2021年12月 6日 (月)

聖使命のこと (2021,12)

 十一月、埼玉・群馬のペア教区で「聖使命研修ネットフォーラム」を開催した。

 生長の家では、人間は神の子であり、その実相(ほんとうのすがた)は円満完全な宇宙大生命で、智慧と愛と生命とに満ちていると教えていただいている。

 聖使命とは“聖なる”使命のことである。それは無限ともいえる神の智慧と愛と生命を生きて、この世界を光明化する使命のことである。

『生命の實相』第一巻の「實相篇」には、「自性円満を自覚すれば大生命の癒力(なおすちから)が働いてメタフィジカル・ヒーリング(神癒)となります」と説かれている。

「自性円満」という言葉には「そのままで円満なこと」との注釈が添えられている。そのままとは「はじめから」ということで、それは、「神の子」に成るために長い時間をかけて精進努力した後にそこに達するのではなく、そのままで自性(実相)は完全円満であり、ハイッとそれを受けて三正行に励んでいれば、本来の実相が顕れてくるのである。

 かれこれ四十年ほど前のこと、宇治練成会で「聖使命」の講話を担当していた講師が、
「皆さん、そのまま円満完全な神の子であり光りですよ! その実相を悦びたくない人は、ぜったいに聖使命会に入ってはいけませんよッ!」

 と、一見冗談か、と思われるような真実を突いた話をされていたが、講話の後、初めて練成に参加したと思われる人たちが続々と聖使命に入会されていたことを思い出すのである。

 今回の聖使命研修では、冒頭で埼玉教区相愛会の冨田敏夫会長が挨拶され、『到彼岸の神示』(谷口雅春著)の一節を引用して、「神さまの教えをひろめるためには“純粋な献身”が要求される」ことを紹介されていた。

 続いて三名の方が体験発表をされたが、彼らに共通していたことは、幼な児の信仰と純粋な献身だった。

 生長の家の運動は数知れぬ先達の“純粋な献身”のおかげで、私たちの元に人間・神の子の“真理の火”が届けられたのである。その光りに照らされて、人生の桎梏(しっこく)と見えていた人間苦、経済苦、病苦から解放されたのだ。

 そこに点ぜられた「火」とは、「自性円満」の真理の自覚であり、そこから生じた喜びが、人類光明化運動・国際平和信仰運動となって地上に溢れているのである。

『新版 真理』悟入篇には、聖使命菩薩について「すべての人を救いとろうと、いとも広大なる救いの手を拡げられた(中略)、観世音菩薩の千本の手の一本一本が衆生済度の聖使命を感得された皆さんであります」と説かれている。

 聖使命に入会するとは、先達の言葉を借りれば、「そのまま円満完全な神の子であり光りですよ!」と、その実相を悦び生きることに他ならないのである。それは同時に、神の無限供給の扉を開くことでもあるのだ。

 それを開く鍵は、はじめから私たちの内にあり、この世に持参して生まれた“如意宝珠”という「いのち」の中に秘められているのである。

「聖使命」とは、神の子の使命である“菩薩行”を随所で行じて、人生を光明化することであり、そのカギが潮干の珠(現象無し)と、潮満の珠(唯神実相)のコトバの力である。

 聖使命菩薩(皆さん)の生きて歩むところ、そこに必ず浄土が湧出するのである。

 (二〇二一・十二)

 

 

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2015年1月26日 (月)

季節が変わるように

 八ヶ岳の“森の中のオフィス”では、毎月「自然を伸ばす活動」という作業が行われている。

 この作業はどのようなものか、というと、オフィスで働く生長の家の職員が、この地での“自然との共生”を実践するもので、森林整備、キノコ狩り、畑作り、雪かきなど、人が自然と係わる活動全般のことである。

 1月の中旬、雪の降る屋外でこの作業が実施され、当日は鹿たちが食い荒らした畑の整備と、農事倉庫前の“氷割り”が行われた。

 私は後者に加わったが、これは溶けた雪が地面に何層にも凍り付いて固まったものを、大きなアイスピックや鉄バールで砕いて除去するという、標高1350メートルの八ヶ岳山麓ならではの作業なのだ。

 小さなスケートリンクのような氷の盤面が広がり、シンプルに氷結した箇所は、かんたんに氷を割って剥(は)がすことができるものの、複雑に入り組んで氷結した箇所はどんなに力を込めて叩いても盤踞して剥がれない。アイスピックを両腕で持ち、腕と腰に力を入れて、リズミカルに繰り返し砕き続けるほかないのである。


 この作業を2時間ほど黙々と続けているとき、東京にいた十数年間に、生長の家講師として相談を受けたさまざまな「個人指導」のことを思い出していた。

  その人の抱えている心の問題が、単純な氷結の仕方をしていれば解決もまた容易である。しかし、溶けては凍結し、その上に積雪したものがまた溶けて、さらに車輪に踏まれて凍結してを繰り返したような心の問題は、複雑に入り組んで凍った氷の盤面と同じで一筋縄では剥がれないし時間もかかる。

 
 しかし、春が来ればすべてが氷解するのだ。

 単純な凍結はもちろん、どんなに複雑に入り組んだ凍結であろうとも、春が来れば跡形もなく消え去るのである。

 心に春を招き入れるためには、まず彼自身が、過去のすべてを打ち捨てることである。

 何もかもを放下することである。

 そして完全円満なる神にすべてを委(ゆだ)ねるのである。これが春の“誘い水”となり、やがて彼の魂の底から、永遠に消えない光が差してくる。

 その光は、どんなに拗(こじ)れた心の凍結をも、春の陽のように溶かさずにはおかないのである。

 イエス・キリストは、燈(ともしび)を升(ます)の下に置いてはいけない、燭台の上に掲げよ、と説いた。

 燈を升の下に隠すことによって心の凍結が生ずるのである。

 それがたとえ、どんなに小さな燈のように見えたとしても、それを燭台に掲げるとき、あなたの内なる光は春の陽のように輝き出して辺りの風景を“薫風の季節”へと一変させる。

 それが宗教的な救いである。

 これは外からもたらされる“救い”ではない。季節が変わるように、内から春の陽が輝き出すのである。


2015年1月26日

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2014年4月22日 (火)

うつ病を克服するために

 20年来のうつ病という、40代と思われる方から相談のメールをいただきました。

 宗教の門を叩くのは、人生で行き詰まった
場合か、この世を超えた崇高な真・善・美を求めての場合か、あるいは美しい生き方(信仰生活)をされている方と出会った場合などさまざまです。が、この方は前者、つまり全てがうまく行かず、悩み苦しんで門を叩いてこられました。

