Q&A

2009年10月29日 (木)

読者からの質問に答えて

 本欄の読者から、メールで質問をいただいていました。が、仕事などの関係で回答を出すのが伸び伸びになってしまいました(^^;

 質問を2ついただいておりましたので、まとめて回答させていただきます。


質問1

 私たちのこの現象世界は表現するための世界であるといわれていますが、天国的状態を表すためにやはり人は苦行難行といわれる時期があるのではないでしょうか。よく生長の家では苦行難行はいらぬといいますが? そのために大変な努力と精進だけではなく時間もかけ命がけで求めているのです。実相が絶対的力を持って私たちを生かし愛していられるのなら、もっと端的に表現の能力を与えてくださるべきではないでしょうか? 実相があれど現れずではどうしょうもないのでは?


質問への回答

 今年になってから、私は本部会館での聖典講義で、谷口雅春先生の書かれた『幸福生活論』をテキストにお話しさせていただいていますが、ご本の中に次のご文章があります。

「人生の航路に於いて遭遇する総ての人生体験の意義は「人格」を陶冶(とうや)し向上せしめる鍛錬(たんれん)である点に存します。あらゆる見せかけの困難は、真の神の如き勝利の門に入るための入り口に設けられたる鍵穴に過ぎないのです。その鍵穴にピッタリと当てはまる鍵とならなければならない」(『幸福生活論』70ページ)

 このご文章は、さらりと読んでしまうと当たり前のことしか書かれていないように見えますが、読みようによっては実に深い意味を含んでいます。

 ここに「人格」というコトバが出てきますが、谷口先生がお説きくださっている「人格」とは、私たち一人一人となって現れた「神の子の個性」という意味に解釈してもいいのではないかと思います。

 つまり、人生体験(人生での苦労や修行)の意義は「神の子の個性」を陶冶し向上せしめる鍛錬である、ということになります。

 人間は、はじめから「神の子」なのですから、人生体験や苦労や修行によって「神の子」になるわけではありません。

 ですから生長の家から見た修行の意味とは、「私たち一人一人に授けられた神の子の個性を向上せしめる」ということであり、平たく言えば、神の顕現である「人格(神の子)」を通して、神の完全円満大調和なる真・善・美の世界を地上にも具象化する、ということになると思います。

 以前にも紹介しましたが、聖経『甘露の法雨』には、

「神があらわるれば乃ち
善となり、
義となり、
慈悲となり、
調和おのずから備わり、
一切の生物処を得て争うものなく、
相食むものなく、
病むものなく、
苦しむものなし。」

と書かれているように、私たちが、より智慧深く、愛深く、健康に、豊かに、悦びあふれ、大調和の生活を実現する、ということが、「人生の航路に於いて遭遇する総ての人生体験(修行)」の目的ということになります。


次の「質問2」の回答も、これと密接につながっています。

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質問2】

 今一番ほしいものはこころの安定と平和と「現象なし」打ち切る絶対力です。
 願望より想念のほうが強いとよく聞きますが、現在意識があってその下に潜在意識、もっと下は超在意識と、自分の心は自分でもコントロールできなくて、また習慣性がありますと言われると
、はるか遠いところへ神様が行かれていくようで、・・・苦しくなってしまいます。これは、私にとってとても重大な問題なのです。


質問への回答

 先に紹介した『幸福生活論』の一節は、次のように続いています。
 
「あらゆる見せかけの困難は、真の神の如き勝利の門に入るための入り口に設けられたる鍵穴に過ぎないのです。その鍵穴にピッタリと当てはまる鍵とならなければならない」(同書、70ページ)

 私たちが人生で遭遇する「困難」とは、谷口雅春先生によると、それは「見せかけ」のものであり、「勝利の門に入るための入り口に設けられたる鍵穴」である、ということです。

 勝利の門に入るための「鍵穴」に、鍵を入れて回すためには、私たちは「鍵穴」にピタリと入るような無碍自在な「カギ」にならなければなりません。

 「神」や「仏」は、宇宙に満ちる大生命であり、無碍自在です。神の子である私たちもまた、本来は無碍自在な生命なのです。そのような神の子は、どのような複雑な「鍵穴」にも自在に(観世音菩薩のように)相を変えて「鍵」を合わせることができるのです。

 ところが私たちが、人生のさまざまな問題に直面するとき、それを「困難」と感じるのは、私たちが「人格(神の子)」の周りに十重二十重にレッテルを貼って、「これでなければならぬ」と形や物に捉われいるから、「人格(鍵)」が「鍵穴」に入らない! それが「困難」として感じられるのであり、肉体人間には「難行苦行!」として体感されるのです。

 十重二十重に塗り固めたレッテルで生きるのをやめて、素っ裸の「人格(神の子の生命)」で生きるようにすれば、どんな鍵でも回すことができるのです。

 
 弘忍禅師が弟子の慧能(えのう)に向かって、

「米熟するや?」

と質問したことが、谷口雅春先生が書かれた『無門関解釈』「不思善悪」の中に紹介されています。
 それに答えて慧能は、

「米熟すること久し。なお篩(ふる)いをかくことあり」

と答えています。

 私たちは、修行してから「神の子・仏の子」になるのではなく、はじめから「神の子・仏の子」であり、それが「米熟すること久し」ということですが、その久遠に熟している神性・仏性こそが私たちに現存する「神の子の人格」なのです。

「篩(ふる)いをかくことあり」とは、在るものと、無いもの、とを篩いにかける、つまり「実相」と「現象」(潜在意識も現象です)とを篩いにかけて、「無い」ものを相手にせずに、「在る」もの(神性・仏性)だけを相手にして悦んで生活していれば、「神の子の実相(個性)」が、いよいよ鮮やかに光り輝いてくるのです。

 本来無いもの(潜在意識も)を有ると思って相手にしているから、いつまでも迷いが去らずに苦しむのです。迷いや症状とは、出たときが消えたとき、であり、相手にして握りさえしなければ、出た現象はどんどん消えていくのです。

 潜在意識も現象にすぎません! 潜在意識を浄めてから、神の子になるのではありません! 主体である神の子の実相のみを相手にして悦んで生活していれば、従者である潜在意識は自然に(自動的に)光明化する(浄まる)のです。それが人生の光明面を観て生きる日時計主義の生活であり、三界唯心所現の法則(横の真理)です。

