2021年8月 1日 (日)

木下闇について (2021,8)

 梅雨の間、毎晩のようにシューマンの交響曲(シンフォニー)を聴いていた。

 すると、うっとうしいはずの季節になぜか神の恵みを感じて、降り注ぐ雨が、たまに差す陽の光が、楽しげに呼び交わす小鳥の囀(さえず)りが、目に見えぬ世界からの祝福だったことに気付かされ“心の眼”がひらかれる想いがした。

 シューマンの曲のタイトルは「春」を始め、欧州を流れる「ライン」川など自然を題材としたものが多く、それだけ彼の音楽は「自然」に深く寄り添い、そこから生まれた歓びを奏でているのだろう。

 齢(とし)若い頃の私の未熟な耳には、シューマンの音楽はとても凡庸で、退屈で、ただの感覚美を追求した過去の作曲家としてしか映らなかった。

 が、かつて恩師が生前に、シューマンのシンフォニーについて讃えていたことを思い出したのを機に、自宅にあった三番、四番が収められたCDを聴いてみた。

 すると妙に心に響いてきて、以来、そこに奏でられた生命が踊る歓びや、寂寥感(せきりょうかん)に充ちた滅びゆく悲しみ、人間と自然界との深い共感や、生命と生命が豊かに交わる様が、音楽の中から美しい像をムスビはじめたのだ。

 齢を重ねることは、決して悪しき事ばかりではなく、魂の稔りと意識の拡大をもたらすようである。

 このような発見をしたのは、生長の家のPBS活動に触れたおかげでもある。

 それまで、凡庸でつまらぬものとしか見えなかった家庭菜園や、手間のかかるクラフトや、自転車で野や街を風を切って走ることの背後に、人がこの世に生まれ、成長し、次世代へといのちを繋(つな)ぐという、素朴で切なく掛け替えのない人生のいとなみがあることが、PBS活動を通して見えてきたのである。

 そこには、信仰によって宇宙大生命とつながり生きる、安らかな喜びが満ちているのだ。

 そんな悦びの発見を、この活動に参加した人たちがネットフォーラムで楽しく語るのを聴かれた方も多かろうと思う。

 いよいよ梅雨も明け、盛夏を迎える時節だ。

 その眩(まぶ)しい日差しの背後に密そむ世界のことを、俳句の季語で「木下闇(こしたやみ)」と呼んでいる。

『歳時記』の一節には、「木下闇は昼なお暗く、暑さから逃れられる別天地のようなところ」とある。

 この言葉は、決して現象に現れることのない、深い真実の世界が沈黙とともに闇の中に潜んでいて、この世界を見えないところで支えていることを伝えているのだ。

 このようなことも若いころには思い及ばぬことで、意識の深化も人生の齢(よわい)を重ねるという切実な経験と関係しているようである。

 四季の著しい変化を経て万物が生長するように、癒やし難いと見えていた悩みも憂いも悲しみも、やがて底知れぬ慈(いつく)しみの歳月を経て、そこに失せることのない生命の光が、闇の奥底にひそんでいることを知るのである。

 そんな真実の姿は、魂の成熟をもって初めて見えもし、音となって聴こえても来るのだろう。

   (二〇二一・八)

 

 

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2008年7月 9日 (水)

『すべては音楽から始まる』について

 明日の7月10日から、「東京国際ブックフェア」が始まる。
 私は仕事柄、毎年参加しているが、今年は、初日の基調講演が茂木健一郎さんとのことなので、楽しみにしている。

 茂木さんといえば、最近『すべては音楽から生まれる (PHP新書)』という著書を読んだ。この本との出会いは、アマゾンの「なか見!検索」で立ち読みして、その内容に惹かれて購入したものだ。

