万教帰一の信仰

2009年10月29日 (木)

読者からの質問に答えて

 本欄の読者から、メールで質問をいただいていました。が、仕事などの関係で回答を出すのが伸び伸びになってしまいました(^^;

 質問を2ついただいておりましたので、まとめて回答させていただきます。


質問1

 私たちのこの現象世界は表現するための世界であるといわれていますが、天国的状態を表すためにやはり人は苦行難行といわれる時期があるのではないでしょうか。よく生長の家では苦行難行はいらぬといいますが? そのために大変な努力と精進だけではなく時間もかけ命がけで求めているのです。実相が絶対的力を持って私たちを生かし愛していられるのなら、もっと端的に表現の能力を与えてくださるべきではないでしょうか? 実相があれど現れずではどうしょうもないのでは?


質問への回答

 今年になってから、私は本部会館での聖典講義で、谷口雅春先生の書かれた『幸福生活論』をテキストにお話しさせていただいていますが、ご本の中に次のご文章があります。

「人生の航路に於いて遭遇する総ての人生体験の意義は「人格」を陶冶(とうや)し向上せしめる鍛錬(たんれん)である点に存します。あらゆる見せかけの困難は、真の神の如き勝利の門に入るための入り口に設けられたる鍵穴に過ぎないのです。その鍵穴にピッタリと当てはまる鍵とならなければならない」(『幸福生活論』70ページ)

 このご文章は、さらりと読んでしまうと当たり前のことしか書かれていないように見えますが、読みようによっては実に深い意味を含んでいます。

 ここに「人格」というコトバが出てきますが、谷口先生がお説きくださっている「人格」とは、私たち一人一人となって現れた「神の子の個性」という意味に解釈してもいいのではないかと思います。

 つまり、人生体験(人生での苦労や修行)の意義は「神の子の個性」を陶冶し向上せしめる鍛錬である、ということになります。

 人間は、はじめから「神の子」なのですから、人生体験や苦労や修行によって「神の子」になるわけではありません。

 ですから生長の家から見た修行の意味とは、「私たち一人一人に授けられた神の子の個性を向上せしめる」ということであり、平たく言えば、神の顕現である「人格(神の子)」を通して、神の完全円満大調和なる真・善・美の世界を地上にも具象化する、ということになると思います。

 以前にも紹介しましたが、聖経『甘露の法雨』には、

「神があらわるれば乃ち
善となり、
義となり、
慈悲となり、
調和おのずから備わり、
一切の生物処を得て争うものなく、
相食むものなく、
病むものなく、
苦しむものなし。」

と書かれているように、私たちが、より智慧深く、愛深く、健康に、豊かに、悦びあふれ、大調和の生活を実現する、ということが、「人生の航路に於いて遭遇する総ての人生体験(修行)」の目的ということになります。


次の「質問2」の回答も、これと密接につながっています。

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質問2】

 今一番ほしいものはこころの安定と平和と「現象なし」打ち切る絶対力です。
 願望より想念のほうが強いとよく聞きますが、現在意識があってその下に潜在意識、もっと下は超在意識と、自分の心は自分でもコントロールできなくて、また習慣性がありますと言われると
、はるか遠いところへ神様が行かれていくようで、・・・苦しくなってしまいます。これは、私にとってとても重大な問題なのです。


質問への回答

 先に紹介した『幸福生活論』の一節は、次のように続いています。
 
「あらゆる見せかけの困難は、真の神の如き勝利の門に入るための入り口に設けられたる鍵穴に過ぎないのです。その鍵穴にピッタリと当てはまる鍵とならなければならない」(同書、70ページ)

 私たちが人生で遭遇する「困難」とは、谷口雅春先生によると、それは「見せかけ」のものであり、「勝利の門に入るための入り口に設けられたる鍵穴」である、ということです。

 勝利の門に入るための「鍵穴」に、鍵を入れて回すためには、私たちは「鍵穴」にピタリと入るような無碍自在な「カギ」にならなければなりません。

 「神」や「仏」は、宇宙に満ちる大生命であり、無碍自在です。神の子である私たちもまた、本来は無碍自在な生命なのです。そのような神の子は、どのような複雑な「鍵穴」にも自在に(観世音菩薩のように)相を変えて「鍵」を合わせることができるのです。

 ところが私たちが、人生のさまざまな問題に直面するとき、それを「困難」と感じるのは、私たちが「人格(神の子)」の周りに十重二十重にレッテルを貼って、「これでなければならぬ」と形や物に捉われいるから、「人格(鍵)」が「鍵穴」に入らない! それが「困難」として感じられるのであり、肉体人間には「難行苦行!」として体感されるのです。

 十重二十重に塗り固めたレッテルで生きるのをやめて、素っ裸の「人格(神の子の生命)」で生きるようにすれば、どんな鍵でも回すことができるのです。

 
 弘忍禅師が弟子の慧能(えのう)に向かって、

「米熟するや?」

と質問したことが、谷口雅春先生が書かれた『無門関解釈』「不思善悪」の中に紹介されています。
 それに答えて慧能は、

「米熟すること久し。なお篩(ふる)いをかくことあり」

と答えています。

 私たちは、修行してから「神の子・仏の子」になるのではなく、はじめから「神の子・仏の子」であり、それが「米熟すること久し」ということですが、その久遠に熟している神性・仏性こそが私たちに現存する「神の子の人格」なのです。

「篩(ふる)いをかくことあり」とは、在るものと、無いもの、とを篩いにかける、つまり「実相」と「現象」(潜在意識も現象です)とを篩いにかけて、「無い」ものを相手にせずに、「在る」もの(神性・仏性)だけを相手にして悦んで生活していれば、「神の子の実相(個性)」が、いよいよ鮮やかに光り輝いてくるのです。

 本来無いもの(潜在意識も)を有ると思って相手にしているから、いつまでも迷いが去らずに苦しむのです。迷いや症状とは、出たときが消えたとき、であり、相手にして握りさえしなければ、出た現象はどんどん消えていくのです。

 潜在意識も現象にすぎません! 潜在意識を浄めてから、神の子になるのではありません! 主体である神の子の実相のみを相手にして悦んで生活していれば、従者である潜在意識は自然に(自動的に)光明化する(浄まる)のです。それが人生の光明面を観て生きる日時計主義の生活であり、三界唯心所現の法則(横の真理)です。

 無いものを「無い!」と、ふるいに掛けて、はじめから在る「内なる光り(神性・仏性)」のみを大肯定して喜び悦んで楽しく生活することが、人生の主人公(神の子)としての絶対主権を取りもどすことであり、その絶対主権(実相)に生かされ浄められて生きるのが、生長の家の「絶対他力」の信仰です。


 久都間 繁

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2009年10月15日 (木)

「レッテル」について②

 今は故人となった生長の家の恩師が、「真理というものは、たとえ子供の口から出たコトバでも、もしそれが真理であれば、子供が語ろうが、誰が語っていようが、真理は厳然として真理だ!」という意味の話を、30年ほど前にして下さったことを、最近ふと思い出したことがあった。

 私はかつて、一を聞いて十を知ったようなつもりになっていたが、それもやはり、大変なレッテル化であり、ずいぶん遠回りをしていたことが、恩師の言葉を振り返ることで、身にしみて分かってきたのである。

 レッテル化とは、相手に貼り付けたラベルしか見えなくなることである。人は、一度ラベルを誰かの顔に貼り付けてしまうと、そのラベルのみに注目して、その人の「生命の本当の相(すがた)」を見なくなる傾向があるのであるが、それがレッテル化であり「現象に捉われる」ということである。

 レッテルとは、私たちが過去において人やものに対して見聞覚知したところの心の残像にすぎないのであり、そのレッテルだけを見ていたのでは、「今」躍動している生命を把握することができなくなるのは当然のことなのである。重要なのは、そのレッテルを思い切って引っ剥がしてしまうことである。しかしそのためには、自分がこれまで身に帯びてきたところの虚飾を捨て、先入観を捨て、素っ裸になってしまわなければならない。

 古事記に登場するアメノウズメノミコトのように、素っ裸になって実相をよろこべば、天照大御神が天の岩戸(レッテル)から、光り輝いて出て来るのである。

 しかし、レッテル化していることに気が付かないでいると、私たちは知らないうちにそのレッテル(仮りの相)に縛られて雁字搦(がんじがら)めとなり、さらに無意識のうちに自分を取り巻くすべてのものを次から次へとレッテル化し、挙げ句の果てにそんなもの(レッテル)ばかりに取り囲まれているのかもしれないのである。そんなことでは、生きがいも、夢も、希望も感じられなくなり、誰とも心の交流がなくなり、八方ふさがり(岩戸隠れ)となるのは当然のことだと言わなければならないのである。

 レッテル化は、年齢による影響とは全然関係ないのである。10代や20代で、あらゆる人や物や事にラベルを貼り付けて雁字搦めになって、生きがいも夢も希望も見失っている、かつての私のような人もいれば、先日(10月12日)「第31回生光展」のオープニングで挨拶した遊馬正・画伯のように、85歳を過ぎても、いよいよ希望成就のよろこびと、夢の実現に燃えながら、生涯を貫いた祈りの人生を謳歌している人もいるのである。

 レッテル化した、出口のない自縄自縛の「天の岩戸」の中でもがき苦しみ、それを求道だ、精進だ、修行だ、と努め励むことも、道を求めている人には大切な通過儀礼である場合もあるのであるが、要はレッテル化をやめ、一切の対象に貼り付けたラベルを剥がし、虚飾を捨て、先入観を捨て、丸はだかの神の子に帰ってみれば、そこに荘厳なる世界が、はじめから横たわっていたことが分かるのである。それは、木や花や風景などの自然の風物だけではなく、一人ひとりの人間も、そこに神秘なる神性・仏性が現前し、顕れよう、溢れ出よう、生長しよう、としていることが見えてくるのである。

 谷口雅宣先生が、絵手紙・絵封筒の創作を皆にお勧めになり、芸術的感覚を伸ばす誌友会をご提唱されているのも、私たちが対象をよく観察することで、これまで貼り付けていた心のラベルを剥がし、人類の通念というレッテルを外してしまい、はじめから「今、ここ」に在った神秘なる世界〈真・善・美〉と出合うことが、一つの重要な目的なのである。

 奇蹟は、病気が治ることでも、問題が解決することでもない、今、私たちを取り巻く森羅万象こそが「奇蹟」(住吉大神であり観世音菩薩)そのものであることが分かれば、「解決」への道が開け、「治癒」への道が開け、「成就」への道が開けるのである。聖経『真理の吟唱』にある、「心に耳ある者は聴け、心に眼ある者は見よ」(観世音菩薩を称うる祈り)とは、このことを語っているのである。

 繰り返すが、虚飾を捨て、先入観を捨て、素っ裸になって、アメノウズメノミコトのように実相を観てよろこんで、現象無しのカラッポになって実相遊戯三昧に生活していれば、天照大御神が天の岩戸から自ら出て来て、高天原が咲(わら)いどよめくのである。


  久都間 繁


 

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2009年10月10日 (土)

神様からの授かりもの

 与えられた仕事やお役目を無事に全うするために、「失敗しないように」と思えば思うほど、気持ちばかりがあせって、自分や周りの期待に反して、うまくいかない場合があるものだ。

「失敗しないように」と私たちが願うことは、それは実は、私たちの内にある大成功が現れ出ようとしているのである。つまり内にある完全円満なる世界が、内にある黄金の人生が、自分で溢(あふ)れ出ようとしているのである。

 しかし、内なる宝庫に注目することなく、「しくじる」ことばかりに注目して、「このままではいけない、なんとかしなければ」と、より正確に、より着実に、より仲良く、などと努めれば努めるほど、ふるまいは、ますますぎこちなくなり、挙げ句の果てに癇癪(かんしゃく)などを起こしたり、自暴自棄になって途方に暮れたりするのである。なぜそうなるのかと言えば、それは外見を良くする(現象を整える)ことばかりに捉われているからである。

 良いのは外見ではない。良いのは私たちの内にある「実相」のみである。実相のみが真・善・美の宝庫なのである。そこに注目しないで、ありもしない「外見(現象)」をいつまでも握っていたのでは、「しくじらないように」と努めれば努めるほど、心の奥底で「自分は不完全だ」との認識を深めていることになり、それではいつまで経っても不安と混乱とが人生につきまとうことになるのである。


 私たちは「しくじらないように」と思う前に、その仕事や使命がどんなにつまらないものに見えたとしても、それは偶然にやってきたのではなく、今の自分に遂行できる最良のご使命がめぐって来ているのだから、内なる真・善・美をもって、誠心誠意努めさせていただけばよいのである。しくじる、しくじらないは、内なる真・善・美をもって臨むか、臨まないかに懸かっているのであり、真・善・美のまことをもって臨めば、決してしくじるようなことはないのである。「背水の陣を敷く」とは、内なる真・善・美、つまり「まこと」をもって事に当たるということである。

 今、目の前にあることに誠心誠意努めて取り組めば、そこに「実」(まこと)が顕れるのである。つまり「まこと」とは、実相のことである。「まこと」すなわち実相があらわれれば、その仕事には自ずと智慧・愛・生命・喜び・供給・調和が具現するのである。

 これは仕事だけではなく、勉強にも、対人関係にも、治病にも同じことが言えるのである。利害や打算のことを考える以前に、先ずその仕事を愛し、課題(テーマ)を愛し、相手を愛し、お預かりしている私たちの心身を愛し、これら全ての人やものや事を無条件に愛することである。なぜなら、すべては、神様からの授かりもの以外の何ものでもないからである。


 久都間 繁

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2009年9月30日 (水)

「レッテル」について

  私たちは、知らず知らずのうちに、周囲の人に対してレッテルを貼っているものである。

 そんなことを言葉にすると、「何を意外なことを」と思われる方も多いかもしれない。
 
 私も、そんなことを着想する前だったら、きっと同じように感じていたことだろう。

 しかし私たちは、自分を取り巻く人に対して、自分で勝手にレッテルを貼り付けて、そのレッテルを見てさまざまなことを判断している場合が、なきにしもあらずなのである。

 たとえば、私たちが誰かを怨み憎むまではいかなくても、誰かのことを好ましく思っていない場合があったとしたら、実はその人の顔に貼り付けたレッテルを見て、それを嫌っているだけなのかもしれないのである。

 夫や妻のこと、子供のこと、職場や組織の同僚や上役、中心者のこと、もしこの人たちのことで、自分の中に葛藤や摩擦があるならば、こじれた思いや問題を解決しようとする前に、先ず相手の顔に貼り付けていたレッテルを剥(は)がしてしまうことから始めなければならないのである。

 レッテルとは、自分がこれまで現象世界で見聞覚知してきたところの経験の残像であり、それは「心の影」なのである。実体のない「心の影」を相手にしていたのでは、そこに見ているのは自分自身の過去の心の姿であって、決して相手の「いのち」と出合っているわけではないのである。

 レッテルを貼ってしまうのは、憎み怨み好ましくないと思っている相手だけが対象なのではない。

 私たちは、あらゆる人に物に事に、五感六感から入手したあいまいな情報だけを根拠に、レッテルを貼っているのかもしれないのである。
 もしかしたら、神や仏、そして生長の家の教えにさえも、レッテルを貼っているかもしれないのである。

 これも意外に聞こえるかもしれないが、たとえば信仰熱心な人の中には、心の中で憎んだり、怨んだりしている相手に対して、心で相手のことを不完全と見ているにもかかわらず、そのレッテル(ニセモノ)の上に、さらに「感謝」や「和解」というレッテルをむりやり上塗りしようと懸命に努力している場合もあるかもしれないのである。

 しかし「実相」とは、努力して上塗りするような代物(観念)ではなく、憎み怨み毛嫌いするそれら一切のレッテルを徹底的に剥(は)がしたところに現れる、はじめからある生まれたままの本当の相(すがた)のことなのである。

 仮に、憎み怨み毛嫌いしている相手の上に、努力して別のレッテルを上塗りして、形の上で取り繕うことが出来たとしても、それがレッテルである限りにおいて、それは仮のニセモノに過ぎないのであり、そんなものは必ず剥(は)がれてしまうのである。それが剥がれないように絶えず心配して努力していなければいけないような信仰では、やがて身も心も持たなくなるのである。
 努力すればするほど、務め励めば励むほど、それでは「全托」の信仰から遠ざかるばかりである。

 レッテルなるものは、それが良きにつけ、悪しきにつけ、実相(ほんとうのすがた)とは〈無関係!〉なのである。


 実相が現れるということは、相手や自分自身に貼り付けた「病気だ!」というレッテルを剥がし、「だめな人間だ!」というレッテルを剥がし、「能力がない!」というレッテルを剥がし、「行が足りない!」というレッテルを剥がし、「不完全だ!」というレッテルを剥がしてしまうことである。そんなレッテルは、生長の家の「人間・神の子」の信仰とは無関係な、ただの現象(ニセモノ)に過ぎないのである。

 レッテルを剥がし切ったそこに、はじめのはじめから在った実相が現れるのである。

 それが「現象は無い!」ということであり、そこから、レッテルの背後にあるものへの感謝がこんこんと湧き出て来るのである。

「天地のすべてのものに感謝する」とは、天地一切のものからレッテルを剥ぎ取った実相(ほんとうのすがた)と出合うことにほかならないのである。

 レッテルという偽物(にせもの)を残したまま、ニセモノの上に「感謝」や「和解の」のレッテルを一所懸命に上塗りしていたのでは、その信仰は偶像崇拝であり、やがて物神崇拝へとつながるのである。

「花、花に非ず、これを花という」
「物質、物質に非ず、これを物質という」

「物質は無い!」「現象は無い!」と、生長の家では説いているが、これは天地の万物に対するレッテルを払拭することにほかならないのである。

 レッテルを剥がせば、天地が開ける音が、今! 聴こえてくるのであり、レッテルを貼っていた相手が、大慈大悲の観世音菩薩として大光明を放っていたことが分かるのである。


  久都間 繁

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2009年9月 2日 (水)

「久遠生き通し」について

  私が生長の家に触れたばかりの中学生のころ、アメリカの光明思想家ロイ・ユージン・デーヴィス博士の書かれた『人間とは何か』(日本教文社刊)という本を読んだことがあった。


 そこには、「人間は未だかつて生まれたこともなく、死することもないのである」という言葉が書かれていた。それがどういう意味をもった言葉なのか、当時の私には判然としなかったが、なぜか心の琴線にふれて、30年以上経った今でも印象に残っている。


 谷口雅春先生〈生長の家創始者〉は、「人間は未だかつて女の子宮から生まれたことはない」と、深い比喩に満ちた言葉を説かれていたが、この「生まれたことはない」というコトバは、ディーヴィス博士の「未だかつて生まれたこともなく」というコトバと、同じ内容を指し示しているように思えるのである。


 つまり両者に共通するところは、真の人間は「現象界に生まれたことはない」と、いうことではないだろうか。

 
「生まれる」とは、現象世界での時間・空間上における営みである。


「生まれた」と見れば、生・老・病・死の現象が展開すると見えるのであり、そのことを仏教では、「大夢」(だいむ)と呼んでいる。つまり、「生まれた」と見える世界は、大きな夢を見ているようなものだ、ということである。


 悟る(覚る)とは、この大きな夢から覚めることにほかならない。


 つまり、「罪」も夢であり、「病」も夢であり、「死」も夢であり、そして「生まれた」ということも、また夢なのである。


 云うまでもなく、ここで言う「夢」とは、「無い」ものの別名のことである。つまり、生まれたり、死んだりするように見えているものは、それは真実在の「人間」ではなく、借りの相(すがた)に過ぎないのである。


 私たちの実相は、未だかつて一度も「生まれた」ことはなく、久遠のはじめから生き通しているのである。


 真実在の人間は、時間・空間上に現れたり、消えたりする影のような存在ではない。


 それは、はじめのはじめから「在る」のである。


 禅宗では、これを、


「父母未生以前の本来の面目」

と表現し、これに耳を澄ますことを、


「闇の夜に 鳴かぬ烏(カラス)の声聴けば 生まれぬ先の 父ぞ恋しき」

と歌っているのである。


 父母が生まれる以前とは、先祖が発生する以前の、ということであり、人類発生以前の、ということであり、地球発生以前の、ということであり、宇宙発生以前の、ということである。それが「久遠の今」(eternal now)ということである。


 時間・空間という現象とは無関係に、はじめのはじめから在り通すところの真実在の人間は、自性円満であり、完全円満なる神の生命であり、仏性そのものなのである。


 それは父母への感謝以前から、先祖への供養以前から、自性円満なのが真実在の人間であり、そのことが分かったとき、真実在なる父母に、ご先祖に、無条件に、満腔の感謝を捧げることができるのであり、これを「天地一切のものへの感謝」というのである。


 つまり、生長の家で言うところの「天地一切のものへの感謝」「父母への感謝」とは、相対的な感謝ではなく、真実在への「絶対感謝」なのである。それは、はじめのはじめから父母と、天地一切のものと大調和しており、天地の万物と一体(ひとつのいのち)であるところの、真実在(実相)なる自己の発見、ということにほかならないのである。


 これから感謝してから、供養してから、修行してから、研鑽してから、救われるのではなく、はじめのはじめから感謝のまっただ中で救われ切っている実相・神の子が、今ここにいるのである。その実相を見出したとき、絶対感謝となり、無条件感謝となるのである。