 無いものを「無い!」と、ふるいに掛けて、はじめから在る「内なる光り(神性・仏性)」のみを大肯定して喜び悦んで楽しく生活することが、人生の主人公(神の子)としての絶対主権を取りもどすことであり、その絶対主権(実相)に生かされ浄められて生きるのが、生長の家の「絶対他力」の信仰です。


 久都間 繁

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2009年8月 9日 (日)

「世界平和の祈り」について

 80歳代と思われる男性の方から質問の手紙を頂きましたので、以下のような文章を書いて返信させていただきました。差し支えない範囲で紹介させていただきます。

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 合掌、ありがとうございます。

 ご質問をお寄せ下さり、ありがとうございました。

 テレビのニュースや新聞報道などの世相に現れた、経済問題、犯罪の横行、政治問題、国家問題など、さまざまなことに大きな危惧の念を抱かれていることが、頂いた文面から伝わってきました。このようなことに心を留めて日々の生活を送っていたのでは、さぞや気苦労が絶えなかったことでしょう。

 これらの諸問題について、「生長の家ではどう思っておられるのでしょうか?」とのご質問ですが、まず基本に立ち返って、これらの問題について考えてみたいと思います。

 お手紙でもご紹介いただいたように、古くからの信徒であるというあなた様は、生長の家では「現象は心の影である」と教えられていることは、よくご存じのことと思います。これを「心の法則」とも、「三界唯心所現」とも呼んでいることもご承知のことでしょう。

 私たちがニュース報道などの影響から、人生や世相の暗黒面ばかり見ていますと、心の傾向として人生の暗黒面ばかりに注目するようになり、いよいよ不安が充満し、心労を重ねることになります。

 またその心の傾向が、次なる暗黒な現象を作り出す「種」(因)となって、人生にますます暗黒で不完全な現象が現れてまいります。これが「心の法則」です。

 また、これとは逆に、生長の家の原点である「日時計主義」に立ち返り、人生の光明面のみを見て、うれしいこと、楽しいこと、美しいことを心に留め、日々喜んで生活するようになると、人生に次から次へと光明なる世界、つまり健康、繁栄、調和などに満ちた喜ばしい出来事が実現してまいります。これもまた「心の法則」なのです。

 私たちの個人生活を救うためには、このように先ず人生の光明面のみを見て生きる「日時計主義」の生き方に徹した結果として、人生が光明化することはお分かりいただけるのではないかと思います。

 では、ご心配になっているように国家的な、国際的な諸問題については、私たちはどう対処すればいいのでしょうか。

 これについて生長の家の創始者谷口雅春先生は、2年ほど前に日本教文社から再版された新版『善と福との実現』の中で、次のように説かれていますので紹介させていただきます。

吾等が集団祈祷会を催さないと云うことは信心ある人の生活ではないと思う。同志よ、吾等生長の家の家族たちよ、同時一斉に神に対して祈ろうではないか。(中略)
私は日本の全ての問題も此の集団祈祷によって解決すると信ずるものである。ただ戦時中の神社の祈祷のように神官が単に大声でノリトを唱え、参列者は頭を下げて他の事を考えているようなやり方では駄目であるし、他国の犠牲に於いて自国のみが勝とうと云うような利己的な祈りでは駄目である。黙然に心を集中すること。神の前に全然無条件に自己を投げ出して自己が全然なくなり、神の智慧と愛とが自動的に働くそれに委せ切らなくてはならぬのである。(同書、318~319ページ)

 ここで谷口先生は、「私は日本の全ての問題も此の集団祈祷によって解決すると信ずるものである」とお説きくださっていますが、このお言葉を受けて、現在も信徒である私たちが毎朝実修しているのが神想観であり、その中で念ずる「世界平和の祈り」なのです。

 私たちが信仰者として世界の平和、日本の実相顕現を希うならば、まず早朝に神想観を実修し(全国の練成道場では5時10分から実修しています)、実相の完全円満なる大調和の世界を観じるとともに、「世界平和の祈り」を実修して祈念することが、「心の法則」の側面からみても、信仰者たるものの大切な務めになることと思います。

 もちろん、神想観に続いて聖経『甘露の法雨』を読誦していただき、その功徳によって多くの人々の実相が成就することも、合わせて祈念していただければと思います。

 また今日の日本に、まがりなりにも平和が実現し、飢餓や紛争といった非常事態に巻き込まれることなく生活できているのも、天皇陛下をはじめ、神界・霊界・現界からの多くの人々の深い祈りがあればこそ、このような平安を維持できているということも、宗教的な方面から観たひとつの真理なのです。

 ですから、これまでのご精進に加え、神想観および「世界平和の祈り」を、全国の皆さまと共に実修していただければ幸甚です。


久都間 繁

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2009年7月14日 (火)

神想観こそ功徳そのもの

 横山さんから質問をいただいておりましたので、回答をこちらに掲載します。

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質問1
>>心とは、思ってはいけないと思えば思うほど、考えてしまい、ひっかてしまいます。その中から抜け出ようとと思うほど、どうにもならない。こんな心なんかなければよい、そんな自分がどうにもならない。身動きできない。


【回答】

「三界唯心所現」の心の法則については、『生命の實相』頭注版 第20巻の127ページからの(肉体および物質の否定 六)に、谷口雅春先生が詳しくお説きくださっています。

 ここには引用しませんので、ぜひご熟読いただければと思います。

 そのポイントだけを申し上げますと、心が変化することによって、悟って仏となり、迷って衆生となるような、「心、仏、衆生三無差別」の心というものは本来無い。ただ初めから仏であり、神である「実相の心」があるだけである。その実相の心が展開した実相の天地があるだけである、ということが詳述されています。

 生長の家の唯神実相哲学の根本が説かれていますので、お時間があれば「自傳篇」全体を通読(再読)なさると、より一層理解が深まることと思います。


 身動きできなくなるのは、無いものを、有ると思って握ってしまうから。
 手を放してしまえば、自由自在です。


 無いもののことを「現象」と言います。
 本当に在るものは「実相」のみです。
 「実相」のみを相手にすれば、身動きできるようになります。


質問2~4
>>私たちは現象から実相を観ようとしていること、このことが一番の問題ではないか?

