや、母親教室に参加して、ともに真理への道をあゆむ仲間から、善いアドバイスをいただきながら精進されることをお勧めします。

 1人で研鑽する時間も大切ですが、道を求める仲間たちとともに歩むことで、独りの修行では得ることのできなかった、思いがけないほど多くの発見や内的な気づきがあるものです。

  分からないことがあれば、遠慮なくご相談ください。

                        (2014年3月19日)

生長の家本部講師
久都間 繁

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2012年10月 2日 (火)

ノーミートを続けるべきでしょうか?

 ノーミート料理に取り組み始めたという40代の主婦の方からの質問を預かりました。

 彼女は家庭での肉食をやめるため、小学生の息子を連れて県の「食肉センター」まで屠畜(とちく)の見学に行ったり、食肉の問題点を調べたりするうちに、
「牛肉や豚肉を食べる必要が人間にあるのだろうか? という強烈な疑問も生じて、もう、牛も豚も調理するまい」
 という深い慈悲の思いが湧いてきたそうです。

 ところが、これまでの肉食の習慣のあるご主人からノーミートを反対され、「やっぱり無理なのか」と悩み、相談を寄せられました。

 ご参考のため、質問と回答を紹介します。
 
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【質 問】

 

  合掌、ありがとうございます。

 ノーミート料理を毎日試行錯誤の中、作っています。

 肉の大好きな主人とこどもたちですが、主人の体重が増えすぎてきた、という理由で、初め主人は了解してくれました。

 でも、なかなか ノーミートで料理をすることが難しくて、行き詰ってしまい、自分の決心を固めるためにも、また小学生の肉好きの長男に肉の実態を少しでも知ってもらいたくて、夏休みに、県の企画で「食肉センター」というところを見学しました。

 そこは、1日に豚が約2000頭、牛が約25頭も屠畜(とちく)され、食肉になって出荷されていきます。屠畜の見学をしたいとお願いしましたが、それはかないませんでした。

 でも、屠畜のために、豚は頭に電圧をかけられ、牛は眉間に麻酔銃を撃つという話を聞き、また、屠畜後の様子は、牛は写真でしか見られませんでしたが、頭部を切り離され、胴の皮をはがされている様子を見、豚は、実際にガラス越しに頭がぶらぶらとベルトコンベアーみたいなものでつるされて運ばれているのを見ることができました。

 私は、結婚前は調理師をしていたので、だいたい想像できていたし、グロテスクなものでも見て大丈夫と思っていました。

 でも、そこを見学してから、日が経つにつれショックで、うちに長年読まずに眠っていた『
私の牛がハンバーガーになるまで―牛肉と食文化をめぐる、ある真実の物語 』を読み始めたり、インターネットで肉や、牛乳を搾るための牛について調べてたりしました。

 その結果、ますますショックで、それ以来、毎日がぶがぶ飲み、子供にもすすめていた牛乳も全く飲めなくなってしまいました。

 そこまでして、牛肉や豚肉を食べる必要が人間にあるのだろうか? という強烈な疑問も生じて、もう、牛も豚も調理するまいと決めました。肉を触るのもいやでした。

 でも、家族は満足しません。特に主人は、そのことを話しても、「それは仕方のないこと」と言い、聞き耳をもってくれません。(主人もコックです)

 ノーミートにしても体重が減らなかったということもあると思うのですが、先日も「俺はかわいそうだ。大好きなとんかつも食べられないのか、子供たちもかわいそうだ。ハンバーグも食べられないんだ。」と言われてしまいました。

 やっぱり、ノーミートは無理なのか、触りたくない肉でも、家族のためには取り入れるべきなのか悩んでいます。

 過日の生長の家講習会で、谷口雅宣先生は「子供が肉を食べたがるのは、親が食べるのを見ての結果」という意味のことを話されていました。

 この分では、わが家の子供たちもずっと肉好きのままになってしまいそうです。良い回答をお待ちしています。

 

