木下闇について (2021,8)
梅雨の間、毎晩のようにシューマンの交響曲(シンフォニー)を聴いていた。
すると、うっとうしいはずの季節になぜか神の恵みを感じて、降り注ぐ雨が、たまに差す陽の光が、楽しげに呼び交わす小鳥の囀(さえず)りが、目に見えぬ世界からの祝福だったことに気付かされ“心の眼”がひらかれる想いがした。
シューマンの曲のタイトルは「春」を始め、欧州を流れる「ライン」川など自然を題材としたものが多く、それだけ彼の音楽は「自然」に深く寄り添い、そこから生まれた歓びを奏でているのだろう。
齢(とし)若い頃の私の未熟な耳には、シューマンの音楽はとても凡庸で、退屈で、ただの感覚美を追求した過去の作曲家としてしか映らなかった。
が、かつて恩師が生前に、シューマンのシンフォニーについて讃えていたことを思い出したのを機に、自宅にあった三番、四番が収められたCDを聴いてみた。
すると妙に心に響いてきて、以来、そこに奏でられた生命が踊る歓びや、寂寥感(せきりょうかん)に充ちた滅びゆく悲しみ、人間と自然界との深い共感や、生命と生命が豊かに交わる様が、音楽の中から美しい像をムスビはじめたのだ。
齢を重ねることは、決して悪しき事ばかりではなく、魂の稔りと意識の拡大をもたらすようである。
このような発見をしたのは、生長の家のPBS活動に触れたおかげでもある。
それまで、凡庸でつまらぬものとしか見えなかった家庭菜園や、手間のかかるクラフトや、自転車で野や街を風を切って走ることの背後に、人がこの世に生まれ、成長し、次世代へといのちを繋(つな)ぐという、素朴で切なく掛け替えのない人生のいとなみがあることが、PBS活動を通して見えてきたのである。
そこには、信仰によって宇宙大生命とつながり生きる、安らかな喜びが満ちているのだ。
そんな悦びの発見を、この活動に参加した人たちがネットフォーラムで楽しく語るのを聴かれた方も多かろうと思う。
いよいよ梅雨も明け、盛夏を迎える時節だ。
その眩(まぶ)しい日差しの背後に密そむ世界のことを、俳句の季語で「木下闇(こしたやみ)」と呼んでいる。
『歳時記』の一節には、「木下闇は昼なお暗く、暑さから逃れられる別天地のようなところ」とある。
この言葉は、決して現象に現れることのない、深い真実の世界が沈黙とともに闇の中に潜んでいて、この世界を見えないところで支えていることを伝えているのだ。
このようなことも若いころには思い及ばぬことで、意識の深化も人生の齢(よわい)を重ねるという切実な経験と関係しているようである。
四季の著しい変化を経て万物が生長するように、癒やし難いと見えていた悩みも憂いも悲しみも、やがて底知れぬ慈(いつく)しみの歳月を経て、そこに失せることのない生命の光が、闇の奥底にひそんでいることを知るのである。
そんな真実の姿は、魂の成熟をもって初めて見えもし、音となって聴こえても来るのだろう。
(二〇二一・八)
最近のコメント