 はじめから救われており、宇宙未生以前のはじめから大感謝の中に生き通しているもの、それが真実在の貴方であり、人間神の子ということであり、山川草木国土悉皆成仏が現成する世界の消息である。


久都間 繁


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2009年8月25日 (火)

天に満ち、地に満ちて

 昨夜、眠りしなに内観しているとき、天地の万物はそのまま完全円満なる光りであるということに、あらためて気付かせていただいた。

 私たちは、力むことなくそのまま素直に天地の万物を拝ませていただくだけでいいのである。

 そのまま皆、完全円満なる神の子であり、そのままはじめから救われている。
 それが天地万物の実相である。その実相を素直に拝むだけでよかったのである。

 それ以外に近道も、回り道も、寄り道もなく、どの道を通ろうとも、どの道に迷い込もうとも、そこがそのまま天国浄土であり、真理への道であり、実相世界そのものの光りの中をあゆんでいるのである。

 私たちの内なる光りは天に満ち、地に満ちて、そのまま天地万物は救われており、そのまま極楽であり、そのまま此処が高天原であり、そのまま此処が仏国土であり、職場が、学校が、組織が、家庭が、天地の森羅万象が、そのまま実相浄土の聖なる輝きを放っているのである。

 

  久都間 繁

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2009年8月17日 (月)

因果律を超えて

「因果律」とは、およそ現象界に存在するものの一切は、因・縁・果という過程を経て出現しているという世界観である。

 従って因果律とは、必然的に「時間」の範疇においてのみ成立するものであり、「時間」が存在しなければ、因果律もまた成立しないのである。

「時間」とは、即ち現象である。従って因果律によって現れる世界もまた、現象なのである。

「現象は無い!」ということは、即ち「時間・空間」の否定であり、「因果律」の否定である。

 それは、人間はこれから時間・空間の中で修行して、それから救われるのでは「ない!」ということである。

「人間・神の子」とは、因果律(修行や業の浄化)をもって成就するのではない。それは、「今・ここ」において、はじめから成就しているのである。

 従って、「唯神実相」ということと、「因果律」とは、実相において、はじめから両立しないのである。

「唯神実相」とは【在る】ものであり、「因果律」によって現れる世界は現象、つまり【無い】ものなのである。


 私たちは、今現在の状況がどんなに経済的に不如意な状態であろうとも、たとえ地獄のような三角関係の渦中にあろうとも、また、家庭も会社も組織も和気あいあいと大調和した最上の関係にあろうとも、それらの一切は「現象」である。

 私たちは、「今、ここ」において、はじめから「唯神実相」即ち、完全円満なる神の子なのである。


 繰り返すが、それは既に成就しているのであって、これから時間的な経過を経て成就するものではない。


「唯神実相」とは、「時間」の助けを一切必要とせずに成就しているものの消息である。


「人間・神の子」とは、修行した後に成就するような、遠い彼方の目標なのではなく、はじめのはじめから「今、ここ」に在るのである。

 人間は、先ず「神の子」であり、先ず「完全円満」なる「光り」なのである。


 だから、まず「神の子」であり、「完全円満」であり、「光り」であることを、私たちは「無条件」に悦んでいいのである。それが「手の舞い足の踏むところをしらず」という、人間そのままの悦びの相(すがた)である。


 全てに先立って、先ず「神の子」であり、「完全円満」であり、「光り」であることを悦ぶことが、「そのまま」ということであり、「はい!」ということであり、「ありがたい!」ということであり、「うれしい!」ということなのである。

 この悦びと感謝の念の中に、現象の一切が円満に成就するのである。これが生長の家で言うところの「唯心所現」(心の法則)である。


 縦の真理「唯神実相」を悦ぶことが先であり、現象は自ずから整うというのが「唯心所現」の横の真理である。

 だから私たちは、まず「神の子」であり「完全円満」であり「光り」であることを、誰にも遠慮することなく、無条件に悦んでいいのである。

 それが、因縁果という「業」を超え、悪業を善業へと転じ、人間・神の子の実相を成就する道なのである。


 こんな事を書いていると、故郷にいた十代のころ、生長の家の地方講師の方から聴いた、次の古歌が思い出されてくる――


 よろこべば よろこびごとが よろこんで
      よろこびつれて よろこびにくる


  久都間 繁

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2009年7月14日 (火)

神想観こそ功徳そのもの

 横山さんから質問をいただいておりましたので、回答をこちらに掲載します。

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質問1
>>心とは、思ってはいけないと思えば思うほど、考えてしまい、ひっかてしまいます。その中から抜け出ようとと思うほど、どうにもならない。こんな心なんかなければよい、そんな自分がどうにもならない。身動きできない。


【回答】

「三界唯心所現」の心の法則については、『生命の實相』頭注版 第20巻の127ページからの(肉体および物質の否定 六)に、谷口雅春先生が詳しくお説きくださっています。

 ここには引用しませんので、ぜひご熟読いただければと思います。

 そのポイントだけを申し上げますと、心が変化することによって、悟って仏となり、迷って衆生となるような、「心、仏、衆生三無差別」の心というものは本来無い。ただ初めから仏であり、神である「実相の心」があるだけである。その実相の心が展開した実相の天地があるだけである、ということが詳述されています。

 生長の家の唯神実相哲学の根本が説かれていますので、お時間があれば「自傳篇」全体を通読(再読)なさると、より一層理解が深まることと思います。


 身動きできなくなるのは、無いものを、有ると思って握ってしまうから。
 手を放してしまえば、自由自在です。


 無いもののことを「現象」と言います。
 本当に在るものは「実相」のみです。
 「実相」のみを相手にすれば、身動きできるようになります。


質問2~4
>>私たちは現象から実相を観ようとしていること、このことが一番の問題ではないか?

>>やはり神想観を真剣にやりたい。その真剣とは、自力では。


【回答】

 重要なところに気が付かれましたね。

 神想観において、「吾れ今、五感の世界を去って実相の世界に入る」とは、そのことを意味しています。

 現象は実在ではありませんから、現象の基準や尺度で実相を推し量ることは、「針の穴から天上を覗く」の喩えのようなもので、実相世界そのものを捉えることはできません。

 生長の家では、神想観という素晴らしい行法を授けられているのですから、ひたすら、うまずたゆまず毎日実修すれば、誰でも必ず実相覚が開けてきますので、ぜひお続けになってください。


 また、神想観は自力か、他力かとのことですが、生長の家の信仰は絶対他力の信仰であると教えられています。

 絶対他力の信仰とは、神の外にあるものなし、仏の外にあるものなし、つまり神のみ、仏のみが真実の実在であり、その善一元の生命のみが今ここに(全実在宇宙に満ちて)存在しているという教えです。


 今ここに、貴方となって、森羅万象となって、完全円満なる神が、仏が、活きているのであり、それが実相です。

 
 不完全に見えるのは、心の影であり、そのような現象は本来無いのです。

 神想観を通して実相のみ、神のみ、仏のみを観じるのが「縦の真理」の実践であり、実生活においては人生の光明面(真象)のみを積極的に相手にしていくのが生長の家の信仰です。

 その結果(三界唯心所現)として、一切の現象が整うというのが「横の真理」です。


 現象をキレイに整えてから実相が現れるのではなく、現象がどんなにぐずぐずに崩れていても、円満完全なる実相に飛び込んで、ひたすら(まっしぐらに実相を観じて)悦んで生きていれば、現象が成就する(真象が現れる)のです。

 これが神想観の功徳です。

 また、神想観それ自体が、実は最良の功徳(実相の体感)そのものなのです。

    久都間 繁

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2009年6月27日 (土)

仏の四無量心について

 本日、本欄の読者のYさんから質問のメールをいただきました。
 回答をこちらに掲載します。

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Yさんからの質問
心という言葉は『甘露の法雨』にもたくさんでてきますが、この心をどうすることもできないのが現実の世界です。
真象であればよいが、偽象が現れた時には、やはりいろいろと迷いますし困惑もします。

そんな心をすべて無しと、打ち消したのが生長の家の教えなれば、ただ神さまの世界のみを肯定し、その実相そのものを味わうというか、悟るというか、喜ぶということも、やはり「心」ではないのでしょか?

先生の云われる歓喜とは、われわれのよろこびとはちがうのかもしれませんが。(現象的喜び)

時間空間がすぎてしまえばなくなるもの、それは、絶対的なものでもない。「肉体もなし」と打ち切っています。では「心」とは、神さまが作られたものなのでしょうか?


質問への回答


「心」についての質問をありがとうございました。
生長の家の聖経『甘露の法雨』には、


完全なる神の
『心』動き出でてコトバとなれば
一切の現象展開して万物成る。万物はこれ神の心、
万物はこれ神のコトバ、
すべてはこれ霊、
すべてはこれ心、
物質にて成るもの一つもなし。


 と書かれていますが、ここに説かれているの「心」は、「神の心」のことです。つまりそれは「実在の心」であり、完全円満なる「実相の心」とも云うべきものです。

 この「心」のことを、キリスト教の『聖書』などでは「御意(みこころ)」と表現し、仏教では「仏心」や「仏性」とも呼んでいます。

 一方、生長の家で「心も無し」と否定してしまうところの「心」とは、「現象の心」のことで、「実相の心」や「仏心」のことではありません。

 先に引用した『甘露の法雨』の文章は、次のように続いています。


物質はただ心の影、
影を見て実在と見るものはこれ迷(まよい)。
汝ら心して迷に捉わるることなかれ。


「影を見て実在と見る」それが、現象に惑わされた「心」です。
つまり、影のように現れては消える現象を、「有り」として、それを追いかけて掴んで放さない「迷いの心」のことです。

 聖経には、この心のことを「無明」と書いて、「まよい」と仮名をふって読んでいます。

 天理教祖は、この心の働きのことを次のように表現しています。

「惜しい、欲しい、可愛いと、欲と傲慢、これが埃(ほこり)や」と。

 普段私たちが「心」と認めているのは、この「迷いの心」である場合が多いのです。

 では、あらためて実相の心、真実の心、実在の心とは何かと云えば、それは、「神そのもの」の命の響き(コトバ)であり、「仏そのもの」の命のことなのです。

『観無量壽経』には、「仏の心」について、「仏心とは四無量心是なり」と説かれています。

 四無量心とは、慈、悲、喜、捨のことで、「無量」とは、「量が無い」つまり「無限である」ということです。

 衆生の悩み悲しみを見て慈しむこと無限であり、同悲の心をもって苦を除くこと無限であり、人の悦びをともに歓喜すること無限であり、執着を解き放ち一切を束縛から解放すること無限である、これが「仏心」です。

 この「仏心」こそが、私たちの「本心」(実相の心)なのです。

 ですから、現象的に金が儲かった、執着していた人や物や事が手に入った、というところから来る「求めるよろこび」と、「仏心」(実相の心)から来る「慈しみ与えるよろこび」とは、根本的に異なるのです。

 前者は「無い」よろこび、であり、後者は「実在する」よろこびなのです。

 この「仏心」そのものに生かされて生きることが、「救われる」ことに当たります。

 その「仏心」(神の御心)の中にこそ、私たちがこの世に生を受けたところの本当の「使命」があり、それを生きたとき、「朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり」というような真の生き甲斐やよろこびを見出すことができるのです。

 なぜなら、私たちの実相は、自性円満なる「神性」「仏性」そのものなのですから。


 
 とり急ぎ書いたので説明としては不十分かもしれませんが、質問があればブログかメールにまたお寄せください。


  久都間 繁


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2009年6月22日 (月)

魂の進歩向上について

 今日の夕方、本欄の読者の方からメールで2点ほど質問をいただいた。こちらで回答させていただきます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
質問①この魂の訓練は現象であると普通に思われます。が、神さまは完全であるにもかかわらず、やはり進歩向上が必要なのでしょうか?
質問②神想観のあの歓喜が、どうしてこの現象の早く現れないのでしょうか。よほど現象を捕まえているのでしょうか?

【回答】
 
 進歩向上する躍動的な経験を、私たちの魂は「よろこび」と呼んでいます。
 また進歩向上とは、「生長する」ということでもあります。

 生長することは、万物の霊長たる人間にとって、その内なる無限生命が音楽のように鳴り響くことであり、それは悦び以外のなにものでもないのです。

 つまり進歩向上とは、内なる無限生命の理念が、この天地に花開くことなのです。

 アジサイが咲くことが、アサガオが咲くことが、ヒマワリが咲くことが、これが内なる理念が展開する姿です。

 まして私たち人間には無尽蔵の真・善・美が内在しているのですから、私たちが進歩向上し、無限の真・善・美をこの現象世界に実現させる(生きる)ことこそが、仏教的に云えば地上に極楽浄土を建立することであり、キリスト教的に云えば「御心の天に成る世界を地に成就する」ことに当たるのです。

 道元禅師は、このことを「証上の修」と表現しています。

「証上」とは、すでに生命は、これ以上なにも付け足す必要がない完全円満なものである、ということです。

「修」とは、この完全円満なる生命を、この神様の創られた画布にたとうべき現象世界に表現することです。それは、花が咲き、鳥が歌い、森が四季それぞれの色に染まり、音楽家がメロディーを奏で、画家が絵筆を振るい、文筆家が千古の詩を綴ること、そして信仰者が神の愛を行じ、仏の大慈悲を生きることです。

 あせる必要はありません。

 実相実在の世界では、すでに全てが円満完全に成就して(さらに無限生長して)いるのですから、私たちはその実相を観じて悦んで生活していればいいのです。

 真・善・美(縦の真理)の展開として現象世界が成就する、それが三界唯心所現の「心の法則」(横の真理)です。

 うまずたゆまず神想観を実修し、神の無条件の愛を生きることです。


  久都間 繁

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2009年6月12日 (金)

神想観の醍醐味について

 祈りについて、もう少し書かせていただこうと思う。

 私は宇治別格本山にいたとき、神癒祈願部長をしていた小嶋博先生から、

〈人のために祈ってあげるときは、まず自分が実相(神)と「ひとつ」になっていなければ駄目だ。不完全な人やものや事が〝ある〟と思って、その不完全を認めて〝治そう〟と祈っていたのでは、神癒祈願にならない〉
〈神様がお創りになった世界は、はじめから完全円満であり、その実相世界は既に在り、すでに成就しているのだから、神癒祈願とは神様の邪魔をしないことだ!〉
 と、ご指導いただいたことがあった。

 あれから25年以上も経っているのであるが、このコトバは、祈り(神癒)における重要なポイントを語っていることを、折に触れて感じている。

 生長の家には、「縦の真理」と「横の真理」があると云われており、「縦の真理」とは、「唯神実相」の哲学である。
 これは神の創り給うた実相世界は、そのままで完全円満なる善一元の世界であるという教えである。

 また、横の真理と云われているのは「三界唯心」である。これは仏教に由来するコトバであるが、平たく云えば私たちの五感六感の感覚を通して観じられる現象世界は、心が造り出したところの世界である、ということであり、これを三界唯心所現の法則とも、「心の法則」とも呼んでいる。

 人のために、あるいは家族のために祈るとき、「私が」祈っていたのでは、これではなかなか「神癒」に至ることはできない。

「私が」というものが消え、ただただ実相(神)に身をも心をも全托して、完全円満なる神が「私」を生きる、その神の子無限力の充実し切った悦びが神想観なのである。

 ここでは、もはや天地の森羅万象が「神癒」(祈り)の対象となるのである。

 家族のこと、仕事のこと、学校のこと、友人のこと、生長の家のこと、指導した人たちのこと、地域社会のこと、国のこと、国際社会のこと、地球環境のこと、ありとあらゆるものが祈り(神癒)の対象であり、心の底から、本当にからっぽになって、彼らのことを祈り切ることが出来るのである。それこそが神想観の醍醐味なのである。

 そのときに、初めて神意というものが分かり、中心帰一とは如何なるものであるかが分かるのである。
 
 なぜなら、生長の家大神――総裁・副総裁――み教え、この構図が、生命の本源から発した「無償の愛」の無限供給の流れの一つであることが理屈抜きに体感できるからである。

 そして信仰者の人生とは、「神癒の展開」以外のなにものでもないことが分かるのである。それが「全托」ということであり、「生かされる」ということであり、絶対他力の信仰なのであると、私は思っている。


 なお、誤解のないように補足するが、生長の家大神とは、「生長の家」の固有の神様のことではない。時間(生)・空間(長)となり、森羅万象を生み出すところの究極的実在(大生命)のことである。これを神道では、「天之御中主神」とも「天照大御神」とも云い、仏教では「尽十方無碍光如来」とも「毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)」とも称するのである。


  久都間 繁


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2009年6月10日 (水)

「全托」について

 神想観をやっていると、日常生活の通念を超えた経験をすることがよくある。

「全托」という言葉があるが、これは絶対他力の信仰を一言で現したコトバである。

 例えば、何か問題が起こったとき、「それは神様に全托したらいいよ」というようなアドバイスを、することもあるし、される場合もある。
 しかし、そのような托し方は、絶対他力の信仰とは、実はあまり関係がないのである。

 絶対他力の信仰における「全托」とは、即ち「自分が托す」という、その「自分そのもの」を托してしまう、ことである。
 そして、「自分そのものを托す」とは、自分の見聞覚知している全意識、全宇宙、全存在を大生命に「托す」ということである。
 
 ここに不思議な世界が出現する。

 自分がぽっかり、神(究極的実在)と全宇宙との「接点」に位置していることを知るのである。

 つまり、からっぽになって、全宇宙となって、全存在となって、神に祈っている(包摂されている)ものが、これまで「私」と思われてきたところの存在なのである。

「大調和の神示」には、

「われは此処(ここ)に見よ、彼処(かしこ)に見よと云うが如くにはいないのである」
「われを招ばんとすれば天地すべてのものと和解してわれを呼べ」

 というコトバがある。

 神は「此処や彼処には」存在しない。
 なぜなら、「此処や彼処」とは、時間・空間上に現れた現象に過ぎないからである。

 また、「天地のすべてのものと和解して」いなければ神を呼ぶことができないのは、「天地のすべてのもの」は、即ち「神そのもの」の顕れだからである。

 和解するとは、要するに身を(も心をも)捨てて、天地万物を「無償の愛」の内に包摂することにほかならないのである。

「全托」とは、ただただ完全円満なる大生命のみに生かされることである。
 こんなに楽な世界はないのである。

 
  久都間 繁


 

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2009年6月 9日 (火)

信仰と実生活

 私は、神想観という瞑想を始めてから、ずいぶんな歳月が経っていることに最近になって気が付いた。この祈りは、長くやっていればいいというものではないが、計算すると一万時間以上にもなっていた。でも、そんなことは大したことではない。

 大したことなのは、内なる大生命(神)を観ずることは、三十年の歳月を「あっ!」という間に感じさせるほど、魅力的だった、ということである。いわば浦島太郎みたいなものかもしれない。

 神想観を始めたころ、恩師の榎本恵吾先生(故人)が、「神想観を熱心に続けていると、祈りを始めたころの天にも昇るような悦びがなくなったように感じることがあるかもしれない。しかしそれは、実相を観じられなくなったからではなくて、現実生活の方が、祈りの世界に近づいてきて差が無くなってきたからなんだよ」と語ってくれたことがあった。

 実に配慮された、天狗になっていた初心者にも分かる優しい言葉だったことを、しみじみと思うのである。

 祈りの世界は広大無辺である。実生活が、祈りの世界に近づくたびに、内なるものがクライマックスに達し、さらに次なる光明と、次なる歓喜と、次なる使命が、まるで恩師の優しさのように、祈りの内からあふれてくる。そんなことを、これまで幾たび経験させていただいたことだろう。

 かつて宇治別格本山の智泉荘で目にした、谷口雅春先生のお詠みになったという短冊に墨書された歌を思い出す――


 一筋の 道踏み往けば燦然と
  光り満ちわたる 吾が世界来ぬ


 「信仰生活」とは、この一筋の道(唯神実相)を、勇敢に踏み往くことである。

 また「実生活」とは、私たちを光満ちわたる世界へといざなう、「道」そのものなのである。


   久都間 繁
   
   
   


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2009年4月14日 (火)

新たな使命

 自分にはそんな資格がないから、能力がないから、学歴がないから、とてもそんな器ではないから、などと「出来ない」理由を挙げることはいくらでもできるのであるが、これらのことは全て「現象」に過ぎないのである。

 なによりも大切なことは、私たちは今、ここに、それは神とも仏とも呼ぶべき「無限の大生命」によって〝生かされている〟ということである。

 誰も、自分の意志によってこの世に生まれて来た者などはいないのである。
 ここに〝生かされている〟ということは、自分で生きているのではなく、この仏とも神とも云うべき「無限の大生命」が、そのままそこに〝生きている〟のである。

 この「無限の大生命」に生かされているにもかかわらず、私たちが自分で、能力がない、時期ではないなどと、目先の現象にとらわれてさまざまな条件を作り上げ、私たちの内にひそむ「夢」や「願い」や「希望」(即ち人生の真の目的)を勝手に握りつぶしていたのでは、私たちを生み出した無限の大生命が、その生命の噴出口(表現の場)を失ってしまうのである。それが、つまり人生における〝行き詰まり〟であり〝生き甲斐を見失う〟ということであり、スランプ状態の本質である。

 つまり、巡りめぐって私たちのところに偶然のようにしてやって来る「新たな使命」を、表面だけ見てただの人為的なもの、価値なきもの、取るに足らぬものと解釈し、現象的な条件が整わないからという理由を付けて退けていたのでは、大生命が私たちを無限に生かそうとしても〝生かしようがなくなる〟のである。