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【回 答】

 合掌、ありがとうございます。

 ご家庭でのノーミート料理の実施は、ご主人やお子様のこれまでの食習慣とも関係してきますので、台所を預かる主婦としてはご苦労も多いことでしょう。

 谷口雅宣先生も、肉食が好きなご家庭なら、例えばこれまで毎日食べていたものを週1回か2回にするなど、肉食の回数を減らすことから心懸けてください、という意味のご指導をされていますので、家族の反対を押し切って完璧なノーミート料理に切り替えてしまうのではなく、徐々に時間を掛けてゆっくり肉食の問題点について語り合いながら、肉食を減らすように心懸けてはいかがでしょうか。

 わが家の事例では、私ども夫婦に加え、大学生1年生から小学4年生まで、4人の“食べ盛り”の子供がいますが、基本的には普段は野菜と魚で、牛肉や豚肉の料理を避ける工夫としては、完全なノーミートとはなりませんが、鶏肉をさまざまな形で調理するなどの工夫をしています。

 何よりも大切なのは、ご家族で仲良く歓談しながら食卓を囲み、家庭に天国を実現することです。

 ですから、ノーミートの献立については、プロのコックであるご主人に、あなたが心を開いて、「肉を触るのもいや」であることを率直に話して、“願い”を素直に打ち明けてご主人からアドバイスを頂きながら、協力し合ってノーミートへの道を歩んでみてはいかがでしょう。


 大切なのは、自分一人で頑張るのではなく、また生長の家の生き方を家族に押しつけるのでものなく、神の子であるご主人と子供たちの素晴らしい「実相」を拝みながら、ご主人の願いや希望をしっかり受けとめながら、楽しく神の御心(智慧・愛・生命)を実現していくことです。

 神意に適った善き願いは、気が付いてみれば必ず実現しているものです。結果を焦ることなく、日々の神想観(祈り)の中で、悩みの一切を大生命なる神に委(ゆだ)ねましょう。

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2012年8月18日 (土)

反抗する娘に悩む母親への手紙

 私たちは、一人ひとりが個性や性格や人相が異なるように、その人でなければ出来ない特殊な使命を持って、この世に生まれてきたのかもしれません。 

 この世に生まれた子供は、やがて小学校、中学、そして高校へと進学し、成長するにしたがって、それぞれの道へと人生の歩みを進めて行きます。

 子供が自立して「親離れ」していくように、親も「子離れ」することによって、子供たちはいよいよ天地の深い摂理に導かれ、親の予想を遙かに越えて偉大な生長を遂げるものです。

 つまり「子離れ」とは、親にとっては、仏の四無量心における「捨徳」の実践にほかなりません。


 さて、今回は、高校三年生になる娘さんが、「自分に反抗して親の思い通りの道を歩んでくれない」という50代のお母様から、お嬢様の進路についての相談のお手紙を預かりました。(長文なので割愛させていただきます)


 子供の進路というものは、親が、娘や息子の不完全で未熟に見える現象の姿に捉われて、口を挟んでばかりいると、進むべき道を見失う場合があります。

 子育ての秘訣は、“神さまの邪魔をしないこと”と、言えるのかもしれません。



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【回 答】

 合掌、ありがとうございます。

 お手紙拝見しました。

 お嬢様が、ご自身の“願い”である看護士への道を取り止めて、母親であるあなた様の願い通りに保育士を希望して保育短大に進学するとともに、お嬢様が「おかあさん」と素直に慕ってくれるにはどうしたら良いか、という、2つのご質問にお答えします。

 まず、生長の家の教えは、子供を、親の思うとおりに都合よく育てるような教えではありません。

 逆に親の都合をすっかり外して、子供に内在する神性・仏性(実相)を、親が“無条件”に拝んで感謝する教えです。

 お手紙で縷々述べていらっしゃったように、あなた様が、お嬢様を自分の思うとおりの進路に進ませたい、というようなお考えを押し通していたのでは、子供は本来の自由を求めて反発し、決して親の思うとおりにはならないでしょう。

