本日、本欄の読者のYさんから質問のメールをいただきました。
回答をこちらに掲載します。
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【Yさんからの質問】
心という言葉は『甘露の法雨』にもたくさんでてきますが、この心をどうすることもできないのが現実の世界です。
真象であればよいが、偽象が現れた時には、やはりいろいろと迷いますし困惑もします。
そんな心をすべて無しと、打ち消したのが生長の家の教えなれば、ただ神さまの世界のみを肯定し、その実相そのものを味わうというか、悟るというか、喜ぶということも、やはり「心」ではないのでしょか?
先生の云われる歓喜とは、われわれのよろこびとはちがうのかもしれませんが。(現象的喜び)
時間空間がすぎてしまえばなくなるもの、それは、絶対的なものでもない。「肉体もなし」と打ち切っています。では「心」とは、神さまが作られたものなのでしょうか?
【質問への回答】
「心」についての質問をありがとうございました。
生長の家の聖経『甘露の法雨』には、
完全なる神の
『心』動き出でてコトバとなれば
一切の現象展開して万物成る。万物はこれ神の心、
万物はこれ神のコトバ、
すべてはこれ霊、
すべてはこれ心、
物質にて成るもの一つもなし。
と書かれていますが、ここに説かれているの「心」は、「神の心」のことです。つまりそれは「実在の心」であり、完全円満なる「実相の心」とも云うべきものです。
この「心」のことを、キリスト教の『聖書』などでは「御意(みこころ)」と表現し、仏教では「仏心」や「仏性」とも呼んでいます。
一方、生長の家で「心も無し」と否定してしまうところの「心」とは、「現象の心」のことで、「実相の心」や「仏心」のことではありません。
先に引用した『甘露の法雨』の文章は、次のように続いています。
物質はただ心の影、
影を見て実在と見るものはこれ迷(まよい)。
汝ら心して迷に捉わるることなかれ。
「影を見て実在と見る」それが、現象に惑わされた「心」です。
つまり、影のように現れては消える現象を、「有り」として、それを追いかけて掴んで放さない「迷いの心」のことです。
聖経には、この心のことを「無明」と書いて、「まよい」と仮名をふって読んでいます。
天理教祖は、この心の働きのことを次のように表現しています。
「惜しい、欲しい、可愛いと、欲と傲慢、これが埃(ほこり)や」と。
普段私たちが「心」と認めているのは、この「迷いの心」である場合が多いのです。
では、あらためて実相の心、真実の心、実在の心とは何かと云えば、それは、「神そのもの」の命の響き(コトバ)であり、「仏そのもの」の命のことなのです。
『観無量壽経』には、「仏の心」について、「仏心とは四無量心是なり」と説かれています。
四無量心とは、慈、悲、喜、捨のことで、「無量」とは、「量が無い」つまり「無限である」ということです。
衆生の悩み悲しみを見て慈しむこと無限であり、同悲の心をもって苦を除くこと無限であり、人の悦びをともに歓喜すること無限であり、執着を解き放ち一切を束縛から解放すること無限である、これが「仏心」です。
この「仏心」こそが、私たちの「本心」(実相の心)なのです。
ですから、現象的に金が儲かった、執着していた人や物や事が手に入った、というところから来る「求めるよろこび」と、「仏心」(実相の心)から来る「慈しみ与えるよろこび」とは、根本的に異なるのです。
前者は「無い」よろこび、であり、後者は「実在する」よろこびなのです。
この「仏心」そのものに生かされて生きることが、「救われる」ことに当たります。
その「仏心」(神の御心)の中にこそ、私たちがこの世に生を受けたところの本当の「使命」があり、それを生きたとき、「朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり」というような真の生き甲斐やよろこびを見出すことができるのです。
なぜなら、私たちの実相は、自性円満なる「神性」「仏性」そのものなのですから。
とり急ぎ書いたので説明としては不十分かもしれませんが、質問があればブログかメールにまたお寄せください。
久都間 繁
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