 二葉のうちは、誰もそれが大木になるなどと信じないのは世の常である。

「新たな使命」がめぐって来るということは、私たちをこの世に生み出した無限の大生命そのものが、そこに実現しようとしているのである。

 

 久都間 繁

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2009年3月 2日 (月)

自分を拝むことについて

 「新たに生まれる」の文章に寄せられたコメントへの返信が長文となり、皆さまのご参考にもなるかと思いましたので、こちらにアップさせていただきます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 合掌、ありがとうございます。
 昨日まで長崎に出張しておりましたので、返信が遅くなり失礼しました。

 さて、

>>毎日神想観はしていますが全く劣等感を取り除けません。周りの人たちのことも怖くて仕方ありません。自分を拝むって難しいですね。


 ということですが、現象の「自分」を拝むことは、貴方が言うようにとても難しいのです。
 それは現象の自分は「影」であり「実体」が無い、ということもありますが、なによりも困難なのは「過去の残像」(現象の自分)の中には善いものと不完全なものとが混在しているからです。

 生長の家で、「自分を拝む」というのは、過去の不完全な自分の残像(つまり現象)を拝む、ということではありません。

 現象は影であり、実体がないのですから、そんなものは放っておいて、はじめのはじめから完全円満であるところの「実相の自分」つまり、智慧であり、愛であり、生命であるところの本当の自分を拝み、そして味わうことが、神想観で実修するところの実相直視ということであり、そのような神想観を実修されることで、生長の家の「行」が悦びそのものである「楽行道」であることを見出すことができます。

 だから、現象の不完全な自分を見て、それを〝良くしよう〟などと思って研鑽していたのでは、いつまでもその不完全に捉われてしまい、さらにそれが〝心の影〟となって現れ、努めれば努めるほど苦しくなってしまうのです。

 貴方は、はじめのはじめから神の子であり、完全円満なる智慧・愛・生命をいただいているのですから、もっともっと全身の力をぬいて、神様に全托して、その完全円満なる大生命にただただ生かされていることに感謝して悦んでいればいいのです。
 そうすれば、実相さながらの大調和した世界が貴方の周りに実現して来るのです。

 また、「周りの人たちのことも恐くて仕方がない」というのも、人生というものは自分の力でなんとかしなければならない不完全なものだと見て、努め励んでいることの裏返し(心の影)ですから、これまでの日々で辛いことも多かったことでしょう。
 
 もうそろそろ「現象」(影の世界、結果の世界)を信仰することをやめて、「実相」(神様の世界、実在の世界、本当の自分)を信仰する生長の家の生活へと、思い切って飛躍する時期が来ているのではないでしょうか。

 機は熟していると思います。分からないことがあれば、何でもお尋ねください。

 また、関東地方にお住まいであれば聖典講義の日は個人指導もしているのでお越し下さい。

 久都間 繁

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2009年1月28日 (水)

「願い」の成就

 私たちが抱くところの「夢」や「願い」は、すでに神様の世界で成就していればこそ、後から私たちの脳裏に閃(ひらめ)いて来るのである。だから全ての「願い」には、「実体」があり、その「実体」がすでに完全円満に成就して、光り輝いていることを悦ぶことこそが重要なのである。

 その「願い」が正しいものなのか、それとも間違ったものなのかを判断する以前に、その「願い」の背後にある「実体」を知ることが重要なのである。「実体」とは即ち「実相」である。「願い」や「夢」の「実体」を見極めたとき、最早そこには、在るもののみが在るのであり、この「在るもの」のことを、「神」とも「仏」とも「実在」とも云うのである。この「在るもの」と出会ったとき、全ての「願い」は成就するのである。

「われは此処に見よ、彼処に見よと云うが如くにはいないのである」と、『大調和の神示』には書かれている。が、「願い」も「此処に見よ、彼処に見よ」というが如くにはないのである。イエスは、「汝らもし盲目なりしならば、罪なかりしならん。されど今は見ゆと言う汝らの罪はのこれり」(ヨハネ9・41)と語っている。「此処に見よ、彼処に見よ」が指し示すものは、現象世界に現れた影に過ぎないのである。

 現象世界において、さまざまな「願い」が成就することは嬉しいことであるが、この世は「諸行無常」であるということを私たちは知っている。しかし、ささやかな「願い」が成就するということは、実はたいへんな(驚くべき!)ことなのである。
 私たちは、いずれは財産や地位、名誉のみならず肉体も家族も何もかも“この世”に置いて去らなければならない時が来るのであり、全人類がそのような宿命の内に生きており、一つの例外もあり得ないのであるが、現象世界に咲く一輪一輪の花(願いの成就)は、これ全て「実相世界」から咲き出でている“実在の鳴り響く相”であることを知らなければならないのである。

 だからどんなに小さな悦びにも、そこに無尽蔵の光明が宿っているのである。

 仏教でも「三車火宅」の喩えがあり、この世の栄枯盛衰は、まさに春の世の夢の如きものにすぎないのであるが、そのようなこの世(現象世界)にも、次から次へと無尽蔵に尽きることなく花を咲かすことができる秘訣が、生長の家の教えにはあるのである。

「願い」とは、実相世界からの切々たるメッセージであり、それは、如実に「実体」があるからこそ出てきたのである。
 この「実体」こそが、すべてのすべてなる「神」であり、この「実体」のことを天照大御神とも尽十方無碍光如来とも云うのである。

 その「実体」つまり、「実相」と出会うことで、すべての「願い」は成就する。イエスは、「み心の天に成る如く地にもなさせたまえ」と、「主の祈り」で称えているが、み心は、すでに「天に成る」つまり、実相世界で完全円満に光明燦然と輝きながら成就しているのである。

 その実相世界にある「実体」を観じて悦び感謝したとき、「地」つまり現象世界にもそれは実現するのである。それが、横の真理である「三界唯心所現」の法則であり、誰でも応用し実現することができる生長の家の神癒の秘訣である。

 このように「縦の真理」と「横の真理」とが完全に相俟(あいま)って、実生活も救われるのが生長の家である。

 このことを悟るためには、完全円満なる神に、既にすべてのすべてに亙って全面的に生かされているのである、という「絶対他力」の信仰に逢着しなければならない。
 

 久都間 繁

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2009年1月24日 (土)

新たに生まれる

 いただいた質問への回答が長文になりましたので、こちらにアップします。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 ご質問をありがとうございました。さて、


>>私の場合、中々、自分の一切の所作、進退が『光り』そのものだとは到底思えませんが、光りでないからこそ、光を求めているのではないかとも思います。
先生の仰る“そのまま”と目標や夢を持って進み、新たな自分に変わることとの違いは何でしょうか?


 人間の生命は、そのままで天照大御神の“いのち”そのものなのです。

「そのまま」というのは、完全円満であり「光り」であるところの神なる実体のことを指し示しています。
 私たちは、初めから神なる実体そのものなのです。

 その神の命が、いよいよ花咲こうとしている相が、切実な「夢」となり「願い」となって顕れているのです。

 だから、真の「目標」や「夢」には必ず「実体(神)」があります。
 私たちがこの世に“生まれてきた”ということも、この「実体(神)」そのものが出現したのです。
 つまり私たちの人生は、「夢」や「願い」と切っても切り離すことができないのが本来の姿なのです。

 ところが、人生の「目標」というものが、いつの間にか「実体(神)」とは懸け離れた、現象的な「欲望」、つまりお金や地位・名誉、五感の欲望などに、すり替えられてしまっていることが、今日(の社会通念)における最大の迷いなのです。

 これは物質至上主義とも、欲望優先主義とも呼ばれていますが、このような「実体」のないものを、どれだけ追い求めて実現させたところで、求めれば求めるほど、発展させればさせるほど、いよいよ欲しくなり、挙げ句の果てに次世代の人類が巻き添えを食っている。この迷走の産物が地球環境問題です。

 余談ですが、ニートや引き籠もりとなっいる人たちは、世の通念となっているこのようなニセモノの常識(迷いの価値観)に感づいていればこそ、社会から逃避しているのかもしれません。(神を見出していなければ私も崩壊していました)
 
 ご質問にある、新たな自分に生まれ変わる、ということは、神の子・人間の「実体」であり、神の理念であるところの「夢」や「願い」が“花開く”ことです。

 ですからニートや引き籠もりの人のみならず、私たちも「自分の本質とは何か」ということ(つまり内なる神)を発見して悦ぶことで、毎日毎日、新たに生まれることができるのです。

 それは、別物の自分に成る、ということではありません。

 新たに生まれるとは、より自分らしくなり、より楽々と「神」が現れることです。
 

  久都間 繁

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2008年12月29日 (月)

久遠の基礎(そのまま完全円満)

「人間・神の子」というのは、ゴールではない。生長の家の人類光明化運動は、すでに此処から出発していたのである。先ず、私たち「一人」の実相が、完全円満なる「仏」であり、「神」であったということを発見したのが生長の家であり、私たちの運動はこの〈原点〉から出発していたのである。

 生長の家は、これから光りになるという教えでも、これから神の子になるという教えでもない。先ず最初に、そのまま完全円満なる光りであり、神の子であったという原点(そのまま)を発見した悦びから発進したのが「人間・神の子」の教えであり、私たちの人類光明化運動なのである。

 その原点(そのまま)を発見することが、即ち初心に帰ることであり、実相に帰ることであり、このことを南無阿弥陀仏とも南無妙法蓮華経とも、天地初発時(あめつちのはじめのとき)とも云うのである。

 先ず「光り」であり、先ず「神の子」であるという原点(そのまま)を発見すれば、過去、現在、未来に渡って、私たちの一切の所作、進退が「光り」そのものであったことに気が付くのである。

 無限生長の道というも、この原点(そのまま光りである)という大盤石なる永遠の基礎に立脚した生命の相(すがた)であり、それがそのまま国際平和信仰運動の展開する相である。

 その久遠の基礎(そのまま完全円満である)を見出した歓びを生きること、それが生長の家の光明生活であり、人間・神の子の黄金の人生なのである。

  久都間 繁

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2008年12月24日 (水)

すでに与えている

 人間は、実はそのままで無限に「与えている」存在なのである。

 神の子となるのは、これから「与えて」からではないのである。すでに無限に「与えている」ことに気がついたとき、人間・神の子の自覚がよみがえるのである。

 これから「与えて」から救われるのではなく、すでに初めから無限に与えている實相〈ほんとうのすがた〉に気がつくことが、即ち神の子を自覚することである。そのことが分かれば分かるほど、それを伝えずにはいられなくなるのである。
 なぜなら、全ての人類が、天地の万物が、生きとし生けるものが、はじめのはじめからそのような存在であることが分かるからである。この消息を釈迦は、「山川草木国土悉皆成仏、有情非情同時成道」と云っているのである。

 聖経『真理の吟唱』には、「私の魂の内には永遠に消えない光が宿っているのである。それは神から来たれる光である」と表現されている。
 すでに實相において、神において、そのままで、無限に与えている存在であるにもかかわらず、現象を見て、「まだまだ与えていない」と云い、だから「まだ救われない」と云うような、神との“商取引”のような〈救い〉を考えていたのでは、神の子の無限力が登場する機会を失い、自性円満の自覚も悦びも、その影をひそめてしまうのである。

 神は太陽のような、与えきりの〈無条件〉の愛である。その〈無条件の愛〉を今ここに生かさせていただくためには、私たちも無条件に“ハイ!”と、その愛を悦んで受けなければならないのである。

 私たちは、「与えなければ救われない」というような方便的な解釈を卒業して、さらなる奥殿へ、神の子・人間を説く生長の家の奥殿へと進まなければならなのである。
 私たちは、すでに神の子であり、すでに完全円満であるが故に、自覚するとしないとにかかわらず、實相においては無尽蔵の光明を放っているのである! その實相を観て「悦ぶ」ことで、それが現象界にも無尽蔵に展開するのである。それが三界唯心所現の法則であり、生長の家の光明の生活法である。

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2008年11月28日 (金)

神の外にあるものなし

 現象の我は、現象(影の世界)しか見ることができないが故に行き詰まるのである。
 
 私たちは、現象が無ければ、あとは神一元、光明一元の世界であるということを、魂の根底では既に知っているのである。
 しかし「現象あり」と思う(見る)が故に、躓くのである。
 現象の非実在をハッキリ悟るに従って、「實相」と「現象」との峻別が可能となるのである。しかし現象は、私たちが悟ろうが悟るまいが、はじめから無いのである。

 在るものは、光明であり、悦びであり、澄み切りであり、真如であり、如々実々なる神のみであり、現象は、どこどこまでも無いのである。

「自分が」という、ニセモノの我をのさばらせることなかれ。キリスト教で悪魔というのは、この「現象我」を擬人化したものにすぎない。
 悪とは、永遠に存在に入ることのできないものを、在ると誤って認識したが故に生じたところの無明(まよい)である。
 無いもの(現象我)を在るとしたがゆえに、それはすなわち悩みとなり、苦しみとして感じられるのである。無いものを在ると見誤ることで生じた矛盾が、即ち悩み苦しみの正体である。

 これを克服するためには、「神の外にあるものなし」と知ることである。

 今まで「自分だ!」と思い続けてきたものは、実はニセモノの自分であって、本当の自分自身は神の子であり「神のみに生かされていたのだ!!」と知ることである。
 神のほかに何ものも存在しないのである。
 神のみが久遠に生き通し、在り通してていたのである。
 それは既に今ここ、そのままに、久遠生き通しの神だったのが私たちの“いのち”なのである。

「自分だ」と思い、勝手に自己限定していたが故に、神の子無限力と知りながらも、その無尽蔵の實相が秘められたままになっていたのである。

 そのまま神であり、無限の智慧・愛・生命を蔵する神の子であったことを悦び、その歓喜の内に澄み切るとき、現象我が消滅し、そのままそこに實相・真我が復活するのである。


  久都間 繁

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2008年11月13日 (木)

聖なる生

 クリスチャンだった故遠藤周作氏は『沈黙』という作品で、“神はなぜ沈黙しているのか”ということを扱っているが、実は神は、「光あれ」(創世記第1章)と宣言されて以来、沈黙などしていないのである。

 神が沈黙しているように見えるのは、人間の側が神からのメッセージを受け止めていず、理解していないだけのことなのである。

 世の中の光明面(真象)を見ようと欲する願いさえあれば、神は至るところに満ちていることが分かるのである。「日時計主義」とは、この神からのメッセージに照準を合わせて積極的に耳を傾けて悦ぶ生き方であるのだ。

 うれしいこと、ありがたいこと、良かったこと、美味しいこと、楽しいこと、幸せなこと、善いこと、美しいこと――これらを神からのメッセージと呼ばなくて、ほかに何処に神の声があると言うのだろう。

 私たちは今まで、あまりにも人生の暗黒面ばかりを見る習慣の内に生きてきたのである。そして、「善」と「悪」とを対立させて、「悪(暗・やみ)を消さなくては善は現れない」という考え方、つまり善悪二元の現象界を標準にした考え方に、知らず知らずのうちに心を支配されていたのである。

 しかし、善悪二元の世界は、現象世界の様相であって、久遠に実在する実相の世界のことではないのである。生長の家では、実相の世界は善一元であり、現象は無い! という唯神実相の世界を説く。信仰生活とは、この善一元の世界を観じて悦ぶ生活である。

 私たちは、善悪二元の世界観から、善一元の世界に躍入することで、神からの豊穣なるメッセージを受けとめることができるのである。それは、善悪二元の世界観を脱却してからでも、悪(暗)を消してからでもない。今このまま、善一元、光明一元であり、そのまま円満なる神であり仏である実相を悦ぶだけでいいのである。

 善悪二元の世界から、光明一元の世界に移行することを、新たに生まれるとも、新生ともいうのである。「善一元の世界」の信仰を生きるとき、私たちの周りに神のみが充ち満ちていることが分かり、一切が神の親愛なるメッセージであることが分かるのである。それが「大調和の神示」に説かれた、「汝ら天地一切のものに感謝せよ」という言葉の真意である。既に神の恩寵のまっただ中に生かされているのが、私たちの人生である。すでに、死んでも死なない聖なる生を、生かされて生きているのである。


  久都間 繁

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2008年11月11日 (火)

澄み切った秋空

 生長の家では、「人間は神の子である」ということを説いている。

「人間」とは、時間・空間のスクリーン上に映し出された仮の存在であって、その実相は円満完全なる神である、というのが「人間・神の子」の意味するところである。だから私たちは、時間・空間上にある“仮の存在”のみを「人間」であると思ってはならないのである。

 時間・空間上にある“仮の存在”とは、念の仮作したところの存在であるから、それははじめから“無い”のである。だから、私たちが仮に病んだとしても、病気や症状を掴まなければ、それは自然に消えゆくのである。
 その掴みを放つためには、神の子の「子」の方ばかりを見ることを止めて、「神」の方(實相)のみを観る必要があるのである。
「子」とは現象人間である。「神」とは実相・実在である。現象人間は、現れているだけであって本来無いのである。

 谷口雅春先生は、「人間・神の子」の自覚から「神の子人間」の自覚へ、ということをお説きくださっている。
「神の子人間」の自覚とは、“神が私を生きている”という自覚である。この、“神が私を生きてる”ことを自覚するとは、即ち、“完全円満なる神”が私を生きていることを悦ぶことである。
 この悦びの内に、無限力の自覚が、完全円満の自覚が、無限健康の悦びが湧き上がり、罪と病と死とが消えるのである。

 だから、仮に肉体が病んでいたとしても、あるいは人間関係で不調和が現れていたとしても、その“不完全な状態を治そう”と、あせる必要はないのである。
 病み、縺(もつ)れているのは、過去の迷いが雲となってどんどん消えていっているのであるから、雲は行くにまかせればよいのである。無いものは、消えるほかはないのである。

 そして、澄み切った秋空のような、一切の曇りのない爽快な世界のみが本来の住みかであったことに感謝すればよいのである。

 生長の家で説く、「現象は無い!」とは、病と見え、不完全と見え、不調和と現れているそれら一切のものは「無い!」ということである。

 無いものを無い! としたとき、澄み切った青空の世界がはじめのはじめから在り通していたことを見出すのである。


  久都間 繁

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2008年10月 9日 (木)

その場、その場が神の子の舞台

 私たちの運命に、どのような境遇が巡ってこようとも、その場、その場が、私たちが地上天国実現に携わるための“場”なのである。しかもそれは、神様から授けられたところの“場”なのであるから、それは最尊最高の人生の舞台なのである。

「一隅を照らす」という言葉があるが、一隅とは、広さを意味するというよりも、今、自分が置かれているところの“場”つまり「舞台」のことなのである。

 その「舞台」で演じられるのは、紛れもない“聖”なる物語である。
 そして主人公は、完全円満なる神の子である。それは釈迦であり、イエス・キリストであり、久遠の生長の家大神(住吉の大神)が演じるところの物語なのである。だから生長の家によって神の子・人間を教えていただいた私たち一人一人は、無限の誇りと厳かさと愛とをもって演じることができるのである。

 人生の舞台に割り当てられた台本が、どんなに不備なものに見えたとしても、私たちは“聖”なる主人公として、自由に台本を書き換えて演じ切る力が既に与えられているのである。

 たとえ私たちが、どんなに境遇に“がんじがらめ”になっていたとしても、「夢を描く自由」だけは、無限に許されているのである。

 三界は唯心の所現である。
「今」を悦ぶことによって、道は必ず開けるのである。

 その「今」を悦ぶためには、神のみが唯一の実在である! という“聖”なる世界へと超入しなければならないのである。

 イエスは、「富める者の天国に入るに難きこと、ラクダの針の穴を通るが如し」と語っているが、生長の家の神想観によって、針の穴でも、無の門関でも、龍宮海でも、自在に往来し、透過することが可能となるのである。

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2008年10月 8日 (水)

食事について

 食事について、ダイエットと称してカロリー計算してみたり、病気を癒すためといって食べ物を制限してみたり、無理にがまんを重ねるようなことをしている人たちがいっぱいいる。しかし、特殊な例を除いては、こんなことは皆どうでもいいことなのである。

 このような、食べ物をコントロールしようとするような発想は、自分を物質と見、肉体と見ていることから生じるのである。

 しかし人間は肉体でも物質でもないのである。

 現象は無い、人間は神の子であると、あれほど教えて頂いているにもかかわらず、相も変わらずこのような愚行を繰り返すのは、要するに食べ物を「神の恵み」と見ずに、「物質」として見ていることから生ずる迷いなのである。

 食前に並んだ食べ物を、ご飯の一粒一粒を、「神」そのものとして拝んで頂いたら、自然法爾に体調が整い、すみやかに健康が回復するのである。

『食事の神示』は 、生長の家が発祥して間もない昭和5年11月4日に天降っているが、それは人間生活において、食べ物を物質と見るか、神の命のさきはえとして拝んで頂くのかが、物質・人間の生活と、神の子・人間の生活との分岐点になるからである。

 これは聖典に書かれたご文章を拝読させていただくのも、また同様である。

 真理を学んで上手に世渡りしよう、なんて思って読んでいたのでは、偽我(ニセモノの自分)をのさばらせるだけであり、これではまさに豚に真珠である。

 聖典の言葉は、神より天降った愛そのものとして拝読してこそ、初めてその真意を読み解くことができるのである。

  久都間 繁

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2008年9月26日 (金)