 最近、ますますはっきり感じるようになったのは、人生に「行き詰まる」とき、というのは、最も「神さまに近づいている」とき、でもあるようです。

 これをどのように導き、そして彼の「内なる神性・仏性」に取り次ぐことができるか、これは私ども宗教に携わる者に課せられた重要な使命でもあります。

 はたして、それがどこまで果たせているかどうかは分かりませんが、皆さんのご参考までに、お名前を伏せて、質問と私の回答を公開いたします。

 2014年4月22日



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【メールによる相談】


 
 こんばんは、初めてメールさせて頂きます。

 数年前の5月頃、東京・原宿で先生の御講話を拝聴させていただき、後でご指導頂き、先祖供養について教えていただきました。

 その節は親切に熱心にお話下さり、有り難かったです。本当にありがとうございました。

 教えていただいた通り、仏壇がなければ清浄な箱でもいい、とのことで、お札に先祖代々の名前を書き込み、清浄な箱に祀らせいただき、聖経をあげています。生長の家の本は真剣に拝読し始めて五年程です。

 メールでは失礼と思いましたが、宛先がわからす゛先生のブログを拝読し感銘致しまして送らせて頂きました。

 起こった事は全部己のせいですが、色々な事が上手く行かず苦しんでおります。

 ご多忙の中恐縮ですが、おてすきの時がございましたら、再度先生のご指導を賜れませませんでしょうか。

 昨年20年来のうつ病で障害者三級になりました、辛い体をおして派遣でなんとか勤めても、月11~12万ほどの収入で貯金も十数万です。

 生長の家で教えて頂いた、ただ善のみ、ただ豊富のみを唱え頑張っていましたが、収入が決まったサラリーマンがどうやって? 派遣には昇給、ボーナス、退職金がありません。

 四十代を迎え、ダブルワークをする力も、宝くじを買う金もありません

 父は十歳で亡くし、母、兄からはいまのよで言うなら、虐待とされるような事をされてきました。

 断絶され長年会っておらず、居場所も知らされていません。

 助けを求められる人はいません。暗くて鬱陶しい話を申し訳ございません。

 父が四十代でなくなり、自分も子供の頃から四十代で死ぬと思っていました。だから現状がこんなでも、もうじきさよならなんだから…という気持ちもあります。

 周りに引かれてしまいますので、誰にも相談できません。

 どんなに表面上明るく振る舞っても、自分の芯に硬い暗い闇があるようです

 また目、膝、腰の左側の体ばかりが悪くなるのです。

 収入、健康、家族、みなしくじっています。
 どうしても上手くいきません。せっかく生長の家の教えがあるのに、結果がついてきません

 勝手なおねがいで申し訳ございませんが、先生に一言ご指導賜りたくメールさせて頂きました。

 長々失礼致しました。

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【質問への回答】

 合掌、ありがとうございます。

 メールを拝見しました。以前に私が指導したことがあったとのことですが、文面を読んで感じたことをアドバイスします。

 頂いたメールによると、「生長の家で教えて頂いた、ただ善のみ、ただ豊富のみを唱え頑張って」いるとのこと。

 善や豊かさを口に出して唱えていたとしても、現在のあなたのように、「収入が決まったサラリーマンがどうやって?」なんて〝心の底〟でそれを打ち消していたのでは、いつまでも現状を変えることが出来ないのは、「心の法則」によってあなたの「信じた通り」のことが実現しているのです。

 せっかくの「行」が、「信」をともなわない〝空念仏〟に終わるのはもったいないことですが、それはあなたの生きる姿勢が、まだ信仰にまで到っていないのかもしれません。

 生長の家では、迷ったり行き詰まったりしたときには、「第一義のものを第一にする」ことが問題解決の基本であると教えられています。

 第一義のものとは、神のことであり、仏性のことであり、あなたの「実相」のことです。

 迷ったり、行き詰まったりするのは、「第一義のことを第一に」していないことの裏返しでもあります。

 つまり、神よりも、仏性よりも、実相よりも、現象にすぎない肉体の健康やお金のこと、暮らし向きのこと、などの〝取り越し苦労〟を第一にしていれば、三界唯心所現(心の法則)によって、あなたが心に描いた通りの(神ならざる、仏性ならざる)混乱した不完全な状態が現れるのです。

 このような中途半端な心の姿勢では、とても生長の家の信仰とは言えません。

 生長の家の信仰生活は、シンプルに言えば「第一義のものを第一にする」生き方です。

 現象は「心の影」に過ぎません。心の影は、聖経『甘露の法雨』に説かれているように「心」のフィルム(原版)を浄めることによって、いくらでも〝より善きもの〟に変えることがでるのです。

 信仰によって、あなたの人生を改善したいのであれば、これまでの自分の生き方を、「自分中心」から、「神を中心」にした生き方に変えることです。

「人間・神の子」の自覚の深まりも、悦びの人生を実現することも、あなたの生きる姿勢を「神(内なる神性・仏性)を中心に」据えることによって、大きく開けて来るのです。

 以下にアドバイスを書きます。本気で問題を解決したいのであれば、倦(う)まずたゆまず実行してみましょう。


①毎朝夕、必ず神想観を実修すること。

 神想観(祈り)は信仰生活の基本です。人間・神の子の自覚は、神想観を日々実修して、すべてを、どんな悩みも苦しみも何もかも〝神に全托〟して、そのまま円満完全なる実相を静かに観ずることによって深まるのです。
 不完全な現象は無い! 人間ははじめのはじめから円満完全な神の子である! との自覚が深まれば、あなたの人生は着実に好転します。

 実修方法が分からなければ、お住まいの教区や練成道場の練成会に参加して、先達の諸講師から正しい指導を受けることをお勧めします。


②毎日時間を決めて『生命の實相』などの聖典を拝読すること。

 生長の家の悦びの信仰は、「自性円満」(そのままで完全円満であること)に目覚めることから始まります。そのためには、あなたの内なる実相に、直接呼び掛けるコトバを毎日拝読して〝いのちの糧〟としてください。

 その第一歩として、『生命の実相』(日本教文社刊)を1巻から40巻まで順次読み進めてください。全巻そろえるお金がなければ、1巻から順次読み進めることです。読了したら、必ず次の巻を買うお金が揃います。信仰が深まるにしたがって、お金でも物でも協力者でも、すべては必用に応じて必用なものが巡ってきますから、安心して修行に励んでください。

 これと合わせて、御先祖と亡きお父様、すべての諸霊に感謝を込めて、仏壇の前で聖経『甘露の法雨』を読誦しましょう。


③人のお役にたつことを毎日1回以上実行すること。

 近隣のゴミ拾いでも、他人の幸せを祈ることでも、家族やお世話になった方に感謝の手紙を書くことでもよし。派遣先で深切な言葉や感謝の言葉を掛けることでもかまいません。今のあなたに出来ることを、密かに実行しましょう。これを続けてみましょう。

