手紙

2009年8月25日 (火)

天に満ち、地に満ちて

 昨夜、眠りしなに内観しているとき、天地の万物はそのまま完全円満なる光りであるということに、あらためて気付かせていただいた。

 私たちは、力むことなくそのまま素直に天地の万物を拝ませていただくだけでいいのである。

 そのまま皆、完全円満なる神の子であり、そのままはじめから救われている。
 それが天地万物の実相である。その実相を素直に拝むだけでよかったのである。

 それ以外に近道も、回り道も、寄り道もなく、どの道を通ろうとも、どの道に迷い込もうとも、そこがそのまま天国浄土であり、真理への道であり、実相世界そのものの光りの中をあゆんでいるのである。

 私たちの内なる光りは天に満ち、地に満ちて、そのまま天地万物は救われており、そのまま極楽であり、そのまま此処が高天原であり、そのまま此処が仏国土であり、職場が、学校が、組織が、家庭が、天地の森羅万象が、そのまま実相浄土の聖なる輝きを放っているのである。

 

  久都間 繁

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2009年6月27日 (土)

仏の四無量心について

 本日、本欄の読者のYさんから質問のメールをいただきました。
 回答をこちらに掲載します。

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Yさんからの質問
心という言葉は『甘露の法雨』にもたくさんでてきますが、この心をどうすることもできないのが現実の世界です。
真象であればよいが、偽象が現れた時には、やはりいろいろと迷いますし困惑もします。

そんな心をすべて無しと、打ち消したのが生長の家の教えなれば、ただ神さまの世界のみを肯定し、その実相そのものを味わうというか、悟るというか、喜ぶということも、やはり「心」ではないのでしょか?

先生の云われる歓喜とは、われわれのよろこびとはちがうのかもしれませんが。(現象的喜び)

時間空間がすぎてしまえばなくなるもの、それは、絶対的なものでもない。「肉体もなし」と打ち切っています。では「心」とは、神さまが作られたものなのでしょうか?


質問への回答


「心」についての質問をありがとうございました。
生長の家の聖経『甘露の法雨』には、


完全なる神の
『心』動き出でてコトバとなれば
一切の現象展開して万物成る。万物はこれ神の心、
万物はこれ神のコトバ、
すべてはこれ霊、
すべてはこれ心、
物質にて成るもの一つもなし。


 と書かれていますが、ここに説かれているの「心」は、「神の心」のことです。つまりそれは「実在の心」であり、完全円満なる「実相の心」とも云うべきものです。

 この「心」のことを、キリスト教の『聖書』などでは「御意(みこころ)」と表現し、仏教では「仏心」や「仏性」とも呼んでいます。

 一方、生長の家で「心も無し」と否定してしまうところの「心」とは、「現象の心」のことで、「実相の心」や「仏心」のことではありません。

 先に引用した『甘露の法雨』の文章は、次のように続いています。


物質はただ心の影、
影を見て実在と見るものはこれ迷(まよい)。
汝ら心して迷に捉わるることなかれ。


「影を見て実在と見る」それが、現象に惑わされた「心」です。
つまり、影のように現れては消える現象を、「有り」として、それを追いかけて掴んで放さない「迷いの心」のことです。

 聖経には、この心のことを「無明」と書いて、「まよい」と仮名をふって読んでいます。

 天理教祖は、この心の働きのことを次のように表現しています。

「惜しい、欲しい、可愛いと、欲と傲慢、これが埃(ほこり)や」と。

 普段私たちが「心」と認めているのは、この「迷いの心」である場合が多いのです。

 では、あらためて実相の心、真実の心、実在の心とは何かと云えば、それは、「神そのもの」の命の響き(コトバ)であり、「仏そのもの」の命のことなのです。

『観無量壽経』には、「仏の心」について、「仏心とは四無量心是なり」と説かれています。

 四無量心とは、慈、悲、喜、捨のことで、「無量」とは、「量が無い」つまり「無限である」ということです。

 衆生の悩み悲しみを見て慈しむこと無限であり、同悲の心をもって苦を除くこと無限であり、人の悦びをともに歓喜すること無限であり、執着を解き放ち一切を束縛から解放すること無限である、これが「仏心」です。

 この「仏心」こそが、私たちの「本心」(実相の心)なのです。

 ですから、現象的に金が儲かった、執着していた人や物や事が手に入った、というところから来る「求めるよろこび」と、「仏心」(実相の心)から来る「慈しみ与えるよろこび」とは、根本的に異なるのです。

 前者は「無い」よろこび、であり、後者は「実在する」よろこびなのです。

 この「仏心」そのものに生かされて生きることが、「救われる」ことに当たります。

 その「仏心」(神の御心)の中にこそ、私たちがこの世に生を受けたところの本当の「使命」があり、それを生きたとき、「朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり」というような真の生き甲斐やよろこびを見出すことができるのです。

 なぜなら、私たちの実相は、自性円満なる「神性」「仏性」そのものなのですから。


 
 とり急ぎ書いたので説明としては不十分かもしれませんが、質問があればブログかメールにまたお寄せください。


  久都間 繁


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2009年6月22日 (月)

魂の進歩向上について

 今日の夕方、本欄の読者の方からメールで2点ほど質問をいただいた。こちらで回答させていただきます。

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質問①この魂の訓練は現象であると普通に思われます。が、神さまは完全であるにもかかわらず、やはり進歩向上が必要なのでしょうか?
質問②神想観のあの歓喜が、どうしてこの現象の早く現れないのでしょうか。よほど現象を捕まえているのでしょうか?

