ニューソート(5)
(5) ニューソートにおける「自己規制」の智慧
ラーソンは、同書の「結び」において、ニューソートの牧師たちがある種の問題を取り扱わない、ということに注目している。つまり、米国という多民族、多宗教、多言語という多様性に満ちた社会の中で、そしてニューソートの母体となったプロテスタントなどのファンダメンタリズムが色濃く支配する状況下での布教経験から、彼らがある種の「自己規制」を行っているというのである。キリストは、「蛇のごと聡く、鳩のごとく素直なれ」と弟子たちに語っているが、ニューソートにおける「自己規制」の中身にふれることは、私たちが、宗教、文化を異にする環境において、あるいは価値観を異にする人々に対して、着実に神の教えを伝えるための、最良の智慧を得ることができるのではないかと考えている。
また、申し添えておけば、これから紹介するニューソートの事例を、そのまま読者の活動に適用すべきだ、と主張しようというのではない。ニューソートの牧師たちの経験が、私たちが宗教的な活動を実践する際に、対社会的に担う「自己責任」の範疇を考慮する上で、さまざまなヒントを授けてくれるのである。
「まず第一に、彼らは気質的なものであれ、心身症的なものであれ、病気については説教で論じない。これは実践家とカウンセラーによって、すでに専有されている分野だからである。」(『ニューソート―その系譜と現代的意義』523頁)
ニューソートと言えば、「治病」という印象が強かった私にとって、この言葉は意外であった。しかしこの真意を分析すると、宗教には、宗教でなければ扱えない領域がある、ということをニューソートの指導者たちは、よく心得ている、ということのようだ。
たとえば、生長の家の教えを例にとれば、教典である『生命の實相』第一巻には、「生命の実相の自性円満を自覚すれば大生命の癒力が働いてメタフィジカル・ヒーリング(神癒)となります」という教えが説かれている。
これは、飛田給や宇治にある生長の家練成道場の練成会に参加して、病気が消え、経済問題が解決することがあるのは、講師たちが心理療法士のまねごとをしたから、病が癒されたのでもなければ、経済学者としての知識があったから、参加者が借金苦の地獄から解放されたのでもない。これらの問題が生長の家に来て解決するのは、人間の実相が、本来完全円満なる神の子である、という「自性円満」を自覚した「悟り」によって、問題と見えていたものが「消える」のである。
したがって、「生長の家は病気を治すところではない」という言葉と同じ意味で、ニューソートでは、「病気については説教で論じない」のであると言えよう。
また、生長の家で説いている「自性円満の自覚」という、生命の実相へのアプローチは、「医学」でも「経済学」でも、それを扱うことは不可能である。なぜならこれは、純然たる「宗教」の領域だからである。またその逆の立場の人々のことも、宗教者として十分に知悉していなければならないであろう。ニューソートが病気について説教で論じないのは、このようなことへの配慮があると考えられる。
「第二に、私は歴史的宗教の信条や教義を論難するレッスンやメッセージを聞いたことがない―これらの信条や教義が拒否されていることはよく知られ、しっかり確定したことであるにもかかわらず、である。そうした信条や教義は忘れられるがままにされている(因みに、今や多くの伝統的な教会についても同じことがあてはまる。しかし大きな違いがある。ニューソートがそれらを無視するのは、それらを卒業したからである。その他の教会がそれらを無視するのは、彼らがもはやそれらを熱烈に信奉することがないからである)。」 (同書、523頁)