 現在の境遇を克服して「無限供給」を開く道は、あなたの内に在る(無尽蔵の)チカラを〝無償で〟人に与えることから開けてきます。〝与える者が、与えられる〟のです。

 天地のすべてのものは、神と神の現れですから、人生で出合う一つひとつの機会を〝かけがえのないもの〟として感謝して迎え、今のあなたに出来る深切を精一杯なさってください。

 最後に、あなたが無限生長の道を歩むために、勇気を出して地元の誌友会に参加してください。

 身近なところで真理の道を歩む方たちと実相を研鑽し、人生の光明面を見る「日時計主義の生き方」をしっかり修得すれば、「修行」も〝楽行〟となり、あなたが豊かに繁栄するためのたくさんの気づきや、ヒントや、アドバイスをいただけることでしょう。

生長の家本部講師
久都間 繁



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【礼 状】 (平成26年4月22日)

 ご多忙の中、突然の申し出に親切にご指導頂き、誠にありがとうございました。一生懸命やっていたことは、空念仏でした。

 先生にご指導頂いた数々を、良いご報告が出来るよう努力します。
 本当にありがとうございました。

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【礼状への返信】 (4月23日)

ご連絡をありがとうございます。

先ずは、何もかも、神さまに全托することからはじめましょう。

そして、まな板の鯉になって、楽に生かされて生きるようにしましょう。

神の御心のままに導かれますよう、祈っています。

久都間 繁


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2014年3月19日 (水)

祈りと愛行について(子供が授からず悩んでいる方へ ②)

 皆さんは、不思議な偶然が重なったときや、善いアイディアが次々と湧きでてきたとき、ふと、神さまから導かれていることを感じたことがありませんでしょうか。

 
 このような不可視の世界からの導きは、その場や渦中にいて感じることもあれば、ずっと後になって、長い歳月を経たあとで気付かされることもあります。

 ブログも何年か続けていると、このような神秘な導きを感じる機会が何度か訪れるものです。

 今回紹介させていただく礼状にも、そのような内容が記されていますが、礼状を書きたくなること、その動機の中に、すでに次に展開する世界の萌芽がめばえているのではないかと思われます。

 今回紹介させていただく手紙は、2年ほど前にこのブログに掲載した
「子供が授からずに悩んでいる方へ」で遣り取りした方から頂いたものです。
 


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【礼 状】 (2014年3月13日)

 久都間先生に子宝に恵まれたい件で、相談に乗っていただいてから2年がたちました。ここのブログで掲載されている内容をもう一度読み返して、4月からの自分のあり方を考えようと、久しぶりにのぞかせていただきました。

 すると、私の相談内容と同じ悩みを抱えた方のお話
(流産して悩んでいる方へ)が寄せられていて、とても驚き、見るべくして神様が導いて下さったのかと思いました。

 ご相談に乗っていただいてから、丁度一年後に私は仕事を退職しました。やはり現在の仕事を続けていては、ゆったりと家庭モードになることは難しいと考えたからです。しかし、教育現場から離れることへの寂しさもあり、退職してから2ヶ月後に、半日の仕事ではありますが、再び子ども関係の仕事に就き、現在に至ります。仕事量が断然減り、生長の家のご本を読んだり、聖経をあげたりするなどの余裕もできました。

 しかし、まだまだ悟りの浅い自分ですので、子宝に恵まれたいという焦りがなかなか治まらず、その焦りが主人にも少し移ってしまったようにも思います。「最も良い時期に神様が授けてくださる」と分かっていても、それは、いつ??と思ってしまう情けない状態です(^-^;

 この4月から再び中学校へ戻ろうかと、ある試験を受けましたが、不採用通知が来ました。面接の時には自分なりに手ごたえがあったので、「あれ・・?」と思っていたのですが、もう一通の手紙で、その理由が分かったように思います。

  その手紙は、一年前に別れたある生徒からの手紙でした。私が一生懸命指導していた部活動の部員の子です。自分の高校受験合格の報告をしてくれる手紙でした。そして、手紙の内容には、「先生が退職された理由が知りたい」ともありました。子どもを授かるために退職したとき、生徒たちにはどう説明してよいか分からず、「家の事情」とだけ告げていたのです。

 今回この手紙と不採用通知が同時に来たのは、神様に「何のために仕事をやめたのか思い出しなさい」と言われているような気がしてなりません。

  それでもなお、経済的なことも気になり、別の仕事も探そうか・・・と迷っていたときに、ここのブログに再び出会いました。なんだか肩を押されたような気がします。4月からいったん、仕事はきっぱりやめてみようかなと思います。

 まだまだ、気持ちが落ち着かないところもありますが、生長の家の勉強をしながら、神の子の自覚を深め、素晴らしい神の子さんを授かるよう頑張って生きたいと思います。

 また、不安になった時にはご相談させてください。ここにたどり着けて本当に良かったです。

 ありがとうございました。

 

【返 信】 

 近況をご報告くださり、ありがとうございます。

 かつてあなたが指導していた生徒からの手紙、そして不採用通知が同時に届いたのは、深い摂理に導かれてのこととと思います。

 また2年前、ご縁あってあなたから頂いた質問への回答をこのブログに公開しましたが、それを読んだ方から寄せられた質問にふたたび私が答え、それを今度はあなたがご覧になり、「肩を押されたように感じた」というのも、一連の神さまの導きであったのでしょう。

 この導きにしたがって、なにかアドバイスできることを綴ってみましょう。

 まず思い浮かぶことは「感謝の生活」です。『甘露の法雨』の冒頭に掲載されている「大調和の神示」には、「その感謝の念の中にこそ汝はわが姿を見、わが救いを受けるであろう」と説かれています。

 つまり「感謝の生活」こそが、神さまと心の波長の合う、神の子にふさわしい、また神の子さんを迎え入れるのに最適な生活なのです。
 それは天地一切の人に、物に、事に、ただ感謝、感謝の日々を送ること。

 また『生命の實相』には、いずれの章かは忘れましたが「絶対感謝」というコトバが説かれています。この感謝の意味は、何かを頂いたからありがたい、何かをしてもらったから、ありがたい、といった相対的な感謝も大切ですが、そのような条件に対する感謝ではありません。

 まだ何も与えられていなくても、またはマイナスの状況で、たとえ八方ふさがりの真っ暗闇の中であったとしても、現象の奥にある神(実相)を感じて、その円満完全なる実相の光りを観じ、信じて“無条件”で感謝することです。