 なぜなら、お嬢様には、彼女だけに授けられた大切なご使命があり、そのご使命を生きることが彼女の歩む道であることを無意識のうちに感じて、進路を選んでいるからです。

 あなた様が、生長の家の教えによって問題を解決したいのであれば、先ず、子供を神さまに全面的に帰してしまわなければなりません。そして自分の子供だ、と思うことをやめて、神さまの御子として拝み、感謝し、彼女の内なる神性・仏性を信じて自由に委(まか)せ切ることです。

 ですから進学のことは、あなた様が、お嬢様よりも学校の先生やご自分のお考えを優先して学力などの諸条件(現象)を基準に、親が口を挟めば挟むほど、お嬢様の本来の使命である進むべき道が彼女自身にも見えなくなり、親子ともに非常に苦しむことになります。

 繰り返しますが、お嬢様ご自身が選んだ道は、彼女がこの世に誕生するに当たって神さまから授けられたご使命へと、まっすぐに繋がっているのです。

 お母様が、お嬢様を自分の思うとおりにしようとする心(我見)を捨て、“無条件”にお嬢様の選んだ道を祝福し、たとえ希望する学校の試験に何遍落ちたとしても、どこどこまでもお嬢様を応援してあげることこそが、神さまから神の子をお預かりしている肉親の親としての努めではないでしょうか。

 あなた様が、お嬢様の神性・仏性を信じて拝むようになれば、お嬢様の内にある神の子本来の円満完全な優しさが現れ、反抗心が消え、素直にお母様のことを慕うようになることでしょう。

 もしあなた様が、これまでの生き方を押し通して問題が解決できるとお考えなら、このアドバイスに従う必要はありません。

 しかし、すでに行き詰まって、どこにも解決方法がみつからず苦しんでいらっしゃるのであれば、素直にアドバイスに耳を傾けてみることです。

 その一助として、地元教化部で開催されている生長の家の練成会や誌友会に直接足を運んでみることをお勧めします。

 

 

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2012年6月10日 (日)

小学校PTA連合会総会における挨拶

 6月8日、青梅市の小学校PTA連合会(小P連)の総会が行われました。

 市内各校の小学校PTA会長と学校長は、合わせて小P連の理事も兼務しています。

 この総会をもって理事を退任する私に、ご縁あって、「退任理事を代表して挨拶をしてほしい」との依頼が来ましたので、悦んでお受けすることにしました。

 以下は、スピーチのための下書きに、当日のアドリブでのお話しを加えたものです。

 当日の参加者は、市内の小学校各校の新旧の校長に新旧のPTA会長、そして各校の副会長、庶務、会計などの本部役員。来賓として教育委員会の方々が参列していますので、仏教で説く善因善果や、徳積みの話。そして生長の家で説く心の法則などの話を、平易な言葉で、さらりと表現するよう工夫してみましたのでご覧ください。 



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 ご紹介いただきましたA小前会長の久都間です。

 3年間、小P連の理事ならびにA小学校の会長をさせていただきました。その関係からか、今年度会長校のY小学校の会長と、前会長から、
「思いの丈(たけ)を語ってください」とのご指名をいただいておりましたので、少しだけ語らせていただきます。

 

 本日の総会をもって、16校中10人の会長さんが退任されますが、先ほどから、前に出て感謝状を受け取られる前PTA会長の皆さんお一人お一人のお顔を拝見しながら、皆さんと会長会の折に、夜が更けるまでえんえんと熱く語り合った日々のことを、しみじみと思い出しておりました。

 あらためて会長会は、最高のオヤジの会だったなあと、そんなことを感じております。

 

 さて、私たちの活動をふり返ってみますと、学校において子供たちが学ぶ「知識」についての教育は、学校の先生方が担ってくださいますが、これから子供たちが人生を渡り、生きていく上でもっとも大切な教育は、ここにいらっしゃるお父さん、お母さんたちが、PTA活動を通じて、一所懸命に学校のため、地域の子供たちのために、何の見返りも求めずに無償で、ときに手弁当で奉仕される姿を子供たちは横目で見ながら、彼らは言葉には出さなくてもたくさんのことを学んでいるのではないかと思います。

 

 子供たちの心に種蒔かれたこれらの記憶は、将来彼らが学校や職場で、やがて親となって家庭や地域社会で、たとえどのような困難な状況に遭遇したとしても、自らのチカラで道を開き、問題を解決し、幸せを築き上げていくための糧やヒントとなって、必ず花開いてくる時期が来るのではないかと思います。