【回答】
 
 進歩向上する躍動的な経験を、私たちの魂は「よろこび」と呼んでいます。
 また進歩向上とは、「生長する」ということでもあります。

 生長することは、万物の霊長たる人間にとって、その内なる無限生命が音楽のように鳴り響くことであり、それは悦び以外のなにものでもないのです。

 つまり進歩向上とは、内なる無限生命の理念が、この天地に花開くことなのです。

 アジサイが咲くことが、アサガオが咲くことが、ヒマワリが咲くことが、これが内なる理念が展開する姿です。

 まして私たち人間には無尽蔵の真・善・美が内在しているのですから、私たちが進歩向上し、無限の真・善・美をこの現象世界に実現させる(生きる)ことこそが、仏教的に云えば地上に極楽浄土を建立することであり、キリスト教的に云えば「御心の天に成る世界を地に成就する」ことに当たるのです。

 道元禅師は、このことを「証上の修」と表現しています。

「証上」とは、すでに生命は、これ以上なにも付け足す必要がない完全円満なものである、ということです。

「修」とは、この完全円満なる生命を、この神様の創られた画布にたとうべき現象世界に表現することです。それは、花が咲き、鳥が歌い、森が四季それぞれの色に染まり、音楽家がメロディーを奏で、画家が絵筆を振るい、文筆家が千古の詩を綴ること、そして信仰者が神の愛を行じ、仏の大慈悲を生きることです。

 あせる必要はありません。

 実相実在の世界では、すでに全てが円満完全に成就して(さらに無限生長して)いるのですから、私たちはその実相を観じて悦んで生活していればいいのです。

 真・善・美(縦の真理)の展開として現象世界が成就する、それが三界唯心所現の「心の法則」(横の真理)です。

 うまずたゆまず神想観を実修し、神の無条件の愛を生きることです。


  久都間 繁

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2009年4月24日 (金)

友人への手紙〈2009.4.22〉

 これは友人からの質問に答えた手紙です。
 支障のない範囲で転載します。

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合掌、返信をありがとうございました。

本当にあなたが道を求めているのであれば、まず周りの人たちに貴方から心開いて、皆のお役に立つこと、身近な人が喜ぶことを、毎日ひとつでいいからやってみましょう。

本当は、自分も他人も無いのです。
すべてひとつの、神のいのちです。
そこを体感してカラッポになって、一所懸命に生きることが、「救われる」ということです。

生長の家では、親切のことを「深切」と書きます。
それは、自分や他人といった「現象」を、深く切る、ということです。

無いものを、無い! として、そこに飛び込むことです。
それが百尺竿頭を進一歩することであり、そこからいのちの世界への扉が開くのです。

だから、今から、身近な人が悦ぶことを、周りの人が楽になることを、させていただきましょう。
そこから天国が開けてきます。

久都間 繁

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2009年4月11日 (土)

友人への手紙〈2009.4.7〉

合掌、ありがとうございます。

 イエスは、「与えよ、されば与えられん」と語っていますが、この言葉は真理です。

 与えてもらうために「与える」というのでは、これは商売であり、利害関係が濃くなるほど、神から発した無償の愛や善の行為とは遠ざかることになります。

 しかし、神が無限の大生命であるように、太陽の光が無尽蔵であるように、人間が神の子であるということは、「与えるものが無限にある」ということなのです。

 それは、その人が役に立つとか立たないとか、能力があるとか無いとか、明るいとか暗いとか、そんなことはすべて現象であって、「人間・神の子」ということとは関係ありません。

 大切なことは、神が無限の愛であり、私たちは「神という大生命」から生まれた「神の子である」ということです。
 智慧も、愛も、生命も、与えれば与えるほど無尽蔵のいのちの水源(本源)から流出して来るのです。

 だから、「何か特別なことをしなければ、生きている甲斐がない」などというのは、まだ在りもしない現象にとらわれているのです。

 自分の周りの人たちのお役に立つこと、相手が誰であれ、頼まれたことを真心込めてさせていただくこと、日々祈りながら神の御心を生きること。

 それが、貴方のいう「ご恩返し」ということであり、「お役に立てる人間になる」ということです。
そこ(今、ここ)を離れて、神様の御心を生きる場所はありません。


  久都間 繁

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2009年3月 8日 (日)

自分を拝むことについて(二)

 愛さん

 ご質問、ありがとうございました。
 

>> 一年間、学校に通い、4月から2年生になりますが、この期に及んで、「わたしはこの学校に来てはいけなった」「わたしの居場所ない」と思ってしまっています。毎日、自信も明るさも、喜びもない生活です。早くここから脱したいです。こんなに苦しい思いをしなければならないほど、わたしは悪業を積んできたのでしょうか?