 これは相対的な感謝ではありませんので、「絶対感謝」あるいは“無条件感謝”とでもいうべき「感謝」であり、この感謝こそが、生長の家の祈りである神想観で観ずることの“中身”であり、信仰の根源的な悦びもここから湧いてきます。

 これと合わせて、祈りの助行としての「愛行」を実践することをお勧めします。

「愛行」とは、「“愛”が“行”ずる」と書きますが、その文字が意味するように、あなたの内なる「愛」を、深くゆたかに鳴り響かせることが「愛行」です。この「愛行」は、教師をされていたときに、すでに授業や部活などの指導を通して無意識のうちに実践されていたことと思います。が、今度はこれを初めから〝無償で行う〟ということが、お仕事とはちょっと異なるところです。

 その〝無償〟なることのポイントは、神さまの御心を第一にする、ということです。つまりその行為が自分や家計にとって損か得か、収入があるか無いか、といった利害や損得勘定によってものごとを判断する〝左脳的な働き〟をいったんお休みさせて、すべてを円満完全なる大生命にゆだねてみる、ということです。

 円満完全なるもの(神)に全てを委ねることを“全托”といいますが、全托することによって円満完全なるものが現象世界に顕れて、全ての問題は解決し、あらゆる願いは叶えられる、それが生長の家で説くところの「神癒」(meta physical healing)なのです。

 そのためには先ず、ご自宅で祈り(神想観)を実修して、神さまに全托して、あなたの内から、誰かが心から喜んでくれそうなことがヒラメイテきたら、毎日それを素直に一つひとつ実践に移してみましょう。どんな小さなささやかなことでもいいから、やってみてください。

 神想観という祈りが、神なる宇宙大生命との一体感を深める〝静的な工夫〟であるとすれば、“無償の愛”を行ずる「愛行」は、これを体感して実践する〝動的な工夫〟に当たります。〝工夫〟とは、神や仏の御心に専心専念こころを合わせることです。この「祈り」(神想観)と「愛行」を通して、神さまの世界にある無尽蔵の知恵、愛、生命をこの世に具体的に実現させることになります。

  そのためには、生長の家の教えを、多くの先達や仲間とともに学ぶヤングミセスの集いや、母親教室に参加して、ともに真理への道をあゆむ仲間から、善いアドバイスをいただきながら精進されることをお勧めします。

 1人で研鑽する時間も大切ですが、道を求める仲間たちとともに歩むことで、独りの修行では得ることのできなかった、思いがけないほど多くの発見や内的な気づきがあるものです。

  分からないことがあれば、遠慮なくご相談ください。

                        (2014年3月19日)

生長の家本部講師
久都間 繁

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2014年2月 1日 (土)

“いのち”に授けられた宝物

昨年の12月上旬、インドネシア・ジャカルタの高校で、学生を対象に「生長の家」のお話をさせていただきました。

参加した教師と学生のほとんどがムスリムのため、イスラームの聖典『コーラン』の一節にある、普遍的な真理と思われる教えの“中心部分”を表現したコトバを引用しながら、演題を「“いのち”に授けられた宝物」と題して、私たちの内から切実に湧いてくる「夢」や「願い」は、神様から授けられたものであることについてお話しました。

また、「コーラン」に説かれたアッラー(神)の恩恵を現す「神兆(みしるし)」について紹介した上で、――私たちは神様の愛に取り巻かれており、それは太陽や月や星や雨や海や植物の(など自然からの)恵みとなり、祖父母や父母兄弟の家族や友人や先生方の愛となって、私たちを生かしている――

という話をして、最後に、「皆さんの“夢”は、神様から授けられたのだから決して遠慮してはいけないし、あきらめたらだめだ! それは君たちのためだけではない、皆さんの夢が実現することを大勢の人が待っているのです!」とお話させていただきました。

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 皆さま、こんにちは。

 今日は、皆さんお一人おひとりの“いのち”に授けられた宝物について、お話したいと思います。

 ここにいる皆さんは、きっと将来の「夢」をお持ちだと思います。
 たとえば「大好きな仕事をしたい」とか、「結婚して幸せな家庭を築きたい」とか、「両親に悦ばれたい」といった“夢”や“願い”を持っているのではないでしょうか。

皆さん、いかがでしょう。自分の中にある“夢”や“願い”について、今、眼を閉じて静かに見つめてみましょう――。

 

 いかがですか。それぞれ、思い当たるものがありましたでしょうか。

 ここで、私がお伝えしたいことは、その「願い」や「夢」こそが、実は皆さんお一人おひとりに授けられた最高の宝物だ、ということです。それは要するに、皆さんが人生で幸福な生活を実現するための「幸せの種(たね)」なのです。

 皆さんの内なる「幸せの“種”」を育て、「夢」の実現を手助けすることが、この学校で勉強することであり、先生方がここで教えてくださることの目的です。
ですから先生方は、皆さんの「夢」や「願い」が人生を通して実現することを、いつも願っているのです。

 なぜなら、皆さんのうちにある「幸せの“種”」から芽が出て、やがて花を咲かせ、実を結ばせることこそが、皆さんがこの世界に生まれた目的であり、他の誰とも代わることのできない、皆さん一人ひとりに授けられた大切な使命だからです。

 では、その「願い」や「夢」の“種”は、いったい誰が授けてくれたのでしょう。

 皆さんは、自分で考えて作ったと思いますか。それともご両親が授けてくれたと思われますか。あるいは学校の先生が授けてくれたのでしょうか。

 以上の人たちは、皆さんに降り注ぐ太陽のように、皆さんの「夢」や「願い」が地上に花咲くための手助けをしてくださっていることは間違いありません。しかし、皆さんに「夢」や「願い」を授けたのは、それは慈愛に満ちた創造主である神様(アッラー)が授けてくださったのです。

 ですから、皆さんの「願い」や「夢」がこの世界で花咲き実現することは、神様の御心が実現することでもあるのです。

 また、皆さんが「夢」や「願い」の実現に向って悦び勇んで生きることこそが、神様の悦びなのです。

 もっと言えば、皆さんの「夢」や「願い」が実現することを、実は神様が無限の知恵と愛とチカラを持って、ちょうど大地に降り注ぐ太陽や雨がパパイヤの木やマンゴーを育てるように、ご両親や先生方を通して、全面的に後押ししてくださっているのです。

 

 そこで今日は、みなさんの内に在る「夢」や「願い」について一歩踏み込んで学んでみたいと思います。

 さて、ここではムスリムの方が多くいらっしゃると思いますが、コーランの50章16節には、次の言葉が書かれています。

 