 

 そのような意味でPTA活動は、一見、経済的にも時間的にも与えっぱなしの活動のように見えるかもしれませんが、実は親にとっても子供にとっても“子育て”という二度と繰り返すことのないこの大切な時期に、最良の経験をさせていただいていたのではないのかなと、この3年間をふり返って、そんなことを感じております。

 

 さて、今年度の各校のPTA会長の皆さま、そしてお集まりの本部役員の皆様、それぞれの担当校で、子供たちが楽しく充実した学校生活を送れるよう、今年も各校でのPTA活動に、皆さまの大切なお時間とお力をいっぱい注いでいただければと思います。

 

 また、教育委員会の皆さま、これまでと同様に、私たち小P連の活動を温かく見守り、ご指導とご協力をくださるよう、どうぞ宜しくお願いいたします。

 

 最後に前年度小P連の幹事校をご担当されたU会長はじめI小事務局の皆さま、この一年間、縁の下の力持ちとして、ときには潤滑油として、円滑に小P連の運営に当たってくださり、本当にありがとうございました。心より感謝しております。

 

 以上をもちまして、退任理事を代表しての私からの挨拶とさせていただきます。

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2012年5月 7日 (月)

夫の転勤と息子の受験と住宅ローン

 人生には「光明面」と「暗黒面」とがあると言われています。
 どちらのチャンネルに心を合わせるかによって、私たちの人生は大きく変わってきます。

 仏教に、「心外無別法(しんげむべっぽう)」という言葉がありますが、これは、一切の存在や現象は、心より起こったものであり、心の外に別な法はないという意味です。

 人生の「光明面」に心のチャンネルを合わせていれば、同波長の嬉しいこと、楽しいこと、悦ばしいことが現れてきます。

 一方、「暗黒面」ばかり注目して、取り越し苦労、持ち越し苦労を重ねていれば、心配なことが次から次へとスパイラル状に現れることでしょう。

 あなたは、どちらの生き方がお好きでしょうか。

 二度とくり返すことのない、掛け替えのない人生です。

 せっかくこの世に生まれて来たのですから、嬉しく、楽しく、幸福に過ごしたいのは、誰しもが願うところではないでしょうか。

 天国や極楽は、自分の人生と離れたどこか遠くにあるのではありません。

 また、今ここに無いような天国や極楽なども、空言戯言(そらごとたわごと)に過ぎません。

 今ここに浄土を開く道、それが生長の家の感謝の生活であり、日時計主義の生活です。


 以下に、ご主人の転勤と息子さんの受験と経済問題とが重なり、苦しんでいるのでアドバイスを頂きたいという、主婦の方からのメールと、私からの返信を紹介させていただきます。


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質 問「度重なる困難に苦しんでいます」(メール 4月17日付)

 

以前、母の死の際に相談させていただきました。その節はありがとうございました。

お陰様で母の死から1年間、何とか、妻、母親として自分の家庭を営んでいく事が出来ました。

ただ、まだまだ心が弱く、気持ちが過去へ過去へと向いてしまいます。

その上、今、悩んでいるのは夫の転勤が中3の息子の受験と重なる事と、住まいの事です。

夫は9月に転勤が決まっており、現在住んでいる北海道から関東に異動となります。

夫は年度末まで単身赴任をすると言っていますので(息子の希望も同じ)、私たちは北海道に残り、息子の受験は北海道にいながらにして試験だけ関東に受けに行くという大変な状況となりました。

実は2年前に夫の会社が倒産しました。現在は再建中です。リストラはされませんでした。

しかし、待遇が大幅に変わってしまい、賃金カットをはじめ住宅手当等もなくなりました。
その為、関東に戻ったら高額な家賃が加わり、また、子供たちもこれから教育資金が掛かることになります。

倒産前には、この様な事態を想像していなかったため、貯金もこれからしようと思っていた矢先に、このような事になってしまい、過去、裕福だった時に“なぜ貯金ができなかったのか?”