>>やはり神想観を真剣にやりたい。その真剣とは、自力では。


【回答】

 重要なところに気が付かれましたね。

 神想観において、「吾れ今、五感の世界を去って実相の世界に入る」とは、そのことを意味しています。

 現象は実在ではありませんから、現象の基準や尺度で実相を推し量ることは、「針の穴から天上を覗く」の喩えのようなもので、実相世界そのものを捉えることはできません。

 生長の家では、神想観という素晴らしい行法を授けられているのですから、ひたすら、うまずたゆまず毎日実修すれば、誰でも必ず実相覚が開けてきますので、ぜひお続けになってください。


 また、神想観は自力か、他力かとのことですが、生長の家の信仰は絶対他力の信仰であると教えられています。

 絶対他力の信仰とは、神の外にあるものなし、仏の外にあるものなし、つまり神のみ、仏のみが真実の実在であり、その善一元の生命のみが今ここに(全実在宇宙に満ちて)存在しているという教えです。


 今ここに、貴方となって、森羅万象となって、完全円満なる神が、仏が、活きているのであり、それが実相です。

 
 不完全に見えるのは、心の影であり、そのような現象は本来無いのです。

 神想観を通して実相のみ、神のみ、仏のみを観じるのが「縦の真理」の実践であり、実生活においては人生の光明面(真象)のみを積極的に相手にしていくのが生長の家の信仰です。

 その結果(三界唯心所現)として、一切の現象が整うというのが「横の真理」です。


 現象をキレイに整えてから実相が現れるのではなく、現象がどんなにぐずぐずに崩れていても、円満完全なる実相に飛び込んで、ひたすら(まっしぐらに実相を観じて)悦んで生きていれば、現象が成就する(真象が現れる)のです。

 これが神想観の功徳です。

 また、神想観それ自体が、実は最良の功徳(実相の体感)そのものなのです。

    久都間 繁

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2009年6月27日 (土)

仏の四無量心について

 本日、本欄の読者のYさんから質問のメールをいただきました。
 回答をこちらに掲載します。

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Yさんからの質問
心という言葉は『甘露の法雨』にもたくさんでてきますが、この心をどうすることもできないのが現実の世界です。
真象であればよいが、偽象が現れた時には、やはりいろいろと迷いますし困惑もします。

そんな心をすべて無しと、打ち消したのが生長の家の教えなれば、ただ神さまの世界のみを肯定し、その実相そのものを味わうというか、悟るというか、喜ぶということも、やはり「心」ではないのでしょか?

先生の云われる歓喜とは、われわれのよろこびとはちがうのかもしれませんが。(現象的喜び)

時間空間がすぎてしまえばなくなるもの、それは、絶対的なものでもない。「肉体もなし」と打ち切っています。では「心」とは、神さまが作られたものなのでしょうか?


質問への回答


「心」についての質問をありがとうございました。
生長の家の聖経『甘露の法雨』には、


完全なる神の
『心』動き出でてコトバとなれば
一切の現象展開して万物成る。万物はこれ神の心、
万物はこれ神のコトバ、
すべてはこれ霊、
すべてはこれ心、
物質にて成るもの一つもなし。


 と書かれていますが、ここに説かれているの「心」は、「神の心」のことです。つまりそれは「実在の心」であり、完全円満なる「実相の心」とも云うべきものです。

 この「心」のことを、キリスト教の『聖書』などでは「御意(みこころ)」と表現し、仏教では「仏心」や「仏性」とも呼んでいます。

 一方、生長の家で「心も無し」と否定してしまうところの「心」とは、「現象の心」のことで、「実相の心」や「仏心」のことではありません。

 先に引用した『甘露の法雨』の文章は、次のように続いています。


物質はただ心の影、
影を見て実在と見るものはこれ迷(まよい)。
汝ら心して迷に捉わるることなかれ。


「影を見て実在と見る」それが、現象に惑わされた「心」です。
つまり、影のように現れては消える現象を、「有り」として、それを追いかけて掴んで放さない「迷いの心」のことです。

 聖経には、この心のことを「無明」と書いて、「まよい」と仮名をふって読んでいます。

 天理教祖は、この心の働きのことを次のように表現しています。

「惜しい、欲しい、可愛いと、欲と傲慢、これが埃(ほこり)や」と。

 普段私たちが「心」と認めているのは、この「迷いの心」である場合が多いのです。

 では、あらためて実相の心、真実の心、実在の心とは何かと云えば、それは、「神そのもの」の命の響き(コトバ)であり、「仏そのもの」の命のことなのです。

『観無量壽経』には、「仏の心」について、「仏心とは四無量心是なり」と説かれています。

 四無量心とは、慈、悲、喜、捨のことで、「無量」とは、「量が無い」つまり「無限である」ということです。

 衆生の悩み悲しみを見て慈しむこと無限であり、同悲の心をもって苦を除くこと無限であり、人の悦びをともに歓喜すること無限であり、執着を解き放ち一切を束縛から解放すること無限である、これが「仏心」です。

 この「仏心」こそが、私たちの「本心」(実相の心)なのです。

 ですから、現象的に金が儲かった、執着していた人や物や事が手に入った、というところから来る「求めるよろこび」と、「仏心」(実相の心)から来る「慈しみ与えるよろこび」とは、根本的に異なるのです。

 前者は「無い」よろこび、であり、後者は「実在する」よろこびなのです。

 この「仏心」そのものに生かされて生きることが、「救われる」ことに当たります。

 その「仏心」(神の御心)の中にこそ、私たちがこの世に生を受けたところの本当の「使命」があり、それを生きたとき、「朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり」というような真の生き甲斐やよろこびを見出すことができるのです。

 なぜなら、私たちの実相は、自性円満なる「神性」「仏性」そのものなのですから。


 
 とり急ぎ書いたので説明としては不十分かもしれませんが、質問があればブログかメールにまたお寄せください。


  久都間 繁


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2009年6月22日 (月)

魂の進歩向上について

 今日の夕方、本欄の読者の方からメールで2点ほど質問をいただいた。こちらで回答させていただきます。

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質問①この魂の訓練は現象であると普通に思われます。が、神さまは完全であるにもかかわらず、やはり進歩向上が必要なのでしょうか?
質問②神想観のあの歓喜が、どうしてこの現象の早く現れないのでしょうか。よほど現象を捕まえているのでしょうか?