恋愛と結婚

 山崎さんから、恋愛と結婚についての質問をいただきました。
「若い世代の人達にはぜひ参考になると思いまして、このような質問をしました」とのことでしたので、こちらにアップします。若くない人にも(^^; 参考になるように書かせていただきました。

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>>作者である吾々は既に、今、この瞬間に実相円満完全なる神の子であります。
なのになぜ男女がパートナーを選ぶ時に、色々と種々の条件を相手に対して付けるのでしょうか?
宗教的見解(特定の宗教ではなく)を持ち出してこの事を説くと、こちらは相手に対して種々の条件を付けてはならない。それは相手を“愛”しているのではなく、相手にただ“恋”をしているに過ぎない。こちらは選んではならないが、相手に選ばれる時はそれ相応の準備を事前にし、条件を備えなければならない。ましてや相手がこちらにとって“高嶺の花”であるならば益々そうしなければならない・・・・・。
選ばれる方は何時まで、どれくらい自己を高めておけばよいのでしょうか。


 生涯を共にするパートナーを選ぶときの「条件」というのは、一人ひとりの個性が異なるように、人によって千差万別です。しかし、恋愛感情のもたらす基本的な経験や、それが人生に与える効果などは、古今東西を問わず共通していて、それは限りなく美しく、そして尊いものなのです。

 条件を満たしている相手というのは、いわば貴方の「内なる理想」を、彼女の中に見出しているということでもありますが、相手が素晴しい相手であればあるほど、それに相応しい高みへと自分も達しようと精進努力する、これこそが恋愛感情のもたらす最高の成長の機会でもあるのです。

 特に貴方のように、人生を真摯に生きようとされている方は、これを疎かにしていては、せっかくの成長の機会を失うことにもなりますので、厳しい言い方ですが、このご質問については、「とことん、精進努力してください!」というよりほかはありません。

 この努力を持続することで、やがて秋になると栗や稲穂が熟してくるように、内なる充実感に導かれて自然と相手へのアプローチの機が熟してくるものです。それから、満を持して一歩踏み込む。そこから先は神のみぞ知る世界です。
 叶うも良し、叶わぬも良し。相手の方は、まぎれもない観世音菩薩様なので、間違いなく貴方を実相世界へと導いてくださっているのです。


>>こちらが選ぶ時には相手の外的・内的なもの(=作品)を見ずに、相手という作者(=相手の実相円満完全性)を観る事に専念し、その反対に自己を観てもらう時には、そのままの自己の実相円満完全性を汲み取ってもらうのではなく、善きところは更に伸ばし、足らない・至らない不完全なところを修正・修理し、克服し、常に“条件”付きで生長をしなければなりません。
そうであるならば、こちらにとって、あちらは“全身全霊”でありますが、あちらにとって、こちらは何時まで経っても“半身半霊”であります。


 結婚が、現象的な「条件」によって結ばれるのであるという考え方は、いわば商取引に類似した価値観です。このような生き方に安住している間は、その(現象的な)価値観の影響下に生活することになります。

「条件」とは、現象上のものですから、絶対の価値ではありません。能力でも健康でも美貌でもお金でも、そして命(寿命)でも、それがどんなに圧倒的に良いもの、尊いものであったとしても、必ず消えていく宿命の上に成り立っているのです。仏教ではこれを「諸行無常」と呼んでいます。

 したがって、例えば「良い条件」という関係のみによって成立した結婚生活は、より「良い条件」を持つ相手が出現した場合や、これまで見えなかった(隠していた(^^;)「悪い条件」が結婚後の相手に続出したときには、関係が簡単に壊れてしまうことにもなります。
 これは「相手」と結魂したのではなく、「条件」と結婚したが故の結末なのです。

 条件と結婚するのではなく、その魂の絶対価値(つまり神・仏・実相)を、相手の内に見出し、それを礼拝し感謝し、はじめのはじめから一つであったことを再発見することこそが「結魂」なのです。

 ですから、最初は「条件」によって結婚した夫婦であったとしても、生長の家の教えにふれて、相手の内に絶対価値(完全円満なる神・仏・実相)を見出すことで、永遠の夫婦関係に入ることができるのです。

 なぜ「永遠」なのかといえば、それは「神」と「神」との関係であり、「完全なるもの」と「完全なるもの」との関係だからです。これは、夫婦だけではなく、親子でも、友人でも、師弟関係でも同じことが言えると思います。

 ですから、“半身半霊”などという考え方は、「条件」という現象に捉われた、ただの妄想に過ぎません。

 円満完全なるがゆえに、人生の一切の営みが“全身全霊”であり、結婚も、友人も、兄弟も、師弟も、“神(全身全霊)”と“神(全身全霊)”とが出会い、「仏(光)」と「仏(光)」とが結ばれ、人生を、世界を荘厳するのです。

 神想観の如意宝珠観にある、「十方世界光明遍照、わが全身光明遍照」とは、このことの一端を伝えているように思います。


  久都間 繁

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2008年9月24日 (水)

「作品」と「作者」

 お彼岸の中日が過ぎた。

 まるで、砂浜に音もなく潮が満ちて来たときのように、辺りいちめんに秋の澄んだ空気が充ち始めているのを感じる。

 昨日、生長の家本部会館で「生長の家物故者秋季慰霊祭」が行われたが、副総裁・谷口雅宣先生は、ご挨拶の中で、「作品は作者の表現物ではあっても、作者そのものではない」ということをおっしゃっていた。

 以下は、そのお言葉に触発されて書き記した感想である。
 

「作品」(現象)とは、有形無形を問わず私たちが人生で生み出したところの一切の産物である。

「作者」とは、その人生をも生み出したところの描き手であると同時に主人公である。

「作品」が主体か、それとも「作者」が主体であるか、その判断の違いが地獄と天国の分かれ目であり、物質を中心とした生活と、神・仏中心の信仰生活との境目ともなるのである。

「作品」(現象)を中心にして、「作者」を従わせようとするところに、実生活における、あらゆる無明(まよい)が発生するのである。

 つまり作品とは、肉体、土地、遺産、仕事の成果、人間関係などであるが、それが自分の精進努力で生み出したものにせよ、先祖から伝えられたものにせよ、これらはあくまでも「作品」(現象)であって、それがどんなに尊い、掛け替えのないものであったとしても、「主体」となることはできないのである。それは、「現象」が「実相」になることができないのと、まったく同じ道理である。

「主体」であり、「作者」となるのは完全円満なる神・仏のほかにはないのである。

「作品」が不完全なのは、「作者」が悪いからではないのである。

「作者」が、作品である現象のみに心奪われて、完全円満なるその自性を見失ったが故に、不完全な「作品」が現れているだけに過ぎないのである。しかし、依然として作者は、そのまま自性円満なる神である。

 だから、「作品」(現象)のみを見て、「作者」を評価してはならないのである。
「作品」とは、それがどんなに高価で尊いものであれ、ことごとく現象である。「作者」とは、神以外の何ものでもないのであり、真に尊いものは神のほかにはないのである。

「作者」とは、未だ生まれたこともなく、死ぬこともない、久遠不滅の実相である。
 その“真の作者”なる実相に目覚めたとき、「作品」は自ずからその完全性を具現するに至るのである。

 何度も繰り返すが、完全性を具現した後に実相が成就するのではない。すでに成就している実相を認めて喜んだとき、完全性が具現するのである。これが三界唯心所現の法則である。

 健康の回復も、経済問題の完全なる解決も、仕事や人間関係の大調和も、この真の「作者」である実相に目覚めたとき、自性円満なる実相が自ずから展開してくるのである。

「唯神実相」の世界である光明一元の世界に舞い遊ぶ(つまり実相を喜びまくる(^^;)こと。 これが地上に、実生活に、天国を成就する秘訣である。 

   久都間 繁

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2008年9月18日 (木)

神想観は歓喜の行③(シコク嫁さまへ)

>> ああ、そうだ。
主人も宮本先生も、参加者のみなさまも、みんなみんな神だった。 在るものは神のみだった。
>>不都合など無かった。
デイケアでお年寄りと居るから、義父がすぐに主人の世話を焼くから、私に仕事があるから、出講で出かけるから・・・と等々、私は、そういうこと全てを主人が立ち上がれない理由にしていたんだ。
(ブログ「いろどりひかる☆」より)

 宇治本山で総務をされていた藤原敏之先生は、「困ったことがなくなるのが生長の家じゃ」と、よくおっしゃっていました。

 唯神実相の信仰は、天地一切の人やものや事を「在るものは神のみだ」と、その背後に実在する実相のみを観て「ありがたい!」と拝む、究極の日時計主義の生活です。

 このような信仰生活は、合理主義的な常識の物差しで計ることができないので、神想観を生活の中心に置かない限りは、なかなか信じられない方もいることでしょう。

 しかし神は、現象の原因結果の法則に左右されることなく、“無原因”に存在している「久遠の実在」であり、これを把握するためには、「現象無し!」の一転語によって、現在立っている現象の大地を去って、実相の天地へと飛躍する必要があるのです。

 たとえば「うれしい、楽しい、ありがたい」という言葉も、この神一元、善一元、光明一元の実相世界を直示したものであり、現象という「影の世界」を良くしようとするための自己暗示の言葉などではないのです。
 実相覚から観れば、「うれしい」も“実在”であり、「楽しい」も“実相”であり、「ありがたい」も“神そのもの”なのです。これらの言葉を心で唱えることは、実相世界そのものが鳴り響くことでもあります。

 また、その結果として自ずから現象世界が調ってくる、これが「三界唯心所現」の横の真理であって、第一義とすべきなのは、現象を見て「この問題をなんとかしてやろう」と現象をこねくりまわす前に、先ず「うれしい、楽しい、ありがたい」と、実相を観てよろこぶことにあるのです。

――シコク嫁さまがブログで素晴らしいご心境を語られていたので、それに感激して感想を書かせていただきました。

 久都間 繁

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2008年9月14日 (日)

神想観は歓喜の行②

 山埼さんから「神想観は歓喜の行」について、素晴らしいコメントをいただきました。
これは、「救い」や「原罪」という宗教における深いテーマにふれる問題なので、返信をこちらにアップすることにしました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 コメントをありがとうございました。

>>神は神ご自身を充足させ、幸福感に満たされる為に、勿論100%与えきりという土台の上において人間をお創りになったのかもしれません。

 よくよくお考えいただきたいのですが、山埼さんがおっしゃるように、神がご自身を充足させ、幸福感に満たされるために、神が人間をお創りになったということであれば、神の自性円満(そのままで完全円満なこと)を否定することになりはしませんでしょうか。

 神と人間との間に、もし寸分でも「差」とか“分離感”というものがあれば、その中から生まれてくる喜びは、純粋な神の子のよろこびと言うわけにはいきません。

 神は自性円満なるが故に、(太陽のように)100%与えっぱなし、放ち続けている愛なのです。
 み教えで説く「人間は神の子である」ということは、人間の実相は100%神の生命そのものである、ということなのです。つまり、人間のよろこびは、即ち神の喜びそのものなのです。神と人間とは“ひとつ”命なのです。

 
>>実相直視の習慣化がされると、しだいに心が調い、心で物事のピントを合すのがスムーズになり、ふと気付くと自己を含め周り全てが『Made in God』だと大悟するでしょう。


 かつての私自身がそうでしたが、神と人間との間に、少しでも「差」(分離感)を抱いている間は、どんなに実相直視や、心でのピントを合わせのために祈り続けていても、どうしても自分自身を赦すことができませんでした。
 それは、心の奥底で「罪の意識」が払拭されていなかったためです。

 神と人間との間の“分離感”の正体とは、まさに「罪の意識」にほかなりません。
 これはキリスト教では「原罪」と呼んでいますが、生長の家で説く「現象無し!」とは、「原罪無し!」ということまで徹底したものなのです。

「心」をコントロールすることによって人生を光明化する道は、初心者の方に説く場合もありますし、最近では様々なセミナーでも説かれていますので、あえて生長の家の教えに依らなくても耳にするようになりましたが、生長の家で説いている「唯神実相論」では、神想観によって「心」をも否定してしまうのです。

 聖経『甘露の法雨』に、「神こそ渾ての渾て」と説かれていますように、心を整えてから大悟するのではなく、人間とは、はじめのはじめから大悟(神・仏・無原罪)そのものだ! というのが「唯神実相」の教えです。

 その神であり、仏であることを喜ぶのが神想観なのです。神想観をしてから悟るのではありません。


   久都間 繁
 

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2008年9月12日 (金)

神想観は歓喜の行

 先月の聖典講義が終わった後で、7人の方々に個人指導をさせていただいたが、その内の5人が霊的な悩みについてのご相談だった。

 生長の家では、「天地一切のものと和解せよ」ということを説いている。
 この根拠は何かといえば、天地一切のものは、現象的にはどのような現れ方をしていたとしても、その実相は、完全円満なる神(仏)であるということである。

 生長の家で、「実相」と「現象」を説くのは、「実相」のみが実在であって、「現象」は心の影に過ぎない、ということを説くためなのである。
 
「実相」とは、私たちがどんなに否定しても、否定や肯定などという心の作用を超えて、久遠に実在するもののことである。

 また「現象」とは、ただ現れているだけであって、一度たりとも実在したことのないもののことである。だから、現象は無常であり、非実在であり、み教えは「現象無し!」と一刀両断するのである。

 霊的な問題と、実相・実在との間に、“関係”などは本来ないのである。
 霊界、現界ともに「現象」であり、それは心の影に過ぎない。一方、実相・実在は、はじめのはじめから円満完全に在り続けているのである。
 したがって現界や霊界に生じた不完全な現象は、私たちが五感・六感を通して観た世界が投影しているだけであって、実相・実在とは“無”関係なのである。現象の雲を突き抜けて、完全なる実相を直視しなければならないのである。

 無いものは、改善も改悪もない。完全円満なる神・仏のみが在るのだ。その無いものを善くしようと、現界・霊界の土俵に立ち続けて相撲をとってみたところで、完全なる世界は永遠に現象界に投影されることはないのである。「三界唯心所現」を成就する道は、実相直視以外にないのである。

 もし、映しの世界である霊界、現界の問題を解決しようと欲するならば、現象の土俵から下りて、ただ実相・実在の完全円満なる世界の荘厳のみを観て、それをよろこび生きたときに、天地が開け、泥中に蓮華が咲き、百花繚乱の春が訪れるのである。
  
「天地の万物(すべてのもの)に感謝せよ」とは、天地の全てのものの実相は、そのまま神であり完全円満であるから、現象の一切から去って、実相なる光明の天地に飛び込み喜べ! ということなのである。

 ここから、生長の家の神想観が苦行などではなく、歓喜の行であることが体感できるのである。

 一跳躍入如来地である。


  久都間 繁

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2008年8月23日 (土)

真・善・美の展開

「実相世界に舞い遊ぶ」ことについて、山埼さんから頂いた質問への回答をアップします。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

>>実相完全円満世界からのみ光を、この常変なる現象界に直に照らすにはどうしたらよいのでしょうか。
先生の仰る、実相世界を舞い遊ぶということも具体的にはどういうことなのでしょうか。
先生ご自身は日常の生活において、この真理をどういうふうに実践されていますか。


 昨夜ようやく「聖使命」の編集が終り、山崎さんの質問のタイミングの良さに驚いています。

 先ほどは聖典講義にお越し下さり、ありがとうございました。

 徹夜明けで、今ひとつ乗りが悪かったかもしれませんが、何とか今日のお役目を果たすことができました。

 お話したように「実相世界に舞い遊ぶ」というのは、神想観の“中身”のことです。

「実相世界」は、真・善・美に満ちた世界である、ということは、山崎さんも聖典の言葉や、副総裁先生のご講習会などで聴かれたことでしょう。

 この「実相」の真・善・美は、人類の営む一切の行為となって現れ、四季折々の自然となり、天地の万物、森羅万象となって、無尽蔵にこの世に間断なく出現しています。
 つまり、実相宇宙全体の働きが大いなる光明化運動そのものなのです。

「三界は唯心の所現」ですから、神想観を通して真・善・美の源泉である実相世界の扉を開き、そこで舞い遊ぶことは、人類光明化運動の(神の子としての)基本的な働きではないかと思って、楽しんでやっています。


  久都間 繁



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2008年8月11日 (月)

光明世界に舞い遊ぶこと

この世界を「現実」に於いてではなく、「実相」に於いて観なければならない。自分自身を「現実」に於いてではなく「実相」に於いて観なければならないのである。
         (谷口雅春著『新版 善と福との実現』12頁より)

「現実」とは、即ち現象である。

 私たちが生活の中で体験する「現実」において、どれほど完全で円満と見えるものが現れ、またどれほど羞悪で不完全と見えるものが現れていたとしても、それは現れているだけであって「実在」ではない。

「実在」するものは、ただ「実相」のみである。

 ときには現れ、ときには変化し、ときに消えていくようなものは、はじめから無いのである。

 この無い現象のみを見て、自己を評価してはならない。評価すべきものは、ただ自己の本質であるところの「実相」のみである。

 無い現象にとらわれなければ、人間は「そのまま」で、「実相」神の子なのである。これ以上、何も付け足す必要はないのである。

「現実」に、不足しているところがあるように見えるならば、それは不足しているのではなく、現象ばかり見て、「実相」を観ていなかったことの反映にすぎないのである。

「三界は唯心の所現」である。

「実相」を観れば、「実相」さながらの大調和した世界が現じ、現象にとらわれれば、不足の世界が現ずるのである。

 しかし現れたものは天国であれ地獄であれ、ことごとく非実在なのである。実在するものは、そのままで完全で健康で神の子で円満なる「実相」のみなのである。

 心の影であるところの「現実」は、私たちが「実相」を静観し、光明世界に舞い遊ぶことによって、どこどこまでも天国的状態へと変化させることが出来るのである。

 久都間 繁

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2008年8月 2日 (土)

無条件の救い

  故 吉田國太郎講師は、「絶対感謝」という言葉を、そのご著書『常楽への道』の中でたびたび述べておられたが、人生の折節に「絶対感謝」という言葉に導かれ、内なる神の国(実相世界)に目覚められた方も少なからずいることと思う。

「絶対感謝」とは、感謝のほかにない世界に誕生するということである。

 釈迦は発句経の中で、

「実にこの世においては、怨(うら)みに報いるに怨みを持ってしたならば、ついに怨みの息(や)むことがない。怨みをすててこそ息む。これは永遠の真理である」(中村元訳)

 と説いているが、この「怨みをすてる」とは、憎んでいる相手、怨んでいる自分を、心底から赦すということである。

 さらに生長の家では、赦すだけではなく、大嫌いな相手や、できれば生涯避けて通りたい問題ほど、「感謝せよ」「和解せよ」と、説いている。

 相手を真に赦し、相手(や問題)に感謝するためには、「無条件の赦し」に徹しなければならない。

「無条件の赦し」とは、「現象無し!」ということである。

 絶対感謝(実相独在)ということである。これに徹したとき、あらゆる問題が解決していくのである。

「無条件の赦し」とは、憎い相手も、怨んでいる自分も、自分たちを取り巻く天地一切の現象を「無し!」と根底から赦し切り、そこにそのまま実相独在の天地(善一元の世界)を拝むのである。

 不完全な相手も無ければ、不完全な自分も本来無い。

「大調和の神示」には、「その感謝の念の中にこそ汝はわが姿を見、わが救を受けるであろう」と説かれている。

「わが姿」とは、神(仏)のことである。

 現象の不完全がどんなに激しく、救い難い状態に現れていようとも、絶対感謝に帰るとき、そこにそのまま観世音菩薩の救いが、神の愛のみが厳然と存在している事実が拝めてくるのである。

「無条件」にすべてを赦したとき、「無条件」にすべてが救われている世界に誕生するのである。

 久都間 繁

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2008年7月25日 (金)

魂の訓練と歓喜

 生長の家では、人間はそのままで完全円満である(自性円満)、ということを説いているが、その自性円満ということと、「魂の訓練」ということとの間には、どのような関係があるのだろうか。

 つまり、生命はそのままで完全円満であるのにかかわらず、なぜ「魂の訓練」が必要なのかということである。
 そのことへの回答が、以下の文章には表現されている。

人間の魂が唯一代の地上誕生で、その魂の訓練が終了しないことは、一見まことに、もどかしい事ではあるけれども、かくの如き事は神が“神の子”を愛し給うところの摂理のあらわれであり、魂の訓練に終了はないからこそ、われわれの寿量も無限であって、常に新しき体験の中に進み行き、無限進歩を経験しつつ、魂の歓喜に終止符を打つことはないのである。この尊き真理を訓え給いし事を神に感謝し奉る。
(『続 真理の吟唱』263ページ)

 このご文章によれば、「魂の訓練」とは即ち、「無限進歩」であり、それは終止符を打つことなき「魂の歓喜」だというのである。

 魂の訓練とは、現象の側から見れば、これから完全円満になるための過程であるかのように思えてしまうのである。しかしそれは、実相ということを知らない間の見方にすぎないのである。

 現象を去った無私の地点から見れば、この人生とは、完全円満(自性円満)なる生命(光り)が、その完全なる全容(本質)を展開する場だったということに気が付くのである。

 つまり自性円満なる「因(光)」が、新しき体験という「縁(光)」と出合うことで、無限進歩(無限生長)という「果」(光)となって輝くのである。つまり、完全円満なる光りが、光りと出合い、さらに荘厳なる光りを放つのである。これが無限創造、無限生長の姿である。

