イスラーム神学

2006年6月17日 (土)

 「イスラーム神学」―ガザーリーにおける理性と信仰(3)

 ガザーリーにおける「神への愛」

 ガザーリーの章をまとめるにあたり、彼の「神への愛」の説を紹介しなければならない。

〈人間は彼が回教徒であるかキリスト教徒であるか、ユダヤ教徒であるかバラモン教徒であるかによってではなく、ただ彼が人間であるその一事をもって宗教的存在なのである。人間の内部には野獣的なものや悪魔的なものがあると同時に、また神的なものも存在している。この神と人間に一脈通ずるものがなくて、どうして宗教があり得ようか。〉                       (『イスラーム思想史』一五五頁)

 要約すれば、信仰とは、「神と人間に一脈通ずる」ものを信じるということである。これは、いかなる宗派も、またいかなる時代をも超えて変わることのない、基本的な信仰のスタイルである。

〈ここまで考えてくると、人は自分が心の限りを尽くして神を愛さねばならないことを悟るであろう。人は神のみを愛さなくてはならぬ。全ての人間を、全ての物を、神において、神を通して愛さねばならぬ。いや、寧ろ我々は、自分の子供、親類、友人、全て善いもの、美しいもの、完全なるものに対する我々の愛の心を、神への愛として体験しなければならないのである。人間は、このような至高の愛においてのみ、全てのものを限りなく愛することができる。〉 (同書、一五六頁)

 私たちの周りにある全てのものを「神への愛として体験」するとは、裏返せば、全てが神であり、全てが神の愛の表れである、ということである。ガザーリーは、このようなところに「至高の愛」なるものを見出していた。

 日本語に「もったいない」という言葉があるが、生長の家の教えでは、このことの意味を「物体はない」つまり、万物は「物質ではない」と教えていただいている。

 つまりこの世には、物質のような死物などひとつもなく、全ては仏物である、つまり全てのものは仏の慈愛、神の愛のあらわれである、ということである。

 このようなことに思いめぐらせていると、一千年も前に登場したガザーリーというムスリムが見出していた「神」と、私たちが見出している「神」とが、実は共通の「神的実在」を指さしていたことが理解できるのではないだろうか。

〈もし我々が金銭や名声のような現世的なものに心を奪われることなく、我々の全精神を傾倒して神のみを完全に愛するならば、この愛はその神以外のものに対する排他性の故に、正にその故に神に属する全てのもの、神によって創られたあらゆるものを偏愛することになるのである。我々は神のみを純粋に愛することによって、全てのものを、全ては神の被造物なるが故に愛することができるのである。〉(同書、一五六頁)

「神以外のものに対する排他性」とは、平たく言えば、神以外のものは「非実在」であり、神のみが唯一の「実在」である、ということである。

 故に、神のみを愛することは、同時に神のお創りになった天地の全てのものを愛する、ということである。

 ここで想起されるのは、『新約聖書』のマタイ伝において、イエス・キリストが、『「なんじ心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして主なる汝の神を愛すべし」これは大いにして第一の悈命に拠るなり』(マタイ伝二二・三七―三八)と説いたそのお言葉である。

 イエスが語った「神への愛」と、ガザーリーの語る「神への愛」とは、宗派という「概念図式」を超えて、同じ一つの神に差し向けられた「愛」ではないだろうか。

 彼らが把握していた神は、私たちが日々の祈りの折に観じている内なる神と一つのものであり、その神は、究極的実在(実在者)の、多元的な現れに他ならないのである。

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2006年6月16日 (金)

 「イスラーム神学」―ガザーリーにおける理性と信仰(2)

 「外面的」信仰を超えて

 ガザーリーは、若い頃から、社会的に固定した、伝統的な宗教に対して疑問を抱いていた。

 たとえばイスラム教徒の子供がイスラム教徒になるのは、その子が選んでそうなるのではなく、物心つかぬうちから周りの環境によってそうなるのであり、このことはユダヤ教にしてもキリスト教にしても全く同じことだという。また、これらの信仰者は父母から伝えられ教えられたことをそのまま鵜呑みにして満足しているが、これは外から来たものであって、その人の意志で自発的に見出したものではないから、それは本当の信仰ではない、というのである。

