『フューチャリスト宣言 (ちくま新書)』(梅田望夫/茂木健一郎共著)を読んだ。
同書の「あとがき」で、梅田氏は、茂木氏のことを次のように評している。
茂木は自ら描いた未来像を、自分が何を目指すべきで、いまどう生きるべきなのかという切実な問題に落とし、さらにそれを自らの生活として実践している。ここに茂木の真骨頂がある。フューチャリスト・茂木健一郎が人生を賭けてイメージした自らの専門領域をめぐる未来像は、彼の生活を規定するようになったのである。
脳科学を専門としない私たちが茂木から学ぶべき本質はここにしかない。彼が語る「脳についての知見」を学ぶことより、彼の生き方からその本質を改めて読み直していただければ、新たな発見もあるのではないかと思う。(同書、「おわりに」より)
梅田氏の、「改めて読み直していただければ、新たな発見もある」という言葉に、かつて小林秀雄が晩年の著作『本居宣長』の最後の部分で、同じような表現をしていたことを思い出した。
そういえば梅田氏は、齋藤孝との共著『私塾のすすめ』の中で、ベストセラー『ウェブ進化論』のロールモデルになったのは小林秀雄の『近代絵画』だとも語っていたが、これも意外だった。
さて、『フューチャリスト宣言』は、読んでいて胸の広がるような書である。
どのページを開いてみても、梅田、茂木両氏が世の人々に対して、ことに若い世代に寄せる深い愛情と、先駆者としての勇気ある生き方とが伝わってくる。そのような意味で、『フューチャリスト宣言』は善意にあふれた書でもある。
梅田氏の言葉に従って、もう一度読み返してみたが、一言一句を疎かにしない両氏の誠意あふれるスリリングな対話に、あらためて深い感銘を受けた。
彼らは、人生を賭けるものをもっている。それが彼らの魅力である。
それは、ソクラテス以来人類に受け継がれてきた、「智を愛し、善く生きる」という生き方の系譜に属しているもののようにも思われる。
人生を賭けるとは、何らかの理想なり目的なりに殉じる、ということである。それが愛や善に対してである場合、かつてイエス・キリストが、「己が十字架を負いて我に従え」と語った、ゴルゴダへの道へと通じている。しかしそれは、死への道程ではなく、生死を超えた生、つまり“永遠の生”を生きることでもあるのだ。
真のフューチャリストとは、未だ目に見えざるものを見、聞こえざる音を聞く、夢や理想に殉じる者たちのことなのだろう。
現代のネット社会において、「善く生きる」とは如何なることであるのか、そのヒントが、この書から読み取ることができるのではないだろうか。
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