「われ(アッラー)は彼の頸(くび)の血管よりも近くにいる」(50章16節)

 

 この「われ」というのは、アッラーのことです。神様は私たちの「頸(くび)の血管よりも近くにいる」とは、どういうことかと言いますと、神様は私たちの“最も近くにいる”ということです。

 もっとハッキリ言えば、「内に在る」ということです。つまり神様は、私たちの内にあって、私たち一人ひとりとなって生きている、ということです。

 皆さんは、お父さんとお母さんの子供であることはもちろんですが、それと同時に、偉大なるアッラーの子供でもあるのです。

 ですから、どんなに実現できそうもない「夢」や、今の自分とは懸け離れたように見える「願い」であっても大丈夫です。

 豆粒のような“種”が、やがて樹木となり立派な花を咲かせ、たくさんの果実を実らせるように、いつもアッラーと共にあることを喜び感謝していれば、「夢」や「願い」を叶える道が、必ず開けてくるのです。

 たとえば皆さんは、せっかく「夢」や「願い」という「幸せの“種”」を持ちながらも、現在の貧しさや、自分の能力の足りないところだけを見ている人はいませんか。

 たとえば私の家にはお金が無いから「夢」を実現できないとか、私は能力がないからダメだとか、頭が悪いから無理だ、なんて思っている人はいませんか? 

 それは神様を信じているのではなく、ただの心の現れである「現象」を見ているだけなのです。

 私たちが今まで考えてきたこと、思い込んでいたことが、「現象」となって目の前に現れているだけにすぎないのです。

 一粒の種が豊かな実りをもたらすように、皆さんは、神様に授けられた「願い」を、感謝と喜びをもって努力することで、どれだけでも運命を開拓するチカラが湧いてきます。

 より豊かな、より悦びに充ちた、より善き運命を、皆さんの人生に実現する秘訣がここにあります。

 皆さんの内にある「夢」のツバサを、心の限り大きく広げてください。そして皆さんの「願い」が、人生に必ず実現することを伸び伸びと悦んでください。

 そして、今できる一つ一つのことに一所懸命に取り組んでください。それが「夢」や「願い」を叶えるための道です。
 そしてまっすぐに、あなたの「夢」や「願い」や「希望」に向って、黙々と進んでください。

 

 コーランの第51章20-21節には、次のコトバが説かれています。

 

「そして地上には、信仰心の篤い者への御徴(みしるし)が多くある。汝らの中にもある。それでも汝らは見ようとしないのか」(第51章20-21節)

 

 このコトバは、神様は、どこかの遠い彼方にいるのではなく、常に皆さんと共にある、ということを伝えています。

 そして今現に、神様が皆さん一人ひとりの“いのち”となって生きているのです。その神様の御心が、皆さんの内から、絶えず“願い”となり“夢”となって喜びのメッセージを発しています。

「幸せになりたい」「豊かになりたい」「すばらしい相手と結婚したい」「幸福な家庭を築きたい」「夢をかなえたい」これらの明るい、悦びと希望に満ちた“願い”は、すべて皆さまの内なる神様から発しています。

 なぜなら神様は、はじめから満ち足りており、幸福であり、悦びそのものだからです。したがって、神様の子供である皆さんもまた、満ち足りたい、幸福になりたい、悦びたい、という“願い”が自然に湧き起こってくるのは当然のことなのです。

 だから皆さん、心の底から湧いてくる“願い”を遠慮してはいけません! “夢”をあきらめてはだめです! それは自分のためではありません。あなたの“夢”が実現することを、多くの人が待っているのです。

天地に満ちている“神のいのち”を豊かに感じよう

 さて、視野を大きく広げてみれば、神様は皆さんの中にあると同時に、皆さんに光りを降り注ぐ太陽となって現れています。
 また、私たちが住む地球となり、海となり大地となり、私たちを取り巻く空気となり、水となり、火となって現れています。

 また、皆さんのお父さんとなり、お母さんとなり、おじいちゃん、おばあちゃんとなり、兄弟姉妹となり、学校の先生となり、友だちとなって現れています。

 つまり皆さんは、神様の“愛”と“生かす力”に取り巻かれていると同時に、神様は皆さんの内にも満ちているのです。つまりこの世界は神様に満ちあふれている、と言えるのです。

 

 最後にコーランの数節(16章10-13節)を拝読して、今日の話をまとめてみます。

 

彼(神様)こそはお前たちのために天から水を降らせて下さるお方。それが飲み水にもなれば、またそれで樹木が(育って)お前たちの家畜の飼料ともなり、また(神様は)それでお前たちのために穀物やら、オリーヴやら、棕櫚(しゅろ)やら、葡萄(ぶどう)やら、そのほかありとあらゆる果実を育てて下さる。まことにこれこそ、ものを考える人にとっては、まぎれもなく神兆(みしるし)というべきではなかろうか。

またお前たちのために夜と昼、太陽と月を使役して下さった。それから星々もまた御命令によって使役されている。まことにこれこそ、もののわかる人にとっては、まぎれもない神兆というべきではなかろうか。

またお前たちのため地上にたくさん作り出して下さったもの(動物や植物)の種種様々な色どり――まことにこれこそ、注意ぶかい人にとっては、まぎれもなく神兆というべきではなかろうか。 (16章10-13節)

 

 ここには、神様の「神兆(みしるし)」について説かれていますが、ここでとても大切なことは、神様の「神兆(みしるし)」を豊かに感じることのできる人は、「ものを考える人」「もののわかる人」「注意ぶかい人」と説かれていることです。

 つまり、これとは逆に、「ものを考えない人、もののわからない人、注意が散漫な人」は神様を感じることができない、ということです。

 皆さん、動物や植物が生長することの不思議や、夜空に浮かぶ星の美しさ、朝日や夕日など自然現象の美しさを豊かに感じてください。

 そしてお父さんお母さんをはじめ皆さんを見守る人々の愛や思いやりを思い出してください。

 これらの全ては慈愛深き神様の恵みそのものなのです。

 この神様の神兆(みしるし)のひとつ一つを注意深く観察し、心から感謝しましょう。

 私たちを取り巻く神様の恵みを豊かに感じて、神様の恵みの中に生かされている喜びをかみ締めてみましょう。

 それでは、ただ今から紙を配りますので名前を書いてください。これから10分ほど、皆さんを取り巻く神様の恵みを1つ1つ思い出しながら、感謝をこめて書いてみましょう。

 その後で、皆さんの将来の“夢”や“願い”を書いてみましょう。どうぞ始めてください。

 

(このとき、ホワイトボードに次のように明記しました)

 