 今、手元に同書がないので詳しい説明はできないが、この本を読んでいると「音楽」あるいは「音」におけるクオリアというものがよく理解できる。

 彼はこの書の、たしか冒頭で、シノーポリの指揮した『未完成』を聴いた時のシューベルト体験を克明に語っているが、クラッシックが好きな方は(そうではない方も)、この書をひもとけば、ご自身の内に眠っていたさまざまな“音楽体験”が、そのとき鳴り響いていた音となって、鮮やかによみがえるのではないだろうか。

 また、人生に音楽が織り込まれることで、どんなに美しい調べを奏で出すかということも、この書の通奏低音として響いている。生きることの奥にある深い核のような部分が、どれほど音楽的な体験と重なっているのかが伝わってきて、思わず釈然として、読んでいて愉しくなる本である。活字なのに、音楽好きには堪(こた)えられないところがまた面白い。

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2008年7月 5日 (土)

巣立ち

 7月4日、わが家の玄関に住んでいたツバメのヒナたちが、一斉に巣立っていった。

 その日の午後、家内から、「いざいなくなると、ガランとして寂しいものです。  元気に飛んでくれたらいいなあと祈ります」とのメールが届いた。

 3日にブログで紹介し、写真までアップしたその翌日に巣立ちの日を迎えたというのも、不思議なことだった。

 そういえば前日の夕方、3年生になる長男が、「ツバメの親が3羽も巣に出入りしている」と語り、私もツバメが空中で遊んでいるように追いかけっこをしながら飛翔しているのを見て、“子育てで忙しいはずなのに”と奇異の感をいだいたことを思い出した。

「そうだったのか」と、昨夜になって、はたと気がついた次第であるが、旅立ちの期はすでに熟していたのである。

 ツバメの親もヒナも、ともに猫にもヘビにも襲われることなく、無事にこの日を迎えたことが嬉しかった。

 私たちも、さまざまな友人や恩人たちに支えられながら、家庭、学校、そして組織や職場など、これまで幾つの故郷から、巣立たせていただいて来たことだろう――

 ありがたいことである。 

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2007年9月 9日 (日)

いのちの響き

  台風一過後、私の住む青梅の庭では、秋の虫たちが一斉に啼き始めた。

 夜中に床に就くと、開け放った窓から、虫たちの音(ね)が宇宙を奏でるように深い夜を満たしていた。

 何種類もの命の音の合奏。それは虫が啼くというよりも、大地そのものの音楽だった。
 音が鳴っているのではない、いのちが、いのちのなかで、いのちを奏でていた。

 それまでは一つ一つの虫の音が、勝手気ままに鳴っていると思っていたが、周りの虫たちのいのちの響きを、彼らは確かに感じながら、絶妙のアンサンブルで自らの音を奏でているのだった。

 やがて時間が消え、天地が消え、私も消え、いのちの合奏のみが、いのちの世界に鳴り響いていた。

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2006年9月 8日 (金)

ブルックナーの7番(友人宛の返信より)

 合掌、ありがとうございます。
 
 お便りをありがとうございました。腰の方は、日常生活を不自由なく送れるようになりましたのでご安心下さい。

 過日は休みをいただいておりましたので、ブルックナーの7番シンフォニーを聴いておりました。
 CDは、オランダフィル、ハルトムート・ヘンヒェンという、ちょっとマイナーな指揮者がコンセルトヘボゥで振ったライブ録音でしたが、ブルックナーが住んでいる「原初的な世界」が聞こえてくるような、素朴でとても良い演奏だと思いました。

 祈りなどを通してより深い世界を観じているときに、ときおり「絶対過去」ともいうべきところから"遠い記憶"が蘇ってくることがあります。

 それはとても懐かしいもので、何年経っても成長することも、古くなることもなく、常に新たで、常に瑞々しい温もりと輝きをもって立ち現れるようなものですが、なぜか最近それが私を現象的に取りまいている世界での「今」ということと、ぴたりと一致して観じることが多くなりました。

 上記の演奏を聴いていても、そのようなことを想起させられました。

 また、ゆっくりお話しましょう。

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