 これは大切なことですが、それは「悪業」とは関係ありません。むしろ、貴方の魂が素晴らしいが故に、そのような苦悩と思えるようなことをご経験になっているのかもしれませんね。
 
 大学や専門学校などに通うということは、ご両親が大きな経済的負担を負わなければ実現できないことと思います。
 学校に行くことが苦しいのなら、大学は義務教育ではないのだから無理して行く必要はありませんし、また、勉強を本当にしたくなったときに、改めて学び直すこともできます。

 かく言う私自身は、大学に行ったのは社会人になってからです。専門的な分野の研究を本気でしたくなったので、働きながら稼いだお金で学費を払って卒業したのですが、そのころの私は学ぶ理由がはっきりしていたので、(しかも自腹で行ったので(^^;)学校の授業の1分1秒がとても貴重で尊いものに感じました。
 
また、貴方が本気でやりたい仕事をすでに見出しているのであれば、まっすぐにそこに向かって歩み出してもいいと思います。

 しかしまだ、具体的に進みたい進路が定まっていないのであれば、貴方自身が興味をいだいている分野を、在学中に徹底的に掘り下げてみるのもいいでしょう。

 また学園生活で、外の世界に興味が湧いてこないということは、実は読書体験を深めて魂を深く耕すのにもってこいの時期でもあるのです。
 トルストイ、シェィクスピア、ディケンズ、ゲーテ、ヘルマン・ヘッセ、夏目漱石、森鴎外、生命の實相全集など、珠玉のような物語の世界があなたを待ち受けています。また、これらの作品に出会うことで、あなたの人生がどれほどいろどり豊かなものへと成熟されることか、とても楽しみなことです。

 また、そのようにして、内面の世界を深めているうちに、勉強や学校に対しての考え方も、大きく変わってくるかもしれませんね。

 いずれにしても、あなたは完全円満なる神のいのちそのものなのですから、どの道に進もうとも、全てが善き経験となることでしょう。

 久都間 繁

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2008年12月22日 (月)

ルンのこと③(次女、長男、次男、家内の手紙)

 身罷(みまか)ったルンちゃんに捧げる、次女(小6)、長男(小3)、次男(6歳)の手紙と、最後に家内の手紙を載せました。


 言葉よ、祈りとともに隠り世へと届けよ!!


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 ルンへ

 生まれたときは、うちのベッドでうまれたね。
 ルンがうちに残るって聞いたときは、本当にうれしかったよ。
 また、うちが生きてる間に生まれてきて会おうね。

 いずみより


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 ルン、ぼくはルンといられて、いままででいちばんうれしかったです。
ルンをだいてると なんだかきもちよくなってほっとします。
 でも、きみはもうどこかにいってしまいました。でも、ぼくは事故でこんなことになるより、こうゆうのでよかったです。
 ルン、いつまでも空でぼくのことをみまもってね。

 まこと


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 るんへ

 てんごくでもげんきにしててね またかえってきてね
 るんのことわ いっしょうわすれないよ

 るん いっぱいいきてくれてありがとう

 また いっぱいあそぼうね

 るんへ
 またいきてきてね てんごくでもげんきにいててね。

 ひろむより


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 ルンへ

 うちの4人の子どもたちといっしょに過ごしてくれてありがとう。

 アンのもとに生まれてきてくれてありがとう。

 いっぱい笑わせてくれてありがとう。

 みんなルンが大好きでした。

 また会おうね。

 ルン 楽しかったよ。

 おーばかたっしー
 たらんじょーのすけ

 じゃない

 いい子のルンへ

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2008年12月21日 (日)

ルンのこと②(長女の手紙)

 わが家の愛猫ルンは、昨日、隣家の庭にある空き家となった犬小屋の中で、うつ伏せに坐ったまま眠るように死んでいました。

 昨晩、帰宅すると、子どもたちが亡き愛猫に手紙を書き、お気に入りのTシャツや手作りのクッキーと一緒に、段ボールに入れた亡骸(なきがら)に手向けていました。
 拙(つたな)いながらも彼らの綴った哀悼の言葉が、このまま、遺骸とともに灰になるのはもったいないので、こっそり転載させていただくことにしました。 