【回答】
 
 進歩向上する躍動的な経験を、私たちの魂は「よろこび」と呼んでいます。
 また進歩向上とは、「生長する」ということでもあります。

 生長することは、万物の霊長たる人間にとって、その内なる無限生命が音楽のように鳴り響くことであり、それは悦び以外のなにものでもないのです。

 つまり進歩向上とは、内なる無限生命の理念が、この天地に花開くことなのです。

 アジサイが咲くことが、アサガオが咲くことが、ヒマワリが咲くことが、これが内なる理念が展開する姿です。

 まして私たち人間には無尽蔵の真・善・美が内在しているのですから、私たちが進歩向上し、無限の真・善・美をこの現象世界に実現させる(生きる)ことこそが、仏教的に云えば地上に極楽浄土を建立することであり、キリスト教的に云えば「御心の天に成る世界を地に成就する」ことに当たるのです。

 道元禅師は、このことを「証上の修」と表現しています。

「証上」とは、すでに生命は、これ以上なにも付け足す必要がない完全円満なものである、ということです。

「修」とは、この完全円満なる生命を、この神様の創られた画布にたとうべき現象世界に表現することです。それは、花が咲き、鳥が歌い、森が四季それぞれの色に染まり、音楽家がメロディーを奏で、画家が絵筆を振るい、文筆家が千古の詩を綴ること、そして信仰者が神の愛を行じ、仏の大慈悲を生きることです。

 あせる必要はありません。

 実相実在の世界では、すでに全てが円満完全に成就して(さらに無限生長して)いるのですから、私たちはその実相を観じて悦んで生活していればいいのです。

 真・善・美(縦の真理)の展開として現象世界が成就する、それが三界唯心所現の「心の法則」(横の真理)です。

 うまずたゆまず神想観を実修し、神の無条件の愛を生きることです。


  久都間 繁

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2009年4月24日 (金)

友人への手紙〈2009.4.22〉

 これは友人からの質問に答えた手紙です。
 支障のない範囲で転載します。

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合掌、返信をありがとうございました。

本当にあなたが道を求めているのであれば、まず周りの人たちに貴方から心開いて、皆のお役に立つこと、身近な人が喜ぶことを、毎日ひとつでいいからやってみましょう。

本当は、自分も他人も無いのです。
すべてひとつの、神のいのちです。
そこを体感してカラッポになって、一所懸命に生きることが、「救われる」ということです。

生長の家では、親切のことを「深切」と書きます。
それは、自分や他人といった「現象」を、深く切る、ということです。

無いものを、無い! として、そこに飛び込むことです。
それが百尺竿頭を進一歩することであり、そこからいのちの世界への扉が開くのです。

だから、今から、身近な人が悦ぶことを、周りの人が楽になることを、させていただきましょう。
そこから天国が開けてきます。

久都間 繁

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2009年4月11日 (土)

友人への手紙〈2009.4.7〉

合掌、ありがとうございます。

 イエスは、「与えよ、されば与えられん」と語っていますが、この言葉は真理です。

 与えてもらうために「与える」というのでは、これは商売であり、利害関係が濃くなるほど、神から発した無償の愛や善の行為とは遠ざかることになります。

 しかし、神が無限の大生命であるように、太陽の光が無尽蔵であるように、人間が神の子であるということは、「与えるものが無限にある」ということなのです。

 それは、その人が役に立つとか立たないとか、能力があるとか無いとか、明るいとか暗いとか、そんなことはすべて現象であって、「人間・神の子」ということとは関係ありません。

 大切なことは、神が無限の愛であり、私たちは「神という大生命」から生まれた「神の子である」ということです。
 智慧も、愛も、生命も、与えれば与えるほど無尽蔵のいのちの水源(本源)から流出して来るのです。

 だから、「何か特別なことをしなければ、生きている甲斐がない」などというのは、まだ在りもしない現象にとらわれているのです。

 自分の周りの人たちのお役に立つこと、相手が誰であれ、頼まれたことを真心込めてさせていただくこと、日々祈りながら神の御心を生きること。

 それが、貴方のいう「ご恩返し」ということであり、「お役に立てる人間になる」ということです。
そこ(今、ここ)を離れて、神様の御心を生きる場所はありません。


  久都間 繁

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2009年3月 8日 (日)

自分を拝むことについて(二)

 愛さん

 ご質問、ありがとうございました。
 

>> 一年間、学校に通い、4月から2年生になりますが、この期に及んで、「わたしはこの学校に来てはいけなった」「わたしの居場所ない」と思ってしまっています。毎日、自信も明るさも、喜びもない生活です。早くここから脱したいです。こんなに苦しい思いをしなければならないほど、わたしは悪業を積んできたのでしょうか?

 これは大切なことですが、それは「悪業」とは関係ありません。むしろ、貴方の魂が素晴らしいが故に、そのような苦悩と思えるようなことをご経験になっているのかもしれませんね。
 
 大学や専門学校などに通うということは、ご両親が大きな経済的負担を負わなければ実現できないことと思います。
 学校に行くことが苦しいのなら、大学は義務教育ではないのだから無理して行く必要はありませんし、また、勉強を本当にしたくなったときに、改めて学び直すこともできます。

 かく言う私自身は、大学に行ったのは社会人になってからです。専門的な分野の研究を本気でしたくなったので、働きながら稼いだお金で学費を払って卒業したのですが、そのころの私は学ぶ理由がはっきりしていたので、(しかも自腹で行ったので(^^;)学校の授業の1分1秒がとても貴重で尊いものに感じました。
 
また、貴方が本気でやりたい仕事をすでに見出しているのであれば、まっすぐにそこに向かって歩み出してもいいと思います。

 しかしまだ、具体的に進みたい進路が定まっていないのであれば、貴方自身が興味をいだいている分野を、在学中に徹底的に掘り下げてみるのもいいでしょう。

 また学園生活で、外の世界に興味が湧いてこないということは、実は読書体験を深めて魂を深く耕すのにもってこいの時期でもあるのです。
 トルストイ、シェィクスピア、ディケンズ、ゲーテ、ヘルマン・ヘッセ、夏目漱石、森鴎外、生命の實相全集など、珠玉のような物語の世界があなたを待ち受けています。また、これらの作品に出会うことで、あなたの人生がどれほどいろどり豊かなものへと成熟されることか、とても楽しみなことです。

 また、そのようにして、内面の世界を深めているうちに、勉強や学校に対しての考え方も、大きく変わってくるかもしれませんね。

 いずれにしても、あなたは完全円満なる神のいのちそのものなのですから、どの道に進もうとも、全てが善き経験となることでしょう。

 久都間 繁

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2009年3月 2日 (月)