家計を預かっていたのは私なので、もし、今までに貯金をしていたら家族に何の心配もさせずにすんだのに、こんないい加減な家計管理をしてきた結果、先が見えない状況にしてしまい夫や子供達に大変申し訳なく、情けなく思ってばかりいます。

夫は高い家賃を払い続けるより、ローンを組んで家を買ったほうが良いと考えています。

夫婦で家計を見直しながら十分話し合いました。結果、支払いは可能でした。

 

でも私は住宅ローンを組むこと、今後も会社が存続するのかどうか? 等への不安に加え、「なぜ、お金のある時に貯金しておかなかったのか?」と毎日そればかり考え、自責の念に囚われています。

母の死、夫の会社の倒産、息子の他県での受験、住宅ローンと次から次に問題が起きて自分では消化できなくなっています。今、私に与えられている環境をどう受け入れたらよいかわかりません。

どうかアドバイスよろしくお願いいたします。

(主婦 48歳)

 

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回 答

 

 ご主人の転勤が中3の息子さんの受験と重なること、そしてローンを組んで家を購入するか否か、ということのご相談ですね。

 

 メールを繰り返し拝見させていただきましたが、すべてが善いことづくめで、有り難いことばかり、あなた様はどれほど多くの幸に恵まれていることでしょう。
 先ず、その喜ばしい事実を、正しく見つめることから始めてみましょう。

 

 もし、息子さんが北海道の高校に入学した後に、ご主人の異動と転勤が言い渡されたのなら、ちょっとは心配になるかもしれませんが、転勤の時期と入学とが、ぴったりと重なっていて本当に良かったですね!

 

 また、ローンを組んで家を買うことについても、ご夫婦で仲良く充分に話し合った上で、「支払いは可能」との結論に達したとのこと。

 ご家族にとってこんなに希望に満ちた嬉しいことは、大いに悦ぶことにしましょう!

 

 さらに関東の地で、また新たな出発されるとのこと、ご家族にとっての新生活が待っているのですから、心機一転して大いに張り切ってください!

 

 しかも、ご主人は会社が2年前に倒産したにもかかわらず、リストラもされず、お給料を頂きながら会社の再建に向けて仕事に励んでいた矢先、内地の関東への栄転が決まったのですから、どんなにやり甲斐を感じていらっしゃることでしょう。

 奥様であるあなた様は、そのご主人の悦びを吾が喜びとして、大いにご家族をもり立ててあげてください。

 

 このように人生の光明面のみを見て、感謝して生きるのが生長の家の生活です。

 

 ご存じのように、東日本大震災では、家族を失い、仕事を失い、大切な持ち家を失い、ローンを抱えながら何もかも失い、失望のどん底のような境遇におかれた人たちが、希望を失わずに明日に向けて黙々と、しかも家族と地域社会の再建のために明るく頑張っている方がたくさんいます。

 

 彼らに比べたら、どれほど私たちは恵まれていることでしょう。

 ですからあなた様は、先ず、今、既に与えられていることに振り向き、そして大いに感謝することからはじめてみましょう。

 

 貯金が無いなどということは、大した問題ではありません。
 また働いて稼いでしっかり貯金すればいいのです。

 

 生長の家の生き方に、一番ふさわしくないのは、今与えられていることに感謝することを忘れ、未だ来ていないことに対して取り越し苦労をしたり、過去のことを、いつまでもくよくよ思い出しては持ち越し苦労をすることです。

 三界は唯心の所現、現象世界は「心の影」の世界ですから、暗い不安なことを心に思い描けば、不安な状態が人生に現れるのが「心の法則」です。

 

 また、嬉しいこと、楽しいこと、感謝すべきこと、喜ばしいことに着目し、人生の光明面を見て感謝して日々を送っていれば、いつの間にか天国的な状態が、あなた様の人生に実現してくるのです。

 

 この後者を生きるのが、人生を光明化する生長の家の生活法です。

 

 生長の家の教えの基本を学び、安らかな幸福生活を実現する一助として、全国各地で開催している「白鳩誌友会」や「母親教室」に参加することをお勧めします。

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