 これについて井筒氏は次のように述べている。

〈一般の人々は、自分の父や母やその他教師の権威を疑わないので、それらの者が教えてくれたことをそのまま信じるのである。この種の信仰は極めて強力である。が、その強さは決して信仰そのものの強さではなくて、全て権威をもって上から臨む者に対する盲目的従順の一徹な頑固さから来るものに過ぎぬ。それは外面から押しつけられた信仰である。その信仰は、自己の無力の絶壁に立たせられた絶体絶命の精神が一挙にして飛入する法悦の宗教的体験とは非常に縁の遠い世界である。このようなものは誰でもその環境に生まれさえすれば足りる信仰であって、絶対不動の信仰とは称し難い。大衆の信仰はこれでよい。しかしそれは飽くまで、真の信仰ではないのである。〉 (『イスラーム思想史』一四七~一四八頁)

 ガザーリーにおいては、宗教における「中心的真理」と、民族思想の影響を受けた「周縁的部分」との違いが、鮮やかに分けられていたようである。

 神ならざる民族思想によってつくられた権威を盲信する信仰、それがどんなに一徹で頑固なものであったとしても、このような「外面的」な信仰は「真の信仰ではない」と退けている。

 同時にこの矛先は、そのまま当時の神学者(や過去の自分の思想)に対しても向けられる。

 井筒氏の叙述を引用しよう。
 

〈弁証にもとづく思弁神学による信仰もまた、外面的である点において、大衆の盲目的信仰と何ら選ぶところはないのである。論理的な証明は決して人間をその根源から揺り動かし、突如として全く新しい人間を誕生させるあの絶対的な体験の如く内面的なものではない。勿論、合理的に受容されたものは、大衆の信仰のように単に偉い人がこう言ったからこうに違いないという盲従的性質のものであるのと比較すれば、強力ではあるかもしれないが、しかも信仰の性質においては少しも違わないのである。(中略)
「通常信仰と称しているものは実は二種類あって、一は大衆の信仰、すなわち他人から聞いたままを信じ、これに固執するものであり、もう一方は胸が拡がることによって始めて生ずる主観的信仰である」。この胸の拡がる(inshirah al-qalb)ことによってのみ得られる信仰こそ、真の信仰なのである。〉  (同書、一四八~一四九頁)

 なぜ外面的であることがいけないのか。

 外面的とは、「信」の根拠を、現象界においた信仰であるからである。

 現象界に表現された形式や概念には「実在者」なる神は存在しない。現象への盲信が深まれば深まるほど、「実在者」への道はどんどん遠ざかる。ガザーリーにおいては、このような信仰の構造が明確に捉えられていたといえよう。

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2006年6月15日 (木)

 「イスラーム神学」―ガザーリーにおける理性と信仰(1)

   信仰とは悟性の彼岸にあるもの

『イスラーム思想史』中の井筒氏の記述から、スーフィズム以外のイスラム神学からも、一人の重要な人物についてふれさせていただく。

 イスラーム神学において超宗教的な地平を開いた人物にアル・ガザーリー(一〇五八~一一一一)がいる。同書では、「ガザーリーが出て後のイスラームは、彼が出る前のイスラームとは全く違った姿をとって現れるのである」と、彼のイスラム思想に及ぼした影響について紹介している。

 ガザーリーは、法学、イスラム哲学、特にアリストテレス学派の思想を研究した後に、一〇九一年、弱冠三十三歳の時に当時バグダッドの最高学府であるニザーミーヤ(ニザーム学園)教授となり、名実共に哲学、神学の最高権威となった。

 しかし彼は、一〇九五年、三十七歳のときに一切の官職を辞し、それまで講述してきた哲学や神学とは似ても似つかぬ世界に踏み込み、真理を求めて彷徨の生活に入った。

 そのなかで彼が確信したものは、瞑想によって神に直接触れるのでなければ決して真の救いは得られない、ということだった。

 次にその折のガザーリーの言葉を引用する。

〈汝は自分が何であるか、汝はいずこより来り、いずこへ去り行くのであるか。また、なぜ汝はここへ来たのであるか、何のために汝は創造されたのであるか。これらのことを汝は知っているであろうか。これを知るためには汝は汝をして本当に汝たらしめている所のもの、汝の本質を知らねばならないのである。自分の幸福は何処にあり、自分の不幸は何処にあるか、何が幸福で、何が不幸であるか。また汝の中には野獣のような性質も、悪魔のような性質も、天使のような性質も渾然として認められるであろうが、その中で、どれが一体、真に汝自身のものなのであるか。こういうことを知らずしては、汝は自己の幸福を求めることはできないのである〉(『イスラーム思想史』一三六頁)