①私の周りに満ちあふれている神様の恵み

②私の将来の“夢”や“願い”

※書き終えた後で、何人かの人に発表していただきました。また、これを自宅の机の前に貼って神さまに感謝していれば、それぞれの夢が叶うことをお伝えしました。

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2013年3月23日 (土)

光りが闇を消すように

 娘が妻子ある男性と付き合い、先方のご家庭をこわしてしまったという相談のお手紙を、そのお母様からいただきました。

「光が闇を消す如く」というご著書を谷口清超先生がお書きくださっていますが、「闇」という“悩み”や“苦しみ”が消えるのは、はじめから「光り」のみが実在しているからです。

 どのようにこじれたと見える問題であっても、この実在の「光り」を灯すことによって、問題は解決し、大調和の世界が今、ここに顕れるのです。


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【質 問】 

 二人の息子は結婚し、二人ずつの孫も生まれ、心より嬉しく思っています。あと、一人娘(34)が同居しています。息子たちは男の子ですから、いたずらが多く、私はビシビシ厳しく育てました。

 しかし娘は、父親が可愛さ余ってどうしても甘やかして叱ることもできず、私が厳しくすると私が怒られ、ずいぶん悩みましたが変わることはなく、私は夫に反発して「将来の責任は持てないからから」と思っていましたが、結局私にのしかかってきました。

 娘は、男性とのお付き合いは度々あったのですが、なかなか結婚に至らず、まだかまだかと首を長くしていました。

 ここ二、三年「ステキな彼だよ!」なんて言いだし、私たちはいつ来るかいつ来るかと思っていましたが、合うこともなく、変だな? と思っていましたら、彼は結婚していて子供二人がいることを知り、私はとてもショックでした。

 彼は会社の上司(40歳)で、親切にしてもらっているうちに親しくなったらしく、相手の家庭が壊れ、もう後戻りできないところまで行き、最近別居してアパートを一人で借りたようです。

 娘は前の方との交際のショックや親友の思い掛けない死などから、軽いうつ病となり病院に通院しています。娘は、「私もこんなふうになるとは思わなかった」と言います。

 また、彼のことを取るつもりもなく、「奥様と別れないで」と彼に伝えたようです。が、奥様はご主人に夕食も作らなくなり、話もしなくなり、もう修復できないようで、私はどうしてよいか分かりません。娘を信じている夫に話すこともできず、毎日頭が痛く、誰にも話せずにいます。

 娘は「彼がいるから生きてられる」と言ったりしますが、相手の方の下のお子さんが、今年中学を卒業し高校生になります。
 娘は、「離婚が成立したら家に婿さんに来てもらいたい!」と言ったりしていますが、夫には、娘はどれほど甘やかされていても、心底話もできません。

 私は二十五年前に夫と結婚して、子育て中にご近所の方から『白鳩』誌をいただき、生長の家と出合い、もっと勉強したいと思い、講習会に参加させてもらいました。すぐ聖使命会員にもなり、今では子供三人孫四人とも十一人分、私の収入から納めさせていただいています。よい二人の嫁さんにも恵まれ、とても感謝しています。

 娘の結婚が私の希望でしたが、この縁をどのように受けとめていったらよいか、ご指導をお願いしたくペンを取らせていただきました。
 誰にも言えず、娘から「もう他の人を好きになれない!」とか言われますと強くも言えず、神様におすがりするしかありません。

 私は、娘と違って、厳しく酒乱の父で、甘えることもできない、話すらできないので愛に飢え、もう暗くおどおどした子供でした。やがて家を飛び出し、やはり家庭のある人と知り合い、知らず知らずのうちにどうしようもなくなっていました。

 そんなこともすべて知って夫は私をもらってくれたのです。だから、その上、娘がそんなことに、私は恐ろしさを感じています。

 こんな相談で誠に恐縮です。が、おすがりする気持ちで恥をかくのを知っての上で、書かせていただきました。

 

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【回 答】

 

 合掌、ありがとうございます。

 

 心待ちにしていたお嬢様の交際相手が、妻子ある職場の上司だったとのこと。さぞや驚き、そしてご主人にも相談することもできずに、一人で悩み苦しまれたことと推察しております。

 長年、生長の家の教えを勉強されているあなた様は、もうご存知のことと思いますが、これはお母様ご自身が経験されたことと同じようなことが、お嬢様にも再現されているわけですから、どこかでこの因縁を解消しなければ、先方のご家族の辛い悲しみが加わることで、さらに子々孫々にわたって同じような現象が再現されるかもしれません。

 

 しかし、解決できない問題などありませんので、ご安心ください。
 因縁や業(ゴウ)よって生ずる現象の一切は、心のカゲに過ぎないのですから。

 生長の家の教えを真剣に行じて、これまでの悪しき因縁や業(ゴウ)を解消された方々は、あなた様もご存知のように数知れずいらっしゃるのです。

 以下に、そのためのアドバイスを書きますので、これを一つの参考にして、信仰の道に精進してください。


①日々の祈りの中で天地一切のものに感謝すること。


 お手紙の中で、お父様は酒乱で、あなた様は話をすることすらできなくて愛に飢えていた、と綴られていましたが、お父様が酒乱のような状態になるということは、そこに至るまでに、どれほどの辛い悩みや悲しみを抱えていたことでしょう。

 そのことに、これまであなた様は、深く思いを巡らせてあげたことがあったでしょうか。

 これに加え、あなた様は娘時代に家を飛び出してしまったのですから、お父様お母様の悲しみは、その後にあなたが出合った妻子ある男性のことも含め、どれほど耐えきれなかったことでしょう。
 そのご両親の悲しみの幾分かを、あなた様は今、味わわせていただいているのかもしれません。

 お嬢様が、妻子ある男性と道ならぬ関係へと走ってしまったことの背景には、このお父様のみならず、あなた様がご自身の胸の内に隠し持っていた自責の思い(罪の意識)が、理不尽なことと思えるかもしれまんせんが、影響を与えていることでしょう。

 しかし、神の子の本質は「光り」であり、「愛」ですから、神を生きたとき、光りを生きたとき、家系にまつわる一切の罪は消えるのです。

 くり返しますが、あなた様に巡ってきた今回の問題は、全てを解決できるからこそ現れているのであり、あなた様に家族を救う尊いご使命があればこそ、生長の家の扉を叩かれたのです。

 さて、お父様の愛は、酒乱という姿しかご記憶にないかもしれませんが、それはまぎれもない“神様の愛”が、お父様を通して不完全ながらも現れていたのであり、このような不如意な姿しかあなたに見せられなかったお父様は、どんなに無念だったことでしょう。