 以下に紹介するのは、長女(中三)の手紙です。

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2008年12月20日
大好きなルンちゃんへ

 2005年5月16日、いず(二女)のベッドの上で生まれたルンちゃん。
 一番大きな体だったのに、きょうだいのリンちゃんとランちゃんにいじめられていたから、お父さんが、「この子は残しておこう」と言って、ルンは残ることになったんだよ。

 ルンはよく食べてよく寝る子だったから、大きくなったね。
 いつのまにかアン(母ネコ)の2倍くらいになってたよ。

 ルンて名前を付けたのは、単純に最初のはラン、リン、ルンしている子になるように、明るい子になるようにって意味を付けたんだよ。
 ルンは名前のとおりに育ってくれました。いつもみんなを笑わせてくれました。つらいことがあっても、ルンを見てるといやされたんだよ。ルンはよく怒られたけど、それはみんながルンを大好きだったからなんだよ。

 男の子のくせにかわいい顔してるルンは、近所の人からも愛されてたんだよ。
 ルンを見てると、がんばろうって思えたんだよ。本当に本当に大好きだったよ。今でも大好きだよ。きらいになったりしないよ。ルンが死んでも、絶対に忘れない。大好きすぎるよ。みんなルンを大好きなんだよ。大好き大好きこんな紙に書ききれないくらい大好き。
 しばらくいなくなっても、絶対生きてるって信じてたのに、どうして? 早すぎるんじゃない? ばか。大ばか。なんで、ひとん家(ち)で死ぬんだよ。

 ごめんねルン。吐いてるとき、またいつものことだと思って外に出してごめん。あれが最後なんてひどすぎるよね。もっといろんなこと話したかったよ。もっと抱きしめてあげたかったよ。早いよルン。早すぎるよ。ひどいよ。ごめん。

 いずから聞いたとき、うそだと思った。ルンが死ぬわけないと思った。信じられないでしばらくボーッとしてた。犬小屋にいるルンを見ておどろいたよ。冷たいあなたは私のルンだった。わが子を失ったような気分だったよ。

 猫のくせに「犬」「犬」「犬」っていっぱいシール貼ってあるところで死ぬなんてやっぱりルンだよ。人の家の庭で死ぬなんてばか。めいわくかけちゃうじゃん。こんなに泣いたのは初めてかもしれないよ。ルンをどれだけ愛してたか分かってくれる!? 私がいつかまたこの世界に生まれてきたら、また会いましょう。あ、その前に、後50年位たったら、また天国で会いましょう。

 ルンとすごした毎日の5年間は宝物だよ。本当にありがとうルン。こんなにすてきな時間をありがとう。

 ルン、これからは天国から見守ってて。私の成長を見守ってて。ルンを心の支えにしてがんばるからね。私は強くなるからね。これからしばらくしたら、あなたを埋めようと思います。お墓を作ろうと思います。つらいことやうれしいことや、ルンに言わなきゃって思ったことがあったら、そこに行くから。ちゃんとむかえてよね。この手紙とスマイリーのTシャツを入れておくね。
 ルン、ごめんね。赦して。そしてありがとう。本当にありがとう。大好きです。愛しています。今も、これからも。ずっとずっとずっと。

あゆみより。あなたの母より。

P.S.あなたを犬小屋で見たとき、いつもみたいにねてるだけかと思ってしまいました。それほど安らかでした。
ルン、またいつか会えるよね。ではまた、その日まで…。

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2008年12月20日 (土)

ルンのこと①(娘たちへの手紙)

 わが家で長年飼っていたネコが、数日前から姿を見せなくなっていました。

 朝晩の冷え込みが激しかったので、たぶんどこかで身罷(みまか)っていることだろうと思っていましたが、今日のお昼前に、私のケータイに、学校が休みだった娘たち(中3と小6)から相次いで、泣きながら電話が入りました。

「ルンが、ルンが…冷たくなって……」と、二人ともわれを忘れて電話口で泣きじゃくっていました。

追悼をかねた手紙を娘たちに書いたので、公開します。

(ルンはネコの名前です)

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あゆみちゃん、いずみちゃんへ

ルンのこと

 これまで、わが家でいっしょに暮らした、何年もの歳月のこと、いろいろなことを思い出しながら、お昼にずっと祈っていました。

 ルンはやっぱり、動物の姿となって私たちの前に現れた、神様の化身(けしん)だったのだと思います。

 きょうだいの生長を見守りながら、まるで静かな道化師(ピエロ)のように、私たちの生活になくてはならない存在でした。

 そんなことも、いなくなってみて初めて、いまさらのように気が付きます。

 それほどわが家に溶け込んで、ときには愛の潤滑油(じゅんかつゆ)となり、ときには小便たれの憎まれっ子となり、またときにはヒロちゃんはじめ兄弟姉妹の良き親友となって、愛され続けてきました。

 天国に帰っていったルンに、心から感謝して、旅立ちを見おくりましょう。

 ルンの亡骸(なきがら)は、お母さんが帰宅してから、土方さんの庭に引き取りにいきます。それまで待っていてください。

お父さんより

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2008年11月 2日 (日)