キリストは、「死にたる者にその死にたる者を葬らせよ」と語っているが、ニューソートでは、既に〝終わっている〟教義に対しては、いちいち悪口を言わないし、相手にもしない、ということのようである。また、彼らが〝終わっている〟教義に対して論難しないのは、それらを卒業しているからなのだとラーソンは補足している。卒業とは、ニューソート的に言えば、キリスト教の伝統的な教えを「吟味・分析し」た結果、それらの教義が、「個人的要求を充たし、われわれ自身のガイドとして役立つもの」とならないということがハッキリした、ということである。彼らの信仰は、教えとして説かれたことを、「原理主義的」に鵜呑みにすることはせず、自身の判断による徹底した「吟味・分析」による検証を経たもののみを信じているのである。ニューソートの各派が、「クリスチャン・サイエンス」「ディヴァイン・サイエンス教会」「レリジャス・サイエンス」など、「サイエンス」という名称を用いている所以はここにあると言えよう。
「第三に、政治について論じることがない。これは、彼らの神学上の立場や宗教的実践のゆえに、どんな迫害の危険が伴うかもしれないことを知って、この高度に微妙な領域内では寄り道をせず、まっすぐな道を歩いているからであろうか。(中略)ニューソートは平均的アメリカ人の日常の感情的・主観的な要求や問題にもっぱらその焦点をあてているのである。」 (同書、253~254頁)
北米の政治活動は、ファンダメンタリスト(キリスト教原理主義者)たちが強い影響力を持っていると指摘する論者が多い。「原理主義」とは、過去に説かれた教えを字句通りに信じようとする極端な聖典崇拝思想のことである。これについては、すでに解説してきたので詳しくは論じないが、ニューソートが彼らと同じ土俵で相撲をとることがないのは、迫害の危険を避けていると同時に、宗教でなければできない領域を十分に心得た者が、専門的な医学や経済学の分野にズカズカと土足で立ち入らないのと同じように、宗教活動の第一義的なものにのみ運動の重点をおき、それ以外の領域である政治活動には重点を置かない、という彼らなりの運動のあり方を示しているのである。政治活動に重点をおく宗教運動とは、厳密に言えば、もはや「宗教」運動ではなく、「政治」運動である。
このようなカテゴリーエラーが「聖戦」の思想の温床となることは、すでに世界の宗教間における紛争の歴史から学んできたところではないだろうか。
宗教運動における第一義のこととは、ニューソート的に言えば、「各人は今ここで健康、幸福、繁栄を達成することにおいて、その偉大なる善を探求」する、ということであり、宗教多元主義的に言えば、「自我中心から実在中心への人間存在の変革」ということである。ことに宗教と政治との関係は、時代状況、内外の情勢などを含め「人・時・処三相応」における最良の智慧を求められる問題であり、ニューソートではこれに対して、彼らなりの周到な距離をもって処しているのである。
「第四に、ニューソートは決して経済や課税の領域にあえて身を晒すことをしない。これもまた、政府との論争をもひき起こしうる微妙な領域だからである。これらを全部考え合わせて、われわれは、智慧の行程は進められている、と信ずる。ニューソートは努力して自ら重要な分野をきり拓いてきた。その他の分野に足を踏み入れることは、ニューソート運動の現代社会へのインパクトを薄めるのみであろう。」 (同書、524頁)
ラーソンが指摘したニューソートの活動のあり方についての分析は、置かれている状況が違うとはいえ、日本において光明思想を普及する運動を進める上でも参考になるところが多い。
それでは最後に、ニューソートのほとんどの教会で、礼拝の際に歌われているという讃歌を紹介して、この章を終わることにする。この詩が、宗教のドグマを超え、単なる日常の感情的・主観的な個人救済の次元も超えて、純粋なる神の愛の実践活動として「国際平和」を祈っていることに注目していただきたい。
「地上に平和を来たらせよう、そしてこの仕事を私から始めよう!
地上に平和を来たらせよう、本当の平和を。
父なる神によって、われわれはみな兄弟、
私の兄弟と完全に調和して共に歩もう。
平和を私から始めよう、今この瞬間から、
私の踏み出す一歩一歩を、私の厳粛な誓いにしよう。
一瞬一瞬を、永遠に平和に生きるために、
地上に平和を来たらせよう、そして私から始めよう。」 (同書、524~525頁)
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