 しかしこれも、神の子の円満なる実相を知らなかったお父様の“自責の念”のなせる仮の姿にすぎません。そのことは、人生経験を積まれた今のあなた様には、痛いほどお分かりいただけるのではないでしょうか。

 神の無限の愛が、お父様とお母様を通してあなたを愛し、今はご主人をはじめご家族を通して、周りのすべての人やものや事を通して、常にあなたの上に注がれているのです。

 神想観を通してその祝福を観じ、無限に感謝させていただきましょう。そして聖経『甘露の法雨』によるご両親への供養を通して、どこどこまでも光明一元の世界であることを悦びましょう。

 

②神の子としての使命(愛)を生きること

 お手紙で紹介されているように、あなた様は25年前の子育て中に、ご近所の方から生長の家を伝えていただき、み教えの光りに導かれて人生を歩み、そのおかげで子供3人、孫4人に恵まれて、今日まで平穏な生活を送ることができたことを、あらためてふり返ってみましょう。

 

 イエス・キリストは、「ともし火は升(ます)の下ではなく燭台(しょくだい)の上に置くことで、家の中はすべて照らされる」(マタイ伝)と説かれています。

 真理の灯(ともしび)は、あなた様が生長の家の教えによって光明生活へと導かれたように、家族や周りの人々にみ教えを明々と灯すことによって、多くの人が救われるのです。

 なによりも、あなた様が、はじめのはじめから「神の子」であり、「光り」であり、円満なる「愛」なのですから、自らの実相である「愛の光り」を照り輝かしてこそ、その本領を発揮して、光りとしての“ご使命”を全うできるのです。

 まずは今できるところから、神様の教えを伝えるために白鳩会員となり、ご自宅で白鳩誌友会を開催して、ご家族や近隣の方々を真理の道へと導き、一歩でも二歩でもあなたが今できる「愛行」を実践しましょう。

 あなたが「神の子」としての実相の灯を高く掲げ、「光り」をともす生き方をすれば、光りが闇を消すように、一切の悪業、悪因縁が消え、根本的な問題の解決につながるのです。

“急がば廻れ”という諺の通り、まずは人類光明化運動の一端に加わる決意をしてください。そして教化部や練成道場の練成会に参加して、心機一転して新生するための善き契機としましょう。

 

 分からないこと、追加の質問があれば、遠慮なくご連絡ください。

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2013年1月30日 (水)

内なる光りを解き放つ

 私たちは、生活に豊かな富や幸福の実現を願う思いがある一方で、無意識のうちに、それらの実現を否定する“逆念”を起こしている場合があります。

“逆念”とは、燃えかけようとしている幸福の炎に、「シュン!」と、水を掛けるような働きをします

 炎が燃えたのなら、暖をとり、料理を作り、火の豊かな恵みを感謝して受ければいいのですが、おもしろいことに逆念は、自分の幸福や富が実現することを否定してしまうのです。

 このことを心理学では、「自己処罰」とも表現していますが、その背後には「罪の意識」が作用している場合が多いのです。

 このことから、私たちが人生に幸福を実現する方法は、意外に簡単であることが分かります。

 それは、「自己処罰」の原因である、「罪の意識」をぬぐい去るだけでいいのですから。

 そのための最良の方法は、自己の本質を根源から見つめること。

 自己の本質が「神」であり、「愛」そのものであることを見つめ、それ以外の何ものでもなかったことを心の底から悦ぶことです。

 たったそれだけのことで、私たちの運命の豊かなる展開をさまたげていた一切の帳(とばり)が消え、あなたの内なる無尽蔵の光りが解き放たれるのです。

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2012年11月20日 (火)

たとえ病気が消えたとしても

 生長の家を熱心に学んでいる方と、メールを通して「実相を直視すること」について遣り取りしていたところ、次のようなご質問をいただきました。

【質 問】

息子の健康のために生長の家を勧めていましたが、彼は何もしなくて構わない、私自身が家族の実相を直視していれば、暗は消えるからそれで良いのでしょうか。彼を愛する母にとって、彼自身が三正行を実行して信仰を深めて欲しいと願っていますが、私だけ実行して信仰を深め、彼に関しては神様にお任せすべきなのでしょうか?

 

また、友人に対しても生長の家のみ教えを勧めない方が良いのでしょうか? 私だけ実行して、彼等の実相直視さえ続けていれば良いのでしたら、私にとっても簡単です。私の信仰が深まるにつれて周囲の人々も自然にみ教えに振り向き実行する時が来る筈だということでしょうか。周囲の人々は私の鏡ですものね。

   ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・

 メールなどの文章によるコミュニケーションには、断片の言葉だけが一人歩きして解釈される場合があるものです。
 さて、上記の質問を要約すれば、
「病気で苦しんでいる人の“実相”だけ観ていればいいのでしょうか。三界唯心所現(すべては心のカゲ)であれば、自分の心が変わるだけで問題は解決するのでしょうか」
 という意味になるかと思います。

 どのような教えであれ、誰かを神や仏と繋がるような深い信仰に導くためには、人それぞれの気根に応じた対機説法が重要な役割を担っています。が、そのためには「直接合って話すこと」が最良の方法であることには変わりありません。

 ともあれ、私からの回答を公開させていただきます。


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【回 答】

 以下に、ご質問いただいた何点かのことへの返信を書きますので、ゆっくり目を通してください。

 分からないことがあれば、またご連絡ください。

 まず、息子さんの「健康の為」に聖経読誦を勧めることは、彼を、神への正しい信仰に導くために、とても大切なことなのです。

 ご本人が、神想観(祈り)や聖経読誦によって「実相」を正しく把握すれば、その結果として暗(症状)は次第に消えていくのです。また聖経を読誦することで、ご本人が神の子の自覚を深めるにしたがって、霊界の諸霊たちも真理を悟って救われるのみならず、護り導いてくれるようになります。

 また、息子さんにしても、友人の方にしても、「神癒祈願」をはじめとした第三者からの祈りは、「信仰の道」へと歩んでいただくための“橋渡し”のお役目は果たすことができますが、何よりもご本人が信仰の道をあゆみ、「実相」に目覚め、神の子(仏の子)本来の無限に自由な世界に新生することによって、はじめて根本から救われるのです。

 それが、イエス・キリストの云った「神の栄光があらわれる」ということです。
 つまり「神の栄光」とは、その人が「実相」に目覚めて内在の神性・仏性が光り輝くことなのです。

 ですから、彼らを真理の道へと導くことは、とても重要なことなのです。

 これと合わせて、先に真理への道を歩んでいる私たちは、神想観を通して、彼らをはじめご縁あるすべての人々の実相を観じ、彼らの気根に応じて真理のコトバを通して導くことが、彼らの魂の生長にとって大いなる助けとなるのです。