わが家のエピソード(yukoさまへの返信)

 コメントいただいたyukoさまへの返信をこちらにアップすることにしました。
 谷口清超先生のご指導をめぐっての、わが家のささやかなエピソードです。
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 yukoさま。コメントをありがとうございました。

 谷口清超先生に体験談を聞いていただけたというのは、観世音菩薩さまに聴いていただいたようなものですね。

 折をみて、ご発表になった体験談の内容などもご紹介いただければ嬉しいです。

 わが家では、結婚してから何年経っても子供が授からなかったのですが、平成5年に忽然として子宝が宿り、翌6年、結婚7年目にして長女が誕生したのです。後から家内は、神性受胎した日が、ちょうど宇治特別練成会での谷口清超先生がご講話された日と重なっていると話していました。

 その後わが家は、二女、長男、二男とほぼ3年ごとに子宝を授かり、4人の神の子さんに恵まれ、今は長女も中学3年になり、毎晩一所懸命に受験勉強に取り組んでいます。

 今から思えば、谷口清超先生は、まるで空気のように私たちを包む生長の家の大神そのものだったように思います。
 それは「古事記」に記された天之御中主神はじめ七柱の別天つ神(ことあまつかみ)が、「身(みみ)を隠し給いき」と表現されているように、その真の御身は遍満する仏身であり、総裁先生としての現(うつ)し身は、「慈愛」そのものの化身だったようにも思えてくるのです。


  久都間 繁

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2008年9月26日 (金)

恋愛と結婚

 山崎さんから、恋愛と結婚についての質問をいただきました。
「若い世代の人達にはぜひ参考になると思いまして、このような質問をしました」とのことでしたので、こちらにアップします。若くない人にも(^^; 参考になるように書かせていただきました。

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>>作者である吾々は既に、今、この瞬間に実相円満完全なる神の子であります。
なのになぜ男女がパートナーを選ぶ時に、色々と種々の条件を相手に対して付けるのでしょうか?
宗教的見解(特定の宗教ではなく)を持ち出してこの事を説くと、こちらは相手に対して種々の条件を付けてはならない。それは相手を“愛”しているのではなく、相手にただ“恋”をしているに過ぎない。こちらは選んではならないが、相手に選ばれる時はそれ相応の準備を事前にし、条件を備えなければならない。ましてや相手がこちらにとって“高嶺の花”であるならば益々そうしなければならない・・・・・。
選ばれる方は何時まで、どれくらい自己を高めておけばよいのでしょうか。


 生涯を共にするパートナーを選ぶときの「条件」というのは、一人ひとりの個性が異なるように、人によって千差万別です。しかし、恋愛感情のもたらす基本的な経験や、それが人生に与える効果などは、古今東西を問わず共通していて、それは限りなく美しく、そして尊いものなのです。

 条件を満たしている相手というのは、いわば貴方の「内なる理想」を、彼女の中に見出しているということでもありますが、相手が素晴しい相手であればあるほど、それに相応しい高みへと自分も達しようと精進努力する、これこそが恋愛感情のもたらす最高の成長の機会でもあるのです。

 特に貴方のように、人生を真摯に生きようとされている方は、これを疎かにしていては、せっかくの成長の機会を失うことにもなりますので、厳しい言い方ですが、このご質問については、「とことん、精進努力してください!」というよりほかはありません。

 この努力を持続することで、やがて秋になると栗や稲穂が熟してくるように、内なる充実感に導かれて自然と相手へのアプローチの機が熟してくるものです。それから、満を持して一歩踏み込む。そこから先は神のみぞ知る世界です。
 叶うも良し、叶わぬも良し。相手の方は、まぎれもない観世音菩薩様なので、間違いなく貴方を実相世界へと導いてくださっているのです。


>>こちらが選ぶ時には相手の外的・内的なもの(=作品)を見ずに、相手という作者(=相手の実相円満完全性)を観る事に専念し、その反対に自己を観てもらう時には、そのままの自己の実相円満完全性を汲み取ってもらうのではなく、善きところは更に伸ばし、足らない・至らない不完全なところを修正・修理し、克服し、常に“条件”付きで生長をしなければなりません。
そうであるならば、こちらにとって、あちらは“全身全霊”でありますが、あちらにとって、こちらは何時まで経っても“半身半霊”であります。


 結婚が、現象的な「条件」によって結ばれるのであるという考え方は、いわば商取引に類似した価値観です。このような生き方に安住している間は、その(現象的な)価値観の影響下に生活することになります。

「条件」とは、現象上のものですから、絶対の価値ではありません。能力でも健康でも美貌でもお金でも、そして命(寿命)でも、それがどんなに圧倒的に良いもの、尊いものであったとしても、必ず消えていく宿命の上に成り立っているのです。仏教ではこれを「諸行無常」と呼んでいます。