 魂の訓練に終了がないのは、神の創造が無限であり、その歓喜が無尽蔵であるからである。つまり人間の本質とは、創造そのもの、歓喜そのものなのである。

 久都間 繁

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2008年7月18日 (金)

智慧身、光明身

 最近、毎朝の神想観の後で、『続 真理の吟唱』の何編かを声高らかに朗唱している。

自己の全身が肉身に非ず、物質身にあらずして“智慧身”であり、“光明身”であり、“普賢の智慧”がわがものであることを観ずるのである。                                         (『続 真理の吟唱』、244ページ)

 この智慧身、光明身、普賢の智慧を吾がものとする秘訣は、先ず「悦ぶ」ことである。

“智慧身”であることを悦び、“光明身”であることを悦び、“普賢の智慧”であることを底抜けに悦んだとき、“智慧身”なる実相が輝き、“光明身”なる実相が輝き、“普賢の智慧”なる実相が輝くのである。

 実相を観ずるとは、即ち「実相を悦ぶ」ことに他ならないのである。

 以前、誌友の方から、「実相が分からないのです」という質問をいただいたことがあったが、そのとき私は、「実相は“悦ぶ”ことでしか分からないのです」とお応えしたことがあった。

 私の恩師だった故榎本恵吾先生は、「先ず光りだ!」ということを、私が宇治の研修生だった二十数年前、よく語ってくださっていた。

 それは、現象がどんなにぐちゃぐちゃになって、整うどころかますます混乱して行くような状況のときでも、そのような現象そのままに、先ず「神の子」であり、先ず「光り」である實相をハッキリ認め、その事実を、つまりそのままで光りであり完全円満である實相を悦びましょう! ということだったのである。

 實相と現象とが、まだよく区別することが出来なかった当時の私は、このアドバイスの言葉によって、どれほど地獄のような悪循環(心の迷路)から、光明の世界へと導かれたことだろう。

 演壇へと向かわせていただく度に、いつもこのことを思い出すのである。

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2008年7月14日 (月)

前代未聞

 生長の家教修会が終わった。

 イスラームという世界宗教には、千年の知恵が降り積もっている。

 イスラーム、それは今日における私たちの営みを映し出し、あらゆる問題を相対化させてくれる、知恵の、広大なる沃野ではないだろうか。

「まとめのご講話」で、谷口雅宣先生は、「生長の家本部講師の教修会で、聖典や私の書いたもの以外の本アブ・エル・ファドル著『イスラームへの誤解を超えて』がテキストになるのは“前代未聞”ではないか、と思われた方も多いのではないでしょうか」という意味のことを語られていた。

 総裁・副総裁先生がご指導される集まりには、私も何度も参加させていただいて来たが、これは確かに前代未聞のことである。

 しかし現代は、環境、生命倫理、インターネット、オイルピーク、巨大地震、秋葉原事件など、それこそ“前代未聞”ともいうべき状況が到来している。

 これらの連立方程式への処方箋は、もちろんイスラームへの研究だけではどうとなるものでもない。

 しかし確実に言えることは、これからの時代の人類光明化運動を担おうとしている生長の家の人々には、それぞれの得手な分野において“前代未聞”の求道や研究や実験が、徹底的に求められている、それは組織から求められてるのではなく、全人類から求められている、ということではないだろうか。

 全人類とは、私たちの内の“内なる声”である。

 その「声」を聴き、自らの天分に応じて神の道を生きさせていただく、それが、「神想観」という神と直接つながる方法を伝授された、私たちの使命なのではないだろうか。

 

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2008年7月11日 (金)

明日から教修会、テーマはイスラーム

 明日から本部講師(補)対象の「生長の家教修会」が、東京・調布市の本部練成道場で開催される。

 日本で開催されるのは2年ぶりのことだ。

 テキストとなった『イスラームへの誤解を超えて~世界平和と融和のために』(カリード・アブ・エル・ファドル著/日本教文社刊)を読み始めた。

 これまで、イスラーム関係の書籍を何冊か読ませていただいていたが、この書はちょっと趣が違っていた。

 一昨日に買い求め、最初は義務的に読み始めていつの間にか引き込まれ、今朝、第3章まで進んだが、この範囲では日本でイスラーム原理主義と呼ばれている、タリバーンやアルカイーダの思想的基盤となっているワッハーブ派についての記述が興味深かった。

 彼らの、正統的なイスラームの伝統とは異なる、「アラブ民族中心主義」による教義の成立とその歴史、正当なイスラームの教えとの矛盾、イスラーム世界に与えた暴力的な影響などについて、ここまでハッキリと書かれたものに、これまで出会ったことはなかった。

 また、サウジアラビア(カウード家)とワッハーブ派、そしてイギリスの三者連合についての記述から、厳格主義の基盤となったワッハーブ派がどのようにイスラームの正当な伝統を破壊し、なぜ今日まで生きながらえ、そして全世界に影響を与えるにいたったかということも、浮き彫りになっている。

 著者のファドル氏はクウェート出身。UCLAで、イスラーム法のほか移民法、人権法、国際および国際安全保障法などを教える教授であり、イスラーム世界の伝統を担う法学者であると同時に、一人の熱心な信仰者でもある。

 この書を読んでいると、著者がその一身に、過去1400年に及ぶイスラーム世界全体の歴史を担い、やむにやまれぬ思いで筆を執っている、その重責さが伝わってくる。

 同氏は、間違いなくイスラーム世界で、過去・現在・未来を繋ぐ重要な役割を担っている。

 のみならず、今日、全世界に蔓延しているイスラームについての偏見を解き、これからの時代に真の世界平和を実現するための“捨て石”であることに自らを位置づけるような覚悟をした人物であることが、過激派からのテロを承知の上で書かれた本書の言葉から伝わってくる。

 イスラーム研究は、生長の家にとってただの他山の石ではない。

 今日、神を信じて生きる私たちが、さまざまな状況に処してどのような判断をするか、そしていかなる姿勢で生きるのか。第一級の教えを受けた者として、その責任と覚悟が問われている。そんな気がする。

 奥付では、発売日は7月20日。アマゾンで検索しても、まだ出てこない。が、まもなく販売される予定だ。生長の家の幹部の皆さんには、ぜひ目を通していただきたいと思う。

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2008年7月 2日 (水)

そのまま神であるということ

 畏友、堀浩二さんがブログ「悦びの広場」で、次の言葉を綴っていた。素晴らしい内容であり、幽界に旅立たれた榎本恵吾先生の謦咳に触れた思いがしたので、以下に感想を書かせていただいた。

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>私は榎本恵吾先生に特にきつく言われたのは人間は神の子であるという事は自分は神であると言う事だと言う事であり、それは取りも直さず、自分の人生の一挙手一投足、思想も全て、何時如何なる時もそのままで神であったという事である。この時は神でなかった、間違っていたなんて事は無いのである。それが実相を悟り、正しく認識するという事である。間違っていた、罪を犯したなんて言う風に自分に自分の人生が感じられるのは自分の心のレンズが歪んでいてそう感じられるに過ぎないのである。
 それが分かった時、吾等は自分は神に百%生かされていたと分かる。その時、真に感謝と悦びが湧いて来る。

「何時如何なる時もそのままで神であった」ということは、私たちは、どんな時も、そのままで完全円満なる「光り」だったということである。
 自分の過去を振り返ってみて、神として、光りとして拝めないところがあったとしたら、それは、神であり、光りであることを自覚していなかった過去の残像を見ているのである。「唯神実相」「三界唯心」を説くみ教えに触れたる者、この残像に捉われることなかれ。
 そのまま神、そのまま光りである。私たちの一挙手、一投足が「光り」の現成であり、実相・実在の鳴り響きである。

 たとえ、私たちが、過去にどのような悲惨で取り返しのつかない出来事をしでかしていたとしても、取り返しのつかないようなものなど、この世には存在しないのである。なぜなら、完全円満なる神(仏)のほかに、この三千大千世界に存在するようなものなど無いからである。
 天地の初めから「光り」のみであり、それ以外のものは残像(つまり無)にすぎなかったということは、信仰者として自らの内でいよいよハッキリさせなければならない事実(実相)なのである。

 仏教で云う「同行二人」とはこのことである。二人と云っても、神と自分と別れているものが同行しているという意味ではない。『甘露の法雨』には、「人間は神より出たる光なり」と記されているように、それは完全円満なる神と光りが法輪を転ずる姿であり、それのみが過去、現在、未来を貫いているのである。
 
 誌友会もまた、完全円満なる光りが主催して、完全円満なる光りが集うのである。それは完全と完全とが照らし合う荘厳なる姿であり、そこで開催される諸行事も光りであり、制作された諸作品も光りであり、これ全て生長の家「光明縁起説」より観たる光りの展開であり、実相・実在が展開する消息である。

※「光明縁起説」については、『生長の家』誌の昭和55年6月号に掲載された「碧巌録解釈」の中で、谷口雅春先生が展開されています。現在は、『碧巌録解釈』後編(谷口雅春先生著)の第九十則に掲載されていますので参考にしてください。

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2008年7月 1日 (火)

神想観の感想(20080701)

普遍と融合している私の生命は、天地一切のものと調和した関係に於いて結ばれているのであって、決して如何なる時にも、その調和した関係が断絶するということはないのである。

                (『続 真理の吟唱』249頁)

 私たちと神(本源者)との「調和した関係」が断絶するということはあり得ないのである。なぜなら、人間の“本源”そのものが「調和」であり、神そのものであり、天地一切と初めから一つのいのちだからである。

 私たちは、自分の“本源”なる実相世界で、遊戯三昧の神想観をすることを遠慮してはならないのである。
 嬉しく楽しくありがたく、遊戯三昧なのが「人間・神子」の“本源”そのままの姿なのである。そこには、罪も病も死も無いのである。

 本源なる実相世界には、既にあらゆる夢が、願いが、希望が、余すところなく完全円満に成就して、その輝きが実在宇宙に照り渡っているのである。

 私たちの「願い」とは、即ち“光り”であり、本源から発した願い、夢、希望は“光り”となって十方世界そのものとなって鳴り響いているのである。

 十方世界光明遍照、吾が全身光明遍照である。
 

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2008年6月28日 (土)

魂の「進歩」をめぐって

 山崎さんから頂いたコメントへの返信が、やや長文になりましたので、こちらにアップすることにしました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

>生物の進化もその時代、その時の環境の対応等によって勝ち得た神の御計らいだと思っていました。今でもそう思っている節はあります。

 私もかつて、優勝劣敗の法則が支配しているかに見える現象世界の営みと、「大調和の神示」に説かれた世界との矛盾について思索していた時期があります。

 生長の家では、「実相」(実在)と「現象」(非実在)という言葉を使用して唯神実相の哲学を説いていますが、「実相」という言葉が指し示しているものは、真に実在するものは“そのままで完全円満である(自性円満)”という善一元の世界観です。

 その実相哲学から、生物の進化という広大な歴史現象を捉え直してみると、進化における“突然変異”とは、実相世界に在る無限内容が、環境や条件に応じて次々と時間・空間というスクリーン上に展開しているすがたと観ることができます。

 いわゆる私たちが学校で学んだような、生命は「進化」することによって発達し、やがて(無限時間後の可能性として)完全な状態に至ると見るのは、生命を現象面からのみ捉えた考え方(一面観)に過ぎません。私が先の文章で否定したのは、世の通念となっているこのような意味での「進化」のことです。

 つまり生物の進化は、現象面からは、貴方が感じたように「その時の環境の対応等によって勝ち得た神の御計らい」と見ることもできますが、実相の視点から観れば、一切の生物は「これから進化して完全円満になる」のではなく、神の世界に既にある(完全円満なる)無限内容が、現象世界の時間・空間を通して表現されつつある――
 つまり唯一絶対の神の生命(光り)が、全宇宙的に同時展開している。そう観るのが、「無明縁起説」を脱却した、生長の家の「光明縁起説」から観た世界観です。

 また、現象世界という時間・空間というスクリーン上に映し出された世界は、神と対抗できるような厳然と存在する世界ではありません。
 私たちの心に従って、敵が在る、と観れば敵が現れ(偽象)、現象なし! 実相独在、と観れば大調和の世界(真象)が現れるのです。
 偽象、真象ともに、現れたものは“実在そのもの”ではありません。
 
 実在するものは、完全円満なる(光明一元・善一元の)神のみなのです。

>“もっと彼らの子としてちゃんと生きたい”“神の子を完全に表現する=両親に対する最大最高の親孝行”という方程式を完成させたいという気持ちが沸々と出てきます。またその図式は一体どのようなものであるのか考えたりもします。
>そのような本物の神の子が、その父母に感謝するとは一体どういうことなのでしょうか?
>一つ言えることは“今、このままで善い”ということは無いと思います。

 

 貴方が明るく楽しく伸び伸びと生きていることが、最大の親孝行ではないでしょうか。

 神の子の“そのまま”とは、現象面に映し出された“そのまま”ということではありません。
 神の子は「神」ですから、そのまま内に無限内容を蔵しているのです。私たちの“本質”である無尽蔵の宝(智慧・愛・生命)は、そのままで最高に尊いのです。が、さらにそれを豊かに実現させることこそが私たちがこの世に生まれてきた目的であり、その“本質”を表現できたときに限りない悦びを感じるのです。

 生長の家は、現象の暗黒面(自分や他者の不完全)を認めて相手にするところではありません。

「真象」の現れである光明面のみを観て、それを讃え、悦び感謝して生きる。三界唯心の所現によって、さらにその悦びが喜びを呼び、光りが、さらに光りを増幅してこの世に光りあふれる地上天国が現れるのです。それが、生長の家が進めている「日時計主義」の生き方なのです。 

久都間 繁

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2008年6月26日 (木)

魂の「進歩」について

 昨日の朝、拝読した『続 真理の吟唱』(谷口雅春先生著)に次のような一節があった。

進歩というのは、人間生命の無限内容を隠覆していた被服の如き、濃厚なる物質的波動が希薄となりて剥落して“神の子”たる実相の内容が一層ゆたかに光彩を放つに至ることである。(同書、261頁)

 魂の「進歩」と、生物の「進化」とは異なるのである。

「進化」とは、生物が種や属を超えて別種のものへと変化することであるが、魂の進歩とは、はじめのはじめから在った“神の子”の無限内容が顕わとなる、つまり本質がそのまま露見することなのだ。

「無限内容」の情報とは、即ち「光り」である。

 人間・神の子、“そのまま円満完全”なる大光明をよろこぶことで、物質への執着が希薄となり、現象への執着が剥落するにしたがって、神の無限内容が光りを放つのである。

 十方世界光明遍照、吾が全身光明遍照である。

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2008年6月20日 (金)

神の「無条件の愛」について

 生長の家の『甘露の法雨』には、次のような一節があります。


至上
無限
宇宙を貫く心
宇宙を貫く生命
宇宙を貫く法則
真理
光明
智慧
絶対の愛。

 この「絶対の愛」こそが、「唯一絶対の神」の愛です。
 この「絶対の愛」は、この人は良い人間だから愛するけれども、この人は罪人だから愛さない、といった相対的な偏った愛ではありません。
「絶対の愛」を言い換えてみれば、「無条件の愛」ということです。

 それは、信仰を持っている人にも、神を否定している無神論者にも、盗人にも、人を殺したような罪人にも、まったく平等に、無条件に、しかも無限に降り注いでいる太陽のような「愛」のことです。

 その愛は、これから降り注ぐのではありません。また、過去に降り注いでいたのでもありません。
 その愛は、今すでに、ここに降り注いでいるのです。

 また、生長の家の『甘露の法雨』の劈頭にある「大調和の神示」には、次のような一節があります。

「汝ら天地一切のものと和解せよ。天地一切のものとの和解が成立するとき、天地一切のものは汝の味方である」。

「天地一切のもの」とは、自分を取り巻く総てのもののことです。同時に私たち自身のことも含みます。つまり、天地一切のものである、私と私を取り巻く全てのものと和解するとは、それら全てのものの背後にある、「神」と“ひとつ”になりましょう、ということなのです。

 それは、「神」と、「私」と別れていたものが、これから“ひとつ”になる、ということではありません。
「神」と「私」「天地の万物」とは、初めから“ひとつの命”だからこそ、「無条件の愛」によって結ばれているです。

 神様の世界では、天地の全てのものが、既に初めのはじめから愛し合っているのです。
 その実相を観て喜び祝福しなさい、ということが「天地一切のものに感謝せよ」ということなのです。

 また、天地一切のものが無限に愛し合い、感謝しあっている実相を私たちが観て悦ぶとき、実相において“ひとつ”である天地一切のものも歓喜して、その完全円満な大調和の姿が現れるのです。それが「天地一切のものは汝の味方である」という意味です。

 ですから、「大調和の神示」は次のように続いています。

「その感謝の念の中にこそ汝はわが姿を見、わが救いを受けるであろう。われは全ての総てであるからすべてと和解したものの中にのみわれはいる」

 私たちが神想観を実修して、神様の無条件の愛の世界に飛び込んだとき、天地一切のものは「味方」つまり、「神」となるのです。

 ですから私たちが、まだ自分のことを嫌っていたり、誰かを恨んだり、憎んでいるとしたら、その人間の「現れ」だけを見ているのですから、不完全な相しか見えないのは当たり前のことなのです。

「現象」というニセモノを見ていたのでは、自分とも、その人とも、永遠に和解することも感謝することも、調和することもできません。なぜなら、本当の人間そのものである実相と出合っていないからです。

 ソクラテスは、アテネのデルフォイの神殿に刻まれていた、「汝自身を知れ」という言葉を読んで実行したそうですが、私たちも、「汝自身」である人間・神の子に目覚め、大調和の実相世界に飛び込み、“無条件の愛”の大海原へと漕ぎだそうではありませんか。
 生長の家では、神想観で現象を否定して、その“無条件の愛”の中に飛び込んでしまうのです。

 この世界には犯した罪もなければ犯された罪も存在しません。そんなものはみな現象です。私たちが現象を放ってしまえば、人類の「原罪」は一切存在しないのです。
「原罪」と感じられたものは、ただの現象であり、それは本来無いのです。

「現象無し」「実相独在」に徹することで、もう貴方はこの世に恐れるものはなくなり、“無原罪の神の子”つまり“天下無敵”となることができます。

「生長の家信徒行持要目」のなかに、「常に必勝を信じて人生を邁進すべし」という言葉があります。
「必勝」とは、先ほど紹介した聖経『甘露の法雨』にある、「宇宙を貫く心 宇宙を貫く生命 宇宙を貫く法則 真理 光明 智慧 絶対の愛」のことです。

 たとえ現象的に「負けた」と見えたとしても、神を生きる者は常に「必勝」なのです。私たちは“久遠生き通しの命”なのです。
 現象は、初めから負けているのです。負けているどころか「現象は無い」のです。

 私たちは、ますます“無原罪の神の子”の実相を喜び、この「罪なし」「病なし」「死なし」の真理を、神とともに、聖なる光となって、より多くの人に伝えていきたいと思います。

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私の治病体験

  今から25年以上前のことです。

 私は生長の家青年会の活動をしながら、父が経営する建設会社に勤務していました。
 ある年の夏が過ぎたころ、以前から悪かった私の体調が思わしくなくなり、次第に床に就くようになりました。
 私は小学校低学年のころから入退院を繰り返していましたが、生長の家に触れて一時は良くなっていたものの、その時は呼吸器疾患で苦しみ、医者に行っても、薬を服用しても一向に病気は回復せず、ついに病床に伏してしまいました。

 そのような私の状態を見るに見かねた生長の家の先輩が、長崎にある生長の家総本山での練成会に参加することを勧めてくれました。

 私は生長の家の教えに触れて以来、教えの本も良く読み、活動もしていましたが、そのときはまだ、知識だけの生長の家だったのです。

 つまり、神様のことを、生長の家の講師の話を聞き、本などを読んで学問的に理解することも大切ですが、それだけではまだ信仰が確信にまで至っていない場合が多いのです。

 したがって、心で描いた通り、信じたとおりの不安定な世界が現れて、病気ともなるのです。

 神様を本当に深く知り、信仰にまで達するためには、神想観の実修を通して、ダイレクトに神様の世界に飛び込んでしまう、そういう霊的修行が重要となります。

 つまりそのころの私は、まだ神想観をたまにしか実修せず、そのために、現象を超えたところにある神様の世界の真の悦びが分からなかったのです。
 つまり生長の家の活動はしていても、心の底では罪や、病気や、貧乏の存在を認め、どっぷりと現象の世界に住んでいたわけです。

 さて、総本山で練成会を受けることを決めた私は、病気で衰弱した体を引きずるようにして歩き、呼吸困難に陥りながらも駅の階段の手すりにつかまり、ゆっくりホームに移動して、親しい友人に見送られつつ、夜行列車で生長の家総本山へと出発しました。翌日の午前中に長崎駅に着き、さらにバスに揺られ、ようやく練成道場に到着しました。

 当時の総本山では、泉英樹・本部講師が練成部長として講話を担当されていました。
 練成道場に着いても、私の体調は一向に回復する兆しはありませんでした。

 しかし、せっかくここまで来たのだからと、早朝に行われる神想観、聖経『甘露の法雨』の拝読、そして農作業などの肉体労働の献労など、身体の調子がどんなに悪くても、行事を一つも休むことなく、生長の家の教えをただただ信じて、死んだ気持ちになって一つ一つの行事に参加していました。