自分を拝むことについて

 「新たに生まれる」の文章に寄せられたコメントへの返信が長文となり、皆さまのご参考にもなるかと思いましたので、こちらにアップさせていただきます。

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 合掌、ありがとうございます。
 昨日まで長崎に出張しておりましたので、返信が遅くなり失礼しました。

 さて、

>>毎日神想観はしていますが全く劣等感を取り除けません。周りの人たちのことも怖くて仕方ありません。自分を拝むって難しいですね。


 ということですが、現象の「自分」を拝むことは、貴方が言うようにとても難しいのです。
 それは現象の自分は「影」であり「実体」が無い、ということもありますが、なによりも困難なのは「過去の残像」(現象の自分)の中には善いものと不完全なものとが混在しているからです。

 生長の家で、「自分を拝む」というのは、過去の不完全な自分の残像(つまり現象)を拝む、ということではありません。

 現象は影であり、実体がないのですから、そんなものは放っておいて、はじめのはじめから完全円満であるところの「実相の自分」つまり、智慧であり、愛であり、生命であるところの本当の自分を拝み、そして味わうことが、神想観で実修するところの実相直視ということであり、そのような神想観を実修されることで、生長の家の「行」が悦びそのものである「楽行道」であることを見出すことができます。

 だから、現象の不完全な自分を見て、それを〝良くしよう〟などと思って研鑽していたのでは、いつまでもその不完全に捉われてしまい、さらにそれが〝心の影〟となって現れ、努めれば努めるほど苦しくなってしまうのです。

 貴方は、はじめのはじめから神の子であり、完全円満なる智慧・愛・生命をいただいているのですから、もっともっと全身の力をぬいて、神様に全托して、その完全円満なる大生命にただただ生かされていることに感謝して悦んでいればいいのです。
 そうすれば、実相さながらの大調和した世界が貴方の周りに実現して来るのです。

 また、「周りの人たちのことも恐くて仕方がない」というのも、人生というものは自分の力でなんとかしなければならない不完全なものだと見て、努め励んでいることの裏返し(心の影)ですから、これまでの日々で辛いことも多かったことでしょう。
 
 もうそろそろ「現象」(影の世界、結果の世界)を信仰することをやめて、「実相」(神様の世界、実在の世界、本当の自分)を信仰する生長の家の生活へと、思い切って飛躍する時期が来ているのではないでしょうか。

 機は熟していると思います。分からないことがあれば、何でもお尋ねください。

 また、関東地方にお住まいであれば聖典講義の日は個人指導もしているのでお越し下さい。

 久都間 繁

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2009年1月24日 (土)

新たに生まれる

 いただいた質問への回答が長文になりましたので、こちらにアップします。

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 ご質問をありがとうございました。さて、


>>私の場合、中々、自分の一切の所作、進退が『光り』そのものだとは到底思えませんが、光りでないからこそ、光を求めているのではないかとも思います。
先生の仰る“そのまま”と目標や夢を持って進み、新たな自分に変わることとの違いは何でしょうか?


 人間の生命は、そのままで天照大御神の“いのち”そのものなのです。

「そのまま」というのは、完全円満であり「光り」であるところの神なる実体のことを指し示しています。
 私たちは、初めから神なる実体そのものなのです。

 その神の命が、いよいよ花咲こうとしている相が、切実な「夢」となり「願い」となって顕れているのです。

 だから、真の「目標」や「夢」には必ず「実体(神)」があります。
 私たちがこの世に“生まれてきた”ということも、この「実体(神)」そのものが出現したのです。
 つまり私たちの人生は、「夢」や「願い」と切っても切り離すことができないのが本来の姿なのです。

 ところが、人生の「目標」というものが、いつの間にか「実体(神)」とは懸け離れた、現象的な「欲望」、つまりお金や地位・名誉、五感の欲望などに、すり替えられてしまっていることが、今日(の社会通念)における最大の迷いなのです。

 これは物質至上主義とも、欲望優先主義とも呼ばれていますが、このような「実体」のないものを、どれだけ追い求めて実現させたところで、求めれば求めるほど、発展させればさせるほど、いよいよ欲しくなり、挙げ句の果てに次世代の人類が巻き添えを食っている。この迷走の産物が地球環境問題です。

 余談ですが、ニートや引き籠もりとなっいる人たちは、世の通念となっているこのようなニセモノの常識(迷いの価値観)に感づいていればこそ、社会から逃避しているのかもしれません。(神を見出していなければ私も崩壊していました)
 
 ご質問にある、新たな自分に生まれ変わる、ということは、神の子・人間の「実体」であり、神の理念であるところの「夢」や「願い」が“花開く”ことです。

 ですからニートや引き籠もりの人のみならず、私たちも「自分の本質とは何か」ということ(つまり内なる神)を発見して悦ぶことで、毎日毎日、新たに生まれることができるのです。

 それは、別物の自分に成る、ということではありません。

 新たに生まれるとは、より自分らしくなり、より楽々と「神」が現れることです。
 

  久都間 繁

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2008年9月26日 (金)

恋愛と結婚

 山崎さんから、恋愛と結婚についての質問をいただきました。
「若い世代の人達にはぜひ参考になると思いまして、このような質問をしました」とのことでしたので、こちらにアップします。若くない人にも(^^; 参考になるように書かせていただきました。

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>>作者である吾々は既に、今、この瞬間に実相円満完全なる神の子であります。
なのになぜ男女がパートナーを選ぶ時に、色々と種々の条件を相手に対して付けるのでしょうか?
宗教的見解(特定の宗教ではなく)を持ち出してこの事を説くと、こちらは相手に対して種々の条件を付けてはならない。それは相手を“愛”しているのではなく、相手にただ“恋”をしているに過ぎない。こちらは選んではならないが、相手に選ばれる時はそれ相応の準備を事前にし、条件を備えなければならない。ましてや相手がこちらにとって“高嶺の花”であるならば益々そうしなければならない・・・・・。
選ばれる方は何時まで、どれくらい自己を高めておけばよいのでしょうか。


 生涯を共にするパートナーを選ぶときの「条件」というのは、一人ひとりの個性が異なるように、人によって千差万別です。しかし、恋愛感情のもたらす基本的な経験や、それが人生に与える効果などは、古今東西を問わず共通していて、それは限りなく美しく、そして尊いものなのです。

 条件を満たしている相手というのは、いわば貴方の「内なる理想」を、彼女の中に見出しているということでもありますが、相手が素晴しい相手であればあるほど、それに相応しい高みへと自分も達しようと精進努力する、これこそが恋愛感情のもたらす最高の成長の機会でもあるのです。