 したがって、例えば「良い条件」という関係のみによって成立した結婚生活は、より「良い条件」を持つ相手が出現した場合や、これまで見えなかった(隠していた(^^;)「悪い条件」が結婚後の相手に続出したときには、関係が簡単に壊れてしまうことにもなります。
 これは「相手」と結魂したのではなく、「条件」と結婚したが故の結末なのです。

 条件と結婚するのではなく、その魂の絶対価値(つまり神・仏・実相)を、相手の内に見出し、それを礼拝し感謝し、はじめのはじめから一つであったことを再発見することこそが「結魂」なのです。

 ですから、最初は「条件」によって結婚した夫婦であったとしても、生長の家の教えにふれて、相手の内に絶対価値(完全円満なる神・仏・実相)を見出すことで、永遠の夫婦関係に入ることができるのです。

 なぜ「永遠」なのかといえば、それは「神」と「神」との関係であり、「完全なるもの」と「完全なるもの」との関係だからです。これは、夫婦だけではなく、親子でも、友人でも、師弟関係でも同じことが言えると思います。

 ですから、“半身半霊”などという考え方は、「条件」という現象に捉われた、ただの妄想に過ぎません。

 円満完全なるがゆえに、人生の一切の営みが“全身全霊”であり、結婚も、友人も、兄弟も、師弟も、“神(全身全霊)”と“神(全身全霊)”とが出会い、「仏(光)」と「仏(光)」とが結ばれ、人生を、世界を荘厳するのです。

 神想観の如意宝珠観にある、「十方世界光明遍照、わが全身光明遍照」とは、このことの一端を伝えているように思います。


  久都間 繁

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2008年4月28日 (月)

聖胎長養

友人から届いた手紙への返信です。

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合掌、ありがとうございます。

メールを拝見させていただき、貴方様の魂が、ますます無限生長をされていることを嬉しく拝察させていただいております。

神様以外にはない世界のなですから、不完全と見える教育法も教師も、病気も、これらの一切のもの(つまり不完全な現象)は、本当は相手にする必要はないのです。
(相手にして認めていればいつまでも不完全な状態が付いてまわるのです。それが心の法則です)

ですから実相を直視するとは、「神様の世界に入ってしまう!」ということです。

つまり、私たちの生活が、神様のみを相手にした生活となり、私たちの住む世界が、神様のみを相手にする世界となることです
神様の世界は、智慧、愛、生命に満ちた大調和の世界であり、すべての人間は「神」であり、「仏」そのものなのですから、私たちは、「ただただ拝む」こと、「ただただ感謝する」こと以外にない(つまり完全なる全托、自我の完全放棄、感謝礼拝三昧な)のが「実相直視」なのです。

しかし、これには「慣れ」が要ります。谷口雅春先生も、「悟りに慣れる」のに時間を要した、ということをどこかのご著書で回想されています。
仏教などでは、これを「聖胎長養」といって、悟りの最後の段階の重要な修行と位置づけています。

あせることなく、うまずたゆまず「聖胎長養」してください。
はじめのはじめから、光明一元の世界なのですから、それを信じて、その世界に生まれ変わることが「人間・神の子」の誕生であり、「一人悟れば九族天に生まれる」ということです。

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2008年4月 9日 (水)

一人出家すれば

 友人から届いた手紙への返信です。

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実相直視は、貴方の努力精進によって達成できるようなもので

はありません。

生長の家には、「全托」という言葉があります。
この言葉の意味は、

すべては神である、神以外のものは存在しない。善一元、光明一元の世界のみを信じて、すべてを善なる神に委ねよ。

ということを表現しています。

その神様の世界に、すべてを托した完全な安らかさ、自力のまったく要らない、自力をまったく必要としない、自分というものの要らない世界――

それは、無いもの(現象)を「無い」と、はっきりと断ち切ったところにのみ、見出すことができる金剛不壊の世界です。

それが、生長の家が明らかにした実相世界です。

貴方が生きているのではない、神が貴方を生きているのです。

お子さんが生きていると見るのは現象です。完全円満なる神が、光明一元なる神のみがお子さんを生きているのです。その事実(実相)を安らかに「ハイ!」と受けとることが、実相直視です。

すべてを善一元の神に托して、自力による一切の努力が無くなること、それが「一人出家すれば九族天に生まる」ということです。

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2008年4月 7日 (月)

神癒祈願とは神様の邪魔をしないこと!