 そして4日目あたりの講話で、泉講師が「実相」と「現象」についての話をしてくださいました。
 それは、肉体に現れた病気などの「症状」は、あるように見えても本当は存在しないこと。
 これを「現象」と言い、その「現象」は私たちの「心」によって絶えず変化していること。
 そして「現象」の背後には完全円満な「実相」があり、それこそが私たちの本体であること。
 私たちはこの「実相」を観ずることによって、肉体という「現象」にも完全なる健康状態をもたらすことができるということ。
 したがって私たちは、絶えず実相世界を観ずるように努め、完全円満なる大調和した世界のみを観じ続けることがとても重要である、おおよそこのようなことを教えていただきました。
 つまり現象の世界を去って、実相世界に入るための重要な筋道を教えていただいていたのです。

 さらにその後で、『続々甘露の法雨』というお経を読む行事がありましたが、そのお経の一節に次のような言葉が書かれていました。

「汝ら今、生命(いのち)あることを悦べ、
 今、生きてあるその『今』を悦ぶべし。
 汝の悦びは汝の病を癒すべし。」

 ここにある、「今、生きてあるその『今』を悦ぶべし」というコトバが強く魂に響き、深く印象に残りました。

 この「今」とは、過去・現在・未来という時間の流れのなかの「現在」における「今」ということではありません。

 イエス・キリストは、「アブラハムの生まれぬ前より吾はあるなり」と語っていますが、この「アブラハムの生まれる前」というのは、時間・空間を超越したの世界のことです。

「今」を悦ぶべしの、その「今」も、やはり、この時間・空間を超越した世界のことなのです。
 つまり「今」を悦ぶとは、時間・空間発生以前の「実相世界」を悦ぶ、ということなのですね。

 翌日の午後、献労の時間に農作業をしながら、私は実相世界を観ずるために、心の中でで「ありがとうございます、ありがとうございます、実相円満完全、実相円満完全」と、一心に内なる完全円満な世界を観じながら、与えられた仕事に励んでいました。

 夕方となり、その日の農作業を終えて、他の参加者と一緒にクワなどの農機具を片づけているときに、ふと次のような直観が私の脳裏にひらめきました。

「私の体は今どんな病気をしていても、それは現象であって実在ではない。本当に存在しているのは、神様の造られたままの完全円満な実相世界だけだったのだ!」
 ということが、忽念と分かってきたのです。

 そのときに、『続々甘露の法雨』に書かれていた、「『今』を悦ぶべし」という、その『今』とは、病気という現象を超えたところにある善一元の大調和した世界であり、それこそが久遠不滅の『今』であり、それは「歓喜」そのもの、「悦び」そのものであることがハッキリと観じられたのです。

 私たちは、神様が造られたままの“そのままの世界”つまり「善一元の世界」を悦ぶだけでよかったのです。

 つまり、神様の世界には、「罪」という現象は無いのです。
 神様の世界には、病気という辛い現象も無かったのです。
 神様の世界には、貧乏という不完全な現象も無かったのです。

 実在するものは、ただ善に満ち、喜びに溢れた、完全円満なる世界だけだったのです。

 それ以来、私は、完全円満な「今」を、ただ「ありがとうございます、ありがとうございます」と感謝し、ただただ神様の造られたままの世界を観て喜んでいました。

 イエス・キリストは、福音書のなかで「十字架を背負いてわれに従え」と語っていますが、十字架を背負うとは、時間・空間の世界に現れた不完全な現象の一切ををなげうって、ただ善一元・光一元の神に従う! ということなのです。
 それが、「今」を生きる、ということなのです。

 さて、私の身体の症状ですが、翌朝、目を覚ますと、咳とともに大きな痰の固まりがドカっと出てきました。さらに咳をする度に痰の固まりが一緒に出てきて、その度に呼吸が楽になっていきました。

 やがて、さわやかなそよ風のようなものが躰中をめぐるように感じられ、全身が軽やかになるにつれて、病気の症状もきれいに消えてしまったのです。

 神様が造られたままの完全な世界のみを見つめ、無心に悦ぶことで、神の国さながらの円満な、喜びに充ちた健康状態が、肉体にも現れてきたのです。

 また、練成会の7日目には、ちょうど総本山の近くにある佐世保市で、谷口清超先生ご指導の講習会があるとのことで、練成会の参加者全員と一緒に道場からバスに乗って会場に行き、私は一番前の席で終日聴講させていただきました。

 私の心境が変化したことで、私を取り巻く世界がどんどん光りあふれるものへと変貌していくのを感じました。
 心が神様の世界に振り向けば、神様の完全円満なる世界が、この現象界にも現れて来るのです。

 ですから、個人の病気や経済問題を解決するにとどまらず、世界平和を実現するためにも、私たち一人一人が、神様の世界にすでに成就している完全円満な世界を観じ、それを心から喜ぶことが大切なのです。
 喜ぶことによって、その人の住む世界が天国極楽浄土へと変貌するのです。 

 生長の家の聖経『甘露の法雨』には、次のような一節があります。

創造の神は
五感を超越している、
六感も超越している、

 つまり、私たちの五感や六感の感覚にふれるものは、「現象」であって、それは神の真の相(すがた)ではない、ということですね。

「現象」とは、「現れているだけ」の仮の存在であって、本当は「無い」のです。無いからさまざまな姿に現れるのです。
 ですから、あるときは病気や紛争などの不完全な姿に現れ、またあるときには天国的な状態があらわれる。

 これも「現れている」だけであって、「実在」ではないのです。
 争いも、病気も、貧乏も、あるいはラッキーな出来事でさえも、現象世界にあるものは全て実在ではないのです。
 私たちの五感に触れるものの全ては「現れている」だけであって本来無いのです。
 私たちの肉体も、私たちの「心」すらも、現れては消える現象です。

 ですから生長の家では、肉体の背後に、現象の背後に、肉体を表現し、現象を表現しているところの「唯一絶対の神」が存在し、その「唯一絶対の神」のみが実在であり、その神の世界は“善一元の世界”であり、完全円満な世界であると説きます。

 また現象界は、「現れているだけ」の世界だからこそ、私たちが「善一元の世界」に心を振り向けることによって、先ほど申し上げたように、神様の完全円満なる世界を自在に現すことができるのです。ですから真の宗教は、魂のみならず、実際の生活をも救うことができるのです。

 また、聖経『甘露の法雨』の別のところには、

「実在は五官を超越し 第六感さえも超越して 人々の感覚に映ずることなし」

 と説かれています。

 この意味は、人々が五感、六感で見たり聞いたりしているのは「現象」であって、実在ではない。「実在」すなわち「神」は、感覚に映ずることはないから、キリスト教では祈り、あるいは瞑想を行い、禅宗では坐禅を組み、生長の家では神想観を実修して、物質を超え、肉体を超え、一切の現象を超えて、すでに初めのはじめから成就している神様の世界に帰り、完全円満なる神の子の自覚を深めるのです。

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2008年5月13日 (火)

万教帰一の哲学と世界平和

 3月の中旬、ドイツのノイシュタットという場所で開催された、「生長の家ヨーロッパ幹部研修会」に出講してきました。

 会場には、開催国のドイツをはじめ、フランス、イギリス、オーストリア、スイスなどから、欧州の幹部の皆さんが参集してくださいました。

 そこでお話させていただいた講話のなかで、ブログで紹介できるような内容のものを選んで公開させていただきます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 私は生長の家の本部講師、久都間 繁(くつま・しげる)と申します。
 これから3日間、皆さんと一緒に生長の家の教えを研鑽させていただきます。

 私は20代のころ、日本の京都にある「生長の家宇治別格本山」という生長の家の練成道場で修行していました。

 そこで私は、何人もの素晴らしい本部講師と出会い、生長の家の教えについて研鑽させていただきました。

 当時70歳代で、今は故人となった本部講師で、私が尊敬していた方に小嶋博という講師がいましたが、彼は、生長の家の講話について次のようなことを語っていました。

「生長の家の講話は、講演とは違う。それは講師と聴衆との、命(いのち)と命の遣り取りだ!」と。

 ですから私は皆さんに、この研修会でのお話を通して、ただ単に「知識」だけを伝えるために来たのではありません。

 祈りを通して、信仰を通して、生長の家が伝えようとしている神と、その世界観について、皆さんと一緒に学びながら、お話ししたいと考えていますので、どうぞよろしくお願いいたします。

 先ず、私が生長の家に触れたきっかけについてお話させていただきます。

 私は日本の静岡県というところで生まれました。そこは日本列島のちょうど真ん中あたりに位置する県で、そこには有名な富士山もあります。

 私は生長の家の教えに出合う前は身体がとても弱く、小学校低学年のころから14歳ごろまで、病院への入退院を繰り返すような日々を送っていました。ですから、一つの学期を休まずに通学したことがありませんでした。

 自分の思うようにならない病気の身体をかかえ、医者や薬に頼らなければ生きていけないような弱い体に生まれついたことを、私も両親も嘆いていました。

 そんな生活が何年も続き、しかも入院するたびに、学校の授業の方はどんどん先に進んでいきましたので、私はまるで、自分一人だけこの世から取り残されたような気持ちになっていきました。

 やがて自分のような不完全な者など、この世に必要ないのだから、「死んでしまいたい」と思うようになりました。

 そうなってみると、「死んだら、どこに行くのか」ということがとても気になりました。

 そのころ中学生になっていた私は、死後の世界について興味を抱くようになり、この分野を科学的に解説した書籍などを何冊も読んだりして研究するようになりました。

 私が中学2年生になったばかりの春休みのこと、14歳ぐらいのときですが、私の父の知り合いで、当時、獣医師をしていた沢口わたるという20代後半の人物を紹介されました。

 父の話では、彼は大学生のころから『生命の實相』という生長の家の本を熱心に読んでいて、神秘的な世界に精通しているらしいとのことでした。

 さっそく私は、自転車で1時間ほどかけて、その方が働いている山の中の牧場に出かけて行きました。

 テーブルをはさんで対面すると、沢口さんは私に、「シゲル君は神様や仏様は、どこにいると思いますか」と問いかけてきました。

 私は、「神様は教会や神社に、仏様はお寺にいるのではないでしょうか」と答えると、彼は、「シゲル君、神様や仏様はね、教会やお寺にだけいるのではないんですよ。」と答えるのです。

 さらに彼は、「神様はね、宇宙に満ちているのです。そしてシゲル君、本当は君も神様なんだよ!」と語っていました。

 私が訪問した目的は、超能力のことや、死後に行くと伝えられる霊界のことについて話をうかがうことでした。

 気がつけば、ここで主題となっているテーマは、より本質的な、哲学でいうところの「存在」や「実在」という領域に踏み込んでいたのです。

 中学生にとっては、とても高度な内容の話にもかかわらず、彼の語る「本当は君も神様なんだよ!」という言葉に、私の魂はぐいぐい引きつけられていきました。

 そして、これまでの私の世界観がガラリっと変わっていくような不思議な感じと、“やっぱりそうなのかもしれない!”といった期待と開放感とが入り交じったような悦びが湧いてくるのでした。

 私は、思いつく限りの、ありとあらゆる疑問を、彼に投げかけてみました。彼からは実に愛情に充ちた、理路整然とした、しかも霊的な刺激に満ちた言葉が返ってくるのでした。

 帰るとき、『白鳩』という、当時は生長の家を創始された谷口雅春先生が中心になって執筆されていた「生長の家」の月刊誌をいただきました。

 ワクワクしながら自転車のペダルを踏んで家に帰り、頂いた『白鳩』誌を一冊持って自宅の裏山に登りました。

 小さな尾根の切り株に座り、谷口雅春先生のご文章を読み進んでいると、私の目に、次の和歌が飛び込んできました。

「ただよへる雲の彼方にまん丸に 澄み切る月ぞ吾が姿なり」

 この和歌の解説として、谷口先生は、おおよそ次のような意味の言葉を書かれていました。

 空がどんなに曇っていたとしても、また雲の下が土砂降りであったとしても、その背後には、いつでもまん丸い月が煌々と照っている。

 それと同じように、現象の貴方がどんなに病気をしていても、経済的に貧乏で生活が苦しかったとしても、また、どんな罪を犯してしまったとしても、そのような不完全な姿は、過ぎ去っていく雲のような仮の姿であって、本当の貴方自身ではありません。

 本当のあなたは、一度も曇ったことも欠けたこともない、完全円満な美しい満月のような存在です。

 未だかつて一度も病気したことも、罪を犯したことも、汚れたこともないもの、それが、神の創られたままの、あなたの本当の姿であり、それがあなたの實相だ!

 この言葉が示している世界を観じたとき、脊髄に百万ボルトの稲妻が落ちたような感動が走り、同時に今まで私のうちで眠っていた本質的な何者かが目を覚ましたようでした。

 ふと眼を上げると、木々の葉が、午後の柔らかな太陽の光を浴びて、何とも言いようのない霊々妙々とした瑞々しい美しい光りを湛えて輝いているのが、私の眼に飛び込んできました。

 まるで、生まれて初めてこの世界に触れたような気がしました。

 感動につつまれながら自宅に帰り、『白鳩』誌に再び目を通しながら裏表紙を見ると、そこには、当時、白鳩会副総裁をされていた谷口恵美子先生がお書きになった新刊で、『光の中をあゆむ』というタイトルのご本が紹介されていました。

 そのタイトルのコトバが目に入ると、私自身が先ほど味わったばかりの光に包まれた荘厳な世界がふたたび蘇り、ご本の著者が、神の祝福に満ちた光の中をあゆんでいる光景が彷彿として脳裏に浮かんでくるのでした。

 すべての人々が、今そのまま「光の中をあゆんでいる」という、神が創られたままの世界を素直に「観じ」て、天地のすべてのものを拝んでいる谷口恵美子先生の“想い”が、その本のタイトルからメッセージとして伝わってくるのを観じました。

 それは、これから神様の造られたままの「光明に満ちた世界」に入るのではなく、神様の世界は今ここに、はじめのはじめから、完全円満なる神は、そのまま「実在しているのだ」という、大いなる発見と喜びに満ちたものでした。

 これが私と、生長の家との出会いでした。

☆世界の宗教に現れた神と「万教帰一」の哲学

 さて、本日の講話のタイトルである「万教帰一」の哲学についてお話させていただきましょう。

 皆さん、世界にはキリスト教、イスラム教、ヒンドゥー教などさまざまな宗教がありますね。

 また、それぞれの宗教には、その宗教で崇拝するところの目に見えない崇高な存在があり、それは、旧約聖書ではヤハウェという名で表現され、イスラム教ではアッラーと呼んでいます。またインドのヒンドゥ教ではシバやブラフマンとも呼んでいます。

 中国の道教ではタオ(道)などと呼び、日本で広く信仰されている仏教では、仏とも呼び、真如と呼んでいます。

 このように、世界にはさまざまな宗教と、さまざまな神が存在していることがお分かりになると思いますが、ではなぜ、こんなにもたくさんの神がこの世界には現れているのでしょう。
 
 それはちょうど、世界には160以上の国々があり、それ以上の民族、人種が存在していることと、よく似ているのです。

 肌の色ひとつとっても、白い肌の人、黒い肌の人、黄色い肌の人いろいろいますし、髪の毛の色もさまざまですね。

 さらに言語も、この会場だけみても私のように日本語を母国語とする人、ドイツ語の人、ポルトガル語の人、英語圏で生まれ育った人など、地球上には本当に多様な文化的背景を持つ人々が存在しています。同じ、Homo sapiensでありながら、実に多様性に満ちていますね。

 さて、そのその地球上の国々の空を、毎日「太陽」がめぐって照らしています。太陽は一つですが、その同じ「太陽」のことを、160の国々があれば、それぞれの言語や伝統の中で、「太陽」を指し示す〝呼び名〟が、きっとたくさんあることでしょう。

 日本語では「太陽」と呼びますが、英語では「sun」ですね。ドイツ語やポルトガル語では何と呼ぶのでしょうか?

 このように、たとえば1000の言語や伝統があれば、太陽の名前も1000通りの呼び名が出現していることでしょう。

 これと同じように、たとえば神様が一つだったとしても、1000の民族や言語がそれを把握すれば、神様の名前も1000通りの呼び名が現れる。そういうことになりませんか。

 この神様のことを、別のたとえをもって表現してみましょう。皆さんは、自分の母親のことを「お母さん」と呼んでいることと思いますが、その同じ女性が、お父さんから見れば「妻」であり、祖父母からみれば「娘」であり、母のきょうだいから見れば「姉」や「妹」ですね。

 また、友人から見れば誰々さんである、といったように、同じ1人の女性が、見る人の立場が異なるにしたがって、呼び方が変わるのです。

 つまり一つの神、それは「究極的実在」とでも呼ぶべきものが、様々な時代に、さまざまな教祖を通して現れれば、別々の宗教の姿で現れるのです。

 ですからキリスト教やイスラーム、仏教など、世界に出現した偉大な宗教は、「唯一絶対の神」という究極的実在が、それぞれの地域の言葉の違いによって別々の名前で呼ばれ、異なる伝統文化のなかで、それぞれの文化の文脈に織り込まれて信仰されているのです。

 ですから、キリスト教も、イスラム教も、ヒンドゥー教も、それぞれ別の宗教のように見えていますが、実は一つの「究極的実在」が、様々な時代に、様々な民族に現れている姿なのです。

 キリスト教もその本質は「唯一絶対の神」の現れであり、イスラームもその本質は「唯一絶対の神」の現れであり、ヒンドゥー教の本質も「唯一絶対の神」の現れなのです。

 ただし、それぞれの時代に出現し、それぞれの伝統の文脈に織り込まれているうちに、その本質から離れ、迷いの要素が混入した教えもたくさんあります。

 迷いの度合いが深まった結果が、今日の宗教的な対立や紛争となって現れているのです。

 全人類が、迷いを去って「唯一絶対の神」に目覚め、それぞれの伝統的な宗教を通して「唯一絶対の神」を信仰するようになれば、対立や紛争はなくなり、世界に平和が実現するのです。

 このように全ての宗教の本質を明らかにして、その本質を礼拝するのが、生長の家の「万教帰一」の教えです。

 そして、「唯一絶対の神」を、現代において歪みなく正確にお伝えする運動が、生長の家の国際平和信仰運動なのです。

 では、この「唯一絶対の神」とはどのような存在なのかということが気になりますね。この「唯一絶対の神」とは、世界の偉大な宗教を生み出した本源のことです。いわゆる人格神ではありません。

 日本の生長の家では、拠点や道場などに「実相」と書いた額などを掲げ、神想観を実修する際に礼拝していますが、この「実相」とは、「実相世界」の象徴です。

「唯一絶対の神」とは、「実相世界」と言い換えることができます。

 この「実相世界」について、生長の家の聖典である『生命の實相』第21巻(教典篇 27ページ~28ページ)には、次のように書かれています。

「この実相の無限荘厳世界は大調和の極の極の世界であって、神の無限の智慧、無限の愛、無限の生命によって出来上がった秩序整然たる世界が厳存するのであります。この実相を知ることが肝腎なのであります。(中略)

この世界を神霊の実現せる「光の世界」だと知りますと、光明無量の美しき世界が現実にあらわれてくるのであります。」

 生長の家では、実相は完全円満であり、無限の智慧であり、無限の愛であり、無限の生命であると説きます。

 この実相のことを、仏教では「尽十方無碍光如来」とも呼んでいますが、その意味するところは、究極的実在は宇宙に充ち満ちている光である、ということです。

 この光とは、実在する智慧・愛・生命の象徴です。そして、実在宇宙には善きもののみが充満しており、不完全な現象は一切無い。そして私たち人間の本当のすがたも、実在の光そのものである、というのが生長の家で説いている「人間・神の子」の教えです。

 ですから、道場や誌友会場などで「実相」という額の前で神想観を実修しますが、それは自分の外にあるものを拝んでいるのではありません。

「実相」は、私たち一人一人の内にあるのです。私たちの内にあり同時に宇宙に充ち満ちている。その「実相世界」と一体であるとの自覚を深める行事、それが神想観なのです。

 私たちは、この「実相世界」を観じて、神の智慧・愛・生命と一体となることによって、この地上にも「実相世界」の大調和した状態を実現することができるのです。

 イエス・キリストも語っていますね。

「御意(みこころ)の天に成るが如く 地にも成らせ給え」(マタイ伝)と。

 神様の御心は、すでに天に(つまり実相世界)に成就しているのです。

 だから私たちは、その既に成就している世界を深々と観じ、喜ぶことで、地(つまり現象界)にも、神の国の完全円満な状態を実現することができるのです。

 これが生長の家の信仰生活の基本です。

 日本の大乗仏教の宗祖の一人である親鸞上人は、次のような言葉を残しています。

 信心よろこぶその人を 如来と等しと説き給う
         大信心は仏性なり 仏性すなわち如来なり
 
 この歌の意味するところは、神様を観じて喜ぶその人は、実は神様そのものなのです。喜びのなかにすでに神様の世界が実現しているのです。その信仰の喜びが神であり、実在の光なのです。といった意味になるかと思います。

 皆さんは、最初から神の子なのです。それは実相世界に、すでに久遠の昔から、光と喜びに満ちて成就しているのです。その実相を観じて喜ぶことが、生長の家の信仰生活であり、地上に天国を実現する道なのです。

 ご静聴ありがとうございました。

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2008年4月28日 (月)

聖胎長養

友人から届いた手紙への返信です。

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合掌、ありがとうございます。

メールを拝見させていただき、貴方様の魂が、ますます無限生長をされていることを嬉しく拝察させていただいております。

神様以外にはない世界のなですから、不完全と見える教育法も教師も、病気も、これらの一切のもの(つまり不完全な現象)は、本当は相手にする必要はないのです。
(相手にして認めていればいつまでも不完全な状態が付いてまわるのです。それが心の法則です)

ですから実相を直視するとは、「神様の世界に入ってしまう!」ということです。

つまり、私たちの生活が、神様のみを相手にした生活となり、私たちの住む世界が、神様のみを相手にする世界となることです
神様の世界は、智慧、愛、生命に満ちた大調和の世界であり、すべての人間は「神」であり、「仏」そのものなのですから、私たちは、「ただただ拝む」こと、「ただただ感謝する」こと以外にない(つまり完全なる全托、自我の完全放棄、感謝礼拝三昧な)のが「実相直視」なのです。

しかし、これには「慣れ」が要ります。谷口雅春先生も、「悟りに慣れる」のに時間を要した、ということをどこかのご著書で回想されています。
仏教などでは、これを「聖胎長養」といって、悟りの最後の段階の重要な修行と位置づけています。

あせることなく、うまずたゆまず「聖胎長養」してください。
はじめのはじめから、光明一元の世界なのですから、それを信じて、その世界に生まれ変わることが「人間・神の子」の誕生であり、「一人悟れば九族天に生まれる」ということです。

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2008年4月 9日 (水)

一人出家すれば

 友人から届いた手紙への返信です。

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実相直視は、貴方の努力精進によって達成できるようなもので

はありません。

生長の家には、「全托」という言葉があります。
この言葉の意味は、

すべては神である、神以外のものは存在しない。善一元、光明一元の世界のみを信じて、すべてを善なる神に委ねよ。

ということを表現しています。

その神様の世界に、すべてを托した完全な安らかさ、自力のまったく要らない、自力をまったく必要としない、自分というものの要らない世界――

それは、無いもの(現象)を「無い」と、はっきりと断ち切ったところにのみ、見出すことができる金剛不壊の世界です。

それが、生長の家が明らかにした実相世界です。

貴方が生きているのではない、神が貴方を生きているのです。

お子さんが生きていると見るのは現象です。完全円満なる神が、光明一元なる神のみがお子さんを生きているのです。その事実(実相)を安らかに「ハイ!」と受けとることが、実相直視です。

すべてを善一元の神に托して、自力による一切の努力が無くなること、それが「一人出家すれば九族天に生まる」ということです。

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2008年4月 7日 (月)

神癒祈願とは神様の邪魔をしないこと!