 特に貴方のように、人生を真摯に生きようとされている方は、これを疎かにしていては、せっかくの成長の機会を失うことにもなりますので、厳しい言い方ですが、このご質問については、「とことん、精進努力してください!」というよりほかはありません。

 この努力を持続することで、やがて秋になると栗や稲穂が熟してくるように、内なる充実感に導かれて自然と相手へのアプローチの機が熟してくるものです。それから、満を持して一歩踏み込む。そこから先は神のみぞ知る世界です。
 叶うも良し、叶わぬも良し。相手の方は、まぎれもない観世音菩薩様なので、間違いなく貴方を実相世界へと導いてくださっているのです。


>>こちらが選ぶ時には相手の外的・内的なもの(=作品)を見ずに、相手という作者(=相手の実相円満完全性)を観る事に専念し、その反対に自己を観てもらう時には、そのままの自己の実相円満完全性を汲み取ってもらうのではなく、善きところは更に伸ばし、足らない・至らない不完全なところを修正・修理し、克服し、常に“条件”付きで生長をしなければなりません。
そうであるならば、こちらにとって、あちらは“全身全霊”でありますが、あちらにとって、こちらは何時まで経っても“半身半霊”であります。


 結婚が、現象的な「条件」によって結ばれるのであるという考え方は、いわば商取引に類似した価値観です。このような生き方に安住している間は、その(現象的な)価値観の影響下に生活することになります。

「条件」とは、現象上のものですから、絶対の価値ではありません。能力でも健康でも美貌でもお金でも、そして命(寿命)でも、それがどんなに圧倒的に良いもの、尊いものであったとしても、必ず消えていく宿命の上に成り立っているのです。仏教ではこれを「諸行無常」と呼んでいます。

 したがって、例えば「良い条件」という関係のみによって成立した結婚生活は、より「良い条件」を持つ相手が出現した場合や、これまで見えなかった(隠していた(^^;)「悪い条件」が結婚後の相手に続出したときには、関係が簡単に壊れてしまうことにもなります。
 これは「相手」と結魂したのではなく、「条件」と結婚したが故の結末なのです。

 条件と結婚するのではなく、その魂の絶対価値(つまり神・仏・実相)を、相手の内に見出し、それを礼拝し感謝し、はじめのはじめから一つであったことを再発見することこそが「結魂」なのです。

 ですから、最初は「条件」によって結婚した夫婦であったとしても、生長の家の教えにふれて、相手の内に絶対価値(完全円満なる神・仏・実相)を見出すことで、永遠の夫婦関係に入ることができるのです。

 なぜ「永遠」なのかといえば、それは「神」と「神」との関係であり、「完全なるもの」と「完全なるもの」との関係だからです。これは、夫婦だけではなく、親子でも、友人でも、師弟関係でも同じことが言えると思います。

 ですから、“半身半霊”などという考え方は、「条件」という現象に捉われた、ただの妄想に過ぎません。

 円満完全なるがゆえに、人生の一切の営みが“全身全霊”であり、結婚も、友人も、兄弟も、師弟も、“神(全身全霊)”と“神(全身全霊)”とが出会い、「仏(光)」と「仏(光)」とが結ばれ、人生を、世界を荘厳するのです。

 神想観の如意宝珠観にある、「十方世界光明遍照、わが全身光明遍照」とは、このことの一端を伝えているように思います。


  久都間 繁

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2008年9月18日 (木)

神想観は歓喜の行③(シコク嫁さまへ)

>> ああ、そうだ。
主人も宮本先生も、参加者のみなさまも、みんなみんな神だった。 在るものは神のみだった。
>>不都合など無かった。
デイケアでお年寄りと居るから、義父がすぐに主人の世話を焼くから、私に仕事があるから、出講で出かけるから・・・と等々、私は、そういうこと全てを主人が立ち上がれない理由にしていたんだ。
(ブログ「いろどりひかる☆」より)

 宇治本山で総務をされていた藤原敏之先生は、「困ったことがなくなるのが生長の家じゃ」と、よくおっしゃっていました。

 唯神実相の信仰は、天地一切の人やものや事を「在るものは神のみだ」と、その背後に実在する実相のみを観て「ありがたい!」と拝む、究極の日時計主義の生活です。

 このような信仰生活は、合理主義的な常識の物差しで計ることができないので、神想観を生活の中心に置かない限りは、なかなか信じられない方もいることでしょう。

 しかし神は、現象の原因結果の法則に左右されることなく、“無原因”に存在している「久遠の実在」であり、これを把握するためには、「現象無し!」の一転語によって、現在立っている現象の大地を去って、実相の天地へと飛躍する必要があるのです。

 たとえば「うれしい、楽しい、ありがたい」という言葉も、この神一元、善一元、光明一元の実相世界を直示したものであり、現象という「影の世界」を良くしようとするための自己暗示の言葉などではないのです。
 実相覚から観れば、「うれしい」も“実在”であり、「楽しい」も“実相”であり、「ありがたい」も“神そのもの”なのです。これらの言葉を心で唱えることは、実相世界そのものが鳴り響くことでもあります。

 また、その結果として自ずから現象世界が調ってくる、これが「三界唯心所現」の横の真理であって、第一義とすべきなのは、現象を見て「この問題をなんとかしてやろう」と現象をこねくりまわす前に、先ず「うれしい、楽しい、ありがたい」と、実相を観てよろこぶことにあるのです。

――シコク嫁さまがブログで素晴らしいご心境を語られていたので、それに感激して感想を書かせていただきました。

 久都間 繁

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2008年9月14日 (日)

神想観は歓喜の行②

 山埼さんから「神想観は歓喜の行」について、素晴らしいコメントをいただきました。
これは、「救い」や「原罪」という宗教における深いテーマにふれる問題なので、返信をこちらにアップすることにしました。

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 コメントをありがとうございました。

>>神は神ご自身を充足させ、幸福感に満たされる為に、勿論100%与えきりという土台の上において人間をお創りになったのかもしれません。

 よくよくお考えいただきたいのですが、山埼さんがおっしゃるように、神がご自身を充足させ、幸福感に満たされるために、神が人間をお創りになったということであれば、神の自性円満(そのままで完全円満なこと)を否定することになりはしませんでしょうか。