 友人からいただいた手紙への返信

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合掌、ありがとうございます。

息子さんのこと、現象的な視点から見れば心配なことばかり目に付かれることでしょう。

しかし、息子さんは、はじめのはじめから神の子さんなのですから、何の心配もありません。どう転んでも神様の道(つまり最上最尊最良の道)以外にはあり得ないのです。

私の恩師の一人である、宇治の初代神癒祈願部長を務められた故 小嶋博講師は次のように語っていました。

「神癒祈願とは、神様の邪魔をしないことだ」と。
なぜなら、この世界は、「はじめのはじめから完全円満なのだから、それを認めて悦ぶことが大切なのだ」と。

あとは「三界唯心の所現」の法則によって、神様の世界にあるそのままの姿(真象)が現れるのです。

息子さんのこと、そして皆さんのこと、ずっと祈らせていただいています。

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2007年6月18日 (月)

次女への手紙

 小学5年になる次女が可愛がっていた手乗りインコが、数日前に猫に襲われて瀕死の重傷を負ってしまい、彼女は夜も枕元に置いて見守っていたのですが、4日後の今日、神さまの世界へと旅立っていきました。これはその直後、娘あてに書いたメールです。ふと、忘れていたブログにアップしたくなりましたので、転送してみます。

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いずみちゃんへ

インコのちび子ちゃんが亡くなったこと、お母さんからききました
いずみちゃんに見守られて、ちび子ちゃんは、ほんとうに幸せな小鳥だったと思います。

形の世界には、ちび子ちゃんは、もういません。
でも、これで本当に消えてしまったのではないのです。

ちび子ちゃんは、目に見えない世界に、いったん帰って、そしてまた生まれてくるのです。

朝、さわやかに啼(な)く鳥となり、昼きれいに咲くバラの花となり、夜、静かに聞こえる虫の音となって、いつまでも、いつまでも、いずちゃんといっしょに生き続けているのです。

だから、自然の生きものの虫や動物や草花とであったとき、それはちび子ちゃんの「いのち」と出会っているのだから、これからも大切にまもってあげてください。

お父さんは、ちび子ちゃんが、ちゃんと神さまの国に生まれたことを知っています。
だから、いずみちゃんも、泣(な)くだけ泣いたら、もうかなしむことをやめましょう。

そして、すべての生きものたちとともに、明るく、楽しく生きることにしましょう。

お父さんより

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2006年9月14日 (木)

風となり雲となりて (久都間育代)

 家内が榎本恵吾先生の想い出を書いていましたので、(許可を得て(^^;)このブログにも転載することにしました。
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  風となり雲となりて

「先生」。心の中で語りかけると、
「どうかね」。と、懐かしい声とともに温かな笑顔を想い起こします。

 はじめてお会いしたのは、昭和五十九年四月。十九の春でした。養心女子学園で、決まっていた総本山への内定を急きょ取り下げ、宇治別格本山に奉職することを願い出た私は、なぜどうして宇治へ魂が引かれるのか、自分でも理由が分かりませんでした。しかし先生にお会いしてはっきり分かりました。私の魂は間違えていなかったと。先生、奥様、ご家族、先生の研修生。この方たちと会うために私は此処に来たのだ、そう思いました。
 奉職後、受付係をしていた私は、ある初夏の朝、先生からの電話を受けました。

「奈良線の奈良行きは何時があるかね」
 それに応答した後、すぐに公衆電話へと急ぎました。
「先生、私今日お休みなのです。誌友会に連れて行ってください」
 自分でも思いがけない大胆な行動でした。
 こうして初めて、先生と一緒に奈良の王寺で開催される誌友会へと喜んで宇治駅に着くと、そこにはもう一人来ておられました。久都間さんでした。彼も先生と二人で行けると思って来たら、もう一人いたと少し残念に思ったようです。奈良行きの電車が到着し、車両に彼と私が同時に乗った時、先生は〝この二人は結婚する〟と直感されたと、もう結婚してしばらく経った頃にお話くださいました。

 先生に付いて二十から二十一歳の頃は、西宮の前波邸で毎月一回開催される誌友会に通いました。いつの間にか久都間さんも通うようになり、これも先生が自然に敷いた縁であったのですね。ある日の朝、食堂でお会いした先生に、
「久都間さんが自分で書いた原稿用紙を束にして持って来られました」
 と言いますと、先生は実に嬉しそうな、これ以上の悦びはないとばかりに喜ばれ、
「そうかね。彼はもってきたかね。そうかね」
 と満面の笑みでした。

 先生と奥様が私たちの結婚祝賀会で「埴生の宿」を歌ってくださいました。その歌声を聞きながら、この結婚をご縁として何らかの形で生長の家のお役に立ちたいと希(ねが)ったものでした。
 後に先生は、研修生出身のある方が宇治本山を退職されることになった時、こうおっしゃいました。

「私はねぇ、研修生の一人ひとりにアコヤ貝の真珠の核のように、一人一人のお腹に神の子の真理を入れておいたんだよ。それは本人が外そうと思っても、ジタバタしても、もがいても決して外れない。だからね、彼は本山を辞めても、どこに行こうが、大丈夫なんだよ」と。

 私が十九から三十五まで宇治で過ごした十六年、あの先生の元で送った日々は、全て神様から与えられていた。
 コンクリートの固い裂け目から、草花が咲く。その土台となるやわらかな土を先生が用意してくださっていた、自然に咲いたと感じられるように。