 たとえ、第三者からの祈りによって病気が治ったとしても、盲目が消えたとしても、ご本人自身が神への信仰へと振り向いて、神と繋がらなければ、いつまでも現在の境涯を卒業することができませんし、「業」という念の集積を解消して「人間・神の子」の自由な境涯へと新生するのに、何度も病気や苦難を繰り返すなどたいへんな遠回りをしなければならないことでしょう。

 ですから、神想観を通して、その方の実相を直視するとともに、愛行を通して彼を「真理への道」(信仰生活)へと導くことがとても重要なのです。

 また、彼らが将来ご家庭を持ち、やがて子供たちに恵まれた後は、彼自身の内に目覚めたチカラによって、その家族をも真理への道へと導くことができることでしょう。

 これが、私たちが実践している菩薩行であり、人類光明化運動・国際平和信仰運動なのです。

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2012年11月19日 (月)

祈りによる“救い”について

「祈り」による救済(神癒)について、海外にお住まいの生長の家の方から質問をいただきました。
 
 私からの返信が、生長の家の「国際平和信仰運動」のことや「心の法則」や、「神癒」(自性円満の自覚による神の癒し)などに及び、生長の家をご存知ない方には、ちょっと難解なところがあるかもしれませんが、分からないところがあれば遠慮なくご質問ください。

 また、どのような宗教であれ、日々世界の人々の幸せを祈り、信仰の道に精進されている方には共通するテーマでもあるかと思われますので、皆さまのご参考のために公開することにしました。 


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>>(質問)祈りに合わせて、人助けに興味を持つ高級霊も協力してくださいますか?

 

 とのご質問にお答えします。

 

 生長の家の人類光明化運動や、国際平和信仰運動は、人間界の運動だけではありません。

 

 このような運動は、生長の家に限らず神界・霊界・現界の神々や高級霊という、天使として、あるいは“霊の選使”としての使命をもった人たちに共通の荘厳なる一大運動なのです。

 

 もちろん、この運動は国境や人種の違い、あるいは宗教や宗派などといった“現象”を超えたものであり、空間などの「距離」も越えていますので、どんなに離れていても、「祈り」や「集団祈願」が功を奏するのです。

 

 神癒とは、ご質問にあったような「人助けに興味を持つ高級霊の協力」ということも間接的には影響しているかもしれませんが、根本的には、神は、宇宙に充ち満ちている“無限生命”ですから、この“無限生命”を吾が内に自覚さえすれば、全ての問題が解決し、全ての病は消えるのです。

 

 その本来完全円満なる実相が、現象世界にそのまま顕れるのを邪魔していると考えられているのが、天理教祖が云うところの「心の表面に付いた埃(ほこり)」であり、生長の家で説くところの、「迷いの念(こころ)のフィルム」いわゆる「業(ごう)」なのです。

 

 現象界の問題を解決したいのであれば、まず第一にすべきことは、「神想観」などの祈りと、真理のコトバが書かれた聖典やお経の拝読によって、本人が「自性円満(そのままで円満完全)」なる“実相”を自覚することに尽きるのです。実相を自覚することによって、「迷いの念(こころ)」が消えるのです。

 

 神癒祈願や集団祈願などの「祈り」は、その手助けにはなりますが、根本的な解決は、ご本人が本ものの信仰生活に入るより他はありません。

 

 第三者の祈りによって「迷いの念」が一時的に浄化されても、本人の心が内なる神(大生命)に向かわなければ、「迷いの念(こころ)のフィルム」の投影による不完全な現象は、何度でも再現することは、以上の説明でご理解いただけることと思います。

 

 神は大生命であり同時に大光明ですから、その神に全托すれば、たとえ何千年何万年続いている闇でも消えるのです。

 神の無礙の光にふれて「迷いの念(こころ)」が消えることで、円満完全なる実相世界が、この世(現象世界)にも顕現する、それが、「健康」となり「繁栄」となり「調和」となって現れるのです。

 つまり信仰生活とは、日々の祈りと、真理のコトバが書かれた書籍やお経の拝読、そして神の愛を実践する「愛行」の三正行が、神さまと心の波長を合わせるために、もっとはっきり言えば、「神の子としての円満完全なる人生」をこの世に具現して、多くの人々を幸せにするために、いかに大切であるかということが、お分かりいただけることと思います。

 

 光の子としての、ますますのご活躍を祈念しております。

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2012年8月19日 (日)

子供の良縁を願う母親への手紙

 30代になっても結婚しない長男、長女のことを案じるお母様から、結婚の成就を願うお手紙をいただきました。

 彼女は、若くしてご主人を亡くし、生長の家の信仰を心の拠り所に、仕事と家庭とを両立させ、さらに白鳩会の活動に熱心に携わりながら、当時小学生だった2人の子供を立派に育て上げてきました。

 仏の四無量心の“捨徳”の信仰は、神(仏)の無限の愛の中に、これまで育んできた大切なものの一切を委ねることでもあります。

 深い信仰をお持ちの方なので、目の前にある「唯神実相」の世界に“進一歩”できるようアドバイスさせていただきました。
   

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 合掌、ありがとうございます。

 女手一つで二人の幼子を育て、立派に社会へと巣立たせたこと、ひとかたならぬご苦労があったことと思います。

 しかし巣立った限りは、後は神さまの無限の大愛が、天となり、大地となり、一切の人や物や事となって、親の愛以上に、大切なみどり兒たちを育むのです。

 あなた様がその神の大愛に一切を委ね、信頼し、甘え切ることが、お子様たちが親元を離れるということであり、それぞれが家庭を持つ、ということでもあります。

 以前もお話しさせていただきましたが、「願い」は“すでに実相世界に成就している”からこそ、私たちの“切なる願い”となって、後から脳裏にひらめいているのです。

 つまり、すでに成就している「願い」の方が、すべてに先立って在る(実在する)のであり、それのみが実相であり真実在なのです。


 子供たちが最良の伴侶と子宝に恵まれ、光明輝く家庭生活をいとなんでいることは、久遠の昔から、すでに今此処に在り通しているのです。その実相・実在をただ観じ、ただ悦び、ただ神に一切を委ねて悦んで生活していればいいのです。

 すでに一切が成就している世界が“今ここに在る”のですから、その「実相」を生活の中心に据えて、大安心の気持ちで天地の万物を愛し、感謝する日々を送ること。それが神への全托であり、生長の家の信仰生活でもあります。

 それが、あなた様のお手紙に綴られていた“ハッキリと願う”ということの真意なのです。

 光りあふれる久遠の幸を祝福祈念しております。

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