 神と人間との間に、もし寸分でも「差」とか“分離感”というものがあれば、その中から生まれてくる喜びは、純粋な神の子のよろこびと言うわけにはいきません。

 神は自性円満なるが故に、(太陽のように)100%与えっぱなし、放ち続けている愛なのです。
 み教えで説く「人間は神の子である」ということは、人間の実相は100%神の生命そのものである、ということなのです。つまり、人間のよろこびは、即ち神の喜びそのものなのです。神と人間とは“ひとつ”命なのです。

 
>>実相直視の習慣化がされると、しだいに心が調い、心で物事のピントを合すのがスムーズになり、ふと気付くと自己を含め周り全てが『Made in God』だと大悟するでしょう。


 かつての私自身がそうでしたが、神と人間との間に、少しでも「差」(分離感)を抱いている間は、どんなに実相直視や、心でのピントを合わせのために祈り続けていても、どうしても自分自身を赦すことができませんでした。
 それは、心の奥底で「罪の意識」が払拭されていなかったためです。

 神と人間との間の“分離感”の正体とは、まさに「罪の意識」にほかなりません。
 これはキリスト教では「原罪」と呼んでいますが、生長の家で説く「現象無し!」とは、「原罪無し!」ということまで徹底したものなのです。

「心」をコントロールすることによって人生を光明化する道は、初心者の方に説く場合もありますし、最近では様々なセミナーでも説かれていますので、あえて生長の家の教えに依らなくても耳にするようになりましたが、生長の家で説いている「唯神実相論」では、神想観によって「心」をも否定してしまうのです。

 聖経『甘露の法雨』に、「神こそ渾ての渾て」と説かれていますように、心を整えてから大悟するのではなく、人間とは、はじめのはじめから大悟(神・仏・無原罪)そのものだ! というのが「唯神実相」の教えです。

 その神であり、仏であることを喜ぶのが神想観なのです。神想観をしてから悟るのではありません。


   久都間 繁
 

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2008年8月23日 (土)

真・善・美の展開

「実相世界に舞い遊ぶ」ことについて、山埼さんから頂いた質問への回答をアップします。

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>>実相完全円満世界からのみ光を、この常変なる現象界に直に照らすにはどうしたらよいのでしょうか。
先生の仰る、実相世界を舞い遊ぶということも具体的にはどういうことなのでしょうか。
先生ご自身は日常の生活において、この真理をどういうふうに実践されていますか。


 昨夜ようやく「聖使命」の編集が終り、山崎さんの質問のタイミングの良さに驚いています。

 先ほどは聖典講義にお越し下さり、ありがとうございました。

 徹夜明けで、今ひとつ乗りが悪かったかもしれませんが、何とか今日のお役目を果たすことができました。

 お話したように「実相世界に舞い遊ぶ」というのは、神想観の“中身”のことです。

「実相世界」は、真・善・美に満ちた世界である、ということは、山崎さんも聖典の言葉や、副総裁先生のご講習会などで聴かれたことでしょう。

 この「実相」の真・善・美は、人類の営む一切の行為となって現れ、四季折々の自然となり、天地の万物、森羅万象となって、無尽蔵にこの世に間断なく出現しています。
 つまり、実相宇宙全体の働きが大いなる光明化運動そのものなのです。

「三界は唯心の所現」ですから、神想観を通して真・善・美の源泉である実相世界の扉を開き、そこで舞い遊ぶことは、人類光明化運動の(神の子としての)基本的な働きではないかと思って、楽しんでやっています。


  久都間 繁



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2008年7月29日 (火)

無限生長の道

 森田さんからいただいたコメントへの返信が、やや長文になりましたので、こちらにアップしました。

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 本部会館での聖典講義では、いつも熱心に聴講してくださり、ありがとうございます。

>>三正行、特に神想観をしていればいつか「実相」のみで生きられるかと思ってはいるのですが、先生「実相」のみで生きられるように成りますでしょうか?

 すでに、はじめから「実相」のみが生きているのです。

「実相」と「私」とが、離れているのではありません。実相と私とは、はじめから一つの命なのです。

 貴方は「実相」(神)に、すでに全面的に活かされている。寸分も欠くことなく生かされているのです。それが、「人間・神の子」ということです。

 それは、これから三正行してから、神想観してから、あるいは善業を積んでから、あるいは悟ってから、実相が成就するのではありません。

 実相は、はじめから成就している。

「生長の家七つの光明宣言」(『生命の實相』第1巻)の中に次の言葉があります。

「吾等は生命顕現の法則を無限生長の道なりと信じ個人に宿る生命も不死なりと信ず」

 現象世界は、実相無限の真・善・美を表現する舞台であり、カンバスなのです。
 
 表現する主役は、即ち「実相」(本当の貴方)です。

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2008年6月28日 (土)

魂の「進歩」をめぐって

 山崎さんから頂いたコメントへの返信が、やや長文になりましたので、こちらにアップすることにしました。

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>生物の進化もその時代、その時の環境の対応等によって勝ち得た神の御計らいだと思っていました。今でもそう思っている節はあります。

 私もかつて、優勝劣敗の法則が支配しているかに見える現象世界の営みと、「大調和の神示」に説かれた世界との矛盾について思索していた時期があります。

 生長の家では、「実相」(実在)と「現象」(非実在)という言葉を使用して唯神実相の哲学を説いていますが、「実相」という言葉が指し示しているものは、真に実在するものは“そのままで完全円満である(自性円満)”という善一元の世界観です。

 その実相哲学から、生物の進化という広大な歴史現象を捉え直してみると、進化における“突然変異”とは、実相世界に在る無限内容が、環境や条件に応じて次々と時間・空間というスクリーン上に展開しているすがたと観ることができます。

 いわゆる私たちが学校で学んだような、生命は「進化」することによって発達し、やがて(無限時間後の可能性として)完全な状態に至ると見るのは、生命を現象面からのみ捉えた考え方(一面観)に過ぎません。私が先の文章で否定したのは、世の通念となっているこのような意味での「進化」のことです。

 つまり生物の進化は、現象面からは、貴方が感じたように「その時の環境の対応等によって勝ち得た神の御計らい」と見ることもできますが、実相の視点から観れば、一切の生物は「これから進化して完全円満になる」のではなく、神の世界に既にある(完全円満なる)無限内容が、現象世界の時間・空間を通して表現されつつある――
 つまり唯一絶対の神の生命(光り)が、全宇宙的に同時展開している。そう観るのが、「無明縁起説」を脱却した、生長の家の「光明縁起説」から観た世界観です。