 この問いは、時代を超えて求道者たちに探求されてきた永遠のテーマではないだろうか。

 やがてガザーリーは、「認識の根拠とは何か」という哲学上の根本的な問題に逢着する。

 彼は、認識の名にふさわしいものとして、①感性的知覚(感覚野)と②論理的数学的公理(知性野)とを、候補として挙げるが、前者は人間のみならず獣類も持っているものであり取るに足らぬものとして否定し、後者における悟性的認識こそが、人間のみに与えられたものであると結論する。

 さらに思索を重ねることで彼は、悟性的認識における「知」(哲学)が〈悟性の領域――知性野〉であるのに対して、「信仰」は〈信の領域―超越野〉であることを明確に認識するようになった。

 そして「信仰」とは、人間の精神に内在する神(実在)を認識するものであり、これは〈信の領域〉であると規定した。

 さらに「知」については、厳密な証明によって一分の隙もなく論理的に構成された世界のみを〈悟性の領域―知性野〉として限定した。

 具体的には、五+七=十二であるとか、「同一の物体は同時に二つの場所を占めることはできぬ」というような数学的な、論理学的な普遍妥当性のある命題しか含まないようにした。

 したがって、「知」の世界はあくまで「知」の世界であり、「信」の世界はあくまで「信」の世界であるとしたことで、普遍妥当性のない仮説、異論、憶測による神の秘儀や、霊魂の不滅、彼岸の生活、さらに錬金術、占星術、魔術の類、これら民族思想の影響を受けて構成された神学や形而上学は、ガザーリーによってついに悟性的認識の領域である「知」の世界に入ることはできなくなった。

 一般にガザーリーは哲学を否定した、とされているが、要は彼の認識論の確かさは、同時代の学者たちの比ではなかった、ということである。否定されたのは哲学ではなく、神学・哲学の仮面を被った民族思想と、そこから現れた諸説のことだったのである。

 つまりガザーリーは、悟性の領域を明確にしたことで、神(実在)への認識は、「信」によることをハッキリさせたのである。

〈世の神学者や哲学者は明らかに二つを混同している。そこに彼らの救い難い欠陥が存するのである。神学者は思惟をこね廻して、思惟されたものと、信仰とが何とかして辻褄の合うようにしようと努力しているし、哲学者は予言によって啓示されたもの、コーランの章句を悟性的に理解し説明しようとしている。彼らのしていることは「耳で視ようとし、目で聴こうとしている」(Munqidh)ようなものだ。
 啓示されたものを理性によって判断しようとするのは全然、知と信との区別を識らないからである。のみならず、そのような努力をするものは全て、正真正銘の異端者である。信仰を悟性によって把握しようとしてはならないし、またしようとしても絶対にできるものではない。何とならば、信仰とは正に悟性の彼岸にあるものに関わる事柄であるから。〉               (同書、一四二~一四三頁)

 ガザーリーにとっては、信仰と悟性との違いが明らかになったことで、これまで自身がたどってきた思弁哲学は、「耳で視ようとし、目で聴こうとしている」ものであり、これこそ「正真正銘の異端」だったことがよく分かった。

 そして信仰とは、「悟性の彼岸」に関わる事柄であることが疑いようのないものとなったとき、彼自身もスーフィーの偉人たちが踏み込んだ領域へと、すでに歩を運んでいたのかもしれない。

 しかし、ガザーリーの目指したところはスーフィズムではなく、かつてイエス・キリストがたどったのと同じ、道に迷う一般大衆を教化するという博愛的な方向であった。

 そこに、ガザーリーが出た後のイスラームは、彼が出る前のイスラームとは全く違った姿をとって現れるのである、と言われるような比類のない神学となって復活したのである。

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