 先生がお好きだった『まあだだよ』(黒澤明監督)の映画。あの中で教え子たちが「先生は金無垢だ」と話していましたが、先生もそうでした。そして純粋無垢でありました。来年は先生と奥様の古希のお祝いをと、あの映画での場面のように思い描いておりました。

 最近読み終えた本で、『博士の愛した数式』というのがあります。その博士は八十分経つと、記憶が消えてしまう。八十分にすべてが凝縮される。そして次の八十分が始まる時は、また新たな驚きから始まるという話です。その数学博士は、自然数の中の素数をとても大切に思っています。他の整数では割り切れない、そのままで成り立っている3、5、7、11…こんなに美しい数、素数と。

 主人がこの小説に出てくる博士が、先生とそこはかとなく似ているね、と言っておりました。先生がお話されるとき、書をかくとき、雲や風景の絵を描かれるとき、作曲をされるとき、素数のごとく、本当にひとつのものを愛おしむが如く、大切に大切に紡ぎ出していかれました。

 昨年秋の慰霊祭で、谷口雅宣先生が「たとえ肉体は滅したように見えようとも、ご家族やご縁ある人々を、小石となり草木となり風となり雲となって見護ってくださる」と話されました。そのお言葉を今、深く感じています。

  ゆく雲に
   流れる水のささやきに
    ともに歩みし山の辺おもいて

  青き空
   風の流れに響く歌
    師と口ずさむ〝きれいなきれいな〟

    山は緑
   空に映えたる夕雲に
         〝きれいなきれいな〟 歌は風となり

        

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2006年9月 9日 (土)

榎本恵吾先生の夢(友人宛の返信より)

 合掌、ありがとうございます。
 Hさんのお父様の訃報をお知らせくださり、ありがとうございました。

 九月九日の明け方、榎本恵吾先生が私の夢の中に出てきました。
 このようなことは初めてだったので、夢から覚めた後も、そして今も、先生の懐かしい魂の響きが、私の心の奥底でこだましています。

 夢をみている最中、ふと気がつくと榎本先生がありありと目の前にいることに、私はとても驚いていました。そして周りにいた知人の何人かに、ことの重大さを呼びかけてみましたが、皆さんは「ごく当たり前のこと」といった様子で、さして驚いているようではありませんでした。

 私は懐かしさのあまり「今のうちに何か大切な話をしておかなければ」と、生前していたように先生に呼びかけてみましたが、いざお話ししようとしても、具体的な言葉が見つかりません。

 それでも、私を見つめてくださっている先生に、このまま進んでいいのでしょうか、というような意味のことをお訊ねすると、先生は私の「いのち」そのものを、慈愛に満ちた魂の眼で真っ直ぐに見据えて、「そのままでいい、そのまま光りだよ」と、私の実相のみを相手にして見つめてくださっていることが伝わってきました。先生はすべてを察していらっしゃる、と感じた瞬間、限りない懐かしさがこみ上げてきたのです。

 そのほかにも、いろいろな話をしたようですが、もう覚えていません。
 今朝の出勤の際、電車の中でこのときの情景をずっと想起していたのですが、夢の中で私がしたことは、先生に向かって、ただコンコンと戸を叩いたことだけだったことに気がつきました。

 イエスは聖書のなかで、求めよ、されば与えられん、叩けよ、されば扉は開かれん、と説いていたことを思い出します。

 夢の中で(生前も、今でも)先生は、ただただご縁のあった渾ての人々の実相を拝んでいらっしゃったのだと思います。

  忘れないうちにと思い、書き留めさせていただきました。

 

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2006年9月 8日 (金)

ブルックナーの7番(友人宛の返信より)

 合掌、ありがとうございます。
 
 お便りをありがとうございました。腰の方は、日常生活を不自由なく送れるようになりましたのでご安心下さい。

 過日は休みをいただいておりましたので、ブルックナーの7番シンフォニーを聴いておりました。
 CDは、オランダフィル、ハルトムート・ヘンヒェンという、ちょっとマイナーな指揮者がコンセルトヘボゥで振ったライブ録音でしたが、ブルックナーが住んでいる「原初的な世界」が聞こえてくるような、素朴でとても良い演奏だと思いました。

 祈りなどを通してより深い世界を観じているときに、ときおり「絶対過去」ともいうべきところから"遠い記憶"が蘇ってくることがあります。

 それはとても懐かしいもので、何年経っても成長することも、古くなることもなく、常に新たで、常に瑞々しい温もりと輝きをもって立ち現れるようなものですが、なぜか最近それが私を現象的に取りまいている世界での「今」ということと、ぴたりと一致して観じることが多くなりました。

 上記の演奏を聴いていても、そのようなことを想起させられました。

 また、ゆっくりお話しましょう。

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