 友人からいただいた手紙への返信

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
合掌、ありがとうございます。

息子さんのこと、現象的な視点から見れば心配なことばかり目に付かれることでしょう。

しかし、息子さんは、はじめのはじめから神の子さんなのですから、何の心配もありません。どう転んでも神様の道(つまり最上最尊最良の道)以外にはあり得ないのです。

私の恩師の一人である、宇治の初代神癒祈願部長を務められた故 小嶋博講師は次のように語っていました。

「神癒祈願とは、神様の邪魔をしないことだ」と。
なぜなら、この世界は、「はじめのはじめから完全円満なのだから、それを認めて悦ぶことが大切なのだ」と。

あとは「三界唯心の所現」の法則によって、神様の世界にあるそのままの姿(真象)が現れるのです。

息子さんのこと、そして皆さんのこと、ずっと祈らせていただいています。

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2008年2月15日 (金)

「大満足」の世界

「足るを知る」という言葉がある。

 この言葉が強く印象に残ったのは、15年ほど前に京都で聞いた稲盛和夫氏(京セラ・第二電電〈現KDDI〉創業者)の講演会だった。

 お話の中で同氏は、当時の第二電電株式会社(DDI)を立ち上げた折のエピソードを語っておられたが、それまでに自身の心の中を、「動機善なりや、私心なかりしか」と、数カ月間にわたって真摯に内観し、得心がいった後にようやく起業されたということだった。

「会社を立ち上げる」ことと、「足るを知る」ことの間に、一切の矛盾撞着のない生き方。そこに出家者として企業経営に携わる稲盛氏の信仰が貫かれている。

「足るを知る」とは、単純に「現状に満足せよ」ということではない。「足るを知る」とは、「〝私心〟なく生きる」ということであり、それは同時に「仏心」を生きる、ということである。

「足るを知る」の「足る」とは、満足の「足(ゾク)」である。「足る」を知るとは即ち、「大満足」と出会うということである。仏(神)と出合ったとき、私たちは「大満足」を得るのである。

 神や仏の世界に入るためには、まず「足りていない」世界に住むことをやめて、「大満足」世界へと〝心の眼〟を転じなければならないのである。では、「大満足」の世界は、どこにあるのか。

 それは今、ここ、にあるのだ。はじめから足元にあるが故に、「足る」と表記しているのである。「足りない」と思っていたのは、今、ここに在る「大満足」の世界を見ていなかったからである。足元を見ずに、余所(よそ)ばかり追い求めていたが故に、「足る」ことができなかったのである。

 すでに「満ち足りて」いる世界。すでに円満に成就している大満足の世界。それは「今、ここ」にあるのだ。

「足りていない」と見えたのは、足りていない世界に固執しているから、足りない世界しか見えてこないだけのことである。足りないと見える世界は、はじめから存在していないから、〝無〟であり不完全であり欠乏しか感じられないのである。このような現象の世界は永遠に「足りる」ことはないのである。

 そんな「足りていない」世界(現象世界)しか見ることのできない〝私心〟を本来の「無」へとお返ししたとき、はじめのはじめから在る世界がそこに厳然とあることが分かるのである。百尺竿頭進一歩である。そこに〝私心〟(我)をまったく必要としない、「大満足」の世界、完全円満なる世界が存在しているのである。

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2006年11月14日 (火)

内なる光

 機関誌『生長の家青年会』1月号の巻末に、次のようなメッセージを書きましたので転載します。

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 聖経『真理の吟唱』には、「光はそれを自覚せる者の心の中に照り輝くのである」(「内なる光を呼び出す祈り」)と説かれています。

 光は、私たちの内に在って、私たちがそれに気付くことを待っているのです。

 なぜならこの「内なる光」は、人間の實相そのものであり、それが私となり、あなたとなって此の世に誕生したのですから。

 私たちは、その荘厳なる事実を観じつつ、今日を、そして新たな年を歩み出しましょう。

 真理の吟唱の言葉は次のように続いています。

「自己が自己に宿る光を照り輝かして、相手の人々を観れば、類は類を呼び出し、光は光を点じて、相手の人々から“神の光”が呼び出されてくるのである」。

 現象を見る前に、先ず善一元、光明一元の神のみが“唯一の実在”であったことを観じて悦ぶこと。

 その喜びは「光」となり、祈りとなって十方世界に鳴り響くことでしょう。

 国際平和信仰運動の展開とは、その「内なる光」の伸展そのものなのですから。


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2006年10月15日 (日)

観音妙智力のこと

「観世音菩薩は、あらゆる姿とあらわれて私たちに救いの説法を宣示し給うのである。山々のたたたずまい、雲の行きかい、風の韻き、水の流れ――ことごとく観世音菩薩の慈悲の説法である。心に耳あるものは聴け、心に眼ある者は見よ」
   (谷口雅春著『真理の吟唱』「観世音菩薩を讃える祈り」より)


 私たちを取り巻くすべてのものは「観世音菩薩」の慈悲の説法なのである。そして、一番身近な「観世音菩薩」は、実は私たち自身。

 観世音菩薩は、宇宙に充ち満ちている尽十方無碍光如来の大慈悲の顕れであると教えられているが、私たちの身心そのものが尽十方無碍光如来の大慈悲が如実に顕現した相(すがた)なのである。

 私たちが見聞覚知すること、そのことが観音妙智力の働き。私たちが新陳代謝すること、そのことが観音妙智力の働き。私たちがこの世に生まれて、そして他界していくことが観音妙智力の働きなのである。

 私たちは、自分で生きているのではない、それは見聞覚知させていただき、新陳代謝させていただき、生まれさせていただき、生かさせていただき、死なさせていただいているのである。

 私たちは「自分」ではなく、「観音妙智力」が私となって顕現しているのである。私はそのままで観世音菩薩であり、観音妙智力であり、尽十方無碍光如来の化身なのである。

 私たちは、その霊妙なるいのちを見失ってはならない。天理教祖は、この消息について絶妙な言葉を残している。

「惜しい欲しい可愛いと、欲と傲慢これがホコリや」

「自分」が生きていると思えばこそ、惜しくなり、欲しくなり、可愛くなり、欲が生まれ、傲慢が生じ、霊妙なる実在が見えなくなる。

 そこを超える方法はただ一つ、自分の全身全霊が、はじめから観音妙智力の顕れであり、尽十方無碍光如来の化身であり、未だ一度も汚れたことも崩れたこともない、「実在」そのものの顕現であることを、ただただ悦ぶこと、ひたすら祝福すること。

 そして、神(佛)のみが唯一の実在であることを識ることである。


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2006年7月15日 (土)

神を観るということ ~唯神実相の信仰~(3)

 最近こんなことがありました。

 わが家の今年、小学4年生になる次女が、駅まで用事があって出かけたのですが、帰りにバス代が無いことに気が付いたそうです。

 しぶしぶ歩いて帰ろうとして、ふと上着のポケットに手を入れてみると、バスカードが出てきたとのことで、悦んでバスに乗って帰ってきました。

 このように、すでに持ってはいても、それを知らない間は、バスのカードですら使うことができないものです。

 夏に美しい花を咲かす朝顔の種は、外見からその姿を判断したかぎりでは、石ころとあまり区別がつきませんが、その種子の内には、双葉や伸びやかなツルや瑞々しい葉、そして美しい花を咲かせる理念が宿っています。

 それと同じように、人間の内には、朝顔とは比較にならないほどの、無限の価値が宿っているのです。

 このことを生長の家では、「人間は神の子」であると説いています。

 私たちの内にある「無尽蔵の宝」は、五感の感覚ではとらえることはできません。

 しかし、これらの宝はすでに私たちの内に「実在」していて、これを観じて悦ぶだけで、宝庫は無尽蔵に開かれて、私たちの人生を豊かに潤(うるお)すことになります。

 親鸞上人は、浄土和讃のなかで、

「信心喜ぶその人を、如来とひとしと説き給う。大信心は仏性なり、仏性すなわち如来なり」

 と説かれています。

 神様の創られたままの「完全円満なる世界」を悦ぶことで、私たちが実生活を送っている現象世界にも、神の国・仏の国さながらの悦びが実現してまいります。

 私たちは、これから「神の子」になるのではありません。

 今すでに、そのままで、光りであり神の子なのです。すでにはじめから、完全円満なる、神の子なのです。

 皆さん、さっそく今から、私たちは神の子であり、完全円満であり、そのまま光りであることを、悦ぼうではありませんか。

 悦べば、悦んだだけ、あなたの周りに素晴らしい世界が現れてくるのです。

 なぜなら、心の眼で見れば、光りの子である神の子と、それをとります悦びの世界、光明の世界のみが、そのまま今ここに現成しているのですから。

 今まで、それが現れて来なかったのは、ただ悦ぶことを忘れていただけのことなのですから。

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2006年7月 9日 (日)

神を観るということ ~唯神実相の信仰~(2)

 前回の続きです。

 さて、私は帰りしな、沢口さんから『白鳩』という、「生長の家」の月刊誌を数冊手渡されました。

 ワクワクしながら家に帰り、頂いた『白鳩』誌を一冊持って自宅の裏山に登りました。

 小さな尾根の切り株に座り、谷口雅春先生の書かれた文章を読み進んでいると、私の目に、次の言葉が飛び込んできました。

「ただよへる雲の彼方にまん丸に 澄み切る月ぞ吾が姿なり」

 この和歌の解説として、おおよそ次のような意味の言葉が表現されていました。

 空がどんなに曇っていたとしても、また雲の下が土砂降りであったとしても、その背後にはまん丸い月が煌々と照っている。

 それと同じように、現象の貴方がどんなに病んでいても、経済的に苦しかったとしても、それは雲のような仮の姿であって、本当の貴方自身ではありません。

 本当のあなたは、一度も曇ったことも欠けたこともない、玲瓏玉の如き完全円満な、澄み切った満月である。

 未だかつて一度も病んだことも、苦しんだこともないもの、それが、神の創られたままの、あなたの本当の姿であり、それがあなたの實相だ!

 この言葉が示している世界を観じたとき、脊髄に稲妻が落ちたような感動が走り、同時に今まで私のうちで眠っていた何ものかが目を覚ましたようでした。

 ふと眼を上げると、木々の葉が午後の柔らかな太陽の光を浴びて、何とも言いようのない霊々妙々とした瑞々しい美しい光りを湛えて輝いているのが私の眼に飛び込んできました。

 まるで、生まれて初めてこの世界に触れたような気がしました。

 感動につつまれながら自宅に帰り、『白鳩』誌に再び目を通しながら裏表紙を見ると、そこには現白鳩会総裁の谷口恵美子先生がお書きになられた新刊で、『光の中をあゆむ』というタイトルのご本が紹介されていました。

 そのタイトルのコトバが目に入ると、私自身が先ほど味わったばかりの深い世界がふたたび蘇り、ご本の著者が神の祝福に満ちた光の中をあゆんでいる光景が彷彿として脳裏にひらめくのでした。

 すべての人々が、今そのまま「光の中をあゆんでいる」のだという、神が創られたままの世界を「観じ」て拝んでいる著者の“想い”が、メッセージとして伝わってくるのを観じました。

 それは、これから神様の造られたままの「光明に満ちた世界」に入るのではなく、神様の世界は今ここに、完全円満なる神は、そのまま「今ここに実在しているのだ」という、大いなる発見と喜びに満ちたものでした。

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2006年7月 6日 (木)

神を観るということ ~唯神実相の信仰~(1)

「神を観るということ ~唯神実相の信仰~」というテーマで、何回かにわたってご説明したいと思います。

 この「神を観る」とはいったいどういうことなのかといいますと、たとえば「観る」という意味は、文字で表現すると「観(かん)」と言う文字に当たります。

 これは風光明媚な景色を見る場合の「観光」や、演劇などを見る場合の「観劇」などに使う「観」です。

 この「観」というコトバは、肉眼で見るのではなく、心の眼で“観ずる”という意味を持っています。

 たとえば密教などでは、阿字観や止観という、一種の瞑想を実修しますが、この場合も同じ「観」という字を使っています。

 同じような修行方法では、西洋におけるメディテーション(meditation)などもこれに含まれます。

 生長の家でも、この「瞑想」の一種である「神想観」という行を実修します。

 これは「神」を「想い」「観ずる」と書きます。

 「神想観」では、肉眼で神や仏をとらえるのではなく、心の眼(まなこ)を開いて、神様の創られたままの世界に入っていきます。

 ではあらためて、「神を観る」とは、いったいどういうことなのか、私が生長の家に触れた折の体験などを紹介しながら、順を追って話を進めていきましょう。

 今から30年ほど前、私は静岡県藤枝市にある田舎の中学校に通っていました。

 当時は超能力者と呼ばれていたユリゲラーが来日してテレビに出演し、大きな反響を呼んでいたころです。

 書籍では「ノストラダムスの大予言」という本がベストセラーになり、書店には超能力や霊界を扱った様々な書籍が並び、多くの人たちが神秘的な世界に関心を寄せる、いわゆる「オカルト・ブーム」が到来していました。

 中学生だった私も、これらの神秘的な世界に興味を抱いて、このオカルトの分野を科学的に解説した橋本健という学者の書いた単行本などを何冊か読んだりしました。

 私が中学1年生から2年生にかけての春休みでしたが、父の友人の息子さんで、当時、獣医師をしていた沢口わたるという20代後半の人物を紹介されました。

 父の話では、彼は大学生のころから『生命の實相』という生長の家の本を熱心に読んでいて、神秘的な世界に精通しているらしいとのことでした。

 さっそく私は、自転車で1時間ほどかけて、その方が働いている山の中にある牧場に出かけて行きました。

 テーブルをはさんで対面すると、沢口さんは私に、「シゲル君は神様や仏様は、どこにいると思いますか」と問いかけてきました。

 私は、

「神様は神社に、仏様はお寺にいるのではないでしょうか」

 と答えると、彼はテーブルに置いてあった何気ない品物を手にとって、

「繁君、これが神だよ」

 と言いつつ、意外なことを語り始めたのです。

「神様や仏様はね、神社やお寺にだけいるのではないんですよ」

「では、どこにいるのでしょうか」尋ねると、

「神様はね、宇宙に満ちているんですよ、そして繁君、本当は君も神様なんだよ!」

 と、彼は語るのでした。

 私が訪問した目的は、超能力のことや、死後に行くと伝えられる霊界のことについて話をうかがうことでしたが、気がつけば、ここで主題となっているテーマは、より本質的な、哲学でいうところの「存在」や「実在」という領域に踏み込んでいたのです。

 中学生にとっては、とても高度な内容の話にもかかわらず、「本当は君も神様なんだよ!」という言葉に、私はぐいぐい引きつけられて、意外で不思議な感じと、“やっぱりそうなのかもしれない”といった期待と開放感とが入り交じったような悦びが湧いてくるのを感じていました。

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2006年7月 3日 (月)

思った通りになる世界(3)

 谷口清超先生は、ご著書『生長の家の信仰について』の57頁から、生長の家創始者・谷口雅春先生の書かれた『新講「甘露の法雨」解釈』というご著書の一節を紹介されています。

 それは、蛇が蛙を呑んでいる光景を見ていた青年が、「実相の世界」を観ずることで、大調和した状態が現れたことを取り上げていますが、私が「実相」を観ることによって健康を回復した原理について、とても分かりやすく説かれていますので、少し長くなりますがここを引用させていただきます。

「蛇と蛙とは争って、食い合っているように見えているけれども、それは唯“心の影”である。実相は蛇と蛙とは、共に神の子であるから、互いに相食む事なく仲良くしているのが実相であって、実相の他は何もないのである。現象は仮の姿であって、仮の姿は虚の姿であって、そう見えているけれども、そんなものは無いのである。無いものは如何に見えてもないのである。既に蛇と蛙とは完全に仲直りして仲良く生活しておって、互いに傷つけ合うという事は無いのである。すべての生物は互いに生かし合いであって、それのみが実相である。実相のみが実在である・・・・・・」

 現象の否定と実相の肯定と
 大体このように、じっと二十分間ほど念じられたのであります。その念じ方は、肉眼の目をもって見ないので、心の目でその有様をじーっと観じるのであります。こういう念じ方は覚えて置いていただくといいですね。これはもう蛇と蛙だけの争いを直す事だけではなく、病人を癒すのでも同じ事であります。それには「現象の存在の否定」「実相のみの存在の肯定」とが使われていることに注意していただきたいのであります。「黴菌と人間とは互いに食い合うように見えておるけれども、そんなものは現象であって、現象は仮の姿である。虚の姿は在るように見えても無いのである」――というように念ずるのが「現象の否定」であります。そして「ただ在るものは“実相”だけである。“実相”は神の子である。黴菌も神の子である。人間も神の子である。神の子と神の子とは仲良くもう互いに冒すことなく、既に仲良く生活しているのである。これが本当の姿である」、こういうような意味を深く念じてその有様を心に描いてじーっと心の眼で見つめるのであります。これが「実相のみの存在の肯定」であります。

 
 この文章では、蛇が蛙を食べてしまうような不完全な世界は、「仮の姿」が現れているのであって、本当は「無い」のである。 本当にあるもの、つまり神様の造られたままの完全なる大調和した世界のみが「実在」であり、その「実在」のみを深く観ずることの大切さが説かれています。

 このように、本当にある世界、つまり「実相」を観ずることによって、仮の姿である不完全な「現象」が消えてしまうのです。

 これは病気を治す場合も、家庭に調和をもたらす場合も、経済問題を解決する場合もまったく同じです。

 なぜなら、すべての現象は「心の影」であり、私たちの「心」によって自由に創り変えることができるからです。

 また、「実相」は神様の造られたままの完全円満なる世界であり、それは初めのはじめから「在り」続けているのです。

 私たちは、ただそれを「観」じて「悦ぶ」ことで、あらゆる人生の難問に、解決の道を開くことができるのです。

 皆さん、それは、今すぐにでも始めることができます。

 お金は一銭もかかりませんし、なにも難しいことは何もありません。

 今日一日、自分を取りまく人や、物や、事がそのまま神の「いのち」であり、神の「光り」であることを観じて、ひたすら「ありがとうございます、ありがとうございます」と感謝し、悦んでみてください。

 あなたが実相を観て悦べば、あなたの運命や環境も悦びあふれるものとなり、あなたの人生が光り輝くものとなることでしょう。

 それは、これから光りになるのではありません。

 初めから「光り」だったことに、気が付くだけのことなのです。

引用文献

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2006年7月 1日 (土)

思った通りになる世界(2)

 今から20数年前のことですが、私は父の経営する建設会社に勤務していました。

 夏が過ぎたころ、以前から悪かった私の体調が思わしくなくなり、九月ごろから仕事も休みがちとなり、次第に床に就くようになりました。

 私は小学校低学年のころから「アレルギー性気管支炎」の発作にたびたび見舞われ、入退院を繰り返していましたが、その時は医者に行くと「気管支喘息」と診断されました。

 安静にしていても、薬を服用しても一向に病状は回復せず、ついに病床に伏してしまいました。そのような私の状態を見るに見かねた生長の家の先輩が、長崎県の生長の家総本山で行われている練成会に参加することを勧めてくれました。