 また、現象世界という時間・空間というスクリーン上に映し出された世界は、神と対抗できるような厳然と存在する世界ではありません。
 私たちの心に従って、敵が在る、と観れば敵が現れ(偽象)、現象なし! 実相独在、と観れば大調和の世界(真象)が現れるのです。
 偽象、真象ともに、現れたものは“実在そのもの”ではありません。
 
 実在するものは、完全円満なる(光明一元・善一元の)神のみなのです。

>“もっと彼らの子としてちゃんと生きたい”“神の子を完全に表現する=両親に対する最大最高の親孝行”という方程式を完成させたいという気持ちが沸々と出てきます。またその図式は一体どのようなものであるのか考えたりもします。
>そのような本物の神の子が、その父母に感謝するとは一体どういうことなのでしょうか?
>一つ言えることは“今、このままで善い”ということは無いと思います。

 

 貴方が明るく楽しく伸び伸びと生きていることが、最大の親孝行ではないでしょうか。

 神の子の“そのまま”とは、現象面に映し出された“そのまま”ということではありません。
 神の子は「神」ですから、そのまま内に無限内容を蔵しているのです。私たちの“本質”である無尽蔵の宝(智慧・愛・生命)は、そのままで最高に尊いのです。が、さらにそれを豊かに実現させることこそが私たちがこの世に生まれてきた目的であり、その“本質”を表現できたときに限りない悦びを感じるのです。

 生長の家は、現象の暗黒面(自分や他者の不完全)を認めて相手にするところではありません。

「真象」の現れである光明面のみを観て、それを讃え、悦び感謝して生きる。三界唯心の所現によって、さらにその悦びが喜びを呼び、光りが、さらに光りを増幅してこの世に光りあふれる地上天国が現れるのです。それが、生長の家が進めている「日時計主義」の生き方なのです。 

久都間 繁

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2006年6月18日 (日)

生長の家が環境問題に取り組むわけは?

Q:生長の家が環境問題に取り組むわけは?


 最近、生長の家の集まりでお話を聴きましたが、講話の中で環境問題についての話題が多く、それに興味が無い僕は、はっきり言って退屈でした。僕はもっと宗教的な話を聞きたいんです。環境問題はその専門家が考えればいいことだと思いますが、生長の家が環境問題に取り組むのは意味があるのでしょうか?(S・C、19歳、男性、奈良県)

A:信仰者が環境問題に取り組むということは、神が創られた世界を地球環境に現して行く地道な営みです。

 宗教的な話を聴きに来たのに、環境問題の話題ばかりで退屈したとのこと。“もっと宗教的な話を”とのあなたの求道心を、とても頼もしく感じます。

 でも、少しだけ立ち止まって、なぜ宗教が環境問題に取り組まなければならないのかを、一緒に考えてみることにしましょう。

“環境破壊”という言葉を、あなたも耳にされているのではないでしょうか。たとえば、かつては身近な自然環境の乱開発や、工場から出る煤煙や廃液による公害など、比較的小規模の環境破壊が指摘されていましたが、現在は世界中で石油などのエネルギー資源を大量に消費してCO2を発生させ、地球温暖化、海面水位上昇、砂漠化などをもたらす、地球規模での環境破壊が注目されています。

 ことに後者は、水資源の枯渇(こかつ)、食糧不足に加え、有限な化石燃料などのエネルギー資源をめぐる国際紛争の要因となるなど、人類の生存そのものに深刻な影響を与えることが懸念されています。

 人間中心主義から地球全体主義的な価値観へ

 生長の家では、私たちを取り巻く環境は、「心の影」であり、仏教の言葉を借りて、「三界(さんがい)は唯心(ゆいしん)の所現(しょげん)である」と表現しています。

 つまり“環境破壊”などの地球環境の問題は、実は私たち人間の「心」によって引き起こされている、というのが宗教的視点から見た基本的な考え方なのです。

 この問題は、地球のどこかから勝手に生じたのはなくて、実は私たち人間の営みが100%関わって来た問題であり、それは人類の迷い(業〔ごう〕)の現れでもあるのです。

 したがって環境問題の解決を図るためには、まず私たち自身の心(意識)が、これまでの人間の生存権や欲望のみを最優先させた人間中心主義の“独善的”考え方から、全ての生きとし生けるもの、ありとしあらゆるものを慈しむ地球全体主義的な“宗教的”価値観を持った心へと、大きな転換を遂げなければならないのです。

 これについて生長の家副総裁・谷口雅宣先生は、ご著書『今こそ自然から学ぼう―人間至上主義を超えて』(生長の家刊、日本教文社発売)の中で、次のようにお説きくださっています。

「私が生長の家の講習会などで環境問題を論じる時は、受講者や読者にいわゆる『常識』や『時流』のレベルで“環境に優しい”生き方をしてほしいと訴えるためではなく、そういう深いレベルまで自己変革を遂げるべきことを訴えたいのである。なぜなら、そうしなければ、21世紀の地球環境は今後さらに悪化を続け、我々の子や孫の時代には、環境悪化を原因とする社会不安や地域紛争、あるいは戦争が頻発することが予見できるからである」(同書30ページ)

 神様が私たちに与えてくださった、地球という美しい魂の学校を、未来の人類に受け継いでいくためにも、信仰者が地球環境問題に取り組むということは、現代における菩薩行(ぼさつぎょう)の実践でもあるのです。

 さて、お釈迦様が悟りを開かれたときに、この世界の本質を見抜かれ、その喜びを「山川草木国土悉皆成仏(さんせんそうもくこくどしっかいじょうぶつ)」という言葉で表現しました。

 これは、一切のものが“そのまま仏であり、救われ済みである”という意味の言葉で、生長の家ではこれを「唯神実相〔ゆいしんじっそう〕の世界」と呼んでいます。

 信仰者が環境問題に取り組むということは、この実相世界を、現象世界である地球環境に現して行く地道な営みなのです。

 
 私たちが日々の神想観(生長の家独得の座禅的瞑想法)を通して、今ここに天国浄土を深く観じ、喜んで生活すれば、その喜びの念が「三界唯心の所現」の理によって、この現象世界にも、実相本来の完全円満なる相となって現れるのです。

 生長の家が環境問題に取り組むということは、実は極めて宗教的な“上求菩提(じょうぐぼだい)、下化衆生(げけしゅじょう)”(求道と伝道)の実践なのです。

●このQ&Aは、『理想世界』平成17年7月号に掲載されました。

参考図書

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