 息も絶え絶えのなか、駅の階段の手すりにつかまりながらホームに移動して、友人に見送られつつ、寝台列車に乗って出発。翌日の午前中に長崎駅に着き、さらにバスに揺られて生長の家総本山に到着しました。

 当時の総本山では、泉英樹・本部講師が練成部長として講話を担当されていました。

 練成道場に行っても私の体調は一向に回復しませんでしたが、せっかくここまで来たのだからと、早朝に行われる神想観(お祈り)、お経の拝読、そして境内地の整備や農作業などの肉体労働を通して奉仕する献労など、体調はどんなに悪くても行事を一つも休むことなく、それこそ死んだ気持ちになって受け入れていました。

 そして三日目あたりの講話で、泉講師が「実相」と「現象」についての話をしてくださいました。
 それは、肉体に現れた病気などの「症状」は、あるように見えても本当は存在しないこと。これを「現象」と言い、その「現象」は私たちの「心」によって絶えず変化していること。

 そして「現象」の背後には完全円満な「実相」があり、それこそが私たちの本体であること。私たちはこの「実相」を観ずることによって、肉体という「現象」にも完全なる健康状態をもたらすことができるということ。

 したがって私たちは、絶えず完全円満なる実相の大調和した世界のみを「心」で観ずることがとても大切である、おおよそこのようなことを教えていただきました。

 さらに道場でお経を読む時間に、『続々甘露の法雨』という現代のコトバで書かれた生長の家のお経を読む行事がありましたが、そのお経の中で、

 汝ら今、生命(いのち)あることを悦べ、

 今、生きてあるその『今』を悦ぶべし。

 汝の悦びは汝の病を癒すべし。

 という一節があり、「今、生きてあるその『今』を悦ぶべし」というコトバが強く印象に残りました。

 翌日の午後、献労の時間に農作業をしながら、私は完全円満なる実相世界を観ずるべく、ひたすらコトバで、

「ありがとうございます、ありがとうございます」

 と、一心に唱えながら、内なる実相を見つめて与えられた仕事に励んでいました。

 農作業を終えて、他の参加者と一緒にクワなどの農機具を片づけているときに、ふと次のような想いが私の脳裏を巡りました。

「私の体は今どんなに病んでいるように見えても、それは現象であって実在ではない。私の本当の姿は、完全円満で健康なる神の命そのままだ!」

 ということが、忽念と分かってきたのです。
 そのときに、お経に書かれていた、「『今』を悦ぶべし」という、その『今』とは、実は「本当に存在する完全円満なる世界」のことであり、それこそが永遠に変わらざるところの『今』であり、それは「歓喜」そのもの、「悦び」そのものであることがハッキリと観じられました。

 それ以来、「今」完全円満であるその「今」を、ただただ「ありがとうございます、ありがとうございます」と祝福し、ただただ悦んでいました。

 翌朝、目を覚ますと、咳とともに大きな痰の固まりがひょっこりと出てきました。

 さらに咳をする度に痰の固まりが一緒に出てきて、その度に呼吸が楽になっていきました。

 やがて、さわやかなそよ風のようなものが躰をめぐるように感じられ、全身が軽やかになるにつれて、病気の症状もきれいに消えて行きました。

「実相」の完全円満なる『今』を無心に悦ぶことで、「実相」さながらの健康状態が肉体にも現れたのです。

 また、練成会の7日目か8日目には、ちょうど佐世保で、谷口清超先生ご指導の講習会があるとのことで、練成会の参加者全員が道場からバスに乗って会場に行き、終日受講させていただくことになりました。私は、もちろん一番前の席で聴講させていただきました。

 私の心の眼が開けたことで、私を取り巻く世界が次第に光りあふれるものへと変わっていくのを、そのときに感じていたことをよく覚えています。

参考文献

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2006年6月28日 (水)

思った通りになる世界(1)

 仏教の華厳経には、「三界唯一心」というコトバがあります。

 また別の仏典には「三界唯一心 心外無別法」とも表現されています。

 これを現代のコトバで訳せば、私たちを取りまく環境は、ただ心の現すところの世界である、といった意味になると思います。

 生長の家ではこのことを、「現象は心の影である」と端的に表現しています。

 分かりやすくお話ししましょう。

 たとえば、私たちの身の回りにあるもの、それは家やビルなどの建築物や、自動車、電気製品、食料品などさまざまな製品がありますが、これらのモノを作る場合、必ず設計が描かれ、その設計にしたがって必要な部品の製造や調達、組み立て、加工、検査などを経て、「作品」や「製品」となって現れることは皆さんがよくご存じの通りです。

 これらに共通することは、先ず最初に、心の内に「設計」が描かれる、ということです。

 つまり、様々な製品は、形に現れる以前に、先ず私たちの「心」に存在していたのです。

 では、あらためて皆さんの身の周りにある、ありとあらゆる製品を見渡してみましょう。

 着用している衣服をはじめ、食卓のお茶碗、湯飲み、料理。通勤や仕事で使っている自転車や電車などの乗り物。机の上のノート、ペン、ディスプレイ。

 この文章をご覧になっているパソコンを含め、ありとあらゆるモノに形があり、デザインがあり、機能がありますが、これらのものは全て制作者たちの「心」によって「設計」され、「デザイン」され、「製造」されたものばかりです。

 また、それらさまざまなモノを、多くの選択肢の中から一つ一つ選び出して購入したのも、私たち自身の「心」に他なりません。

 つまり、「心」が存在しなければ、私たちの生活環境は何一つ「形作られる」ことはなかったのです。

 ここに「心」と、私たちを取りまく「環境」との必然的関係、つまり一つの「法則」を見出すことができると思います。

 それは、「心」で思うことは、「具体化する」ということです。

 それは「形」として存在する「製品」や「商品」だけではなく、実は、そのまま私たちの人生や運命にも、この「心」が深い影響を与えているということは、意外と知られていないのではないでしょうか。

 たとえば、芸術家が自分の心の中にあるモチーフにしたがってカンバスに絵を描くように、作家が「心」に浮かんだストーリーを文章にして物語を表現するように、私たちは私たち自身の運命や環境を、自身の「心」によって自由に描き出しているのです。

 ですから、私たちが今まで歩んで来た人生が、とても不運なことだらけで、不幸ばかりに見舞われていたとしても、私たちはこの「心」の方向を変えることによって、どれだけでも幸運な人生、幸せな環境へと、自分の運命を“切り替える”ことができるのです。

 生長の家総裁・谷口清超先生は、ご著書『生長の家の信仰について』の85ページで次のようにお説きくださっています。

 人間はすべて、肉体という物質を持って生活している。この肉体は、縦・横・厚みのある存在で、いくら細長い人間でも、横幅もあるし、厚みもある。つまり縦・横・厚みの三次元の空間の中で、三次元の肉体を持って生活しているのである。しかし現実の肉体は時間の流れの中で新陳代謝や移動によって、刻々変化しているから、昨日の肉体と今日の肉体とは、異なるのだ。それ故、一年も前の病気を、今もまだ引きずっているというのはおかしいのであって、病状にしてもどこか違っているはずだ。
 つまりいつの間にか「治っている」のが普通である。ところが中々治らないで、一年どころか四年も五年も同じ病気で苦しんでいる人がいるのだから、この人たちはよほど「変わるのがいやな人」と言ってもよいだろう。「治りたい」と思ってはいても、どこをどう変えたらよいのか分からない――といった状態なのに違いない。
 しかし人はみな「変えやすい所」から変えて行かないと、変えにくい内側の、手に負えないような所を変えようとしても、中々手がかりがつかめない。その「一番変えやすい所」というのは、実は心である。「男心と秋の空」とか「女心と秋の空」というが、どちらにしても、変わりやすいのは心であろう。その心を思い切ってバサッと変えると、肉体も環境もきっと変わってくる。何故なら、心が全ての肉体や環境を作り出す“主人公”だからである。これを仏教的に言うと、「唯心所現」とか「唯心縁起」と言い、一切の現象(諸法)は心が起こしたもので、心の顕現である、ということなのである。

 
 私たち自身の心が、「全ての肉体や環境を作り出す“主人公”」である、ということが、この文章を通して、少しずつご理解いただけてきたのではないでしょうか。

 では、理論はこれくらいにして、次回は、私自身のささやかな体験なども交えながら説明させていただくことにしましょう。

引用文献

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2006年6月25日 (日)

読むだけで「願い」が実現する話

 生長の家副総裁、谷口雅宣先生は、『足元から平和を』の244ページ~245ページで次のようにお説きくださっています。

〈我々の運動は「神様の世界」「仏の浄土」が本当に目の前にあるという「信仰」に根ざしている。富士山は雲に隠れていても、いずれ必ずその勇姿を現すわけですから、「在るものは必ず現れる」という信仰に則って、物事の光明面を見て、今年一年、明るく勇気をもって進んでいきたいと思うわけであります。
 このことに関連して、谷口雅春先生のご著書『希望を叶える365章』の中に、大変素晴らしいお言葉がありますので、皆さんに紹介したいと思います。「はしがき」のところですが読んでみます。
 
 希望を達成したいと思うならば希望は一体何処にあるか、希望の在処を先ず知って置かなければならないのである。希望のありかを間違えたのでは希望をわがものとすることが難しいのは当然である。だいたい希望を実現したいと思って人は、前向きの姿勢で、前へ前へと進んで行くのが普通であるが、希望とか理想とかいうものは、そんなに前方にあるのではないのである。では、その希望とは、一体何処にあるのであろうか。

 私たちが切実に実現したいとこいねがう希望は、それが真(まこと)に切実なものである限りに於いて、それは自己の内に「既にあるもの」が内部から押し上げて来るのであって、本当は外にあるのではないのである。それが既にあり、既に内部に実現せるがゆえに、それを外に表現せずにはいられなくなって、「希望」とか「理想」とかいう形をとって、表面にあらわれて来るのである。〉

 生長の家では、正しい「希望」や「願い」あるいは「夢」というものは、これから実現するのではなく、「既に内にある」から出てきたのだ、と説いています。

「内」とは神様の世界のことです。

 生長の家の教えではこの神様の世界のことを「実相世界」と呼び、神様の創られたままの世界は「完全円満で大調和した世界であり、善一元の世界である」という唯神実相哲学をもとに、信仰生活を送っています。

 新約聖書には、イエスの祈りの言葉として「御心の天に成るが如く、地にも成らしめ給え」と記されていますが、この言葉のごとく、神様の御心は、すでに天に成就しているのです。

 み心に叶った正しい「願い」は、すでに神様の世界に実現していればこそ、後から私たちの脳裏に希望に満ちた「夢」や、良きアイディアとなってあふれてくるのです。

 しかし、私たちはこれまでの人生で、このような「希望」や「夢」があっても、「希望」の実現を阻む「外から」のさまざまな条件によって、“これは自分にはとうてい実現できないものだ”と、内なる「願い」を“見限って”しまったことはなかったでしょうか。

 たとえば、希望する進路、入学したい学校、実現させたい事業などを、「経済的に無理だから」とか、「勉強ができないから」とか、「自分にはそんな能力がないから」といった、外的な条件によって、神様の世界から発したかけがえのない「願い」や「夢」を、退けてしまったことはなかったでしょうか。

 このことについて、『足元から平和を』の245ページには次のように説かれています。 

〈希望を実現することが、まだ無いものを創造り出すのならば、それは難しいかも知れないけれども、「既に内にあるもの」を外にあらわすだけのことだから、それは決して難しいことではないのである。それを難しくしているのは、「希望するもの」が既に内にあることに気がつかないで、反対に、“外へ、外へ”と足掻いているものだから、東に行こうと欲しながら、西に向いて走っているようなもので、ますます希望から遠ざかることになっているのである。(途中を略します)
 もし、あなたが、「希望」というものの所在を本当に知り、それを内から外へと導き出して来るための“心の法則”を知って、それを実行に移すならば、あなたの希望は必ずや如何なる希望でも成就することになるに相違ないのである。〉

 私たちの内から湧いてくる「希望」や「願い」は、それが多くの人々を幸福へと導く正しいものであるかぎり、その「願い」は間違いなく神様の世界から出てきているのです。

 ですから皆さんの「夢」を叶えるためには、その「願い」の発している在処、つまり神様の世界では「夢」が、すでに完全円満に成就して、多くの人がその悦びを享受しているのだと深く観じて、日々悦んで感謝し、明るく自信を持って努力することが大切なのです。

 その「夢」が、単にあなたの自我の欲望を満足させるだけの「願い」であるならば、貴方が「見限って」しまってもかまいませんが、それが人々の幸せに貢献する純粋なる「願い」であれば、間違いなくその「夢」は神様から発しており、貴方を通してこの世に出現しようとしているのです。

 だから決して、外的な障碍と見えるものによって、貴方の「希望」や「夢」を見限ってはならないのです。

 春になると草や木の芽が堅いアスファルトを穿って地上に姿を現すように、生命にはどのような困難な障碍をも打ち破る力が備わっているのです。

 その力は、すでに貴方の内にあるのです。

 そして、実はあなたがこの世に生まれてきた目的は、その「夢」や「希望」を実現するために、今ここに生きているのだ、ということを、お忘れにならないでいただきたいと思います。

引用文献

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2006年6月22日 (木)

安産する話

 わが家の子供たちは、4人のうち2人が自宅出産、つまり病院に入院することなく自宅で誕生しました。

 自宅出産するようになったのには、次のようなエピソードがありました。

 当初は、長女を出産する折に紹介された、80歳代の難波さんというベテランの助産婦さんが助産院を開院していましたので、そこに入院して出産する予定でおりました。

 ところが、初めての出産で、しかも予定日まで一週間ほどゆとりがあったことで油断していると、私が仕事に出た後、家内は突然、産気づいたのでした。

 家内は横たわったまま、ふと壁を見上げると、生長の家の教えの言葉を記した日訓が目に止まったそうです。

 すると、「1日 人間は日々新たに生まれる」 と書かれた言葉が、眼に飛び込んできたそうです。そして、次のような解説が、この言葉の後に書かれていたのでした。

「新しき朝を迎えて、わが心に神の光り射し入り、過去の一切の暗黒はわが心の中から消え去ってしまったのである。 神の光明輝く愛がわが心の中に照り輝くが故に、環境はわが心の影として、神の輝く愛がわが家にも充満し、平和と喜悦と調和と安心感とがわが家庭の隅々にまで行き亘っているのである」。

 この言葉を繰り返し拝読し、感謝の思いに満たされていると、私たちの仲人をしてくださった宇治別格本山の楠本加美野講師の奥様が、連絡もしていないのに、突然来訪され、自家用車に家内を乗せて、産院まで運んでくれたのでした。

 そして産院の玄関に着いたとたん、長女は、家内が着用していたタイツの中に、ふんわりと生まれ落ちたのでした。

 楠本先生の奥様は、このとき、赤ちゃんの黒々とした眼と、ご自身の眼とがぴたっと合ったそうです。助産婦さんにこのことをお話すると、前世からの深いご縁があったのでしょう、とのことでした。

 そして3年後、家内が次女を身籠もったとき、長女が出産したときの様子を覚えていた助産婦さんが、自宅での出産を勧めてくれたのでした。

 ところが次女は、出産予定日より一週間過ぎても、生まれる様子はありませんでした。

 翌、18日早朝の午前4時ごろ、「産気づいたらしい」と云うことで、起こされた私は、さっそく助産婦さんを迎えに行きました。

 小一時間ほどして、助産婦さんと一緒に自宅に到着してみると、びっくりしたことに、すでに家内はぶじに出産を終え、生まれたての次女は母親の脇ですやすやと眠っていたのでした。

 あとで家内にそのときの様子を聞いてみると、傍らで見守っていた私の母親や、自分を取りまく全てのものへの感謝の思いが次から次へとあふれてきて、そうこうしているうちにツルリンと生まれたということでした。それぞれ生まれてくるのに、一番いい「時期」というものがあるのでしょう。

 また、その3年後、長男の時には、お世話になっていた助産婦さんが、90歳を越えて高齢で廃業されたため、彼女の後輩が勤務している病院で出産しましたが、さらに3年後の次男の時には、東京に転勤しておりましたので、八王子の「ひとみ助産院」という産院を開いている若い助産婦さんの協力を得て、再び自宅にて出産させていただきました。

 こうして長女の誕生以来、10年ほどの間に4人の子宝に恵まれることができました。

 生長の家では「人間は神の子である」と教えられておりますので、私たち夫婦は一人一人の子供たちを、神の子さんが多くの人々を幸せにする使命を持ってこの世に生まれてきたものと感謝して迎えさせていただきました。

 また、生長の家を信仰している家内の父親も、『甘露の法雨』という生長の家の教えが現代のコトバで書かれたお経を、一文字一文字まごころ込めて、孫が新たにお腹に宿る度に腹帯に写経をしていましたので、家内は毎回それをお守りにしてお腹にまいていました。

 家内の出産が全て安産だったというのも、多くの人たちの愛に護られていたお陰だったと思います。

 近頃は、出産のための費用が無いなどの経済的理由で、子供をおろしてしまうケースもあるそうですが、人間が生まれるということは、一人一人が神様から授かった尊い使命を表現するために生まれてくるのですから、親たちの経済的な都合などで堕胎するようなことは、決してしてはならないのです。

 仏教では、人間は福田(ふくでん)を持って生まれてくると言われています。

 福田とは、福の田圃(たんぼ)という意味ですが、これは神様・仏様の世界にある無尽蔵の価値を一人一人が携えて、生まれてくる、という意味なのです。

 その子が生まれるということは、家族を幸せにするだけではなく、家族の住む地域や関係する人々、さらには国や世界をも明るく照らすために生まれて来るのです。

 なぜなら、その子の命を通して、神の国・仏の国がこの世に出現するからです。

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2006年6月19日 (月)

子宝が授かる話

 これは以前、私が京都府の宇治市に住んでいたときの話です。

 私たち夫婦は昭和63年4月に結婚しましたが、なかなか子宝に恵まれませんでした。

 はじめの3年間ほどは、周りの人たちから「お子さんはまだですか」とよく声を掛けていただきましたが、4年経ち、5年経ち、6年目に入ると、もう誰もこの話題に触れなくなってしまいました。

 私たち夫婦の間にも、もう子供は授からないのかもしれないな、といった諦めたような空気が流れていました。

 そんな中で、一人だけ、私たちに子供が授かることを信じていた方がいました。それは、京都府宇治市にある生長の家宇治別格本山に当時奉職していた故・榎本恵吾・本部講師でした。

 榎本講師は、この話題に触れるたびに「子供が授かるのは決まっているのだから」と語り、私たちが結婚して何年経とうとも、このことを疑う様子は微塵もありませんでした。

 平成5年の春、家内は、榎本講師が「聖なる使命」について話された講話を聴いたそうです。

 その講話で榎本講師は、

「皆さんの実相は、悦びと光明に満ちた『聖』なる存在なのです。その『聖』なる“使命”を自覚して祝福することが『聖使命』ということなのです。『聖』とは自分の命のことなんですよ!」

 と語っていたということでした。 

 この講話を聴いた家内は、ああそうか、「聖なる使命」を祝福させていただくだけでいいんだ、と思ったそうです。

 そして神様の世界にいる、私たちの子供たちの命を祝福させていただこう、彼らは実相世界にすでに居るのだから、たとえ現象世界に現れなくてもかまわないと、神様にこれまでの希望や願いなど一切のことをお返しした気持ちで、「久都間神の子」と名前を付けて、生長の家の「聖使命会」に(これは生長の家の人類光明化運動を担う会員制の献金制度のことですが)その「聖使命会」に入会させたのでした。

 ちょうどそんな折、7月中旬に宇治別格本山の練成会で(練成会とは合宿形式で生長の家の教えを学び実践する会です)その練成会で生長の家総裁、谷口清超先生のご指導が行われました。

 大勢の人たちが聴講するなかで「人間神の子」についてのご講話、質疑応答、参加者による体験発表と、明るく宗教的な雰囲気を、私を含め参加者全員が満喫させていただいたことでした。

 そのころの私たちは、宇治の平等院と庭続きにある古風な家に住んでいましたが、8月のある日、私が仕事から帰ってくると、家内が「妊娠しているみたいです」といい、市販の妊娠検査薬で調べたところ懐妊している反応が出たということでした。

 さっそく地元の産婦人科で診てもらうと妊娠していることが確認でき、受胎したとされる日が、ちょうど谷口清超先生が宇治でご指導された日に当たっており、また生まれてくる神の子さんを「聖使命会」に入会させた7月1日以降、家内の生理がぴたりと止まったことも不思議なことでした。

 そして翌平成6年の4月1日、多くの皆さんに祝福されて元気な女の子が誕生しました。すでに結婚してから7年の月日が経っていました。

 そのとき生まれた子供は順調に成長して、今年の春に中学校に入学しました。

 長女の誕生を機に、わが家では平成8年に次女、11年に長男、14年に次男と次々と子宝に恵まれ、ほぼ3年ごとに4人の子供たちが誕生しました。

 そして次女は、平成18年の今年小学4年生に、長男は小学校1年生に、次男は幼稚園の年少組に入園して元気に生活しています。

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